平安時代

鵯越の逆落とし

鵯越ひよどりごえは兵庫県神戸市須磨区の鉄拐てっかい山にあるにある山路である。

合戦の経過

鵯越に至った背景

三草山の戦いに勝利した義経は一万騎の軍勢を二手に分けた。
三千騎の指揮を土肥実平に取らせて山陽道から一ノ谷の西方に向かわせ、自らは七千騎を率いて鵯越に向かった。

7日に合戦が始まり、源範頼軍が大手口で生田川を防衛線とする平氏軍に攻撃を仕掛け、熊谷直実と平山季重は搦手口で互いに一番駆けを競いながら平氏軍に責めかかった。

熊谷直実と平山季重らもまた、卯の刻に密かに一ノ谷の前の道を回り、海側の道から平氏の館に競って襲いかかり、「源氏の先陣である」と大声で名乗りを上げた。
飛騨景綱・越中守次・上総忠光・藤原景清らは二十三騎を率いて、木戸口を開いて合戦となった。
直実は負傷し、季重の郎従も討死した。

その後、範頼と足利・秩父・三浦・鎌倉の人々が競って襲来し、源平の軍勢は入り乱れて戦った。
源氏の赤旗と平氏の白旗が交差し、合戦の様子は山を轟かせ地を揺るがせるほどであった。
樊噲はんかい・張良でも容易く破れないほどの形勢で、城郭も岩壁が高く険しく、馬が通るのは困難であった。

義経は戦況を打開すべく、断崖絶壁からの奇襲攻撃を企てた。

鵯越の逆落とし

義経は在地の武士である鷲尾経春に道案内をさせ、三浦義連ら勇士を率いて鵯越にたどり着いた。
※『源平盛衰記』では鷲尾義久となっている。

鵯越は猪・鹿・兎・狐以外は通ることができないほど険しいといわれていた。

断崖絶壁に踏みとどまっていた義経に対し、佐原義連が「(私の本拠で山がちな地形の多い)三浦の方では、このような場所も馬場同然であります」と言い放ち、崖を馬で下ってみせた。
義連に鼓舞され、義経たちも後を追って約600メートル程の崖を馬で下り始めた。
一ノ谷を守っていた平氏軍は源氏軍の突然の出現に大混乱となった。
義経が敵陣に火を放つとたちまち総崩れとなり、平氏軍は敗走した。
ある者は馬に乗って一ノ谷を脱出し、ある者は船に乗って四国へ赴いた。
戦況を知った生田口の平氏軍も動揺し、退却した。

逆落としの場所

『鉢伏・蟻の戸』説

『延慶本平家物語』では、逆落としは一ノ谷の上にある鉢伏・蟻の戸で行われたとされている。
ここから下ると、一ノ谷を守る平氏軍の真横に出る。
だが、『平家物語』では「一ノ谷後の山ひよどり越」と、鵯越が一ノ谷の後ろに位置すると記されていが、実際の地形はそうなっていないという矛盾がある。

一方、『玉葉』二月八日条の記事では次のような記載がある。

一番に九郎(義経)のもとより告げ申す〈搦手なり。まず丹波城を落とし、次に一ノ谷を落とすと云々〉。
次に蒲冠者範頼案内を申す〈大手、浜地より福原を寄すと云々〉。
辰の刻より巳の刻に至る、なお一時に及ばず、程なく責め落とされおわんぬ。多田行綱、山方より寄せ、最前に山手を落さると云々。
しかるに遁れ得べからざるにより、火を放ち焼け死におわんぬ。

『玉葉』によると、義経が三草山から進軍して一ノ谷を攻め、範頼が浜地(大手口)を攻め、多田行綱が山手を攻めたことになっている。
義経が駆け下ったのは、多田行綱が攻めた山手の傾斜地からの攻撃だとする説もある。

『鵯声』の傾斜地説

現在の兵庫県神戸市兵庫区と長田区の境界付近の傾斜地は今でも「鵯声」の地名が残っている。
この時の逆落としは、山手を守っていた平教経軍へ向けたものとされている。

参考資料

  • 上杉 和彦「源平の争乱 (戦争の日本史6) 」吉川弘文館、2007年
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