『小右記』『権記』『御堂関白記』など多数の史料をもとに安倍晴明の陰陽師・天文博士としての活動をご紹介。説話や伝説に見られるような超人的な能力をもつ陰陽師ではなく、一人の官人陰陽師としての晴明の実像が浮かび上がる!
安倍晴明の陰陽師としての活動は、以下の3種類に大別される。
- 政務を行う日時や方角の吉凶などを占う
- 怪異や病気の原因、土地の選定
- 祭祀・儀礼を執り行う
文字数が多いため、出来事の詳細な説明をアコーディオン方式にしています。
醍醐天皇時代
延喜二十一年(921)
延喜二十一年(921) 晴明誕生
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寛弘五年(1005)に没したことから逆算して、安倍晴明は延喜二十一年(921)に生まれたと考えられている。
『安倍氏家系図』において、晴明の父は安倍益材とされている。母は不明。
安倍氏家系図
後世の伝承では、晴明の母は信田森の白狐とされている。
村上天皇時代
天徳四年(960)
天徳四年(960)9月、内裏で火災が起こり、中にあったものは皆悉く焼損した。
当時天文得業生だった晴明は、宣旨を奉り、勘文を進上した。
なお、長徳三年(997)5月24日、宜陽殿に召された際に詳細を述べている。(『中右記』寛治八年11月2日条)
去る天徳四年に内裏で火災が起こった際、中のものはみな悉く焼損しておりました。
当時天文得業生だった私は、宣旨を奉り勘文を進上いたしました。
四十四柄の御剣のうち、特に大事な二本の霊剣がありました。
一方は「破敵」、もう一方は「守護」という名で、十二神と日月、そして五星などの文様が刻まれておりました。
しかし、火災によって文様が焼けて見えなくなってしまったので、私が勘文を奉り文様のかたちを明らかにして、そのとおりに再び文様を刻ませたのです。
「破敵」は大将軍が遣わされる際に節刀として賜るもので、「守護」は宮中に安置されるものでした。
天徳以降、度々火災がありましたが、霊剣は未だ鋳造されておりません。
件の霊剣は元々百済国から献上されたもので、国家の大宝であるゆえ、必ず鋳造されなければならなかったのです。天徳四年の際は、備前国より選ばれた鍛冶師白根安生に高雄山で鋳造させました。
12月12日 鍛冶師に節刀を鋳造させる
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天徳四年(960)12月12日丁丑、安倍晴明は天徳内裏焼亡において焼損した霊剣の修復を承り、宜陽殿の作物所において鋳造させた。庁町の直盧にて研ぎ磨いた。鍛治は内蔵属実行が務めた。(『塵袋』)
応和元年(961)
6月28日 霊剣再鋳造の五帝祭において賀茂保憲を手伝う
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応和元年(961)6月28日、高雄山の神護寺で霊剣を再鋳造するための五帝祭が行われた。
『塵袋』:応和元年(961)6月28日、天文博士賀茂保憲は神護寺において三方五帝祭を務めた。これは、霊剣を鋳造するための祈祷である。備前国鍛治白根安生が鋳造して進めた。焼け失せた代わりに新造したのだ。
五帝…歳星(木星)・熒惑星(火星)・鎮星(土星)・太白星(金星)・辰星(水星)から成る五つの星を神様とみなしたもの
『大刀契事』によると、次の役割で行われたという。
- 祝(祭文などを読む) 天文博士・賀茂保憲
- 奉礼(進行役) 天文得業生・安倍晴明
- 祭郎(供物を配置する) 暦得業生・味部好相(あじべのよしみ)
康保四年(967)
6月23日 政始の日時を占う
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康保四年(967)6月23日庚辰、陰陽師(安倍)晴明は政始の日時の勘文を進めた。来月十五日になった。(『本朝世紀』)
『本朝世紀』康保四年(967)7月15日条:七月十五日、壬寅、政始があった。
円融天皇時代
天禄三年(972)
12月6日 天文密奏/四角祭を勧める
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天禄三年(972)12月6日壬辰、天文博士安倍晴明は右兵衛陣の外において天文密奏を行った。触穢によるものである。奏文に言ったことには「去る月の二十日に歳星が進賢を犯しました。今月の四日には月が太白と度を同じくしておりました」という。
また、奏上して言ったことには「去る春より疫病があり、今、冬季に臨んでおります。四角祭を行うべきです」という。(『親信卿記』)
同じ日に、天文博士中原以忠宿禰も天文密奏を行った。その天変は、月が太白と度を同じくしていたという文であった。
件の二人の天文密奏は、晴明は左大臣(源兼明)の封を加えていたが、以忠宿禰は自身の封を加えていた。
12月11日 天文密奏
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天禄三年(972)12月11日、中原以忠宿禰、美濃掾同以信を差して(天文)密奏を奉らせた。申させて言ったことには「煩うところがあって奉らせました。ただし先例によると、このようなときは習学者を差し出して進上した前例がありました。件の以信が宣旨を蒙りました」という。「その天変は、去る九日、月が畢を犯しました」という。
「また、晴明も同じく奏上させました」という。(『親信卿記』)
天延元年(973)
1月9日 天文密奏
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天延元年(973)1月9日甲子、天文博士(安倍)晴明が変異を奏上した。
その書に言ったことには「二日、白虹が太陽を匝りました。五日、白気が艮坤を亘りました。七日、鎮星が東ならびに第五星を犯しました」という。(『親信卿記』)
4月19日 天文密奏
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天延元年(973)4月19日壬寅、天文博士(安倍)晴明が(天文)密奏を奉って言ったことには「去る十八日の丑時、月が斗建星を犯しました」という。(『親信卿記』)
5月19日 暴風について勘文を進める
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背景
天延元年(973)5月17日庚午、午時に大風・暴雨があり、宮中の舎屋が顛倒・破損した。(『日本紀略』)
同年5月19日壬申、(安倍)晴明が勘文を進上した。(『河海抄』)
6月11日 物忌の覆推/円融天皇の行幸に際して反閇を奉仕する
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天延元年(973)6月11日癸巳、戌の刻、中院へ行幸が行われた。〈昨日・今日は御物忌である。そこで(安倍)晴明宿禰が覆推(占い直すこと)し、勘申して言ったことには「行うべきです」という。行幸のことがあった。ただし、候宿しない人は殿上ならびに神嘉殿の上に昇らなかった。出御するとき、侍の西遣戸より晴明宿禰を召し上げた。すぐに西において、小反閇を奉仕させた。その後、円融天皇は西戸から御出した。このことは、先例を問うものである。〉(『親信卿記』)
天延二年(974)
5月14日 賀茂保憲の大乗院点地に同行する
6月12日 河臨祓を行う
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天延二年(974)6月12日己丑、河臨御禊があった。〈(安倍)晴明宿禰、後式部〉(『親信卿記』)
12月3日 天文密奏
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天延二年(974)12月3日丙午、(安倍)晴明に(天文)密奏を奏上させて言ったことには「鎮星が鬼第四星を犯しました」という。(『親信卿記』)
永観二年(984)
7月27日 譲位・立太子の吉日吉時を勘申する
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永観二年(984)7月27日乙亥、(藤原実資は)内裏に参った。譲位・立太子の日時を勘申させた。(文)道光・(安倍)晴明が勘申したことには「来月十六日、癸巳。時は巳・申の刻」という。〈このことは、同日・同刻である。〉その日は重日である。忌むべきであろうか。そこで、事情を覆問した。申して言ったことには「忌みはないでしょう」という。新帝はやはり忌まれるべきであろうか。申して言ったことには「平城天皇・陽成天皇は重日に譲位した。ほか二、三人の天皇は復日に譲位した。また、この例がある。忌まれるべきではない」という。まず疑慮があるため、大相国(藤原頼忠)のもとに持参して見せたところ、仰られて言ったことには「重日を勘申させたことは、非常に奇妙で驚くべきことだ。今、この勘文を早く奏聞を経させるのは如何であろう」という。「そなたは、密々に東宮に持参して事情を啓上するように」という。すぐに東宮に参り、事情を啓上した。仰られて言ったことには「まことに事の憚りがないわけではない。ただ、宜しきに従って進退されるように」という。重ねて啓上されて言ったことには「昨日、円融天皇の方から十六日に譲位が行われるべきことを承ることがありました。きっとお聞きになったことがございましょう。特に憚るところがありました。たとえ前例があっても、重・復日に至るならば重く慎み忌まれるべきです。ところが重日を勘申するとは如何でしょう、如何でしょう」という。仰られて言ったことには「また、もし吉日がなければ、十六日は何事があるだろうか」という。すぐに殿に参り、このことを申した。「左右、申すべきではないか。早く奏聞を経よ」という。外記二通の勘文を加えた。〈天慶九年の譲位の例ならびに別所における譲位の例の文である。〉内裏に参り、奏聞した。仰って言ったことには「大相国が定め申すように」という。殿に参り、この文を奉った。さらに、綸旨を伝え申した。「明日、定め申すことを奏上するように」という。「重日のことは、やはり心得ないことである」という。「大略は、まずこのことを知らせるように」という。内裏に帰参し、奏聞した。(『小右記』)
重日とは、暦において陽が重なる巳の日と、陰が重なる亥の日であり、この日に凶事を行うのは避けられた。
7月28日 27日の勘申について事情を話す
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永観二年(984)7月28日丙子、未の刻頃、(藤原実資は)召しによって内裏に参った。
(一条天皇が)仰って言ったことには「昨日の勘文について、早く定め申させるように」という。殿に帰参し、このことを申した。仰って言ったことには「まず東宮に参り、勘申させる日がよろしくないことを啓上するように」という。すぐに東宮に参り、このことを申した。「来月二十七日がよろしい。その日、何事があるだろうか」という。仰って言ったことには「善いことである」という。奏上されて言ったことには「来月十六日は重日です。すでに譲位は十代に渡り、重日の例がないことを調べました。陰陽家の申したことは非常に不当です。改めて勘申されるべきでしょうか」という。仰って言ったことには「同じく、(文)道光等に命じよ」という。
(安倍)晴明が参入し、道光は参らなかった。そこでこのことを奏上した。「明日、召対して事情を問うように」という。晴明が言ったことには「来月二十七日は吉日です。すぐに内裏にお入りになるべきです。かの日を選び申すべきだったので、勘文に載せませんでした」という。そこで殿に参り、このことを申した。(『小右記』)
7月29日 譲位・立太子の日時を勘申しなおす
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永観二年(984)7月29日丁丑、今朝、(文)道光・(安倍)晴明朝臣が譲位・立太子等の勘文を持参した。〈来月二十七日、巳の刻・未申の刻である。〉
同年8月27日甲辰、円融天皇の譲位が行われた。(『小右記』)
花山天皇時代
永観三年/寛和元年(985)
4月19日 藤原実資の妻の解除を行う
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永観三年(985)4月19日癸巳、朝、雨が降っていた。(藤原実資は)(安倍)晴明に女房のために解除を行わせた。
出産の予定時期が漸く過ぎ、先月・今月に出産があるはずだった。ところが、その気配はなかった。(『小右記』)
前日18日、藤原実資は女房の出産が遅れているため、賀茂光栄に解除を行わせた。(『小右記』)
同年4月28日壬寅、寅の刻、藤原実資に女子が生まれた。(『小右記』)
5月29日 花山天皇の錫紵の日時を占う
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背景
永観三年(985)5月2日丙午、花山天皇の姉尊子内親王が薨去された。(『小右記』)
同年5月27日辛未、尊子内親王の薨奏(親王または三位以上の人が亡くなったことを太政官から天皇に奏上すること)が行われた。
永観三年(985)5月29日癸酉、(藤原実資は)内裏に参った。候宿した。蔵人(藤原)挙直が言ったことには「今日は、錫紵を除かれることになっています。(安倍)晴明朝臣は戌の刻を勘申しました。また、追って申し送り言ったことには『今日は復日です。明日の卯の刻がよろしいでしょうか』ということです」という。今、この趣旨を奏聞した。命じて言ったことには「そなたが定め申すように」という。明日は、忌日御膳を供することになっている。また、斎月である。明日に及ぶのは如何であろう。また、日数を過ぎられるのは如何であろう。左右、仰せに従うべきである。(藤原)宣孝が言ったことには「延喜年間、日数を過ぎて(錫紵を)除かれた例がありました」という。今、かの例を引いてみたところ、延喜九年にあった。しかし、この例には合わない。すでに斎月に及んでいる。もしくは、半夜に除かせるのは如何であろう。命じて言ったことには「(安倍)晴明を遣わし召し、問わせるように」という。申して言ったことには「明日、寅の初刻がよろしいでしょうか」という。やはり、感心しないことである。「御禊があった」という。御座を簾中に供した。「御袍がなかったことによる」という。(天皇は)直衣を着用した。(『小右記』)
復日:吉凶が重なる日。結婚や葬式に関わることは避けられる。5月は丙・癸の日が復日である。(『簠簋内伝』)
11月24日 大嘗会において吉志舞を奉納
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寛和元年(985)11月24日甲午、安倍晴明は大嘗会において吉志舞を奉納した。(『園太暦』)
吉志舞
大嘗会の際に安倍氏が奉納する舞。
- 『日本三大実録』貞観元年(859)11月19日条:清和天皇即位後の大嘗会において、安倍氏が吉志舞を奉納した。
- 『日本三代実録』元慶八年(884)11月25日条:光孝天皇即位後の大嘗会において、安倍氏が吉志舞を奉納した。
- 『北山抄』大嘗会事:寛平九年(897)11月20日、醍醐天皇即位後の大嘗会において、安倍氏が吉志舞を奉納した。
- 『御堂関白記』長和元年(1012)11月25日条:三条天皇即位後の大嘗会において、安倍氏が吉志舞を奉納した。
寛和二年(986)
2月16日 太政官の政庁に現れた蛇について吉凶を占う
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寛和二年(986)2月16日甲寅、天文博士正五位下安倍晴明は未の刻に太政官の政庁に現れた蛇について吉凶を占った。
→盗難や争いの類ではないが、丑・未・辰年の官人から死者が出るだろう。
怪異が発見された日から三十日以内、四月・七月・翌年四月節の庚辛の日に物忌をすること、怪異が起こった場所で攘法を修する必要がある、ということだった。(『本朝世紀』)
2月27日 政庁の母屋に入ってきた鳩について占う
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寛和二年(986)2月27日、晴明は政庁の母屋に入ってきた鳩について占った。
母屋に入った鳩は右大臣の机の前に集まった後、西へ歩いていき、第二戸から飛び去っていったという。
→辰・午・亥年生まれの人に争い事が起こる。
怪異が起きた日から二十五日以内と四月・五月・七月節中の庚辛の日に物忌を行い、怪異が起きた場所で攘法を修する必要がある。(『本朝世紀』)
一条天皇時代
永延元年(987)
2月19日 一条天皇の清涼殿遷御に際して反閇を奉仕する
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永延元年(987)2月19日壬子、終日、雨が降っていた。(藤原実資は)内裏に参った。未の刻、(一条天皇は)凝華舎から清涼殿にお移りになった。(安倍)晴明が反閇を奉仕した。(『小右記』)
3月21日 藤原実資に反閇を奉仕する
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永延元年(987)3月21日癸未、早朝、(藤原実資は)退出した。申の刻、二条第に渡った。
(安倍)晴明朝臣に反閇を行わせた。(『小右記』)
永延二年(988)
7月4日 藤原実資邸にて鬼気祭を行う
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永延二年(988)7月4日戊子、今朝、小児が(藤原)義理の邸宅より小野宮に帰った。
今夜、(安倍)晴明朝臣が(欠字)のため鬼気祭を行った。
未の刻頃、(藤原実資は)小野宮に向かい、小児を見た。また、小児を沐浴させた。日頃からすごぶる病悩の気があった。そこで、今夜から済救に火炉へ芥子を打たせた。(『小右記』)
8月7日 熒惑星祭を行う日を勘申する
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永延二年(988)8月7日辛酉、早朝、(藤原実資は)(欠字)摂政殿(藤原兼家)に喚び出された。すぐに馳せ参った。仰られて言ったことには「去る五日の夜、熒惑星が軒轅女主を犯していた。『天子・皇后はともに慎むように』ということだ。天台惣持院において熾盛光御修法を修するよう、座主尋禅に仰せ遣わせ」という。(勘文に言ったことには「十二日・十七日」という。)「また、慈徳寺において八万四千泥塔を供養されるように。そのことは、誰に修し奉らせるのがよいだろう」という。「この趣旨を座主のもとに示し遣わせ」という。泥塔を造り奉ることは、すでに終えていた。また、熒惑星のことがあった。〈(安倍)晴明が十二日・十九日を勘申した。〉
今日・明日は一条天皇の御物忌である。雑事を承ったため、内裏に参入した。御修法の行事を定め仰せ、各々、仰せ事を僧等の所に遣わした。すぐに退出した。(『小右記』)
8月18日 熒惑星祭を奉仕しなかったことに対して過状の提出を求められる
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永延二年(988)8月18日壬申、刻限、(藤原実資は)内裏に参った。摂政殿(藤原兼家)の御宿所に伺候した。
命じられて言ったことには「熒惑星の御祭について、(安倍)晴明が奉仕しなかったことに対して過状を進めさせるように」という。すぐに蔵人(大江)景理に命じた。先日、このことを奉行した人である。(『小右記』)
『小記目録』:永延二年(988)8月18日、御祭を奉仕しなかったことにより、(安倍)晴明が怠状を進上した。
永祚元年(989)
1月6日 一条天皇の病の原因を占う
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永祚元年(989)1月6日戊子、早朝、(藤原実資は)摂政(藤原兼家)の御直廬に参った。命じられて言ったことには「主上(一条天皇)は、すこぶる悩□(欠字)の気がある。特に(安倍)晴明に御卜を奉仕させよ」という。
御膳を誤って上ったことは、(欠字)。(『小右記』)
1月7日 一条天皇へ御禊を奉仕する
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永祚元年(989)1月7日己丑、(欠字)常・そこで、南殿(紫宸殿)に出御することになった。
御諷誦を十五ヶ所の寺において修した。出御する前に、(安倍)晴明に御禊を奉仕させた。申の刻、出御された。(『小右記』)
2月11日 一条天皇のために泰山府君祭を行う
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永祚元年(989)2月11日壬戌、円融法皇が一条天皇のことで夢想がよろしくないということで、泰山府君祭を行う日時が勘申された。安倍晴明が泰山府君祭を奉仕した。(『小右記』同日条)
『小右記』永祚元年(989)2月10日条:本来は尊勝御修法・焔魔天供・代厄御祭が奉仕される予定だった。
2月16日 一条天皇の円融寺行幸に際して反閇を奉仕する
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永祚元年(989)2月16日丁卯、早朝、内裏に参った。この日、円融寺行幸があった。巳の刻、南殿(紫宸殿)において反閇を奉仕した。〈(安倍)晴明。〉(『小右記』)
正暦四年(993)
2月3日 一条天皇へ御禊を奉仕して加階される
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正暦四年(993)2月3日辛酉、(安倍)晴明朝臣が来た。加級されることについて触れた。事情を問わせたところ、答えて言ったことには「主上(一条天皇)が急病を患いました。仰せによって御禊を奉仕したところ、すぐに効験がありました。よって、一階を加えられます〈正五位上。〉」という。(『小右記』)
正暦五年(994)
正暦五年(994)5月7日 仁王経講説の日時を勘申する
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正暦五年(994)5月7日、八省大極殿にて百の高座を設けて仁王経の講説を行う日が5月15日に定められた。
この日にちは、「前天文博士正五位上」安倍晴明が勘申したところによる。(『本朝世紀』)
長徳元年(995)
この年、晴明は蔵人所陰陽師となり、賀茂保憲の息子光栄も晴明の二番手として蔵人所陰陽師となっている。(『蔵人所月奏』長徳元年〈995〉8月1日条)
これ以降、二人は行動をともにすることが多くなる。
10月17日 雷鳴についての御卜を停止するように言う
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背景
長徳元年(995)10月15日戊子、巳の刻に雷電・大雨があった。(『日本紀略』)
長徳元年(995)10月17日庚寅、一条天皇が仰って言ったことには「昨日の雷について御卜を奉仕するよう右大将に命じさせた後、天文道は変異勘文を進上してきた。(安倍)晴明に申させて言ったことには『先々、勘文を進上したときは、さらに御卜を行うことはありませんでした』という。このことによって御卜を停めるよう、右大将に伝えるように」という。(藤原行成は)すぐに陣座に向かい、このことを伝えた。(『権記』)
長徳三年(997)
3月21日 賀茂光栄とともに平野社御竈神社殿造立の日時を勘申する
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長徳三年(997)3月21日、今日、雨が降った。また、宮主を遣わし召して、御禊を奉らせた。〈御厨子ならびに内膳司。〉仰った言葉に言ったことには「陰陽寮が通例により葵御祭を奉仕した。しかし、月来の間、奉仕の勤不は法の如くではない。このことは、知ろし食さないことである。特に日頃、御前は例にはない。そこで占い申させたところ『御竈神が祟りを司るのを致し奉ります』という。このことを祓え申すように」という。
「兼信が宣旨を奉り、かの司に向かって御禊を奉仕しました。帰り参って奏聞させました」という。
内膳司の御竈神は、三ヶ所に在る。一所は、平野。件の葵御祭を奉仕する神である。一所は、庭火。これは尋常の御飯を奉仕する神である。一所は、忌火の神である。これは則ち十一月の新嘗祭、六月の神今食祭を奉仕する神である。しかし、葵御祭は法の如くではないため、祓え申そうとしたところ、件の平野神は在所がない。そこで司の官人を召して問うたところ、申して言ったことには「件の神は円融院の御時に、誰かに盗み取られました〈『神事を作したことにより、□□(欠字)朝臣は簡を除かれた』という。〉改めて奉ってから、内膳の御戸の宅内に納め置きました。これは事の危険がある上に、神殿がないためです。これにより、月来、庭火神の御前において件の葵御祭を奉仕しました」という。これは、もっとも旧規に反することである。そこで、事の由を奏聞した。宣旨に言ったことには「兼信の申したところの旨に従い、旧跡の如く奉仕させるように」という。そこで修理職の官人等を召し、神殿を造立する由を仰った。
また、陰陽師(安倍)晴明・(賀茂)光栄等を召し、神殿を立てる日時を勘申させた。昨日、左大臣の仰せにより、宮主兼信を召し、御祓〈御厨子所。〉を奉仕した。(『蔵人信経記』―『中右記』寛治八年〈1094〉11月11日条)
5月24日 霊剣改作に日時を勘申する/天徳四年の霊剣鋳造について語る
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長徳三年(997)5月24日、主計助安倍晴明を召し、宜陽殿の御剣等のことを召し問うた。申して言ったことには「件の御剣は、三十四柄ありました。去る天徳の内裏焼亡の日に、皆悉く焼損しました。晴明が天文得業生であったときに宣旨を奉り、勘文を進め、作らせたものです。三十四柄の中、一腰の名は霊ハ、一腰は破敵、一腰は守護といいます。しかし件の剣は、鏤の歳次ならびに名等がありました。また、同じ鏤の十二神、日月五星の体がありました。しかし焼損した後、その文様は見えなくなりました。そこで勘文を献じました。御剣の様のもとの形です。件の破敵は、大将軍を遣わすときに給う節刀です。一腰、これの名は守護。御所に候ずるのがこれです。去る天徳以後、度々の焼亡の後、未だ作られておりません。『件の二腰は、元々百済国が献上したものである』ということです。今日、取り遣わした剣身六柄の中、霊ハ、二腰です。実にその真があります。『件の霊刀等等は国家の大宝である。必ず作り儲けられるべきである』ということです。天徳のとき、勅を奉り、備前国が選び献じた鍛冶白根安生に焼かせました。『その実、高雄山といいう』ということです。その故、造酒令史安倍宗生等に仰いました。今年の八月二十六日は庚申の日です。しかし、すでに九月節になります。また、日次がよろしくありません。明年の七、八月の庚申の日に作り始められるべきでしょうか」という。(『蔵人信経記』―『中右記』寛治八年〈1094〉11月11日条)
6月17日 賀茂光栄とともに一条天皇の東三条院行幸の日時を勘申する
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背景
長徳三年(997)6月4日、「左丞相(藤原道長)は固い御物忌である。けれども東三条院(藤原詮子)の御病悩が危急のため、急いで参られる」という。東三条院の御病悩は非常に重かった。(『権記』)
長徳三年(997)6月17日、(一条天皇の)仰せによって、(安倍)晴明・(賀茂)光栄等に東三条院に行幸する日時を勘申させた。言ったことには「今月二十二日甲寅。時は巳の刻。(欠字)東門を出発されるのがよろしいでしょう」という。(欠字)を奏聞した。(天皇が)仰って言ったことには「大臣(藤原道長)は(欠字)所労があるので、(欠字)を申されている」という。すぐに事情を奏上した。民部卿(藤原懐忠)に命じた。所々の饗宴・装束・掃除等のことを大夫史国平朝臣に命じた。(『権記』)
長徳三年(997)6月22日甲寅、巳の刻に東三条院行幸が行われた。晴明が反閇を奉仕した。(『権記』)
6月22日 一条天皇の東三条院行幸に際し、反閇を奉仕する
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長徳三年(997)6月22日甲寅、巳二刻、御装束を供した。右兵衛佐(源)時方が伺候した。次に(一条天皇は)紫宸殿にお出ましになった。(安倍)晴明が御反閇を奉仕した。(『権記』)
この行幸は、東三条院の病悩によって行われた。(『権記』同日条)
長保元年(999)
7月8日 一条天皇の遷御に際して反閇を奉仕する
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背景
長保元年(999)7月7日、一条天皇は方違のために東対にいらっしゃる予定である。夜、天皇は東対にお移りになった。(『権記』)
長保元年(999)7月8日、申二刻、一条天皇が渡御された。昨日の夕方から東対にいらっしゃった。道は南殿の乾の角の戸を経由した。右中将(藤原)実成が御剣に候じ、少将(藤原)兼隆が御筥に候じた。(安倍)晴明が反閇を奉仕した。終わって、禄を下給した。(『権記』)
7月16日 一条天皇の歯痛と祭祀の吉日吉時を勘申する
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長保元年(999)7月16日、「土御門第で競馬が行われる」という。病悩はすこぶる平癒した。そこで、詣で向かった。ところが、一条天皇の御悩〈御歯。〉の知らせがあったので停止した。丞相(藤原道長)が参られた。御共に候じた。すぐに(安倍)晴明朝臣を遣わし、御歯のことを問うた。御占の趣では、咎はなかった。御祭の日時を勘申させ、左府に申した。右中弁に託した。少しの間退出し、また参った。(『権記』)
9月7日 穀倉院年預の補充を要請する
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長保元年(999)9月7日、(安倍)晴明朝臣が(藤原行成のもとに)来た。穀倉院預(伴)親仁の死去の替わりの年預を補任するように言った。(藤原行成は)すぐに預(大原)辰信を年預とするよう命じた。(『権記』)
10月13日 太皇太后の渡御について御卜を奉仕する
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長保元年(999)10月14日癸亥、宮より仰せがあった。
「昨日(13日)、(安倍)晴明朝臣に(太皇太后昌子内親王が)他所にお渡りになることについて御卜を行わせた。『すこぶるよろしい』ということだ」という。
また、来たる二十九日の戌の刻にお移りになるようにとの勘文を同じく下された。十九日に参入し、定め申すことを啓上させた。(『小右記』)
10月19日 賀茂光栄とともに昌子内親王が大江雅致の邸宅に遷御する際の雑事について勘申する
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長保元年(999)10月19日戊辰、権大夫・他の宮司等が参入し、行啓の雑事を定め申した。また、(安倍)晴明・(賀茂)光栄朝臣等を召して問うた。
11月7日 防解火災御祭の日時を勘申する
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長保元年(999)11月7日丙戌、(藤原行成は)(安倍)晴明朝臣を召し、防解火災御祭の日時を勘申させた。
すぐに兼宣に奏上させた。〈来たる十三日。〉そこで晴明に、御祭を奉仕するよう命じた。(『権記』)
長保二年(1000)
1月10日 藤原彰子立后などの雑事について勘申する
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長保二年(1000)1月10日戊子、雪が大いに降った。一尺二、三寸程であった。
(藤原道長は)(安倍)晴明を召して、藤原彰子立后の雑事を勘申させた。晴明が申して言ったことには「(欠字)ありません」という。そこで二十(欠字)。(『御堂関白記』)
1月28日 藤原彰子の立后の日時を勘申する
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長保二年(1000)1月28日丙午、巳の刻、大蔵卿正光が勅使として宿所に来た。(一条天皇の)仰せを言ったことには「女御(藤原彰子)を皇后とする。よろしき日を定め申せ」という。
(藤原道長は)正光に禄を下賜した。〈女装束。綾の細長を加えた。〉
(道長は)すぐに殿上の方へ参り、慶賀を奏上させた。また、東三条院のもとに参って同じく慶賀を申した。帰り出て、雑事を定めた。(安倍)晴明朝臣を召し、内裏を退出なさる日・立后宣命の日時を勘申させた。ならびに内裏に参入する日も勘申させた。(『御堂関白記』)
長保二年(1000)2月10日丙午、藤原彰子が内裏を退出した。(『御堂関白記』)
同年2月25日癸酉、酉の刻に藤原彰子の立后宣命が読まれた。(『御堂関白記』)
同年4月7日甲寅、亥の刻に藤原彰子が内裏に参入した。(『御堂関白記』)
2月16日 一条天皇の法興院行幸の日時を勘申する
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長保二年(1000)2月16日甲子、(藤原道長は)法興院に行幸があることを太政官の外記に命じた。
(安倍)晴明が日時を来月十四日と勘申した。(『御堂関白記』)
長保二年(1000)3月2日己卯、法興院行幸は中止となった。(『権記』)
8月18日 賀茂光栄とともに伺候することになる
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長保二年(1000)8月18日壬戌、また、仰って言ったことには「来たる二十日に参入する。帰宮の日時を勘申させるように。その日は、陰陽寮ならびに(安倍)晴明朝臣・(賀茂)光栄朝臣を召して伺候させるように。主計允益光が申した長殿の預のこと〈昌光の替わりである。〉を仰せ下すように」という。(『権記』)
8月19日 藤原行成の宿所に現れた鼠の吉凶と縫殿寮の方位を占う
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長保二年(1000)8月19日癸亥、早朝、宿所において、鼠が宿所の物を喰う怪異を見つけた。〈卯時である。〉
すぐに安四位(晴明)のもとに遣わして問うた。しばらくして、覆推して言ったことには「口舌病に関わることです」という。
織部正(橘)忠範が申して言ったことには「御服機を立てるため、一尺程犯土をすることになります。もしくは、御忌方に当たるでしょうか。案内を候じて進止すべきです」という。すぐに事情を奏上した。
(一条天皇が)仰って言ったことには「晴明朝臣に問うように」という。(『権記』)
安四位の「安」は安倍氏のことで、「四位」は官位を意味する。
10月11日 一条天皇の出御に際して反閇を行う
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長保二年(1000)10月11日甲寅、戌二刻、一条天皇は紫宸殿にお出ましになった。内侍たちが御剣・御璽に候じたことは通例のとおりであった。
(安倍)晴明朝臣が御反閇を奉仕した。
御輿がまだ南階の前に到着しない前、晴明朝臣が御反閇を奉仕した。〈応和の例では、陰陽寮が供奉して散供した。今回は晴明が道の傑出者であるため、このことに供奉したのである。〉(『権記』)
10月21日 叙位の儀で式部大輔代を務める
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長保二年(1000)10月21日甲子、叙位の儀が行われた。(欠字)の後、式部大輔(安倍)晴明朝臣が叙人・参議を率いて参入した。同じ門から東廊の壇上に立った。〈雨儀を用いた。〉少輔代右京亮(藤原)兼信朝臣が四位以下を率いて参入した。参議の東に列した。〈ならびに北面西上であった。〉道理では、位階を異にして重行するものだろうか。(欠字)大臣は中納言平朝臣を召して宣命を給わった。大臣が退下して列に加わった後、宣命使が版に就いた。宣制は両段。群臣が毎度再拝した。〈叙人は拝さなかった。〉退出した。〈左大臣、(欠字)東陣(欠字)。〉大輔代晴明朝臣は机の下に就き、位記(位を授けられる者に授与される文書)を唱えた。少輔代も同様に机の下に就き、唱えた。輔たちが退出した後、叙人たちは再拝して舞踏したのは、例年通りであった。掃部寮が机を片付けた。(『権記』)
12月16日 御修法・御祭の日時を勘申する
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長保二年(1000)12月16日己未、「来たる二十三日の御修法は、その期日が非常に遠い。近日を勘申させるように。また、藤典侍が霊気に(欠字)された様子は尋常ではなかった。私は院が重くいらっしゃるので、床席に近く伺候していると、御足下の女房たちの驚く声がした。振り返って藤典侍を見ると、(欠字)を捧げて、手は取りかかるために襲ってきたところであった。その様子は垂髪であり、さらに逆に大いに(欠字)を張り、(欠字)を放つ音は多くの人の耳を驚かせた。私はたまたま三宝の加護を得て、(欠字)付いてかの霊の左右の手を捕らえることができた。曳き据えた後、時刻を経た。その(欠字)は、その初めにいう所は関白(藤原道隆)の霊のようであった。また、二条丞相(藤原道兼)の言葉に似ていた」という。
(藤原行成は)すぐに(安倍)晴明を召し、御修法の日のことを命じた。申して言ったことには「もし調伏の法があるならば、明後日、何事かあるでしょうか」という。また、御祭の日時を勘申させた。(『権記』)
長保三年(1001)
6月20日 藤原詮子の仏事を行う日時と敦康親王の魚味始の日時を勘申する
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長保三年(1001)6月20日庚申、(藤原行成は)勅使として東宮のもとに参った。御病脳を奏聞した。
(安倍)晴明朝臣を召し、東三条院(藤原詮子)の御病脳を消除するために、去年造られた一万不動像を供養し奉る日時〈七月二日辛未、十三日壬午、十四日癸未。〉
また、一宮(敦康親王)が初めて真菜を食される日時〈八月八日丁未、時は巳・未の刻。十一日庚戌、時は辰・申の刻。〉を勘申させた。奏聞した。(『権記』)
長保三年(1001)8月11日庚戌、一宮(敦康親王)に初めて真菜を供した。(『権記』)
閏12月17日 賀茂光栄・県奉平とともに東三条院の渡御について占う
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長保三年(1001)閏12月17日甲申、(藤原行成は)東三条院のもとに参った。「また、渡御される」という。「また、(安倍)晴明・(賀茂)光栄・(県)奉平の占い申したところによって、渡御されないことになった」という。(『権記』)
閏12月23日 東三条院藤原詮子の葬儀に関する雑事を勘申する
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背景
長保三年(1001)閏12月22日己丑、酉の刻、東三条院(藤原詮子)が崩御された。(『権記』)
長保三年(1001)閏12月23日庚寅、「(安倍)晴明・(賀茂)光栄・(県)奉平を蔵人所に召し、(東三条院藤原詮子の御葬送の)雑事を勘申された」という。(『権記』)
閏12月29日 私宅で追儺を行う
長保四年(1002)
3月19日 内裏の火災の原因と殿舎や門の名の由来について勘申する
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長保四年(1002)3月19日乙卯、左大臣(藤原道長)は陣座において式部大輔(菅原輔正)・左大弁(藤原忠輔)及び文章博士(藤原)弘道・(弓削)以言、明経助教(惟宗)為忠・(大江)淑光ならびに(海)広澄、陰陽道博士(秦正邦)ならびに(安倍)晴明・(賀茂)光栄・(県)奉平の勘申した、内裏で頻りに火事があるのはなぜか、及び殿舎・門の名号に由縁があるのか定め申した。左大弁が勘文を読んだ。諸卿が各々定め申した。左大臣の気色により、藤原行成が筆を取ってこれを書いた。左大臣・内大臣(藤原公季)・右大将藤原朝臣(実資)・民部卿藤原朝臣(懐忠)・左衛門督藤原朝臣(公任)・右衛門督藤原朝臣(斉信)弾正大弼藤原朝臣(有国)・播磨権守藤原朝臣(懐平)・左大弁藤原朝臣・右近中将源朝臣(俊賢)・右大弁藤原朝臣(行成)が定め申して言ったことには「諸道が火災の由縁を勘申したところ『事の旨は広いといっても、多くは倹約によってその災いを消すべき趣旨であった。よって造営の間、重ねて過差を制し、土木の功力を費やさず、柱梁の高さや大きさを減じるべきである。そうすれば、吏民の経営は自ずとその患いを省き、事は節倹に叶い、災いはなくなるだろう。殿門の名号は由緒がないわけではない。唐朝の宮城では、南面の正門には多くは朱雀門の号がある。北面にはまた、玄武門がある。あるいは宮内の正北に玄武殿がある。これは則ち、玄武を以て援助となし、朱雀の高大を厭わせるものである。しかし、わが国の皇城は南面の門に朱雀の名号があるといっても、北面にはすでに玄武の殿門はない。ただし、正北を指す門を偉鑑門としている。もしくは、その理由があるのだろうか。重ねて諸道に尋問されて、申したところの由緒が分明でなければ、従って定めて行われるべきだろうか』という」と、定文を奏上された。(『権記』)
7月27日 玄宮北極祭を奉仕する
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長保四年(1002)7月27日庚申、玄宮北極御祭が行われた。月来の天変によるものである。大膳大夫安倍朝臣晴明がこれを勤行した。(『日月多出例』)
長保四年(1002)7月1日甲午、申の刻に日蝕があった。(『権記』)
同年7月15日甲申、皆既月蝕があった。(『本朝統暦』)
11月9日 藤原行成のために泰山府君祭を行う
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長保四年(1001)11月9日庚子、(藤原行成は)(安倍)晴明朝臣に泰山府君を祀らせた。
料物は米二石五斗・紙五帖〈(竹田)利成のもとからこれを送った。〉・鏡一面・硯一面・筆一管・墨一廷・刀一柄を家から送った。
晩になって、都状十三通を送った。加署して送った。(県)奉平宿禰が招魂祭を行った。(『権記』)
11月28日 藤原行成へ泰山府君に幣と紙銭を奉納するよう伝える
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長保四年(1001)11月28日己未、日の出の頃、(藤原行成は)左京権大夫(安倍)晴明朝臣の説によって泰山府君に幣一捧・紙・銭を奉った。延年益算のためである。(『権記』)
長保五年(1003)
8月21日 敦康親王の病について占う
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長保五年(1003)8月21日戊寅、一宮(敦康親王)が今夜から病脳していた。(安倍)晴明が邪気を占い申した。(『権記』)
寛弘元年(1004)
2月19日 賀茂光栄とともに三昧堂を立てる場所を選定する
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寛弘元年(1004)2月19日癸酉、(藤原道長が)木幡三昧堂を立てる場所を定めるために、かの山の辺りに到着したところ、鳥居の北の方から河に出た。その北の方に平らな場所があった。道の東である。
(安倍)晴明朝臣・(賀茂)光栄朝臣が定めた場所である。(『御堂関白記』)
2月26日 藤原行成に三宝奉仕の吉凶を勘申する
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長保六年(1004)2月26日庚辰、「庚辰の日に三宝に奉仕するのは、吉備大臣(真備)の説では半凶である」という。そこで、(藤原行成は)左京権大夫(安倍晴明)のもとに遣わして問うた。(晴明が)勘申して送って言ったことには「今日は庚辰の日です。吉備大臣の説では、駟馬(しば)が門にきます。これは正しい説です。また、ある説に言ったことには『大吉』です。ある本では『半吉』ということです。しかしながら、二十八・二十九日からは吉です。宿曜経によると『月の二十六日は天下に在るので、功徳を修するのは吉である』ということです。また、言ったことには『二十六日に行った吉祥のことは必ず成就する』ということです。これらのような文によれば、やはり今日は優です。そこで、勘申します。(欠字)左京権大夫安倍晴明」という。(『権記』)
6月18日 賀茂光栄とともに藤原道長の賀茂詣を延期すべきか占う
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寛弘元年(1004)6月18日辛未、天が晴れた。来る二十日、賀茂社に参詣する予定であった。しかし、少将(藤原頼通)の乳母の中将がが昨日死去した。これは出産に際してのできごとである。しかし、下女たちが往問する間に、大事ではなくとも不浄の恐れがあるので、(安倍)晴明・(賀茂)光栄を召して占わせた。申して言ったことには「不浄の気があります」という。そこで、延期した。(『御堂関白記』)
6月20日 藤原道長の造仏を止める
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寛弘元年(1004)6月20日癸酉、天が晴れた。(藤原道長は)内裏に参った。夜に入って、退出した。
仏を造り奉ろうとしたが、(安倍)晴明が申して言ったことには「今日は滅門です。よろしくありません」という。(造仏を)留めた。(『御堂関白記』)
7月14日 五龍祭を奉仕する
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寛弘元年(1004)7月14日丙申、終日曇っていた。時々、微かに雨が降った。
夜になって、大雨が降った。右頭中将(藤原実成)が(一条天皇の)仰せを言ったことには「(安倍)晴明朝臣が五龍祭を奉仕したところ、感応があった。被物を賜う」という。早く賜うべきである。雷の音は小さかった。(『御堂関白記』)
7月16日 五龍祭の効験によって勅禄を賜る
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寛弘元年(1004)7月16日戊戌、(安倍)晴明は五竜御祭の効験によって勅禄を給わった。(『小記目録』)
8月22日 賀茂光栄とともに中宮藤原彰子の大原野行啓を延期すべきか占う
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寛弘元年(1004)8月22日甲戌、右衛門督(藤原斉信)が示して言ったことには「中宮(藤原彰子)が大原野社に参詣なさることは如何でしょう。『ある者に夢想のお告げがあった』ということです。それに、今年は干ばつがあります。よって、参詣なさるのは重大なことです。ゆえに、停められていました。占筮させて定めるべきです」という。
(藤原道長は)すぐに(安倍)晴明・(賀茂)光栄を召して占筮させたところ「事情を申されて延期されるのがよろしいでしょう」という。そこで、延期した。太宰府推問使が下向した。(『御堂関白記』)
9月25日 多武峰寺の御墓鳴動について占う
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寛弘元年(1004)9月25日丙午、多武峰寺が、去る二十三日に(藤原鎌足の)御墓が鳴動した怪異のことを申した。(藤原道長は)(安倍)晴明朝臣を召して占わせた。当年の上達部のもとに占方を送った。(『御堂関白記』)
12月3日 土御門第での経供養に際して祭祀を奉仕する
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寛弘元年(1004)12月3日壬午、天が晴れた。大般若経ならびに観音経を土御門第で供養した。請僧は三十口。定澄大僧都を講師とした。事が終わって、僧に疋絹を施したことには各々差があった。今日から三日間に渡り読経を行う。(安倍)晴明・(賀茂)光栄・昌平が祭を行った。入拝の上卿は春宮大夫(藤原道綱)・右大将(藤原実資)・右衛門督(藤原斉信)・中宮権大夫(源俊賢)・勘解由長官(藤原有国)・春宮権大夫(藤原懐平)・左大弁(藤原忠輔)・右大弁(藤原行成)・大蔵卿(藤原正光)・修理大夫(平親信)・三位中将(藤原兼隆)であった。殿上人が二十人程来た。僧の布施を取ったのは殿上人であった。(『御堂関白記』)
寛弘二年(1005)
2月10日 藤原道長の新宅作法を行う
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寛弘二年(1005)2月10日戊子、夜分から雨が降った。午時頃、晴気があった。申時頃から、また(雨が)降った。酉時頃、晴れた。戌時、(藤原道長は)東三条に渡った。上卿十人程が来られた。
西門に着いた後、陰陽師(安倍)晴明が遅れてきた。随身に召させた。その時刻の内に来た。新宅の作法があった。その後、(道長は)上達部と五・六献盃を交わした後、紙を召して攤を打った。(『御堂関白記』)
3月8日 中宮藤原彰子の大原野社行啓に際し反閇を奉仕する
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寛弘二年(1005)3月8日丙辰、今日、中宮(藤原彰子)が大原野社に参詣なさった。権中納言(藤原)隆家が来た。同車して、卯の刻に後宮に参入した。同じ刻、御輿を寄せた。(安倍)晴明が反閇を奉仕した。(『小右記』)
寛弘二年(1005)9月26日 没
『土御門家記録』によると、安倍晴明は寛弘二年(1005)9月26日にこの世を去ったことになっている。
安倍晴明関係の年表
平安時代の年表
晴明が生きていた時代に起こったできごと
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参考平安時代の年表―安倍晴明が生きていた時代のできごと:前編
平安時代の年表:天慶九年(946)4月20日-康保四年(967)5月25日の間に起こったできごとについてわかりやすく簡単に説明します。 村上天皇:天慶九年(946)4月20日-康保四年(967)5月2 ...
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参考【年表】安倍晴明が生きていた時代に起こったできごと:後編
天徳五年(961)から寛弘二年(1005)の間に起こった主なできごとを紹介します。安倍晴明は、師の賀茂保憲とともに内裏焼亡で焼損してしまった霊剣の再鋳造に携わります。これ以降、様々な古記録に晴明の名が ...
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