平安時代の年表:醍醐天皇の御代、延長年間の出来事を年表にまとめました。通常の記録に加え、説話も追記。陰陽寮の活動は色付きで紹介しています。
朱雀天皇時代の年表(延長年間)
+ 延長七年(929)の年表を見る
延長七年(929)
3月
3月23日 不動法
延長七年(929)3月23日癸巳、春三月、諸国で疫病が流行し、死者が路に溢れた。宣旨に言ったことには「左大臣(藤原忠平)が宜しく勅を奉る。真言教の中には疫死を除く法があると伝え聞く。座主法橋上人に早くその法を修させ、疫者の災いを攘うように」。綸旨により、伴僧三十口を率いて三月二十三日より豊楽院において七日間昼夜休まず不動法を修した。(『扶桑略記』)
右近中将藤原実頼は、左大臣藤原忠平の五十算賀のために法性寺において賀礼の法会を設けた(『日本紀略』)
4月25日 怪異
延長七年(929)4月25日甲子の夜、宮中に鬼の足跡があった。玄輝門の内外及び桂芳坊の周辺、中宮庁、常寧殿内に最も多くあった。大きな牛の足跡のようなものが二蹄あるいは三蹄あったという。その蹄は青毛と赤毛が混ざっており、一、二日で自ずと消えてなくなったという。或いは言ったことには、北陣の衛士が夜に大熊十三頭が陣に入っていくのを見たが、その先は見えなくなったたという。或いは言ったことには、常寧殿に鬼が見えたという。鬼の足跡の間に小児の足跡があったという。(『扶桑略記』)
+ 延長八年(930)の年表を見る
延長八年(930)
2月
2月14日 疫病が流行する
延長八年(930)2月14日戊申、検非違使ならびに左右の京に施薬院・悲田院・曲殿を安置させた。(『扶桑略記』)
2月24日 臨時御読経/疫病
延長八年(930)2月24日戊午、臨時御読経が行われた。また、豊楽院において今日から七日間に渡り御修法が行われた。京中の疫気を祈るためである。(『扶桑略記』)
また、天下に大赦が行われた。去年の風水の災いと、今春の疫病の患いによる。(『日本紀略』)
2月28日 敦慶親王 薨去
延長八年(930)2月28日壬戌、敦慶親王が薨じられた。(『日本紀略』)
3月
3月8日 御卜
延長八年(930)3月8日壬申、去る月の二十八日に兵庫が鳴動する怪異があった。そこで、御卜が行われた。申酉戌亥の方角の国々に兵革があるという。(『扶桑略記』)
3月9日 儼子内親王 薨去
延長八年(930)3月9日癸酉、儼子内親王が薨じられた。(『日本紀略』)
4月
4月5日 藤原忠平邸の火事
延長八年(930)4月5日戊戌、左大臣(藤原忠平)邸で失火があった。(『扶桑略記』)
4月21日 御修法
延長八年(930)4月21日甲寅、今日から七日間に渡り豊楽院においで潅頂御修法が行われた。疫病によるものである。(『扶桑略記』)
5月
この月は、雨が降らなかった。(『日本紀略』)
5月1日 諸社奉幣
延長八年(930)5月1日甲子、疫病を祈るために伊勢大神宮ならびに諸社へ臨時奉幣を行った。よって、廃務であった。(『扶桑略記』)
5月15日 貞固親王 薨去
延長八年(930)5月15日戊寅、貞固親王が薨じられた。(『一代要記』)
5月17日 臨時仁王会
延長八年(930)5月17日庚辰、疫病を消除するための臨時仁王会が修された。よって、廃務であった。(『扶桑略記』)
5月24日 天変
延長八年(930)5月24日丁亥、虹のような色のものが太陽を囲んでいた。(『扶桑略記』)
6月
6月1日 廃務
延長八年(930)6月1日癸巳、廃務であった。(『扶桑略記』)
6月8日 雪
延長八年(930)6月8日庚子、大雪が降り、皆不吉だと言い合った。(『吾妻鏡』寛喜二年6月16日条)
6月9日 怪異
延長八年(930)6月9日辛丑、大極殿の内梁の上に鷺がいた。陰陽寮が占って言ったことには「午・辰・戌年の公卿に病者があります」と。(『扶桑略記』同年6月14日条)
6月12日 御卜
延長八年(930)6月12日甲辰、申の刻、紫宸殿の巽の方角ならびに太政官東庁の坤の方角に虹が立っていた。陰陽寮を召して占わせたところ、西方に兵革・失火があると申した。(『扶桑略記』)
6月15日 月食
延長八年(930)6月15日丁未の夜、子の刻に月食があった。(『扶桑略記』)
6月20日 祈雨
延長八年(930)6月20日壬子、左大臣(藤原忠平)が仗座に参入した。祭主大中臣奥生を召して仰せて言ったことには「神祇官西院において降雨のために京畿の諸神に祈り申すように」と。(『扶桑略記』)
6月23日 妖言
延長八年(930)6月23日乙卯、未の刻に中京内の諸人が告げたことには「東の京一条以下六条以上に失火の気がある」という。そこで巡検を行ったが、何もなかった。妖言か。(『扶桑略記』)
6月25日 怪異
延長八年(930)6月25日丁巳、宇多院の御随身近衛が右近衛陣を通り過ぎたので、三位一人、五位一人に火を灯させて右近衛陣に入って様子を見たが、何もなかった。これも鬼の仕業ではないかと世間の人々は噂した。(『古今著聞集』)
6月26日 清涼殿落雷事件
延長八年(930)6月26日戊午、清涼殿で落雷があった。
こちらもCHECK
-
清涼殿落雷事件―菅原道真の怨霊による落雷の祟り
菅公の祟り 清涼殿落雷事件 清涼殿落雷事件は、延長八年(930)6月26日に平安京内裏の清涼殿南西の第一柱に雷が落ちた事件である。この日は清涼殿において干ばつによる雨乞いの実施について会議が予定されて ...
続きを見る
6月29日 読経
延長八年(930)6月29日辛酉の夜、貞崇法師は勅を承って清涼殿に伺候し、念仏し侍った。夜もようやく更けて、東の廂に大きな人が歩く音が聞こえた。貞崇が簾をかき上げて見ると、歩み帰る音がしたが人の姿は見えず、その後また小人が歩いてくる音がした。音は徐々に近づいてきて、女の声で「なぜそこにいるのか」と問われたので、勅を承ってここにいるのだと答えた。小人は「先程、汝は大般若御読経を修したときに験があった。初めに歩いて来たものは邪気である。かの経によって足が焼損して調伏されたのだ。後に金剛般若御読経を奉仕したときは験がなかった。このことを奏聞して大般若の御読経を勤めよ。我は稲荷の神である」と言って姿を消した。貞崇はこのことを奏聞した。(『古今著聞集』)
7月
この月、相撲節会はなかった。(『日本紀略』)
7月5日 雷鳴/怪異
延長八年(930)7月5日丙寅、雲が天晴を飲み込み、雷電があった。(『扶桑略記』)
同七月五日の夜、右近衛下野長用が殷富門から参って武徳殿に到着する頃、目の前に黒いものが来て、太刀を佩いた者が人を捕えて一人で歩いて行った。長用が追い付いて見るとこの者が振り返り、白い笏を持っていた。やがて、右衛門陣に到着した。陣の内側から三位の服装をした一人の男と出くわした。供の者が火を灯していた。三位の男は「光臨を待っています」と言って、他のことも語った。火を灯している者は摺衣を着ていた。長用は「神鬼ではないか」と怖くなって走り帰り、殷富門のもとに到着した。前の所を見ると、火を百余り灯した者が見えた。しばらくしていなくなった。(『古今著聞集』)
7月8日 天変
延長八年(930)7月8日己巳、午の刻、昼に月が見えた。(『扶桑略記』)
7月15日 流星/天皇の御咳病
延長八年(930)7月15日丙子、酉の刻、流星が艮の方角に流れていった。俗に言う人魂である。(『扶桑略記』)
延長八年七月十五日、酉の刻に大きな流星が東北に向かって行き、その跡は雲と化した。(『古今著聞集』)
また、醍醐天皇が御咳病を発病した。(『日本紀略』)
7月20日 天変
延長八年(930)7月20日辛巳、雷鳴と風雨が特に激しかった。龍尾道高欄が顛倒した。(『扶桑略記』)
同じき二十日、黒雲が西南の方角から来て龍尾壇を覆った。すると風が吹いて、五、六丈程ある大蛇が落ちてきて高欄が破壊された。しかし、蛇は見えなかった。(『古今著聞集』)
7月21日 五壇法/五大尊像を造る
延長八年(930)7月21日壬午、諸天台阿闍梨五人が常寧殿において五壇修法を調備した。(『日本紀略』)
また、延暦寺において高さ五寸の白檀五大尊を造り始めた。醍醐天皇のご病気による。(『扶桑略記』)
7月24日 天文奏
延長八年(930)7月24日乙酉、左大臣(藤原忠平)は勅を奉り、助教従五位下十市部良佐に天文奏を進めさせた。(『類聚符宣抄』)
8月
8月9日 天皇のご病気により、度者を定める
延長八年(930)8月9日庚子、醍醐天皇のご病気により、度者五百人が定められた。(『扶桑略記』)
8月11日 諸社奉幣使定
延長八年(930)8月11日壬寅、醍醐天皇のご病気により来たる十三日の諸社奉幣使を定めた。(『扶桑略記』)
8月12日 怪異
延長八年(930)8月12日癸卯、弁官西戸梁上に鳩が集まった。陰陽寮が占って言った。「凶です」。(『扶桑略記』)
8月19日 天皇のご病気により、度者を給わる
延長八年(930)8月19日、醍醐天皇のご息災を祈るために度者一千人を給わった。(『日本紀略』)
8月21日 御修法
延長八年(930)8月21日壬子、今日から七日間、御修法がある。醍醐天皇のご病気によるものである。僧二十三人。(『扶桑略記』)
8月25日 御悩平癒の祈祷
延長八年(930)8月25日丙辰、右大臣(藤原定方)が天台山において金剛般若経一百巻を読ませた。醍醐天皇のご病気を祈るためである。(『日本紀略』)
9月
9月7日 左右大臣が終夜伺候
延長八年(930)9月7日丁卯、醍醐天皇のご病気により、左右大臣(藤原忠平・藤原定方)が夜も伺候した。(『扶桑略記』)
9月16日 怪異
延長八年(930)9月16日丙子、鳥が時杭二枚をくわえて行った。陰陽寮が占い、凶だということだった。(『扶桑略記』)
9月22日 譲位
延長八年(930)9月22日壬午、醍醐天皇から皇太子寛明親王(後の朱雀天皇)に譲位が行われた。(『日本紀略』)