平安時代 説話

安倍晴明と花山天皇―花山院出家を目撃、熊野参詣へ同行

安倍晴明と花山天皇

花山天皇の御代、安倍晴明は天皇の前世を見抜き、病気を治した。花山天皇が出家する際にはいち早く退位を察知して式神に参内させた。天皇の出家後は熊野参詣に同行し、花山院の修行の妨げとならないよう結界を張って妖魔を追い払った。

安倍晴明と花山天皇

花山天皇在位中の晴明

花山天皇の錫紵の日時を占う

永観三年(985)5月2日丙午、花山天皇の姉尊子内親王が薨去された。
5月27日に尊子内親王の薨奏が行われた。
5月29日癸酉、花山天皇の錫紵を除くことになっていた。安倍晴明は天皇の錫紵を除く吉時を勘申した。
→戌の刻となったが、この日は復日にあたるため明日の卯の刻の方がよいということだった。藤原実資がこの旨を天皇に奏聞したところ、天皇から実資が決めるように命じられた。

実資は「明日(6月1日)は忌日の御膳を供する日であり、斎月である。また、日数を過ぎても問題ないのだろうか」と尋ねると、藤原宣孝が延喜の頃、日数を過ぎて錫紵を除いた例を挙げた。実資がその例を探したところ、延喜九年(909)にあった。
しかし、実資はその例は今回のことに適用できないと思い、半夜に除かせてはどうか提案したところ、天皇は晴明に尋ねるように言った。晴明は「明日の寅の初刻がよい」と申した。御禊が行われたが、実資は感心しなかった。(『小右記』)

説話に見る晴明と花山天皇

花山天皇の前世を知り、病を除く

花山天皇が頭痛を患ったとき、ありとあらゆる治療を施したが、一向に治らなかった。
その時、安倍晴明が「天皇の前世は並々ならぬ行者で、大峰のとある場所において入滅されました。前世の徳によって今世では天子の身にお生まれになりましたが、前世の髑髏が岩の隙間に落ちて挟まっており、岩は雨に当たると膨張するため雨の日は特に痛むのです。御頭を岩の隙間から取り出して広い場所に置けば治るでしょう」と申し上げた。晴明が髑髏の場所を教えて使者を遣わしたところ、晴明の言っていた場所に髑髏があった。その髑髏を取り出した後は、天皇の頭痛も治まった。(『古事談』)

参考古事談 晴明、花山天皇の前生を知る事

あらすじ 晴明は、世俗の人であるが那智で千日修行をした者で毎日二時間滝に打たれていた。前世も並々ならぬ大峰の行者だったらしい。 花山天皇の時代、天皇が頭痛を患った。特に雨の日はひどく痛んだ。いろいろな ...

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花山天皇の出家を目撃

寛和二年(986)6月22日の夜、花山天皇はこっそりと宮中から抜け出し花山寺に赴いて出家した。
退位する日の夜、月がひどく明るく輝いていたので天皇は人に気づかれることを恐れたが、藤原道兼に急かされて出発することにした。いよいよ出発しようというときになって、天皇は寵愛していた弘徽殿の女御からもらった手紙を置いてきたことに気づき戻ろうとしたが、兼家に泣きつかれてやむなく出発した。出家に向かう途中で、天皇は安倍晴明の屋敷の前を通りかかった。晴明は天変の兆しから天皇の退位を察知し、急いで式神に参内を命じる。花山天皇は晴明の声を聞いてしみじみと感じ入った。(『大鏡』)

参考【現代語訳】大鏡『花山天皇』―花山院の出家

『大鏡』より「花山天皇」の現代語訳。 寛和二年(986)6月の夜、花山天皇は人知れず宮中を抜け出し出家に向かった。その途中で天皇は安倍晴明の屋敷の前を通りかかった。晴明は天変の兆しによって天皇の退位を ...

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花山院の出家
参考寛和の変(花山天皇の退位・出家)~出家の途中で安倍晴明の家の前を通りかかる

寛和かんなの変とは、寛和二年(986)6月23日に起こった花山天皇の退位・出家事件である。『古事談』では、寵愛していた弘徽殿の女御の死を悲しんでいたところへ藤原道兼が出家を勧めてきたとされている。しか ...

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花山院の熊野参詣

花山法皇は御出家の思い出にと熊野へ御参詣し、熊野三山を巡礼した後、瀧本に卒塔婆を立てた。そして「智證門人阿闍梨滝雲坊の行真」と銘文に書いた。昔は日本の天皇、今は熊野三山の行人である花山法皇がお書きになった卒塔婆の銘文を見て、三井の流れの修験者は嬉しく思った。このような銘文は今までにはなく、その昔、平城天皇がお出ましになった際の那智山の日記に留まり、最近になって花山法皇が御参詣なさって瀧本で三年千日の修行を行ったのである。それ以来、これまでに六十人が山籠りをしようと都や地方から修行者が集まってきて、難行や苦行を行ったという。

花山法皇の修行中には、さまざまな験徳が顕れた。その中の一つとして、龍神が天から降りてきて花山法皇に如意成就を一顆、水精の念珠一連、九穴の鮑貝一つを授けた。法皇は未来の行者のためを思って、宝珠を岩屋の中に納め、念珠を千手堂の部屋に納め、鮑貝を滝壺に放ち置いた。
白河院が熊野へ参詣したとき、その鮑貝を見ようと思い海人を召して滝壺に入られ、「貝の大きさは傘ほどもあった」と言った。「参詣した人々のあらゆる願いが叶ったなら、如意宝珠のおかげである。滝の水にあたれば、鮑貝の霊験によって長寿が得られるだろう」と伝えられている。

花山法皇が修行で籠もっているときに天狗がやってきて、さまざまな手段で法皇の修行を妨げようとしたが、陰陽博士安倍晴明が狩籠の岩屋というところに多くの魔類を祭り置いた。那智の行者に不法や懈怠があったときは、この天狗どもが怒りをなして襲いかかってくると語り伝えられている。(『源平盛衰記』)

花山院の修行

花山院は在位中から出家に興味を持っていたので、退位してからも立派に勤行をしていた。修行のために、諸国の霊山・霊場を巡ることもあった。花山院が熊野権現を参詣しに行ったとき、千里の浜に来たところで体調を崩してしまったので、浜辺にあった石を枕代わりにして休んでいた。すると、漁夫が塩を焼く煙が立ち上ったので、花山院はしみじみとした気持ちになり「旅の空 夜半の煙と のぼりなば あまの藻塩火 焚くかとや見ん(旅の途中にこのようなところで死に、夜の煙となって上るならば、人々は漁夫が藻塩火を焚いているのかと眺めるだろう)」と和歌を詠んだ。
修行によって法力も増し、花山院は熊野権現の中堂に籠もっていた。その夜、法師たちが法力を競っていたので、花山院も自分の法力がどれほどか試してみようと心のなかで念じ続けた。そこへ、護法童子が憑依した一人の法師が屏風に引きつけられ、微動だにしない。しばらくして、花山院が法師を解放すると法師は帰って行った。人々は花山院の法力に感動した。前世の徳によって現世で帝位に就くことができた花山院の功徳には、修行を積んだ法師でも敵わないということだった。そんな中でも狂ったような行いをするのは、藤原元方の怨霊によるものだったのではないかと思われる。(『大鏡』)

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