文字数10000字以上!『小右記』『権記』『御堂関白記』など多数の史料をもとに安倍晴明の陰陽師・天文博士としての活動をご紹介。説話や伝説に見られるような超人的な能力をもつ陰陽師ではなく、一人の官人陰陽師としての晴明の実像が浮かび上がる!
安倍晴明の陰陽師としての活動は、以下の3種類に大別される。
- 政務を行う日時や方角の吉凶などを占う
- 怪異や病気の原因、土地の選定
- 祭祀・儀礼を執り行う
文字数が多いため、出来事の詳細な説明をアコーディオン方式にしています。
醍醐天皇時代
延喜二十一年(921)
延喜二十一年(921) 晴明、誕生する
+ くわしく見る
寛弘五年(1005)に没したことから逆算して、安倍晴明は延喜二十一年(921)に生まれたと考えられている。
『安倍氏家系図』において、晴明の父は安倍益材とされている。母は不明。
後世の伝承では、晴明の母は信田森の白狐とされている。

村上天皇時代
天徳四年(960)
天徳四年(960)9月、内裏で火災が起こり、中にあったものは皆悉く焼損した。
当時天文得業生だった晴明は、宣旨を奉り、勘文を進上した。
なお、長徳三年(997)5月24日、宜陽殿に召された際に詳細を述べている。(『中右記』寛治八年11月2日条)
去る天徳四年に内裏で火災が起こった際、中のものはみな悉く焼損しておりました。
当時天文得業生だった私は、宣旨を奉り勘文を進上いたしました。
四十四柄の御剣のうち、特に大事な二本の霊剣がありました。
一方は「破敵」、もう一方は「守護」という名で、十二神と日月、そして五星などの文様が刻まれておりました。
しかし、火災によって文様が焼けて見えなくなってしまったので、私が勘文を奉り文様のかたちを明らかにして、そのとおりに再び文様を刻ませたのです。
「破敵」は大将軍が遣わされる際に節刀として賜るもので、「守護」は宮中に安置されるものでした。
天徳以降、度々火災がありましたが、霊剣は未だ鋳造されておりません。
件の霊剣は元々百済国から献上されたもので、国家の大宝であるゆえ、必ず鋳造されなければならなかったのです。天徳四年の際は、備前国より選ばれた鍛冶師白根安生に高雄山で鋳造させました。
康保四年(967)
康保四年(967)6月23日 政始の日時を占う
+ くわしく見る
康保四年(967)6月23日、陰陽師安倍晴明は政治始めの日時を占った。(『本朝世紀』)
円融天皇時代
天禄三年(972)
天禄三年(972)12月6日 天変を奏上する・四角祭を勧める
+ くわしく見る
天禄三年(972)12月6日、天文博士安倍晴明は天変があったことを奏上した。
また、春に疫病が流行ったことから、四角祭を行うことを勧めた。(『親信卿記』)
天延元年(973)
天延元年(973)1月9日 天文密奏
+ くわしく見る
天延元年(973)1月9日、天文博士安倍晴明は天変があったことを奏上した。(『親信卿記』)
天延元年(973)4月19日 天文密奏
+ くわしく見る
天延元年(973)4月19日、天文博士安倍晴明は天文密奏を奉り「去る18日丑の刻に、月が斗建星を犯した」と奏上した。(『親信卿記』)
天延元年(973)6月11日 物忌の覆推を行わせる・円融天皇の行幸に際して反閇を奉仕する
+ くわしく見る
天延元年(973)6月11日の戌の刻、円融天皇の中和院への行幸が行われる予定だったが、この日は物忌に当たる日であった。安倍晴明は物忌の覆推(占い直し)を行った。その結果、物忌を行うべきだと申した。
また、円融天皇の中和院への行幸に際して反閇を奉仕した。(『親信卿記』)
天延二年(974)
天延二年(974)5月14日 賀茂保憲の大乗院点地に同行する
+ くわしく見る
天延二年(974)5月14日辛酉、安倍晴明は賀茂保憲らの大乗院点地に同行した。(『親信卿記』)
-

参考【年表】平安時代の陰陽師たちの活動記録(安倍晴明は別頁参照)
冷泉天皇時代の安和二年(969)から一条天皇時代の寛弘二年(1005)までの陰陽師たちの活動年表を紹介します。安倍晴明の活動年表は、別頁に記載しています。安倍晴明だけではなく、たくさんの陰陽師たちが歴 ...
続きを見る
天延二年(974)6月12日 河臨祓
+ くわしく見る
天延二年(974)6月12日、安倍晴明は河臨祓を行った。(『親信卿記』)
天延二年(974)12月3日 天文密奏
+ くわしく見る
天延二年(974)12月3日、安倍晴明は天文密奏を行い「鎮星が鬼第四星を犯している」と奏上した。(『親信卿記』)
永観二年(984)
永観二年(984)7月27日 譲位・立太子の吉日吉時を勘申する
+ くわしく見る
永観二年(984)7月27日乙亥、安倍晴明は文道光とともに円融天皇から花山天皇への譲位の吉日吉時と、懐仁親王(後の一条天皇)の立太子の吉日吉時を勘申した。
→「八月十六日癸巳、巳・申の刻」となった。(『小右記』同日条)
この日は重日にあたるため、藤原実資は藤原頼忠と東宮、帝に譲位を行ってもよいか相談した。
永観二年(984)7月28日 27日の勘申について事情を話す
+ くわしく見る
永観二年(984)7月28日、安倍晴明は先日行った勘申について、「八月二十七日は吉日で内裏に入御することになっているが、あの日を申し上げるべきだったので勘文に載せなかった」と話した。(『小右記』同日条)
永観二年(984)7月29日 譲位・立太子の日時を勘申しなおす
+ くわしく見る
永観二年(984)7月29日朝、晴明は文道光とともに改めて譲位・立太子の日時を勘申し、勘文を持参した。
→「八月二十七日、巳の刻・未申の刻」となった。(『小右記』同日条)
花山天皇時代
永観三年/寛和元年(985)
永観三年(985)4月19日 藤原実資の妻の解除を行う
+ くわしく見る
永観三年(985)4月19日癸巳、藤原実資の妻は出産の予定時期を過ぎても出産の気配がなかったので、安倍晴明は実資に命じられて解除を行った。(『小右記』同日条)
晴明が解除を行う前日の18日、賀茂光栄も実資の妻のために解除を行っている。(『小右記』同日条)
晴明が解除を行ってから9日後の4月28日寅の刻、実資の妻は女子を出産した。実資が到着したときには、無事に出産を終えていた。(『小右記』同日条)
永観三年(985)5月29日 花山天皇の錫紵の日時を占う
+ くわしく見る
永観三年(985)5月2日丙午、花山天皇の姉尊子内親王が薨去された。
5月27日に尊子内親王の薨奏が行われた。
薨奏……親王または三位以上の人の薨去(亡くなったこと)を太政官から天皇に奏上すること。
5月29日癸酉、花山天皇の錫紵を除くことになっていた。安倍晴明は天皇の錫紵を除く吉時を勘申した。
→戌の刻となったが、この日は復日にあたるため明日の卯の刻の方がよいということだった。
藤原実資がこの旨を天皇に奏聞したところ、天皇から実資が決めるように命じられた。
錫紵……天皇が二親等以上の喪に服するときに着る、薄墨色の喪服。
実資は「明日(6月1日)は忌日の御膳を供する日であり、斎月である。また、日数を過ぎても問題ないのだろうか」と尋ねると、藤原宣孝が延喜の頃、日数を過ぎて錫紵を除いた例を挙げた。実資がその例を探したところ、延喜九年(909)にあった。
しかし、実資はその例は今回のことに適用できないと思い、半夜に除かせてはどうか提案したところ、天皇は晴明に尋ねるように言った。晴明は「明日の寅の初刻がよい」と申した。御禊が行われたが、実資は感心しなかった。(『小右記』)
寛和元年(985)11月24日 大嘗会において吉志舞を奉納
+ くわしく見る
寛和元年(985)11月24日甲午、安倍晴明は大嘗会において吉志舞を奉納した。その様子は、あまりに幽玄であった。寛和に安倍晴明が奉納して以後、安倍氏の当主が奉ることになった。(『園太暦』)
寛和二年(986)
寛和二年(986)2月16日 太政官の政庁に現れた蛇について吉凶を占う
+ くわしく見る
寛和二年(986)2月16日甲寅、天文博士正五位下安倍晴明は未の刻に太政官の政庁に現れた蛇について吉凶を占った。
→盗難や争いの類ではないが、丑・未・辰年の官人から死者が出るだろう。
怪異が発見された日から三十日以内、四月・七月・翌年四月節の庚辛の日に物忌をすること、怪異が起こった場所で攘法を修する必要がある、ということだった。(『本朝世紀』)
寛和二年(986)2月27日 政庁の母屋に入ってきた鳩について占う
+ くわしく見る
寛和二年(986)2月27日、晴明は政庁の母屋に入ってきた鳩について占った。
母屋に入った鳩は右大臣の机の前に集まった後、西へ歩いていき、第二戸から飛び去っていったという。
→辰・午・亥年生まれの人に争い事が起こる。
怪異が起きた日から二十五日以内と四月・五月・七月節中の庚辛の日に物忌を行い、怪異が起きた場所で攘法を修する必要がある。(『本朝世紀』)
一条天皇時代
永延元年(987)
永延元年(987)2月19日 一条天皇の清涼殿遷御に際して反閇を奉仕する
+ くわしく見る
永延元年(987)2月19日、一条天皇が凝華舎から清涼殿への遷御に際して、晴明は反閇を奉仕した。(『小右記』同日条)
永延元年(987)3月21日 藤原実資の転居に際して反閇を行う
+ くわしく見る
永延元年(987)3月21日、藤原実資の転居に際して、晴明は反閇を行った。(『小右記』同日条)
永延二年(988)
永延二年(988)7月4日 藤原実資邸にて鬼気祭を行う
+ くわしく見る
永延二年(988)7月4日夜、晴明は藤原実資邸にて鬼気祭を行った。(『小右記』同日条)
永延二年(988)8月7日 熒惑星祭を行う日を勘申する
+ くわしく見る
永延二年(988)8月7日、藤原実資は藤原兼家に呼び出されて、5日の夜に熒惑星が軒轅女主に接近したことについての話があった。
天台惣持院にて熾盛光御修法を修するよう座主尋禅に伝えること、慈徳寺にて八万四千泥塔の供養を誰に頼むべきが確認があった。
また、晴明は熒惑星祭を行う日を勘申した。
→12日と19日を勘申した。(『小右記』同日条)
永延二年(988)8月18日 熒惑星祭を奉仕しなかったことに対して過状の提出を求められる
+ くわしく見る
永延二年(988)8月18日、晴明は熒惑星祭を奉仕しなかったことに対して過状(謝罪の書状)の進上するよう命じられた。(『小右記』同日条)
永祚元年(989)
永祚元年(989)1月6日 一条天皇の病の原因を占う
+ くわしく見る
永祚元年(989)1月6日、晴明は一条天皇の病の原因を占った。(『小右記』同日条)
永祚元年(989)1月7日 一条天皇へ御禊を奉仕する
+ くわしく見る
永祚元年(989)1月7日、晴明は一条天皇の紫宸殿出御前に御禊を奉仕した。(『小右記』同日条)
永祚元年(989)2月11日 藤原詮子の急病に際して泰山府君祭を行う
+ くわしく見る
永祚元年(989)2月11日、皇太后宮藤原詮子が急病を患ったので、晴明は泰山府君祭を奉仕した。(『小右記』同日条)
永祚元年(989)2月16日 一条天皇の円融寺行幸に際して反閇を奉仕する
+ くわしく見る
永祚元年(989)2月16日、一条天皇の円融寺行幸に際して、晴明は紫宸殿にて反閇を奉仕した。(『小右記』同日条)
正暦四年(993)
正暦四年(993)2月3日 一条天皇へ御禊を奉仕して加階される
+ くわしく見る
正暦四年(993)2月3日、晴明は一階を加えられて正五位上に叙された。
藤原実資に事情を尋ねられると、晴明は「一条天皇が急病を患った際、御禊を奉仕したところすぐに効験があったので加階されます」と説明した。(『小右記』同日条)
正暦五年(994)
正暦五年(994)5月7日 仁王経講説の日時を勘申する
+ くわしく見る
正暦五年(994)5月7日、八省大極殿にて百の高座を設けて仁王経の講説を行う日が5月15日に定められた。
この日にちは、「前天文博士正五位上」安倍晴明が勘申したところによる。(『本朝世紀』)
長徳元年(995)
この年、晴明は蔵人所陰陽師となり、賀茂保憲の息子光栄も晴明の二番手として蔵人所陰陽師となっている。(『蔵人所月奏』長徳元年〈995〉8月1日条)
これ以降、二人は行動をともにすることが多くなる。
長徳元年(995)10月17日 雷鳴についての御卜を停止するように言う
+ くわしく見る
長徳元年(995)10月17日、晴明は雷鳴についての御卜を停止するよう奏上した。(『権記』同日条)
長徳三年(997)
長徳三年(997)3月21日 神殿造立の日時を勘申する
+ くわしく見る
『蔵人信経私記』によると、長徳三年(997)3月21日、晴明は賀茂光栄とともに神殿を造立する日時を勘申した。(『中右記』寛治八年11月11日条)
長徳三年(997)5月24日 霊剣鋳造について語る
+ くわしく見る
『蔵人信経私記』によると、長徳三年(997)5月24日、主計権助安倍晴明は、内裏の宜陽殿にある霊剣鋳造の日を勧めた。
→明年七・八月の庚申の日に鋳造を始めるよう勧めた。
また、天徳年間に内裏で起こった火災について詳しく述べている。(『中右記』寛治八年11月2日条)
長徳三年(997)6月17日 一条天皇の東三条院への行幸の日時を勘申する
+ くわしく見る
長徳三年(997)6月17日、晴明は賀茂光栄とともに一条天皇の東三条院行幸を行う吉日吉時を占った。
→「今月22日甲寅、巳の刻 東門を出発するとよい」という結果が出たことを報告した。(『権記』同日条)
長徳三年(997)6月22日 一条天皇の東三条院行幸に際し、反閇を奉仕する
+ くわしく見る
長徳三年(997)6月22日、一条天皇の東三条院行幸に際して、晴明は反閇を奉仕した。(『権記』同日条)
長保元年(999)
長保元年(999)7月8日 一条天皇の遷御に際して反閇を奉仕する
+ くわしく見る
長保元年(999)7月8日、方違のために東対に移っていた一条天皇が北対へ遷御する際、晴明は反閇を奉仕した。
奉仕した後、晴明は禄を賜った。(『権記』同日条)
長保元年(999)7月16日 一条天皇の歯痛と祭祀の吉日吉時を勘申する
+ くわしく見る
長保元年(999)7月16日、一条天皇が歯痛に悩んでいるという報せがあったので、晴明は一条天皇の歯について御卜を行った。
→重病ではないということだった。
また、祭祀(詳細は不明)を行う吉日吉時を勘申した。(『権記』同日条)
長保元年(999)9月7日 穀倉院年預の補充を要請する
+ くわしく見る
長保元年(999)9月7日、晴明は穀倉院預の伴親仁の逝去に伴い、年預を補充するよう藤原行成へ伝えた。
大原辰信が新しい年預となった。(『権記』同日条)
長保元年(999)10月13日 太皇太后の渡御について御卜を奉仕する
+ くわしく見る
長保元年(999)10月13日、晴明は太皇太后昌子内親王の渡御について御卜を奉仕した。
→「たいへんよろしい」ということだった。(『小右記』同年10月14日条)
長保元年(999)10月19日 昌子内親王が大江雅致の邸宅に遷御する際の雑事について勘申する
+ くわしく見る
長保元年(999)10月19日、晴明は賀茂光栄とともに昌子内親王が大江雅致の邸宅に遷御する際の雑事について勘申した。(『小右記』同日条)
長保元年(999)11月7日 防解火災御祭の日時を勘申する
+ くわしく見る
長保元年(999)11月7日、晴明は内裏で行う防解火災御祭の吉日吉時を勘申した。また、防解火災御祭を奉仕した。(『権記』同日条)
長保二年(1000)
長保二年(1000)1月10日 藤原彰子立后などの雑事について勘申する
+ くわしく見る
長保二年(1000)1月10日、晴明は藤原道長に召されて、藤原彰子立后などの雑事について勘申した。(『御堂関白記』同日条)
長保二年(1000)1月28日 藤原彰子の立后の日時を勘申する
+ くわしく見る
長保二年(1000)1月28日、大蔵卿正光が勅使として「女御(藤原彰子)を皇后とするので、日時を決めるように」と藤原道長に伝えた。
晴明は道長の命で立后とそれに付随する雑事の吉日吉時を勘申した。(『御堂関白記』同日条)
長保二年(1000)2月16日 一条天皇の法興院行幸の日時を勘申する
+ くわしく見る
長保二年(1000)2月16日、晴明は中宮藤原彰子の法興院行幸の吉日吉時を勘申した。
→3月14日となった。(『御堂関白記』同日条)
長保二年(1000)8月19日 藤原行成の宿所に現れた鼠の吉凶と縫殿寮の方位を占う
+ くわしく見る
長保二年(1000)8月19日、安四位晴明は藤原行成の宿所で鼠にかじられた跡があったことについて吉凶を占った。
→口舌病に関するものということだった。(『権記』同日条)
また、縫殿寮の織部正橘忠範が御服機を立てる方位について懸念があったので、一条天皇は晴明に尋ねるよう命じた。(『権記』同日条)
安四位の「安」は安倍氏のことで、「四位」は官位を意味する。
長保二年(1000)10月11日 帝の出御に際して反閇を行う
+ くわしく見る
長保二年(1000)10月11日、一条天皇が南殿に出御する際、晴明は反閇を行って道中の邪気を祓った。また、入御の際にも反閇を行った。(『権記』同日条)
藤原行成によると、今回晴明に反閇を奉仕させたのは彼が陰陽道の傑出者だからだという。
長保二年(1000)10月21日 叙位の儀で式部大輔代を務める
+ くわしく見る
長保二年(1000)10月21日甲子、安倍晴明は叙位の儀で式部大輔代を務めた。(『権記』)
式部大輔代(式部大輔の代理)晴明は、叙人と参議を引き連れて入ってきた。その後、晴明は机の下に就いて位記(位を授けられる者に授与される文書)を唱えた。少輔代も同様に唱えた。輔たちが退出した後、叙人たちは再拝して舞踏したのは、例年通りであった。掃部寮が机を片付けた。(『権記』)
長保三年(1001)
長保三年(1001)6月20日 藤原詮子の仏事を行う日時と敦康親王の魚味始の日時を勘申する
+ くわしく見る
長保三年(1001)6月20日、晴明は藤原行成に呼び出されて、東三条院藤原詮子の病を治すために一万不動像を供養する吉日吉時を勘申した。
また、敦康親王が魚味始を行う吉日吉時を勘申した。(『権記』同日条)
長保三年(1001)閏12月17日 一条天皇が藤原行成邸を訪問することについて占う
+ くわしく見る
長保三年(1001)閏12月17日、晴明は東三条院藤原詮子が渡御してもよいか賀茂光栄・県奉平とともに占った。
→渡御しないことになった。(『権記』同日条)
長保三年(1001)閏12月23日 東三条院藤原詮子の葬儀に関する雑事を行う日時を勘申する
+ くわしく見る
長保三年(1001)閏12月23日、晴明は賀茂光栄・県泰平とともに東三条院藤原詮子の葬儀に関する雑事を行う日時を勘申した。(『権記』同日条)
長保三年(1001)閏12月29日 私宅で追儺を行う
長保四年(1002)
長保四年(1002)3月19日 内裏の火災の原因と殿舎や門の名の由来について勘申する
+ くわしく見る
長保四年(1002)3月19日、晴明は秦正邦・賀茂光栄・県奉平らとともに内裏で頻繁に火災が起こる原因と殿舎や門の名前の由来について勘申した。(『権記』同日条)
長保四年(1002)11月9日 泰山府君祭を行う
+ くわしく見る
長保四年(1001)11月9日、藤原行成の依頼で晴明は泰山府君祭を執り行った。(『権記』同日条)
長保四年(1002)11月28日 藤原行成へ泰山府君に幣と紙銭を奉納するよう伝える
+ くわしく見る
長保四年(1001)11月28日、「左京権大夫」晴明の指示で、藤原行成は延年益算を祈願して泰山府君に幣と紙銭を奉納した。(『権記』同日条)
長保五年(1003)
長保五年(1003)8月21日 敦康親王の病について占う
+ くわしく見る
長保五年(1003)8月21日、晴明は敦康親王の病を占った。(『権記』同日条)
寛弘元年(1004)
寛弘元年(1004)2月19日 三昧堂を立てる場所を占う
+ くわしく見る
寛弘元年(1004)2月19日、藤原道長に命じられて、晴明は賀茂光栄とともに木幡にて三昧堂を立てる場所を占った。(『御堂関白記』同日条)
寛弘元年(1004)2月26日 藤原行成に三宝奉仕の吉凶を勘申する
+ くわしく見る
長保六年(1004)2月26日、「庚辰の日に三宝(仏・法・僧)に奉仕することは、吉備大臣(吉備真備)の時代では半凶とされていた」という意見があったので、晴明が吉凶を勘申することになった。(『権記』同日条)
「今日は庚辰の日です。吉備大臣の説では駟馬が来ることになっていて、これは正しい説です。
宿曜経によると、『月の二十六日に功徳を修するのは吉であり、この日に行った吉祥は必ず成就する』とあります。
これらをもとにすると、今日は優です。勘申します。 左京権大夫安倍晴明」
寛弘元年(1004)6月18日 藤原道長の賀茂詣について占う
+ くわしく見る
寛弘元年(1004)6月18日、晴明は道長に命じられて20日の賀茂社への参詣を予定通り行ってもよいか賀茂光栄とともに占った。
藤原頼通の乳母が前日に亡くなったが、下女たちが往復して不浄の恐れがあったためである。
晴明は光栄とともに「不浄の気がある」と報告したので、道長は参詣を延期した。(『御堂関白記』同日条)
寛弘元年(1004)6月20日 藤原道長の造仏を止める
+ くわしく見る
寛弘元年(1004)6月20日、晴明は造仏を奉ろうとしていた藤原道長に対して、今日は滅門だからと造仏を止めた。(『御堂関白記』同日条)
寛弘元年(1004)7月14日 五龍祭を奉仕する
+ くわしく見る
寛弘元年(1004)7月14日、晴明が五龍祭を奉仕したところ効果がみられたということで、被物を賜った。(『御堂関白記』同日条)
寛弘元年(1004)8月22日 中宮藤原彰子の大原野行啓について占う
+ くわしく見る
寛弘元年(1004)8月22日、道長は右衛門督から中宮が大原野社に参詣してもよいか占って決定すべきだと言われたので、晴明と賀茂光栄に占わせた。
二人は「事情を話して延期したほうがよい」と報告したので、道長は参詣を延期した。(『御堂関白記』同日条)
寛弘元年(1004)9月25日 多武峰寺からの報告について占う
+ くわしく見る
寛弘元年(1004)9月25日、多武峰寺より「23日に藤原鎌足公のお墓が鳴動した」との報告を受けた道長に命じられて、晴明は吉凶を占った。(『御堂関白記』同日条)
寛弘元年(1004)12月3日 土御門邸での経供養に際して祭祀を奉仕する
+ くわしく見る
寛弘元年(1004)12月3日、土御門邸で大般若経および観音経の経供養が行われた。
安倍晴明・賀茂光栄・昌平が祭祀を行った。(『御堂関白記』同日条)
寛弘二年(1005)
寛弘二年(1005)2月10日 藤原道長の新宅作法を行う
+ くわしく見る
寛弘二年(1005)2月10日、藤原道長は東三条邸に引っ越した。
「陰陽師」晴明が遅れて来て、新宅作法を執り行った。(『御堂関白記』同日条)
寛弘二年(1005)3月8日 中宮藤原彰子の大原野社行啓に際し反閇を奉仕する
+ くわしく見る
寛弘二年(1005)3月8日、晴明は中宮藤原彰子の大原野社への行啓に際して反閇を奉仕した。(『小右記』同日条)
寛弘二年(1005)9月26日 没
『土御門家記録』によると、安倍晴明は寛弘二年(1005)9月26日にこの世を去ったことになっている。
安倍晴明関係の年表
平安時代の年表
晴明が生きていた時代に起こったできごと
-

参考平安時代の年表―安倍晴明が生きていた時代のできごと:前編
平安時代の年表:天慶九年(946)4月20日-康保四年(967)5月25日の間に起こったできごとについてわかりやすく簡単に説明します。 村上天皇:天慶九年(946)4月20日-康保四年(967)5月2 ...
続きを見る
-

参考【年表】安倍晴明が生きていた時代に起こったできごと:後編
天徳五年(961)から寛弘二年(1005)の間に起こった主なできごとを紹介します。安倍晴明は、師の賀茂保憲とともに内裏焼亡で焼損してしまった霊剣の再鋳造に携わります。これ以降、様々な古記録に晴明の名が ...
続きを見る