陰陽道

【年表】陰陽師たちの活動記録~嵯峨天皇時代まで

陰陽師が登場するまで

継体天皇七年(513)

6月 五経博士が派遣されてくる

継体天皇七年(513)6月、百済から五経博士として段楊爾(だんように)が日本に派遣されてきた。(『日本書紀』)

継体天皇十年(516)

9月 五経博士の交代

継体天皇十年(516)9月、新しく派遣されてきた五経博士の漢高安茂(あやのこうあんも)が段楊爾と交代した。(『日本書紀』)

欽明天皇十四年(553)

6月 百済に医博士・易博士・暦博士らの交代を要請

欽明天皇十四年(553)6月、朝廷は百済に対し医博士・易博士・暦博士らの交代と、卜書・暦本や諸々の薬物を送るよう要請した。(『日本書紀』)

欽明天皇十五年(554)

2月 諸々の博士が来日

欽明天皇十五年(554)2月、五経博士の固徳馬丁安(ことくめちょうあん)の後任として王柳貴が派遣されてきた。さらに、易博士施徳王道良・暦博士固徳王保孫・医博士奈率王有陵陀・採薬師施徳潘量豊・同固徳丁有陀らも来日した。(『日本書紀』)

推古十年(602)

10月 百済僧が諸々の学習書を持ってくる

推古十年(602)10月、百済僧観勒が来日し、暦本・天文地理書・遁甲方術書を持ってきた。朝廷は書生を選抜し、これらの書を学ばせた。暦本は陽胡史玉陳(やこのふひとたまふる)、天文地理書・遁甲方術書は大伴村主高聡、その他の書は山背臣日立が学んだ。

活動年表

天武天皇四年(675)

この年、天武天皇が天体観測を行うための占星台を建てた。天皇は天文・遁甲に通じていた。天皇が大海人皇子であった頃、壬申の乱において黒雲が流れてきたときに自ら式占を行った。占いの結果は、皇子の勝利を示していた。(『日本書紀』-天武天皇)

陰陽寮などが天武天皇に珍宝を献上する

天武天皇四年(675)1月1日、陰陽寮は外薬寮(後の典薬寮)などとともに薬や珍宝を天武天皇に献上した。(『日本書紀』)

天武天皇が占星台を建てる

天武天皇四年(675)1月5日、天武天皇は初めて占星台を建てた。天体を観測し、吉凶を占うための施設である。(『日本書紀』)

天武天皇十三年(684)

陰陽師が都を造営する地を占う

天武天皇十三年(684)2月28日、陰陽師(詳細不明)は浄広肆広瀬王・大伴安麻呂・判官・録事・工匠らとともに畿内に遣わされ、都を造営するのに適した場所を視察して占った。(『日本書紀』)

朱鳥元年(686)

1月13日 陰陽師が食事と禄を賜る

朱鳥元年(686)1月13日、陰陽師・博士・医師など合わせて二十余人が食べ物と禄を賜った。(『日本書紀』)

6月2日 陰陽師が爵位を授かる

朱鳥元年(686)6月2日、陰陽師・工匠・侍医・大唐(中国)の学生と1~2人の官人、合計34人が爵位を授かった。(『日本書紀』)

大宝元年(701)

大宝律令制定により陰陽寮が発足

大宝元年(701)、大宝律令が制定され、陰陽寮が発足した。

こちらもCHECK

陰陽寮の仕事内容と人員構成

陰陽寮とは、中国から伝わった天文や暦、陰陽五行を用いて吉凶を占う役所である。大宝元年(701)に大宝律令が制定されたことにより、唐の太史局(暦・天文・漏刻を取り扱う)と太卜署(卜占・方術を取り扱う)の ...

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養老五年(721)

1月27日 陰陽に詳しい大津連首らが褒賞を授かる

養老五年(721)1月27日、以下の詔があった。

「文人と武士は、国家の重んずるところである。医術・卜筮・方術は昔も今も貴ばれる。百官の中で学業を深く修し、模範とすべき者には特別に褒賞を与え後生を励ましたい」。
これによって、様々な分野において優れた者が褒賞を授かった。その中には、陰陽に詳しい従五位上大津連首・従五位下津守連通・王仲文・角兄麻呂(ろくのえまろ)・正六位上余秦勝・志我閉連阿弥陀もいた。(『続日本紀』)

天平二年(730)

3月27日 陰陽などの学業において弟子を取らせる

天平二年(730)3月27日、太政官が以下のように申し上げた。

「大学の生徒の中には、年月を経ても学業を習うことに浅く、広く伝えていない者がおります。まことに家が貧しくて学資を出せないのであれば、学問を好んでも志を遂げることはできません。聡明で学業に優れた者を十人以下五人以上選び、もっぱら学問に精進させ、後に続く者たちへの善い誘いにしたいと思います。よって、夏・冬の衣服ならびに食料を支給していただけないでしょうか。
また陰陽・医術及び七曜・頒暦などは国家において重要な学問です。これらの学問が廃れたり、欠けたりするようなことがあってはなりません。ただ、諸博士を見ると高齢で老衰しております。もし教授しなければ、おそらく学業は絶えてしまうでしょう。そこで、吉田連宜・大津連首・御立連清道・難波連吉成・山口忌寸田主・私部首石村・志斐連三田次ら七人にそれぞれ弟子を取り、学業を習わせたいと思います。その際の衣服・食料は大学生に准じて支給します。生徒の人数は、陰陽・医術を各三人、七曜・頒暦を各二人とします」。

天平四年(732)

8月17日 道ごとに陰陽師が配置される

天平四年(732)8月17日、従四位上多治比真人広成を遣唐大使とした。従五位下中臣朝臣名代を副使とした。判官四人・録事四人。正三位藤原朝臣房前を東海・東山二道の節度使とした。従三位多治比真人県守と山陰道の節度使とした。従三位藤原朝臣宇合を西海道の節度使とした。道ごとに判官四人・主典四人・医師一人・陰陽師一人を配置した。(『続日本紀』)

天平九年(737)

12月23日 高麦太が陰陽頭兼陰陽師に任じられる

天平九年(737)12月23日、外従五位下高麦太(こうのばくた)が陰陽頭兼陰陽師に任じられた。(『続日本紀』)

天平十年(738)

5月24日 高麦太が伊勢大神宮に派遣される

天平十年(738)5月24日、右大臣正三位橘宿禰諸兄と神祇伯従四位下中臣朝臣名代、右少弁従五位下紀朝臣宇美、陰陽頭外従五位下高麦太を遣わし、神宝を伊勢大神宮に奉らせた。(『続日本紀』)

天平勝宝元年(749)

8月10日 別公広麻呂が陰陽頭に任じられる

天平勝宝元年(749)8月10日、従五位下別公広麻呂(わけのきみひろまろ)が陰陽頭に任じられた。(『続日本紀』)

天平宝字元年(757)

8月23日 陰陽寮などが田を支給される

天平宝字元年(757)8月23日、孝謙天皇は次のように勅した。「(前略)また、天文・陰陽・暦算・医針などの学問は国家にとって重要なものである。そこで、それぞれの部門に公廨田(くげでん)を設け、諸々の学生の供給に用いることにする。大学寮は三十町、雅楽寮は十町、陰陽寮は十町、内薬司は八町、典薬寮は十町。」。(『続日本紀』)

11月9日 陰陽寮学生の教科書が定められる

天平宝字元年(757)11月9日、孝謙天皇によって陰陽寮などの学生の教科書が定められた。天文生は『天官書』『漢書天文志』『晋書天文志』『三色簿算』『韓楊要集』。陰陽生は『周易』『新撰陰陽書』『黄帝金匱(こうていきんき)』『五行大義』。暦算生は『漢書律暦志』『晋書律暦志』『大衍暦議』『九章』『六章』『周髀』『定天論』。

また、それぞれの学生は官職に任じられたら、支給された公廨田の稲の一年分を師に贈ることが定められた。このように師を尊ぶことによって、学問が末永く受け継がれると考えられたからである。(『続日本紀』)

天平宝字二年(758)

6月4日 太宰府の陰陽師が百済姓を賜る

天平宝字二年(758)6月4日、太宰府の陰陽師で従六位下余益人(あぐりのますひと)ら四人が百済朝臣の姓を賜った。(『続日本紀』)

8月1日 暦算生・天文生・陰陽生などで二十五歳以上の者に加階

天平宝字二年(758)8月1日、大学生・医針生・暦算生・天文生・陰陽生で二十五歳以上の者に位一階を授けることになった。(『続日本紀』)

8月25日 陰陽寮を大史局と改める

天平宝字二年(758)8月25日、淳仁天皇は次のように勅した。

「(前略)陰陽寮は陰陽・暦・天文など国家の重要なことを担い、大事を記録する。ゆえに、大史局と改める」。

11月26日 優秀な陰陽寮の生徒らが褒美を賜る

天平宝字二年(758)11月26日、内外の諸司で主典以上の者を朝堂院に召集し、饗宴を行った。主典以上と番上及び学生など六千六百七十余人にそれぞれの身分に応じた布・綿を与えた。明経・文章・明法・音・算・医・針・陰陽・天文・暦を深く学んでいる者など五十七人に絹糸を賜った。(『続日本紀』)

神護景雲元年(767)

8月16日 陰陽寮の叙位

神護景雲元年(767)8月16日、陰陽寮の員外助従五位下紀朝臣益麻呂が正五位下に叙された。
陰陽寮の允正六位上山上朝臣船主が従五位下に叙された。(神護景雲二年に初めて朝臣姓を賜っているが、位記に従ってこれを書く)
陰陽寮の員外允正六位以上の日下部連虫麻呂、陰陽寮の大属の百済公秋麻呂、天文博士の国見連今虫らが外従五位下に叙された。(『続日本紀』)

8月29日 紀益麻呂が陰陽頭、弓削薩摩が陰陽助に任じられる

神護景雲元年(767)8月29日、正六位下紀朝臣益麻呂が陰陽頭に任じられた。
従五位下の弓削宿禰薩摩が陰陽助に任じられた。(『続日本紀』)

9月16日 大津連大浦の天文・陰陽などの書が国の所有物となる

神護景雲元年(767)9月16日、日向国員外介従四位上の大津連大浦が解任となった。彼の持っていた天文・陰陽などの書を没収し、国の所有物とした。(『続日本紀』)

神護景雲三年(769)

8月19日 陰陽寮の叙位

神護景雲三年(769)8月19日、従五位下山上朝臣船主が陰陽助に任じられた。
外従五位下百済公秋麻呂が陰陽允に任じられた。(『続日本紀』)

宝亀元年(770)

2月15日 紀益麻呂が伯耆介を兼任

宝亀元年(770)2月15日、陰陽頭正五位下の紀朝臣益麻呂が伯耆介を兼任することになった。(『続日本紀』)

宝亀二年(771)

7月23日 大津連大浦が陰陽頭に任じられる

宝亀二年(771)7月23日、従四位上の大津連大浦が陰陽頭に任じられた。(『続日本紀』)

11月24日 陰陽・天文・暦算に通じている者が絹糸を賜る

宝亀二年(771)11月24日、親王以下五位以上の官人はそれぞれの身分に応じて絹糸を賜った。また、明経博士・文章博士・音博士・明法・算術・医術・陰陽・天文・暦術・貨殖・恪勤・工巧・武術に通じている者、合わせて五十五人が絹糸を賜った。(『続日本紀』)

宝亀三年(772)

4月20日 山上朝臣船主が甲斐掾を兼任する

宝亀三年(772)4月20日、陰陽助従五位下の山上朝臣船主が甲斐掾を兼任することになった。(『続日本紀』)

宝亀五年(774)

3月5日 大津連大浦が安芸守を兼任する

宝亀五年(774)3月5日、陰陽頭従四位上大津連大浦が安芸守を兼任することになった。(『続日本紀』)

宝亀六年(775)

5月17日 大津連大浦 卒去

宝亀六年(775)5月17日、従四位上陰陽頭兼安芸守大津連大浦が卒去した。大浦は、代々陰陽道を習う家系に生まれた。藤原仲麻呂は大浦に絶大な信頼を寄せ、事の吉凶を問うていた。大浦は仲麻呂が叛逆の謀に関わっていると知り、災いが自分の身に降りかかることを恐れて朝廷に密告した。程なくして、仲麻呂は反乱を起こした。その年(天平宝字八年)に大浦は従四位に叙され、宿禰の姓を賜り兵部大輔兼美作守に任じられた。ところが、天平神護元年、大浦は和気王の一味とされて宿禰の姓を取り上げられ、日向守に左遷された。さらに現職を解かれ、日向国に留め置かれた。宝亀の初めに罪を許され入京し、陰陽頭に任じられ、にわかに安芸守も兼任することになった。官職に就いたまま卒去した。(『続日本紀』)

宝亀七年(776)

3月6日 山上朝臣船主が天文博士を兼任する

宝亀七年(776)3月6日、陰陽頭従五位上山上朝臣船主が天文博士を兼任することになった。(『続日本紀』)

宝亀十一年(780)

3月17日 山上朝臣船主が甲斐守を兼任する

宝亀七年(780)3月17日、陰陽頭天文博士従五位上山上朝臣船主が甲斐守を兼任することになった。(『続日本紀』)

天応元年(781)

11月18日 陰陽に秀でた者が絹糸を賜る

天応元年(781)11月18日、明経・紀伝・陰陽・医家などの分野に秀でた者たちがそれぞれ絹糸を賜った。(『続日本紀』)

延暦元年(782)

2月7日 紀朝臣本が陰陽頭に任じられる

延暦元年(782)2月7日、従五位下の紀朝臣本が陰陽頭に任じられた。(『続日本紀』)

7月29日 陰陽寮が神祇官とともに災害や異変について占う

延暦元年(782)7月29日、右大臣以下、参議以上がともに奏上した。

「この頃、災害や異変が頻繁に発生し、妖しい兆候も見られています。よって亀甲と筮竹による占いを命じ、その由を占わせました。神祇官と陰陽寮がそれぞれ言上したことには『通常の国家の祭祀では恒例により幣帛を奉りますが、今の天下は喪に服しており吉凶が入り混じっております。そのため、伊勢大神及び諸神社は皆悉く祟りを為すのです』ということです。もし凶を除き吉に就かなければ、天皇はご病気になってしまうでしょう。」

8月9日 紀朝臣本らが光仁天皇の山陵を占う

延暦元年(782)8月9日、治部卿従四位上壱志濃王、左中弁従四位下紀朝臣古佐美、治部大輔従五位上藤原朝臣黒麻呂、主税頭従五位下栄井宿禰道形、陰陽頭従五位下紀朝臣本、大外記外従五位下朝原忌寸道永らと、六位以下の官人で陰陽を理解している者、合わせて十三人が大和国に遣わされ、光仁天皇の山陵とする地を視察して占った。(『続日本記』)

9月9日 栄井宿禰蓑麻呂が陰陽頭に任じられる

延暦元年(782)9月9日、正五位下栄井宿禰蓑麻呂が陰陽頭に任じられた。(『続日本紀』)

延暦二年(783)

延暦二年(783)1月4日、陰陽頭正五位下栄井宿禰蓑麻呂は今年で八十歳になる。天皇は詔を出して、絁(あしぎぬ)・麻布・米・塩を蓑麻呂に賜った。蓑麻呂は四書五経に通じており、清廉で慎み深い性格だと知られていたので、後輩の者たちに尊敬されていた。それゆえ、こうして褒美があったのである。(『続日本紀』)

延暦三年(784)

5月16日 陰陽助船田口らが遷都の地を占う

延暦三年(784)5月16日、勅によって中納言正三位藤原朝臣小黒麻呂、従三位藤原朝臣種継、左大弁従三位佐伯宿禰今毛人、参議近衛中将正四位上紀朝臣船守、参議神祇伯従四位上大中臣朝臣子老、右衛士督正四位上坂上大忌寸苅田麻呂、衛門督従四位上佐伯宿禰久良麻呂、陰陽助外従五位下船連田口らが山背国に遣わされ、乙訓群長岡村の地を視察して遷都に適した場所を占った。(『続日本紀』)

延暦四年(785)

1月15日 高橋朝臣御坂が陰陽頭に任じられる

延暦四年(785)1月15日、従五位下高橋朝臣御坂が陰陽頭に任じられた。(『続日本紀』)

延暦五年(786)

12月 路三野真人石守が父の姓について言上

延暦五年(786)12月(日付不明)、陰陽助正六位路三野真人石守は「我が父馬養には姓に『路』の字がありません。しかし今、石守だけに路の字が付いております。これを除いてください」と言上した。天皇はこれを許可した。(『続日本紀』)

延暦九年(790)

3月26日 藤原朝臣菅嗣が陰陽頭を兼任する

延暦九年(790)3月26日、左京大夫従四位下藤原朝臣菅嗣が陰陽頭を兼任することになった。(『続日本紀』)

延暦十年(791)

7月4日 藤原朝臣刷雄が陰陽頭に任じられる

延暦十年(791)7月4日、従五位上藤原朝臣刷雄が陰陽頭に任じられた。(『続日本紀』)

延暦十五年(796)

9月5日 阿保人上が陰陽頭に任じられる

延暦十五年(796)9月5日癸巳、従五位上阿保朝臣人上が陰陽頭になった。(『日本後紀』)

延暦十六年(797)

7月2日 陰陽允大津海成が御卜の褒賞を賜る

延暦十六年(797)7月2日乙酉、陰陽允大津海成は霽の占いで効験があったため、(糸+施の旁)五匹・布十端を賜った。(『日本後紀』)

7月3日 陰陽少属菅原世道・陰陽博士中臣志斐連国守が平群山・高安山を鎮める

延暦十六年(797)7月3日丙戌、陰陽少属従八位菅原朝臣世道と陰陽博士正六位上中臣志斐連国守を遣わし、大和国平群山・河内国高安山を鎮めた。霖雨によって二つの山が崩れ、人家が埋まったことによる。(『日本後紀』)

延暦十八年(799)

4月11日 藤原継彦が上総介に任じられる

延暦十八年(799)4月11日乙酉、従五位上藤原朝臣継彦が上総介になった。陰陽頭は元のとおりであった。(『日本後紀』)

11月8日 石川浄浜が陰陽頭に任じられる

延暦十八年(799)11月8日戊申、従五位下石川朝臣浄浜が陰陽頭になった。(『日本後紀』)

延暦十九年(800)

7月23日 陰陽師が崇道天皇の霊を鎮める

延暦十九年(800)7月23日己未、陰陽師(詳細不明)は僧侶たちとともに淡路国にある崇道天皇の山陵を鎮める儀式を行った。(『類聚国史』)

大同元年(806)

2月16日 藤原縄主が陰陽頭に任じられる

大同元年(806)2月16日庚戌、参議正四位下藤原朝臣縄主が陰陽頭になった。(『日本後紀』)

4月18日 賀陽豊年が陰陽頭に任じられる

大同元年(806)4月18日辛亥、文章博士従五位下賀陽朝臣豊年が陰陽頭になった。(『日本後紀』)

大同三年(808)

4月8日 安倍真勝が治部少輔に任じられる

大同三年(808)4月8日己未、従五位下安倍朝臣真勝が治部少輔になった。陰陽頭・備中守は元のとおりであった。(『日本後紀』)

10月1日 豊宗広人が主税頭と山陰道観察使判官を兼任する

大同三年(808)10月1日己酉、大外記従五位下豊宗宿禰広人が主税頭と山陰道観察使判官を兼ねた。陰陽助は元のとおりであった。(『日本後紀』)

11月27日 藤原弟葛が陰陽助に任じられる

大同三年(808)11月27日甲辰、従五位下藤原朝臣弟葛が陰陽助に任じられた。(『日本後紀』)

大同四年(809)

1月23日 中臣志斐連国守が因幡国権掾を兼任する

大同四年(809)1月23日庚子、陰陽博士外従五位下志斐連国守が因幡国権掾を兼ねた。(『日本後紀』)

2月13日 文屋正嗣が陰陽頭に任じられる

大同四年(809)2月13日己未、従五位下文屋真人正嗣が陰陽頭になった。豊後守は元のとおりであった。(『日本後紀』)

大同五年/弘仁元年(810)

7月18日 安倍真勝が鎮祭を行う

大同五年(810)7月18日丙辰、右大弁従四位上藤原朝臣藤継・陰陽頭安倍朝臣真勝が派遣され、高畠陵(桓武天皇の皇后藤原朝臣乙牟漏の御陵)において鎮祭を行った。嵯峨天皇の病が山陵の祟りとされたことによる。(『日本後紀』)

9月17日 中臣志斐連国守が石見国権掾を兼任する

弘仁元年(810)9月17日甲寅、陰陽博士外従五位下中臣志斐連国守が石見国権掾を兼ねた。天文博士は元のとおりであった。(『日本後紀』)

弘仁二年(811)

2月2日 中臣志斐連国守が従五位下になる

弘仁二年(811)2月2日丁卯、外従五位下中臣志斐連国守が従五位下を授かった。(『日本後紀』)

弘仁三年(812)

6月2日 安倍真勝らが日本紀を読む

弘仁三年(812)6月2日丁亥、陰陽頭正五位下安倍朝臣真勝等十余人が日本紀を読んだ。(『日本後紀』)

弘仁五年(814)

2月16日 陰陽寮の枇杷の木に鶺鴒が集まる

弘仁五年(814)2月16日甲午、鶺鴒が陰陽寮の枇杷の木に集まった。観た人はこれを怪異とみなした。(『日本後紀』)

7月26日 小野諸野が備中介を兼任する

弘仁五年(814)7月26日辛未、陰陽頭従五位下小野朝臣諸野が備中介を兼ねることになった。(『日本後紀』)

8月28日 藤原永貞が陰陽頭に任じられる

弘仁五年(814)8月28日辛未、従五位下藤原朝臣永貞が陰陽頭になった。(『日本後紀』)

弘仁六年(815)

10月21日 江沼小並が陰陽助に任じられる

弘仁六年(815)10月21日戊午、外従五位下江沼小並が陰陽助になった。(『日本後紀』)

弘仁十一年(820)

3月3日 江沼小並が官職を解かれる

弘仁十一年(820)3月3日乙巳、陰陽介外従五位下江沼臣小並が官職を解かれた。陰陽師従八位上道祖息麻呂が決笞の刑に処された。四十回。(博戯〈博打〉の罪?)

決笞:笞刑の罰。

陰陽師たちの活動年表

天皇時期リンク
継体天皇-嵯峨天皇継体天皇七年(513)-弘仁十一年(820)

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淳和天皇-醍醐天皇天長三年(826)-延喜二十年(920)

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醍醐天皇-朱雀天皇延長元年(922)-天慶九年(946)

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村上天皇天慶九年(946)4月20日-康保四年(967)5月25日

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冷泉天皇-花山天皇康保四年(967)5月25日-寛和二年(986)6月23日

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一条天皇寛和二年(986)6月23日-寛弘八年(1011)6月13日

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三条天皇寛弘八年(1011)6月13日-長和五年(1016)1月29日

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後一条天皇-後朱雀天皇長和五年(1016)-長暦三年(1039)

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安倍晴明の年表

安倍晴明の年表
参考【完全版】安倍晴明関係の年表についてわかりやすく解説

『小右記』『権記』『御堂関白記』など多数の史料をもとに安倍晴明の陰陽師・天文博士としての活動をご紹介。説話や伝説に見られるような超人的な能力をもつ陰陽師ではなく、一人の官人陰陽師としての晴明の実像が浮 ...

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