平安時代の年表:村上天皇の御代、天暦六年(952)1月1日から天暦十一年(957)10月27日までの出来事を年表にまとめました。通常の記録に加え、説話も追記。陰陽寮の活動は色付きで紹介しています。
村上天皇時代の年表(天暦五年~天暦十一年)
+ 天暦六年(952)の年表を見る
天暦六年(952)
1月
1月1日 元日節会
天暦六年(952)1月1日戊午、元日節会があった。参議源雅信が御酒勅使を務めた。三献の後、雅楽寮による演奏があった。(『西宮記』)
1月3日 朝覲行幸
天暦六年(952)1月3日庚申、村上天皇は二条院にお出ましになった。(『御遊抄』)
1月7日 叙位
天暦六年(952)1月7日甲子、叙位の儀があった。(『公卿補任』)
1月10日 卯杖
天暦六年(952)1月10日丁卯、大舎人頭が卯杖を捧げた。承明門から入った。(『西宮記』)
1月11日 除目
天暦六年(952)1月11日戊辰、除目があった。(『公卿補任』)
1月17日 射礼
天暦六年(952)1月17日甲戌、左右大将(藤原実頼・藤原師輔)が参らなかったので、行幸は停止となった。(『北山抄』)
1月26日 直物/源保光 昇殿
天暦六年(952)1月26日癸未、直物があった。(『外記補任』)
従四位下源保光が昇殿を許された。(『公卿補任』)
1月27日 朱雀上皇御悩
天暦六年(952)1月27日甲申、朱雀上皇の御悩が重くなった。(『石清水文書』)
2月
2月1日 釋奠
天暦六年(952)2月1日丁亥、例年通り議論及び百度があった。ただし、朱雀上皇の体調がすぐれなかったので宴座は行われなかった。(『西宮記』)百度の後、退出された。(『北山抄』)
2月8日 朱雀上皇、御悩平癒を祈願
天暦六年(952)2月8日甲午、朱雀上皇は石清水八幡宮に神馬を奉納し、御悩平癒を祈願した。(『石清水文書』)
2月11日 列見
天暦六年(952)2月11日丁酉、朱雀上皇の御悩により、音楽及び挿頭はなかった。左右大弁は宴穏両座の間に著さず、南廂の座に著して雑事を申し行った。権中納言庶明が東門に参った。参議源雅信は参らなかった。(『西宮記』)
3月
3月14日 朱雀上皇 出家
天暦六年(952)3月14日庚午、朱雀上皇は病気のため出家した。(『醍醐寺雑事記』)
3月19日 軒廊御卜
天暦六年(952)3月19日乙亥、軒廊御卜が行われた。(『西宮記』)
3月23日 賑給
天暦六年(952)3月23日己亥、天変により、東西の両京に賑給があった。(『西宮記』)
3月27日 臨時仁王会
天暦六年(952)3月27日癸未、臨時仁王会が行われた。(『河海抄』)
4月
この月、祈雨御読経が行われた。(『西宮記』)
4月15日 朱雀法皇、仁和寺移御
天暦六年(952)4月15日庚子の夜、朱雀法皇は仁和寺へお移りになった。(『醍醐寺雑事記』)
4月27日 賀茂保憲、栄爵を父に譲るよう請う
天暦六年(952)4月27日壬子、従五位下暦博士賀茂保憲は所帯の栄爵を父正六位上賀茂忠行に譲るよう申し上げた。(『本朝文粋』)
4月29日 皇太子、藤壺参入
天暦六年(952)4月29日甲寅、東宮(憲平親王)が輦車で藤壺に参った。右大臣藤原師輔及び宮司、殿上人が輦車の後を帯刀して相従った。(『西宮記』)
4月30日 雷鳴陣
天暦六年(952)4月30日乙卯、雷電が甚だ盛んであった。雷雨により、右大臣藤原師輔が参入し、弓箭を帯びて御前に候した。(『西宮記』)
6月
6月5日 祈雨
天暦六年(952)6月5日己丑、降雨を祈願するため、16社に臨時奉幣使が立てられた。(『康富記』)
6月10日 御体御卜奏/賀茂忠行が犯土について勘申する
天暦六年(952)6月10日甲午、御体御卜奏が行われた。(『西宮記』)
この日、前近江権少掾賀茂忠行は遊年の方角の犯土について勘申した。(『小右記』治安三年9月2日条)
6月19日 祈雨
天暦六年(952)6月19日癸卯、伊勢大神宮などの5社に奉幣が行われた。降雨を祈願するためである。(『康富記』)
6月23日 四堺祭使の発遣
天暦六年(952)6月23日丁未、陰陽允中原善益、陰陽師布留満樹らが四堺祭使として発遣された。(『朝野群載』)
7月
この月、頻繁に天変が起こった。(『西宮記』)
7月8日 伊勢奉幣/文殊会
天暦六年(952)7月8日壬戌、伊勢大神宮へ奉幣が行われた。また、文殊会があった。(『西宮鈔』)
8月
8月15日 大赦/朱雀法皇 崩御
天暦六年(952)8月15日戊戌、朱雀法皇の病により、大赦が行われた。(『朝野群載』『中右記』)
また、朱雀法皇が崩御された。享年30歳。(『醍醐寺雑事記』『西宮記』ほか)
8月19日 太皇太后遷御の警固
天暦六年(952)8月19日壬寅、明日の丑の刻に中宮藤原穏子が主殿寮に遷御されるので、左右馬寮に御馬を牽かせた。(『類聚符宣抄』)
8月20日 朱雀法皇 葬送
天暦六年(952)8月20日癸卯、山城国来定寺の北野陵において朱雀天皇の火葬を行った。御骨は、醍醐寺山陵の傍に置いた。(『醍醐寺雑事記』)
8月22日 詔書覆奏
天暦六年(952)8月22日乙巳、詔書覆奏が行われた。内侍には付さず、直に御書に奏した。年来の例による。(『西宮記』)
10月
10月1日 旬の停止
天暦六年(952)10月1日甲申、御心喪により旬の儀、豊明節会などが停止されることになった。(『園太暦』)
10月2日 醍醐寺五重塔の供養
天暦六年(952)10月2日甲申、醍醐寺五重塔の供養が行われた。(『慶延記』)
10月12日 主殿寮行幸
天暦六年(952)10月12日乙未、村上天皇は主殿寮にお出ましになった。太皇太后の御悩による。御装束はみな鈍色を用いた。夜にお帰りになった。(『西宮記』)
10月17日 太皇太后、御馬献上
天暦六年(952)10月17日庚子、太皇太后が故朱雀院の御馬十疋を内裏に献上した。左中将藤原朝忠が事の由を奏した。(『西宮記』)
11月
11月16日 豊明節会の停止
天暦六年(952)11月16日戊辰、御心喪により新嘗祭・豊明節会は停止となった。(『政事要略』)
11月18日 大祓
天暦六年(952)11月18日庚午、大祓が行われた。(『北山抄』)
11月28日 昌子内親王 御着裳の儀
天暦六年(952)11月28日庚辰、昌子内親王の御着裳の儀が行われた。朱雀院ならびに殿上の男女の官饗があった。侍臣は十人余り。弘徽殿の南廊に召し、酒肴を給わった。中宮職に禄を給わった。(『河海抄』)
12月
12月2日 醍醐寺五重塔供養
天暦六年(952)12月2日甲申、醍醐寺五重塔の供養が行われた。(『慶延記』)
12月8日 東宮 御着袴の儀
天暦六年(952)12月8日庚寅、憲平親王の御着袴の儀が行われた。(『日本紀略』)
12月9日 触穢
天暦六年(952)12月9日辛卯、藤原伊尹宅の井戸で死人の頭及び筋があったが、その事を知らず大内に参った。公卿は七日間の穢と定めた。来たる11日に予定されていた神今食は所司に付すことになった。(『西宮記』)
12月10日 御体御卜奏
天暦六年(952)12月10日壬辰、御体御卜奏が行われた。(『類聚符宣抄』)
12月29日 追儺
天暦六年(952)12月29日辛亥、方相氏が御前を渡り北門に出た。亥一刻に諸衛が門を開け、追儺が行われた。(『西宮記』)
+ 天暦七年(953)の年表を見る
天暦七年(953)
其時主計頭三道博士賀茂保憲朝臣奏聞公家云、諸道博士皆依不朽之経籍、各勤当時之研精、但至于暦道者、守改憲新術、随観象変通、是以唐家毎移一度斗暦改憲、去貞観元年宣命暦経来用之後、及百三十四年、計也大唐有改作之暦経歟、無人通伝、新暦不来(『大宰府政所牒案』)
この年、陰陽寮で火災があった。(『百練抄』)
1月
1月1日 元日節会/小朝拝の停止
天暦七年(953)1月1日壬子、村上天皇はお出ましにならなかったので、種々のことを内侍に付した。(『西宮記』)
1月2日 東宮大饗
天暦七年(953)1月2日癸丑、東宮(憲平親王)の大饗があった。(『九条殿記』)
1月3日 朝覲行幸
天暦七年(953)1月3日甲寅、村上天皇は弘徽殿にお出ましになり、太皇太后を拝み奉った。(『近衛家文書』)
1月4日 卯杖/左大臣大饗
天暦七年(953)1月4日乙卯、卯杖が行われた。(『西宮記』)
この日、左大臣(藤原実頼)の大饗があった。(『九条殿記』)
1月5日 右大臣大饗
天暦七年(953)1月5日丙辰、右大臣(藤原師輔)の大饗があった。(『日本紀略』)
1月7日 節会/叙位
天暦七年(953)1月7日戊午、節会があった。朱雀院の御周忌により、音楽はなかった。(『西宮記』)
また、叙位の儀が行われた。(『公卿補任』)
1月8日 御斎会
天暦七年(953)1月8日己未、例年通り御斎会が行われた。(『西宮記』)
1月14日 直物
天暦七年(953)1月14日乙丑、直物があった。参議の遅参により、右大弁藤原有相が執筆した。(『西宮記』)
1月18日 賭弓
天暦七年(953)1月18日己巳、賭弓が行われた。(『江次第』)
1月29日 除目
天暦七年(953)1月29日庚辰、除目があった。(『公卿補任』)
閏1月
閏1月17日 長明親王 薨去
天暦七年(953)閏1月17日戊戌、四品長明親王が薨じられた。(『一代要記』)
閏1月19日 薨奏
天暦七年(953)閏1月19日、長明親王の薨奏が行われた。(『西宮記』)
2月
2月5日 大原野祭
天暦七年(953)2月5日乙卯、朱雀院の御周忌により、内裏において歌笛を発しなかった。(『北山抄』)
2月11日 列見
天暦七年(953)2月11日辛酉、兵部丞が皆候していなかったので、代官を用いた。(『西宮記』)
2月12日 京中で火災が起こり、神祇官庁に延焼
天暦七年(953)2月12日壬戌、丑の刻に藍園町において火事があった。その火は神祇官の後庁屋に延焼した。勅命により、左近少将国紀が防火を行った。(『扶桑略記』)
2月13日 消火に関わった者に禄を賜る/陰陽寮が大祓の吉日を勘申する
天暦七年(953)2月13日癸亥、火災に遭った百姓に賑給を行った先例はあったか勘申が行われた。火災の消火に努めた者は禄を賜った。(『扶桑略記』)
藤原有相が左大臣藤原実頼に「神祇官に火災の祟りを占わせ、大祓を行うように。また、失火に遭った百姓に賑給を行った例を勘申するように」と仰せられた。(『中右記』)
また、陰陽寮が大祓を行う日時を勘申した。(『中右記』)
2月13日 五畿七道諸国に神社仏寺修造のことを勘申させる
天暦七年(953)2月13日癸亥、右大臣藤原師輔は官符を賜り、五畿七道諸国に神社・仏寺の破損を修造することについて勘申・注進させた。(『扶桑略記』)
2月27日 園・韓神祭
天暦七年(953)2月27日丁丑、園・韓神祭が行われた。神祇官の失火によって延期されていた。(『中右記』)
3月
3月21日 藤原元方 薨去
天暦七年(953)3月21日庚子、大納言兼民部卿正三位藤原元方が薨じられた。(『公卿補任』)
4月
4月1日 旬
天暦七年(953)4月1日庚戌、村上天皇は物忌によりお出ましにならなかった。左衛門督源高明が見参を奏した。(『西宮記』)
4月24日 賀茂祭
天暦七年(953)4月24日癸酉、賀茂祭が行われた。(『親信卿記』)
9月
9月11日 伊勢例幣
天暦七年(953)9月11日戊子、例年通り伊勢大神宮へ奉幣が行われた。内裏の穢によって、村上天皇は大極殿にお出ましにならなかった。(『西宮記』)
10月
10月13日 庚申御遊
天暦七年(953)10月13日庚申、内裏において庚申御遊があった。女蔵人が菊花を奉った。源高明・源雅信が御前に候した。楽所の輩は御壺に候した。高明は琵琶を弾き、朱雀院の乳母備前命婦は簾中において琴を弾いた。昔はこのような御遊が常に行われていた。(『古今著聞集』)
10月28日 殿上菊合
天暦七年(953)10月28日乙亥、殿上の侍臣が左右に相分かれて、それぞれ残菊三本を献じた。昨日この花を献じたかったのだが、中宮の御悩によって停止となった。(『九条殿記』)
天暦七年10月28日、殿上の侍臣が左右に分かれてそれぞれ残菊を奉った。村上天皇は清涼殿東の孫庇南第三の間にお出ましになった。王卿は東の簀子に候した。延喜十三年に侍臣が菊を献じたときは、左衛門督藤原定方一人が候していた。そのため、左右に分けることができなかった。今日は数人が候していたので、相分かれた。右大臣藤原師輔・大納言源高明・参議藤原師氏の三人を左方とし、大納言藤原顕忠、左衛門督藤原師尹の二人を右方とした。左菊が仰せを蒙る前に弓場殿にかき立ち、その後召しによって御前の東庭に参り、洲浜に菊一本を植えた。蔵人所衆六人でこれをかいた。仁寿殿の西の砌の西辺に兵衛府の円座一枚を敷いて、殿上の小舎人一人が矢三隻を持って候した。洲浜には様々な風流があった。銀の鶴に菊の枝をくわえさせて、その葉に歌一首を書いた。その後右の菊が久しく参らなかったので、度々催し仰せられるほどに、秉燭に及んで奉ると、それも蔵人所衆が書いた。数さしの円座はなかった。風流さでは、左方に劣っていた。銀の鶴に菊をくわえさせて歌を書いたのは、左方と同様である。
右大臣は「右方の花はその粧は劣っている。これに加えて数度召したものの、久しく献じていない。しかれば、第一の花は左方の勝ちとしよう」と奏し申した。仰せて曰く「道理である」と。よって、左方に数をさした。その時、右大臣が立ち上がって負けた方の公卿に罰酒を行った。勝負が行われるごとに行われた。
次に、左方が第二の花を奉った。その花は色鮮やかではあったが、傾き伏していたので、仰せによって負けとなった。よって、左方の数を抜いた。
第三の花は左方が勝った。そこで、乱声を発して竜王を奏した。左衛門佐橘公輔の息小舎人橘知信が仕った。次いで左方の公卿・侍臣が前庭で拝舞を行った。
その後、左方藤原有相・右方源延光に仰せて「鶴」を含む和歌を作らせた。それぞれ取って参り、御座の南の辺りに候した。「すぐに両人を」と詠ませた。
左方:千年ふる 霜の鶴をば 置きながら 菊の花こそ 久しかりけれ
右方:田鶴のすむ 汀の菊は 白浪の をれど尽きせぬ 影ぞ見えける
その後、舞を奏した。左方は渋河鳥、左近将曹船木茂真・舞師長尾秋吉が行った。右方は綾切、右衛門秦良佐・近衛身高が行った。後々の舞は、件の四人がさらに奉仕した。左右どちらも勝負舞ばかり舞っていたので、他の舞がなかったところを、急な仰せによって他の曲を供した。左方は万歳楽・太平楽、右方は石川楽・長保楽を舞った。
舞が終わって、さらに双調を奏した。管弦の得意な侍臣が河竹の北の辺りに候した。また、楽所の輩も同所の東の辺りに候して、歌い、吹き、弾いた。この間に御前を供した。また、侍臣に仰せて御箏を奉った。これより前に御座の南の辺りに置物御厨子一脚を立てて、件の御箏を設置した。重明親王が琴を弾き、源高明が琵琶を弾いた。御遊の後、王卿以下に禄を給わった。また御酒があり、重明親王に給わった。親王は御前の階の間から庭に降りて、拝舞した。南の長階から上って着座した。さらに盃を取って下りていった。高明に御挿頭があった。献じるようにと申された。(『古今著聞集』)
11月
11月2日 御馬御覧
天暦七年(953)11月2日戊寅、仁寿殿において陸奥臨時交易の御馬十九疋を御覧になった。中宮大夫藤原顕忠が御前に候した。二疋を東宮厩に給わり、清涼殿にお帰りになった。(『西宮記』)
11月12日 大歌人を常寧殿に召す
天暦七年(953)11月12日戊子の夜、大歌人を常寧殿の南廊に召した。(『西宮記』)
11月19日 賀茂臨時祭の試楽の停止
天暦七年(953)11月19日乙未、太皇太后の御悩により、賀茂臨時祭の試楽は停止となった。(『西宮記』)
12月
12月3日 御修法
天暦七年(953)12月3日己酉、この日から五日間に渡り御修法が行われた。太皇太后の御悩による。(『延喜天暦御記抄』)
+ 天暦八年(954)の年表を見る
天暦八年(954)
この年、安倍吉平(安倍晴明の嫡男)が生まれた。
1月
1月1日 元日節会
天暦八年(954)1月1日丙子、節会があった。村上天皇は紫宸殿にお出ましにならなかった。(『北山抄』)
1月2日 東宮大饗
天暦八年(954)1月2日丁丑、中宮大饗は停止となった。東宮(憲平親王)の大饗は例年通り行われた。(『西宮記』)
1月3日 東宮拝礼
天暦八年(954)1月3日戊寅、東宮拝礼があった。(『権記』寛弘八年12月26日条)
1月4日 藤原穏子 崩御
天暦八年(954)1月4日己卯、太皇太后藤原穏子が昭陽舎において崩御された。享年70歳。(『扶桑略記』)
1月7日 警固/藤原穏子を二条院に還す
天暦八年(954)1月7日壬午、藤原穏子の崩御に伴い警固が行われた。(『北山抄』)
夜、故太皇太后藤原穏子を二条院に還した。(『西宮記』)
1月8日 御斎会、御修法の延期
天暦八年(954)1月8日癸未、太皇太后藤原穏子の崩御により、御斎会・御七日御修法が延期になった。(『年中行事秘抄』)
1月10日 藤原穏子 火葬
天暦八年(954)1月10日乙酉、左大臣藤原実頼及び殿上の侍臣、女房などが修明門の外において素服を着用した。
夜、鳥戸山において太皇太后藤原穏子の火葬が行われ、宇治木幡に葬られた。(『西宮記』)
1月14日 左右近衛府手結の停止
天暦八年(954)1月14日己丑、左大将藤原実頼と右大将藤原師輔は左右近衛府手結を停止することにした。(『西宮記』)
1月29日 清涼殿の模様替え
天暦八年(954)1月29日甲辰、内匠寮は清涼殿の夜の御帳を撤収し、御屏風を替えた。(『西宮記』)
2月
2月21日 法性寺塔供養
天暦八年(954)2月21日丙寅、勅によって法性寺の塔供養を行い、金色の普賢菩薩像と観世音菩薩像を造り安置した。(『扶桑略記』)
2月22日 藤原穏子 七十七日忌
天暦八年(954)2月22日丁卯、二条院において太皇太后藤原穏子の七十七日法会が行われた。(『西宮忌』)
2月23日 清涼殿の御簾を上げる
天暦八年(954)2月23日戊辰、初めて清涼殿の御簾が上げられた。(『西宮記』)
3月
3月18日 康子内親王、三宮に准ぜられる
天暦八年(954)3月18日壬辰、一品康子内親王が三宮に准ぜられた。(『一代要記』)
3月20日 法性寺法会
天暦八年(954)3月20日甲午、法性寺において太皇太后藤原穏子のために法会が行われた。大江朝綱が願文を作成した。(『西宮記』)
4月
4月23日 東宮、凝華舎へ移る
天暦八年(954)4月23日丙寅、東宮(憲平親王)は凝華舎へ移った。(『日本紀略』)
4月25日 祈雨
天暦八年(954)4月25日戊辰、七大寺・東西寺・延暦寺ならびに諸社が雨が降るように祈祷を行った。(『祈雨日記』)
5月
5月1日 祈雨
天暦八年(954)5月1日甲戌、干ばつが盛んなため、丹生・貴船の二社に奉幣し、龍穴及び東大寺に読経を行わせた。また、官符を諸国に下して祈雨の奉幣・読経を行わせた。(『祈雨日記』)
5月9日 祈雨
天暦八年(954)5月9日壬午、大極殿において祈雨読経が行われた。(『祈雨日記』)
+ 天暦九年(955)の年表
天暦九年(955)
この年、安倍吉昌(安倍晴明の二男)が生まれた。
この年、慶滋保胤が大学寮に入学したという説がある。
1月
1月1日 四方拝/供御薬
天暦九年(955)1月1日辛未、藤原師輔は吉服を着用して四方拝を行った。(『北山抄』)
御薬を供したのは、通例のとおりであった。左大臣(藤原実頼)以下が陣に参った。厨家が膳を儲けた。見参は奏しなかった。(『西宮記』)
1月4日 宸筆法華御八講
天暦九年(955)1月4日甲戌、故太皇太后藤原穏子のために御筆法華経の供養が行われた。作者は参議大江維時。(『扶桑略記』)
1月7日 節会/叙位
天暦九年(955)1月7日丁丑、節会が行われた。村上天皇は御忌月によりお出ましにならなかった。(『妙音院相国白馬節会次第』)
叙位の議が行われた。(『公卿補任』)
1月17日 藤原伊尹 昇殿
天暦九年(955)1月17日、藤原伊尹が昇殿を許された。(『公卿補任』)
1月28日 大祓
天暦九年(955)1月28日戊戌、申の刻に朱雀門の前において大祓が修された。御心喪が終わったことによる。(『西宮記』)
2月
2月4日 祈年祭/大原野祭
天暦九年(955)2月4日癸卯、祈年祭・大原野祭が行われた。(『年中行事秘抄』)
2月7日 叙位/除目
天暦九年(955)2月7日丙午、叙位・除目が行われた。(『公卿補任』)
2月11日 列見
天暦九年(955)2月11日庚戌、列見が行われた。(『西宮記』-『九暦』★)
2月17日 源兼明 昇殿
天暦九年(955)2月17日丙辰、権中納言源兼明が昇殿を許された。(『公卿補任』)
2月25日 公卿論奏
天暦九年(955)2月25日甲子、公卿論奏が行われた。(『師遠年中行事』)
2月29日 内裏歌合
天暦九年(955)2月29日戊辰、内裏歌合が行われた。(『捨遺抄』)
3月
3月14日 射礼
天暦九年(955)3月14日癸未、射礼が行われた。(『師遠年中行事』)
3月26日 殿上賭弓
天暦九年(955)3月26日乙未、殿上賭弓があった。東宮(憲平親王)息所が懸物を奉られた。(『侍中群要』)
4月
3月7日 御物忌/擬階奏
天暦九年(955)3月7日乙巳、擬階奏が行われた。昨日と今日は村上天皇の御物忌であった。そこで、外記に仰せて伝えさせた。(『北山抄』)
5月
5月5日 五月節
天暦九年(955)5月5日壬申、五月節が行われた。(『西宮記』)
5月6日 競馬・打毬御覧
天暦九年(955)5月6日癸酉、村上天皇は競馬・打毬をご覧になった。(『西宮記』)
5月20日 源庶明 薨去
天暦九年(955)5月20日丁亥、中納言従三位源庶明が薨じられた。(『公卿補任』)
6月
6月10日 御体御卜奏
天暦九年(955)6月10日丁未、御体御卜奏が行われた。(『西宮記』)
6月23日 月次祭/臨時奉幣使発遣
天暦九年(955)6月23日庚申、月次祭が行われた。また、伊勢大神宮ならびに諸社へ臨時奉幣使を発遣した。(『小右記』寛仁元年10月13日条)
6月26日 文章生試
天暦九年(955)6月26日癸亥、文章生試が行われた。(『類聚符宣抄』)
7月
7月17日 斎宮卜定
天暦九年(955)7月17日癸未、楽子内親王を斎宮に卜定した。(『歴代編年集成』)
7月22日 藤原師輔 帯剣
天暦九年(955)7月22日戊子、右大臣藤原師輔に帯剣勅授があった。(『愚管抄』)
7月24日 除目
天暦九年(955)7月24日庚寅、除目の議があった。(『公卿補任』)
7月26日 相撲召合
天暦九年(955)7月26日壬辰、相撲召合があった。(『北山抄』)
8月
8月2日 釋奠
天暦九年(955)8月2日丁酉、釋奠が行われた。(『北山抄』)
8月11日 定考
天暦九年(955)8月11日丙午、定考が行われた。(『西宮記』)
8月17日 甲斐穂坂駒牽/蔵人頭補任
天暦九年(955)8月17日壬子、甲斐国穂坂の駒牽があった。左大臣(藤原実頼)が解文を奏した。村上天皇は紫宸殿にお出ましになり、ご覧になった。右馬頭・助は障りがあって伺候しなかった。そこで、左馬寮を留めた。ただ、両近衛が事に従った。天皇の仰せによるものである。(『西宮記』-『九暦』)
参議従四位上藤原朝成・参議従四位上藤原伊尹を蔵人頭に補した。(『公卿補任』)
閏9月
この月、殿上において紅葉合があった。(『歌合』)
閏9月11日 伊勢例幣
天暦九年(955)閏9月11日丙午、雨により村上天皇はお出ましにならなかった。左衛門督藤原師尹が宣命を奏した。(『北山抄』)
閏9月16日 外記政
天暦九年(955)閏9月16日辛亥、外記政が行われた。(『西宮記』)
閏9月17日 除目
天暦九年(955)閏9月17日壬子、除目が行われた。(『公卿補任』)
閏9月21日 官奏/残菊宴の停止
天暦九年(955)閏9月21日丙辰、左大臣(藤原実頼)が左近衛陣に着し、諸卿にこう告げた。「先日仰せられて言ったことには『今年の秋は疫病が流行し、人民は病に苦しんでいる。来月の残菊宴を有無を諸卿が定めるように』。去る延長元年は疫病により九月九日の節会を停止した。延喜二十年には諸国の損害、不堪ならびに疾疫などにより同節会を停止した。同九年もまた疫病ならびに樹木秋花のことにより停止したと、外記所が勘申してこう申した」(『政事要略』★)
10月
10月7日 除目
天暦九年(955)10月7日辛未、除目の議があった。(『公卿補任』)
10月28日 大祓
天暦九年(955)10月28日、申の刻、朱雀門前において大祓を行った。御心喪の期間が満了したことによる。魚味を供するべきだが、二十三日より御修法が行われるため供しなかった。(『西宮記』-『九暦』)
11月
11月1日 春日祭使発遣
天暦九年(955)11月1日乙未、春日祭使を発遣した。(『朔旦冬至部類記』)
11月2日 春日祭
天暦九年(955)11月2日丙申、春日祭が行われた。(『春日祭歴名部類』)
11月21日 新嘗祭
天暦九年(955)11月21日乙卯、新嘗祭が行われた。村上天皇は方忌中であったが、お出ましになった。(『北山抄』)
11月22日 豊明節会/叙位
天暦九年(955)11月22日丙辰、豊明節会・叙位が行われた。(『北山抄』)
11月24日 女叙位
天暦九年(955)11月24日戊午、女叙位があった。(『小右記』長元四年9月14日条)
12月
12月30日 追儺
天暦九年(955)12月30日甲午、追儺が行われた。(『西宮記』)
+ 天暦十年(956)の年表
天暦十年(956)
この年、全国で大規模な干ばつがあった。(『扶桑略記』)
1月
1月1日 源高明 帯剣
天暦十年(956)1月1日乙未、大納言正三位源高明に帯剣勅授があった。(『公卿補任』)
1月7日 叙位
天暦十年(956)1月7日辛丑、叙位の議があった。(『公卿補任』)
1月20日 藤原師輔 五十算賀
天暦十年(956)1月20日甲寅、法性寺より知命を賀する巻数を送ったという。(『西宮記』)
1月27日 除目
天暦十年(956)1月27日辛酉、除目の議があった。(『公卿補任』)
2月
この月、臨時御読経が修された。(『北山抄』)
2月2日 藤原師輔、五十算賀の禄を下給
天暦十年(956)2月2日、藤原師輔は使者の僧を召して報書を座主に送り、使者に禄を下給した。(『西宮記』)
2月4日 祈年祭・大原野祭
天暦十年(956)2月4日丁卯、祈年祭・大原野祭が行われた。(『年中行事秘抄』)
2月13日 列見
天暦十年(956)2月13日丙子、列見が行われた。諸卿の物忌により、延期されていた。(『西宮記』★)
2月15日 直物/小除目
天暦十年(956)2月15日戊寅、直物ならびに小除目があった。(『江次第』)
3月
3月24日 除目
天暦十年(956)3月24日丁巳、除目の議があった。(『公卿補任』)
3月29日 歌合
天暦十年(956)3月29日壬戌、女御荘子女王が歌合を行った。(『歌合』)
4月
4月1日 旬
天暦十年(956)4月1日癸亥、旬があった。番奏は、通例のとおりであった。(『清慎公記』)
4月2日 東宮御謁見/叙位
天暦十年(956)4月2日甲子、東宮(憲平親王)の初めての謁見の日であった。また、女御藤原安子を従二位に叙した。(『大鏡裏書』)
4月8日 灌仏
天暦十年(956)4月8日庚午、灌仏が行われた。(『北山抄』)
4月19日 諸社奉幣
天暦十年(956)4月19日辛巳、諸社へ奉幣を行った。(天変・炎旱による。)村上天皇が小安殿にお出ましになり、伊勢使を発遣した。天皇がお帰りになった後、左大臣(藤原実頼)が陣において諸社使を分けた。申の刻、皇太子(憲平親王)に初めて『孝経』を講じた。諸卿が参会した。(『西宮記』)
学士は従四位上式部大輔紀在昌、尚復は本宮非蔵人式部丞橘為政が務めた。(『兵範記』)
5月
5月29日 歌合
天暦十年(956)5月29日庚申、藤原芳子が歌合を行った。(『歌合』)
6月
6月11日 月次祭・神今食
天暦十年(956)6月11日壬申、月次祭・神今食祭があった。(『北山抄』)
7月
7月19日 相撲召仰
天暦十年(956)7月19日己酉、「相撲召合の宣旨について、右大将藤原顕忠が壁外において諸衛を召し仰せた」という。未だこの例を知らない。「延喜八・十の両年の例に准え、立合・花匏を停止した」という。(『西宮記』-『九暦』)
7月27日 相撲召合
天暦十年(956)7月27日丁巳、相撲召合が行われた。(『西宮記』)
8月
8月11日 歌合
天暦十年(956)8月11日庚午、康子内親王が歌合を行った。(『歌合』)
8月13日 定考
天暦十年(956)8月13日壬申、定考が行われた。(『西宮記』-『九暦』★)
8月18日 臨時相撲
天暦十年(956)8月18日丁丑、仁寿殿において臨時相撲が行われた。五番。(右方が勝った。)(『西宮記』-『九暦』★)
8月20日 御馬御覧
天暦十年(956)8月20日己卯、村上天皇は仁寿殿において御馬を御覧になった。右の佐は伺候しなかった。そこで、左近を留めた。馬寮が御馬を取ったという。(『西宮記』-『九暦』)
8月30日 蔵人所学生試
天暦十年(956)8月30日己丑、弓場殿に蔵人所学生七人を召し、勅題を給わって試を行われた。内蔵寮に仰せて酒食を下給した。(『西宮記』)
9月
9月8日 除目
天暦十年(956)9月8日丁酉、除目の議が行われた。(『公卿補任』)
11月
11月5日 致平親王・保子内親王 参内/藤原在衡 昇殿
天暦十年(956)11月5日癸巳、致平親王・保子内親王が参内した。御対面があった。外祖父藤原在衡が昇殿を許された。男女房に饗を設けた。また、諸陣に屯食を下給したという。(『西宮記』-『九暦』)
11月15日 新嘗祭
天暦十年(956)11月15日癸卯、新嘗祭が行われた。(『北山抄』)
+ 天暦十一年/天徳元年(957)の年表
天暦十一年/天徳元年(957)
1月
1月1日 小朝拝/元日節会
天暦十一年(957)1月1日己丑、村上天皇は紫宸殿にお出ましにならなかった。節会は、通例のとおりであった。(『日本紀略』)
藤原師輔は参内した。しばらく陣座に着した。すぐに東宮梅壺に参った。申の刻、藤壺ならびに後涼殿の東廂などを経て参上した。藤原兼家が抱き奉り、侍の北壁辺りから進んだ。この間、王公は座を動かなかった。これ、もしくは道理であろうか。東宮の御拝礼が終わった。しばらく、侍の座に着した。円座を供した。その後、小朝拝はすでに秉燭に及んだ。拝し終わって儲君、帰り参らせた。御肴は六打敷あった。師輔はまた召しを蒙り、御前に伺候した。酒肴を給わった。この間、列を引いた。(村上天皇は)紫宸殿にお出ましにならなかった。如在の礼を以て宮の御禄を行った。青色の御衣・下襲・袴。また、御拝の舞があった。師輔は紫宸殿に着さずに退出した。(『九暦抄』)
1月2日 東宮大饗
天暦十一年(957)1月2日庚寅、東宮(憲平親王)の大饗があった。(『日本紀略』)
東宮大饗は、北廊において行った。これより前に、拝礼があった。(『九暦抄』)
1月3日 卯杖/康平親王拝賀
天暦十一年(957)1月3日辛卯、卯杖を内侍所に託した。(『日本紀略』)
諸卿が参らなかった。外記が奏して言った。「承平二年の正月九日辛卯のとき、諸卿が参らなかったので、卯杖は内侍所に託しました」。蔵人大内記文正を以て奏聞し、内侍所に託した。(『近衛家文書』)
「康平親王が参入し、拝礼した。御笏・御剣などを下給した」という。(『九暦抄』)
1月4日 藤原穏子国忌
天暦十一年(957)1月4日壬辰、藤原穏子の国忌であった。(『日本紀略』)
1月5日 左大臣大饗
天暦十一年(957)1月5日癸巳、左大臣家(藤原実頼)の大饗があった。未の刻、請客使として忠時が師輔のところへ来た。師輔はすぐに参詣した。前駆、十人。五位、四人。六位、六人。これに忠時を加えた。雑色、十人。舎人、四人。車副の牛飼、一人。藤原伊尹以下高光以上の七人が、中門の外に追い従った。(『九暦抄』『九条殿記』)
1月6日 叙位
天暦十一年(957)1月6日甲午、叙位の議があった。(『日本紀略』)
1月7日 節会/叙位
天暦十一年(957)1月7日乙未、節会が行われた。御簾を懸けた。藤原師輔は弓場殿に進んで両度の宣命を奏した。左閤(藤原実頼)が参らなかったので、師輔が内弁を務めた。(『小野宮年中行事』)
叙位の議が行われた。(『公卿補任』)
1月8日 御斎会
天暦十一年(957)1月8日丙申、御斎会始が行われた。(『日本紀略』)
1月14日 御斎会結願/右大臣大饗
天暦十一年(957)1月14日壬寅、御斎会が結願した。殿上において内論議が行われた。(『日本紀略』)
右大臣家(藤原師輔)の大饗があった。未の刻、蘇甘栗勅使蔵人致忠が来た。禄は、通例のとおりであった。酉の刻、公卿が来て集まった。右京大夫寛信を以て請客使とした。戌の刻、尊者が光臨した。主客の拝礼は、通例のとおりであった。一献は、師輔が盃を勧めた。尊者式部卿元平親王が北の座の二、三献を勧めた。献者は左殿(藤原実頼)と同じであった。二献は餛飩であった。三献の後、史生を召した。その後、飯を勧めた。四献以下、公卿は次々に盃を勧めた。五巡した後、録事を賜った。弁・少納言の座、国紀・隆平。外記・史、尚平・在茲。その後、方盛・正統を召し、史生の録事とした。師輔はまた盃をとって北の座に勧めた。大納言が退出した。次いで便りに非参議大弁の座に留まった。盃を召し、また勧めた。その後また、一世源氏の座を召して盃を勧めた。しばらく隠座に出た。雅楽の舞が終わった。史生に禄を下給した。次いで外記・史・弁・少納言・参議・納言・垣下の親王。次いですぐに尊者の禄をとり、これを被けた。尊者には馬二疋、垣下の親王には各鷹。紅花の唐綾の合細合一重を加えた。(『九条殿記』)
1月18日 藤原師輔が木工頭道風に酒を勧める
天暦十一年(957)1月18日、藤原師輔は木工頭道風を召し、酒を勧めた。女装束一襲を被けた。大饗料の屏風を書いたことによる。(『九暦抄』)
1月21日 除目
天暦十一年(957)1月21日、除目の議が行われた。左大臣(藤原実頼)は欠官帳を奏せず、初めて任じる人の名を書いた。先閤(藤原忠平)の命に違えることであった。(『九暦抄』)
1月22日 除目
天暦十一年(957)1月22日、二日目の除目であった。(『九暦抄』)
1月23日 除目
天暦十一年(957)1月23日辛亥、除目始が行われた。(『日本紀略』)
三日目の除目であった。(『九暦抄』)
1月24日 除目の延期
天暦十一年(957)1月24日壬子、右大臣(藤原師輔)が参らなかったので、除目は延期となった。(『日本紀略』)
1月25日 除目
天暦十一年(957)1月25日癸丑、除目の議が行われた。(『日本紀略』)
四日目の除目であった。(『九暦抄』)
1月26日 除目
天暦十一年(957)1月26日甲寅、除目の議が行われた。(『日本紀略』)
五日目の除目であった。(『九暦抄』)
1月27日 除目
天暦十一年(957)1月27日乙卯、除目の入眼であった。(『九暦抄』)
2月
この月、中納言藤原師尹が左衛門督検非違使別当を辞任した。(『公卿補任』)
また、蔵人所衆が歌合を行った。(『歌合』)
2月1日 春日祭使の代官を用いる
天暦十一年(957)2月1日己未、春日祭使は左大臣(藤原実頼)の息子右近中将斎敏が常使であったが、母(藤原時平女)の忌日にあたるため、左兵衛佐伴仲舒を以て代官とした。雑具・饗などは斎敏のものを用いた。(『日本紀略』)
2月2日 彗星/春日祭
天暦十一年(957)2月2日庚申、春日祭が行われた。今夜、戌の刻、白雲のような長さ一、二丈で広さ二、三寸のものが天に見えた。世間の人々は、これを桙星だと言った。(『日本紀略』)
2月4日 祈年祭
天暦十一年(957)2月4日壬戌、祈年祭が行われた。(『日本紀略』)
左大臣(藤原実頼)、中納言藤原師尹、参議藤原朝忠、藤原有相、小野好古らが神祇官斎院に着して事を行った。(『西宮記』)
2月5日 園・韓神祭/直物/小除目
天暦十一年(957)2月5日癸亥、園・韓神祭が行われた。(『日本紀略』)
直物ならびに小除目が行われた。(『日本紀略』)
2月9日 大原野祭/釋奠
天暦十一年(957)2月9日丁卯、大原野祭ならびに釋奠が行われた。(『日本紀略』)
2月11日 列見/神祇官の火事
天暦十一年(957)2月11日己巳、列見が行われた。夜、神祇官で失火があり、倉一字及び宮城大垣五間が焼亡した。(『日本紀略』)
2月15日 廣平親王邸の火事
天暦十一年(957)2月15日癸酉、廣平親王の二条邸で失火があった。(『日本紀略』)
2月19日 仁王会の大祓
天暦十一年(957)2月19日丁丑、建礼門において大祓が行われた。仁王会が修されることによる。(『日本紀略』)
2月22日 仁王会
天暦十一年(957)2月22日庚辰、仁王会が修された。大内記藤原後生が呪願文を作成した。(『日本紀略』)
2月23日 成子内親王 出家
天暦十一年(957)2月23日辛巳、四品成子内親王が落髪した。(『日本紀略』)
2月25日 藤原実頼が藤原後生に世説を講じさせる
天暦十一年(957)2月25日癸未、藤原実頼は博士大内記藤原後生に世説を始めて読ませた。(『左経記』)
2月28日 大索
天暦十一年(957)2月28日丙戌、大索のことがあった。(『日本紀略』)
3月
3月4日 諸社奉幣
天暦十一年(957)3月4日辛卯、天変・怪異により、六社(石清水・賀茂・松尾・平野・稲荷・大原野)へ奉幣した。(『日本紀略』)
3月8日 元慶寺の火事
天暦十一年(957)3月8日乙未、「花山(元慶寺)が焼亡した。僧房・雑舎、合わせて七字である」という。(『九暦抄』)
3月13日 射礼
天暦十一年(957)3月13日庚子、射礼が行われた。豊楽院への行幸が停止となった。(大損の後年、行幸はなかった。)(『九暦抄』)
3月14日 賭弓
天暦十一年(957)3月14日辛丑、村上天皇は武徳殿にお出ましになり、賭弓が行われた。(『日本紀略』)
射礼の射残が行われた。(『九暦抄』)
酉の刻、村上天皇は武徳殿にお出ましになった。公卿たちが召されて参入した。右大将藤原顕忠が座を起った。四府奏を持ち、一杖に挿して簾の前に進み、内侍に託して奏させた。先例では、左近・左兵衛の奏は一杖に挿した。右司もまた同様であった。今日のことは、先例と違っていた。違失である。内侍が奏を持ち、簾の外に差し出した。藤原師輔は弓を取って沓を履き、進んでこれを受け、座に戻った。左少将隆平・右助信を召し、これを下給した。村上天皇は奏上を下給するため、上卿を召した。上卿は裸足で進みこれを受け取った。今日は簾の内側に坐し、内侍がお伝えになった。それだけではなく、その程が遠かったので履物を着用した。大納言源高明は「先例ではこのようであった」と言った。(『西宮記』-『九暦』)
3月15日 仁和寺の桜会
天暦十一年(957)3月15日壬寅、「仁和寺の桜会であった」という。(『九暦抄』)
3月16日 季御読経/祈雨読経
天暦十一年(957)3月16日癸卯、八省院において季御読経始が行われた。恒例では紫宸殿においてこれを行うが、祈雨のことを加えたことにより、この殿で行われた。(『日本紀略』)
東大寺に勅使を遣わし、来たる22日に七大寺の請僧が祈雨読経を修することになった。右近少将助信が勅使となった。(『日本紀略』)
3月19日 季御読経結願
天暦十一年(957)3月19日丙午、季御読経が結願した。(『日本紀略』)
3月20日 藤原実頼、左近衛大将を辞任/侍従所監補任
天暦十一年(957)3月20日丁未、左大臣藤原実頼は病により左近大将を辞任したいと奏上した。(『日本紀略』)
藤原師輔は南所に着し、文範・惟光を侍従所の監とすべきことを申した。その言葉の次第は相違していた。(『河海抄』)
3月25日 諸社奉幣
天暦十一年(957)3月25日壬子、祈雨により、十六社へ奉幣使を発遣した。(『日本紀略』)
3月26日 降雨
天暦十一年(957)3月26日癸丑、雨が降った。御祈の感応である。(『日本紀略』)
3月30日 殿上音楽・舞
天暦十一年(957)3月30日丁巳、殿上で音楽・舞があった。(『九暦抄』)
4月
4月1日 旬
天暦十一年(957)4月1日戊午、旬であった。音楽があった。(『日本紀略』)
右兵衛佐藤原兼家が番奏を務めた。(『九暦抄』)
4月3日 平野祭
天暦十一年(957)4月3日庚申、平野祭が行われた。(『日本紀略』)
4月4日 広瀬・龍田祭
天暦十一年(957)4月4日辛酉、広瀬・龍田祭が行われた。(『日本紀略』)
4月5日 封事定
天暦十一年(957)4月5日壬戌、封事定の儀があった。(『九暦抄』)
4月7日 擬階奏
天暦十一年(957)4月7日甲子、擬階奏が行われた。(『日本紀略』)
仰って言ったことには「短冊は持ち罷り、例によって行え」と。両輔は称唯して退出した。(『西宮記』)
4月8日 灌仏
天暦十一年(957)4月8日乙丑、灌仏が行われた。(『日本紀略』)
4月9日 大和国不動穀を諸寺に下給
天暦十一年(957)4月9日丙寅、旱損飢饉により、大和国不動穀千二百九十斛を同国の諸寺(東大・興福・元興・大安・西大・法隆・本元興・薬師・新薬師・招提・弘福・法華・建興・長谷・壺坂・比曽・龍門)に下給した。
4月12日 位禄の下給
天暦十一年(957)4月12日己巳、藤原師輔は史吉柯を召し、東宮御料の位禄四具を下給した。内三具は家の位禄であった。三具、分配した。(『九暦抄』)
4月14日 賀茂祭の警固
天暦十一年(957)4月14日辛未、賀茂祭の警固が行われた。(『日本紀略』)
4月16日 賀茂祭
天暦十一年(957)4月16日癸酉、賀茂祭が行われた。(『日本紀略』)
藤原師輔は、賀茂社に封を奉った。(『九暦抄』)
4月22日 藤原師輔 五十算賀
天暦十一年(957)4月22日己卯、女御藤原安子は藤壺において右大臣藤原師輔の五十算を賀した。村上天皇がお渡りになった。右大臣以下の諸卿に飲食の礼があった。天皇は御盃を大臣に給わった。音楽があった。大臣の嫡孫の小童(藤原伊尹の子)が舞を奉仕した。大臣以下殿上侍従以上に禄があった。また、屯食を諸陣の諸所に下給し、左右馬寮の御馬五匹を大臣に下給した。恩の深いことである。(『日本紀略』)
4月23日 除目
天暦十一年(957)4月23日庚辰、除目始が行われた。(『日本紀略』)
4月24日 除目
天暦十一年(957)4月24日辛巳、除目が行われた。(『日本紀略』)
4月25日 除目
天暦十一年(957)4月25日壬午、除目が行われた。(『日本紀略』)
5月
5月1日 延暦寺講堂供養
天暦十一年(957)5月1日丁亥、延暦寺座主大僧都延昌が講堂供養を行い、大法会を設けた。(『日本紀略』)
5月2日 清涼殿御読経
天暦十一年(957)5月2日戊子、清涼殿において御読経が修された。請僧二十口。(『日本紀略』)
5月4日 藤原尹風 卒去
天暦十一年(957)5月4日庚寅、従五位藤原尹風が卒去した。(『尊卑分脈』)
5月5日 清涼殿御読経 結願
天暦十一年(957)5月5日辛卯、清涼殿御読経が結願した。(『日本紀略』)
5月11日 康子内親王安産の祈祷
天暦十一年(957)5月11日丁酉、良源僧正が女宮一品康子内親王の安産を祈祷した。(『我慢抄』)
5月14日 仁王会の大祓
天暦十一年(957)5月14日庚子、明日の仁王会により、建礼門において大祓が行われた。(『日本紀略』)
5月15日 臨時仁王会
天暦十一年(957)5月15日辛丑、仁王会が修された。文章博士橘直幹が呪願文を作成した。(『日本紀略』)
5月18日 四堺祭
天暦十一年(957)5月18日甲辰、四堺祭が行われた。(『日本紀略』)
5月24日 賑給
天暦十一年(957)5月24日庚戌、左右両京に賑給があった。(『日本紀略』)
6月
6月3日 仁王経
天暦十一年(957)6月3日戊午、十四社の験所において仁王経のことが定められた。毎社僧綱一口。伴僧十口。今年は三合の厄にあたり、水旱・疾疫の災いが絶えないからである。(『日本紀略』)
6月6日 康子内親王 薨去
天暦十一年(957)6月6日辛酉、一品康子内親王が薨じられた。(『日本紀略』)
康子内親王の御産があった。邪気により、入滅した。(『九暦抄』)
6月10日 康子内親王 薨奏/御体御卜奏
天暦十一年(957)6月10日乙丑、故康子内親王家の別当掃部頭藤原在滋が待賢門において外記に託し申してこう言った。「今日は親王の葬送である。今日から三日間、音楽を演奏してはならない」。(『日本紀略』)
御体御卜が恒例のとおり行われた。陣の外においてこれを奏した。(『日本紀略』)
6月11日 月次祭・神今食祭
天暦十一年(957)6月11日丙寅、内裏の穢気ならびに御錫紵のことにより、月次祭・神今食は延期となった。八省院の東廊において大祓があった。(『日本紀略』)
6月18日 大般若経
天暦十一年(957)6月18日癸酉、今日から紫宸殿ならびに清涼殿において、請僧百僧が大般若経を転読した。(『日本紀略』)
6月21日 大般若経 結願
天暦十一年(957)6月21日丙子、大般若経が結願した。(『日本紀略』)
6月25日 試経
天暦十一年(957)6月25日庚辰、暴風・大雨であった。豊楽院において試経があった。(『日本紀略』)
6月27日 除目
天暦十一年(957)6月27日壬午、除目が行われた。(『公卿補任』)
7月
7月17日 御修法
天暦十一年(957)7月17日壬寅、僧正延昌が御修法の結願の日に参入し、絹十疋・信乃布百端を賜った。(『西宮記』)
7月18日 祈年穀奉幣
天暦十一年(957)7月18日癸卯、祈年穀奉幣が行われた。(『日本紀略』)
7月20日 月次祭・神今食
天暦十一年(957)7月20日乙巳、月次祭・神今食が行われた。村上天皇が神嘉殿にお出ましになった。祈年穀の幣帛をこれに託して奉られた。(『日本紀略』)
7月21日 広瀬・龍田祭
天暦十一年(957)7月21日丙午、広瀬・龍田祭が行われた。(『日本紀略』)
7月22日 康子内親王 四十九日
天暦十一年(957)7月22日丁未、一品宮康子内親王の御法事があった。(『九暦抄』)
7月24日 康子内親王 四十九日の正日
天暦十一年(957)7月24日、一品宮康子内親王の四十九日の正日により、法事があった。(『九暦抄』)
7月27日 相撲の停止
天暦十一年(957)7月27日壬子、康子内親王の薨去により、相撲を停止することになった。(『日本紀略』)
8月
8月1日 祈雨
天暦十一年(957)8月1日乙卯、丹生・貴船の二社へ雨を祈るため、黒毛の御午を加え奉った。(『日本紀略』)
8月2日 斎宮寮除目
天暦十一年(957)8月2日丙辰、斎宮寮除目が行われた。(『日本紀略』)
8月3日 釋奠
天暦十一年(957)8月3日丁巳、釋奠が行われた。(『日本紀略』)
8月4日 釋奠
天暦十一年(957)8月4日戊午、村上天皇の御物忌により内論議はなかった。ただし、博士は禄を賜った。(『日本紀略』)
8月6日 菅原輔正が方略試の問頭博士になる
天暦十一年(957)8月6日庚申、式部少丞菅原輔正が文章得業生紀伊輔の方略試の問頭博士となった。(『類聚符宣抄』)
8月11日 定考
天暦十一年(957)8月11日乙丑、定考が行われた。(『日本紀略』)
一品公主(康子内親王)のことにより、音楽を止めた。不参の大臣を見参に入れた。(師輔が見参に入れ終えた。)(『九暦抄』)
8月12日 斎宮下向/長奉送使定
天暦十一年(957)8月12日丙寅、斎宮の下向、長奉送使を定めることがあった。(『九暦抄』)
8月13日 季御読経
天暦十一年(957)8月13日丁卯、季御読経始が行われた。(『日本紀略』)
8月16日 季御読経結願
天暦十一年(957)8月16日庚午、季御読経が結願した。(『日本紀略』)
8月17日 賀茂保憲が坊城家を鎮める
天暦十一年(957)8月17日辛未、藤原師輔は陰陽頭賀茂保憲に坊城家を鎮めさせた。このことは数度に及んでいたが、去る六月の凶事(康子内親王の薨去)により、重ねて行わせた。師輔は保憲に絹二疋を下給した。(『九暦抄』)
8月29日 藤原朝忠が長奉送使となる/大祓
天暦十一年(957)8月29日癸未、斎王の長奉送使と定めた中納言が辞退した。参議藤原朝忠に仰せられた。(『九暦抄』)
斎宮群行により、朱雀門において大祓が修された。(『日本紀略』)
9月
9月5日 斎宮群行
天暦十一年(957)9月5日戊子、伊勢斎宮楽子内親王が桂川において御禊を行い、伊勢へ参向した。村上天皇が大極殿にお出ましになり、これを発遣した。(『日本紀略』)
9月17日 源重信が修理大夫を兼任
天暦十一年(957)9月17日庚子、参議従四位上源重信が修理大夫を兼任することになった。(『公卿補任』)
10月
10月1日 御物忌/旬平座
天暦十一年(957)10月1日甲寅、村上天皇は御物忌のため紫宸殿にお出ましにならなかった。平座・見参は恒例のとおりであった。(『日本紀略』)
10月3日 文章生試
天暦十一年(957)10月3日丙辰、式部省において文章生試があった。当省の少輔元夏が御題を給わった。「水清玉潔」。(『日本紀略』)
10月5日 残菊宴
天暦十一年(957)10月5日戊午、残菊宴があった。題は「寒軽菊吐滋」。(『日本紀略』)
未の刻、村上天皇は紫宸殿にお出ましになった。憲平親王が後ろにいらっしゃった。大納言藤原顕忠を内弁とした。少納言藤原兼家は初めて召しを承り、貫首有明親王に謝酒の間、失儀があった。文章博士国光・文時を以て題を献じさせたのは、通例のとおりであった。文時の「寒軽菊吐滋」を題とした。内膳が遅れて御前を供した。采女正代が早く文を申さなかったことによる。また、文台の筥を遅く取った。詩を読むために博士を召した。内弁が前例を知らなかったからである。狐疑の間、時刻はすでに移った。また、読むべき師が居る場所に内弁がいた。また、御製の詩を給わるとき、内弁はこれを給わらなかった。左少将親賢がこれを給わった。また「紙燭を取る次将は、陛下よりこれを取って参上した」という。総じて今日のことは違失が多かった。(『九暦抄』)
10月14日 封事定
天暦十一年(957)10月14日丁卯、宜陽殿において封事が定められた。(『日本紀略』)
10月17日 大般若経
天暦十一年(957)10月17日庚午、清涼殿において請僧三十口が大般若経を転読した。(『日本紀略』)
10月27日 改元:天暦→天徳
天暦十一年(957)10月27日庚辰、水害と干害によって改元が行われ、元号が「天徳」になった。(『扶桑略記』)