平安時代

清涼殿落雷事件―菅原道真の怨霊による落雷の祟り

清涼殿落雷事件

菅公の祟り

清涼殿落雷事件

清涼殿落雷事件は、延長八年(930)6月26日に平安京内裏の清涼殿南西の第一柱に雷が落ちた事件である。
この日は清涼殿において干ばつによる雨乞いの実施について会議が予定されていた。しかし、午後1時頃になって愛宕山上空から黒雲が平安京を覆い尽くして雷雨が降り注ぎ、およそ1時間半後に清涼殿南西の柱に雷が落ちた。

その後、醍醐天皇も病に倒れ、9月29日に崩御した。

落雷の犠牲になった人々

『日本紀略』の記述による。

  • 藤原清貫の衣服に落雷の炎が燃え移り、胸を焼かれて亡くなった。
  • 平希世は顔を焼かれて亡くなった。
  • 美努忠包は髪を焼かれて亡くなった。
  • 紀蔭連は腹を焼かれて悶え苦しんだ。
  • 安曇宗仁は膝を焼かれて亡くなった。

天満大自在天神として祀られる

道真が左遷された北野には火雷神が祀られていたので、道真の怨霊と結び付けられた。

『扶桑略記』の記述

六月二十六日、申一刻に雲が薄くなり雷鳴が轟いた。諸衛は陣を立て、左大臣(藤原忠平)以下群卿が陣を起ち清涼殿に侍った。殿上には近習十余人が膝を連ねた。ただし左丞相は御前の近くにいた。同三刻、天が陰って雨が降り、疾雷と激しい風、閃電があった。大納言藤原清貫、右中弁平希世が落命した。傍にいた人は驚かずにいられなかった。ある者は叫び、ある者は走っていった。殿上の舎人も霹靂に逢った。右近衛忠兼は焼け焦げて死に、衣服も焼損していた。また、雷火が清涼殿に燃え移り、右近衛茂景が撲滅した。申四刻、雨は晴れ、雷も止んだ。

『九条殿遺誡』の記述

貞信公(藤原忠平)が語って言ったことには「延長八年六月二十六日、清涼殿に霹靂があったとき、侍臣は色を失ったが、吾が心中は三宝に帰依していたので特に憚る所はなかった。大納言(藤原)清貫、右中弁(平)希世は常々仏法を尊ばなかったので、この両人命を落としたのだ。(『九条殿遺誡』)

『體源抄』の記述

延長八年六月二十六日、雷がひどかったときに、清涼殿の坤の柱の上に神火が燃え移った。大納言(藤原)清貫卿の上の衣に火が付いて伏しまろび、呻き叫んでも火は消えず、右中弁(平)希世朝臣は顔が焼けて柱の下に倒れ伏した。この二人は常に神仏を軽んじていたので、この災いに当たったのだと、貞信公(藤原忠平)が語られている。(源)是茂朝臣は弓を取って立ち向かったが、立所に蹴殺された。美好忠兼は鬢が焼けて死んだ。紀蔭連は炎に咽て悶絶した。これは限りある天下の災いであったが、仏法を信じ奉っていた人はその節にありながら何事もなかった。貞信公は(藤原)時平の御弟でいらっしゃるけれども、この上には同意なさらず、特に天神の御事をお嘆きになった。それ故に、当座にいらっしゃっても少しの煩いもなかったのだ。

『太平記』の記述

その後、菅丞相(菅原道真)が座席を立って天に昇ったかと見えると、やがて雷が内裏の上に鳴り落ち、鳴り上った。高き天も地に落ち、大地も裂けてしまうかのようであった。一人(醍醐天皇)・百官は身を縮め魂も消えるような思いであった。七日七夜の間、雨は荒々しく、風は激しく吹いて世界は闇のように暗くなり、洪水によって家々は流された。京白川の貴賤男女が喚き叫ぶ声はまるで叫喚地獄・大共感地獄の苦しみのようであった。雷電はとうとう大内裏の清涼殿に落ちて、大納言(藤原)清貫卿の表の衣に火が燃え付いて伏し転んだが、消えなかった。右大臣(平)希世朝臣は心猛々しい人であったので「たとえ如何なる天雷があっても王威に怖れをなすことがあろうか」と言って弓に矢を取り副えて向かったが、五体がすくんでうつ伏せに倒れた。近衛忠包は鬢髪に火が付いて焼け死んだ。紀蔭連は煙に咽て息絶えた。本院の大臣(藤原時平)は、あわや我が身に降りかかる神罰だと思われて、醍醐天皇に立ち副い太刀を抜き懸けて進み「朝廷に仕える時も我に礼を乱さず、たとえ神となっても君臣が上下の義を失うことがあろうか。醍醐天皇は金輪王にも劣らぬほど位が高く、擁護の神も未だにお捨てにならない。しばらく静まって穏やかにその徳を施し給え」と理に適った説得をしたところ、理に静まったのだろうか、時平大臣も蹴殺されず、天皇も無事で、雷神は天に上っていった。しかし、雨風は降り止まなかった。(『太平記』)

6月、雨が降らなかった。(『日本紀略』)

天神伝説

火雷気毒神

(前略)北野天神の御眷属火雷気毒神が清涼殿の坤の柱に落ち掛かったときに焼けたという。(『太平記』)

内裏焼亡事件

天元三年(980)11月22日、内裏において火災があり、諸殿舎は尽く焼亡した。(『小記目録』)
この火災は、道真の祟りと伝えられた。(『愚管抄』巻二)

対策

延喜二十三年(923)4月20日、朝廷は道真を右大臣に復し、一階を加えて正二位とした。
天慶五年(942)、多治比文子の神託によって右近馬場に道真の霊を祀った。
天暦元年(947)、天暦九年(955)には近江比良の神官良継の子に託宣があったので、多治比文子と北野朝日寺の僧最珍とともに北野天満宮を創建し、道真を天満天神として祀った。
永延元年(987)8月5日、北野祭が創始された。
寛弘元年(1004)10月21日辛丑、一条天皇が北野へ行幸した。天皇による初めての行幸だった。(『小記目録』『権記』『御堂関白記』)

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