平安時代

【源平合戦】三草山の戦い

経過

西海へ出陣

寿永三年(1185)1月29日、源範頼・源義経は平氏追討のため西海に出陣した。(『吾妻鏡』同日条)

『平家物語』「三草勢揃」では、出陣の際に朝廷から「三種の神器を平家から取り返して来い」と命じられている。

平氏が平清盛を弔う

『平家物語』「三草勢揃」によると、同年2月4日は平清盛の命日であるため、仏事が行われた。
源氏軍も仏事を行わせるために攻撃を仕掛けなかったという。

仏事の際に叙位除目が行われた。

平清盛は治承五年(1181)閏2月4日に没している。

なかでも、平教盛は正二位大納言に叙されたが、「今日まで生きながらえているだけでも奇跡なのに、官位昇進など夢のようで思っても見ないことです」と言って辞退したという。

三草山で平氏軍を襲撃

同年2月5日酉の刻、範頼・義経は摂津国に到着した。
矢合わせの時を2月7日卯の刻に定めた。
大手の大将軍を範頼が務め、五万六千余騎を率いた。
搦手の大将軍を義経が務め、二万余騎を率いた。

『平家物語』では、範頼軍は五万余騎、義経軍は一万余騎と記されている。

平氏からは平資盛・平有盛・平師盛・平清家・恵美次郎盛方ら七千余騎が摂津国三草山の西側に陣を構えた。
『平家物語』によると、その軍勢は三千余騎である。
源氏も三草山の東側に陣を構えた。
両軍の間は三里ほどだった。

義経は田代信綱・土肥実平と話し合った結果、夜中に平資盛を襲撃した。
平氏軍は慌てて散り散りになった。(『吾妻鏡』同日条)

なお、『平家物語』「三草合戦」には、義経が実平らに相談した内容が詳細に語られている。
義経らは平家の援軍が来る前に夜討ちを決行することになり、火を放って辺りを照らしながら山を越えていった。

一方、夜襲をまったく予期していなかった平氏軍は「合戦は明日だろうから、今日は戦いに備えてぐっすり寝よう」と言って、先陣こそ用心する者はいたが、後陣の者は寝静まってしまった。
そのため、源氏軍が攻めてきたとき、平氏軍は慌てふためいている間に五百余騎が討たれたという。

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