平安時代の年表:村上天皇の御代、天徳元年(957)10月27日から天徳五年(961)2月16日までの出来事を年表にまとめました。通常の記録に加え、説話も追記。陰陽寮の活動は色付きで紹介しています。

村上天皇時代の年表(天徳)
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天暦十一年/天徳元年(957)
11月1日 御暦奏
天徳元年(957)11月1日癸未、御暦奏が行われた。(『日本紀略』)
11月23日 鎮魂祭 延引
天徳元年(957)11月23日乙巳、東宮(憲平親王)は康子内親王の服喪のため、鎮魂祭を延引した。(『日本紀略』)
11月29日 大舎人寮で火災
天徳元年(957)11月29日辛亥、大舎人寮庁舎一字西門で火災があった。(『日本紀略』)
11月30日 盗人、大蔵省に侵入
天徳元年(957)11月30日壬子の夜、盗人が大蔵省長殿に侵入し、鍬鉄などを盗んだ。(『日本紀略』)
12月29日 東宮鎮魂祭
天徳元年(957)12月29日辛巳、東宮(憲平親王)は前月延引されていた鎮魂祭を行った。小野好古が上卿を務めた。(『九暦』)
12月30日 追儺
天徳元年(957)12月30日壬午、追儺が行われた。(『西宮記』)
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天徳二年(958)
1月
1月1日 元日節会
天徳二年(958)1月1日癸未、元日節会があった。(『日本紀略』)
1月2日 東宮・親王参覲/東宮大饗
天徳二年(958)1月2日甲申、皇太子(憲平親王)・第二親王(廣平親王)・第三親王(致平親王)が参覲した。この日、東宮(憲平親王)の大饗があった。(『日本紀略』)
1月6日 叙位
天徳二年(958)1月6日戊子、叙位の儀があった。(『日本紀略』)
1月7日 節会/叙位
天徳二年(958)1月7日己丑、節会があった。(『日本紀略』)
また、叙位の儀が行われた。(『公卿補任』)
1月8日 御斎会
天徳二年(958)1月8日庚寅、御斎会が始められた。(『日本紀略』)
1月14日 結願
天徳二年(958)1月14日丙申、御斎会が結願した。(『日本紀略』)
1月10日 女叙位
天徳二年(958)1月10日壬辰、女叙位があった。(『日本紀略』)
1月28日 御物忌
天徳二年(958)1月28日庚戌、村上天皇の御物忌により、除目の儀は行われなかった。(『西宮記』)
1月30日 触穢
天徳二年(958)1月30日壬子、犬の死穢が内裏に及んだ。(『日本紀略』)
2月
2月1日 除目
天徳二年(958)2月1日癸丑、除目が行われた。(『日本紀略』)
2月3日 大原野祭の延期
天徳二年(958)2月3日乙卯、1月30日に起こった犬に死穢によって大原野祭が延期された。(『日本紀略』)
2月13日 大原野祭の日時を勘申する
天徳二年(958)2月13日乙丑、この日、内裏で犬の死穢があったので大原野祭は延期となった。二度に渡って延期された先例を勘申した。外記が延喜二十二年の例を勘申した。(『日本紀略』)
2月27日 大原野祭
天徳二年(958)2月27日己卯、大原野祭が行われた。(『日本紀略』)
2月4日 祈年祭
天徳二年(958)2月4日丙辰、祈年祭が行われた。(『日本紀略』)
2月5日 釋奠
天徳二年(958)2月5日丁巳、釋奠が行われた。(『日本紀略』)
2月8日 春日祭
天徳二年(958)2月8日庚申、春日祭が行われた。(『日本紀略』)
2月11日 列見
天徳二年(958)2月11日癸亥、列見が行われた。雨儀であった。(『日本紀略』)兵部輔は候さなかった。(『西宮記』)式部丞が参らなかったことにより、兵部一省が召された。(『北山抄』)
2月17日 直物
天徳二年(958)2月17日己巳、直物があった。(『日本紀略』)
2月22日 藤原実頼、病により度者を賜る
天徳二年(958)2月22日甲戌、左大臣藤原実頼は病状が重かったので、奏請により度者15人を賜った。(『九暦』)
2月24日 大祓
天徳二年(958)2月24日丙子、大祓が修された。仁王会が修されることによる。(『日本紀略』)
2月28日 仁王会
天徳二年(958)2月28日庚辰、仁王会が修された。橘敏通が呪願文を作成した。(『日本紀略』)
3月
この月、左大臣正二位藤原実頼が輦車を許された。(『公卿補任』『大鏡裏書』)
3月3日 御燈
天徳二年(958)3月3日甲申、御燈があった。(『日本紀略』)
3月7日 為平親王、初めての謁見
天徳二年(958)3月7日戊子、藤壺において為平親王は初めて村上天皇に謁見した。諸卿が参入し、饗宴が行われた。世間の病患により、音楽の演奏はなかった。和歌の興があった。(『日本紀略』)
3月9日 源正明 卒去
天徳二年(958)3月9日庚寅、参議正四位下弾正大弼源正明が卒去された。(『日本紀略』)
3月13日 射礼
天徳二年(958)3月13日甲午、建礼門において射礼が行われた。(『日本紀略』)
3月14日 賭弓
天徳二年(958)3月14日乙未、賭弓が行われた。(『日本紀略』)
3月19日 季御読経
天徳二年(958)3月19日庚子、季御読経が始められた。(『日本紀略』)
3月22日 結願
天徳二年(958)3月22日癸卯、季御読経が結願した。(『日本紀略』)
3月23日 花宴
天徳二年(958)3月23日甲辰、花宴が開かれた。(『日本紀略』)
3月25日 乾元大宝
天徳二年(958)3月25日丙午、延喜通貨が乾元大宝に改められた。(『日本紀略』)
3月30日 和歌/法性寺焼亡
天徳二年(958)3月30日辛亥、禁中において和歌会が開かれた。御製は「落照送残春」。(『日本紀略』)
また、法性寺で火災があった。(『日本紀略』『九暦』)
4月
4月1日 旬平座
天徳二年(958)4月1日壬子、旬平座があった。(『日本紀略』)
4月3日 氷雪
天徳二年(958)4月3日甲寅、冬のような寒気であった。氷雪が降った。(『日本紀略』)
4月4日 広瀬・龍田祭
天徳二年(958)4月4日乙卯、広瀬・龍田祭が行われた。(『日本紀略』)
4月7日 擬階奏
天徳二年(958)4月7日戊午、擬階奏が行われた。(『日本紀略』)
4月8日 灌仏
天徳二年(958)4月8日己未、灌仏が行われた。(『日本紀略』)
4月9日 平野祭
天徳二年(958)4月9日庚申、平野祭が行われた。(『日本紀略』)
4月10日 強盗、右獄を破り囚人を奪う
天徳二年(958)4月10日辛酉の夜、強盗が右獄を打ち破り、囚人を奪取した。9人のうち1人が獄門の前で打ち殺された。(『日本紀略』)
4月11日 六衛府などの官人が強盗を追捕
天徳二年(958)4月11日壬戌、六衛府、兵庫などの官人が強盗を追捕するよう命じられた。(『日本紀略』)
4月14日 脱走した右獄の囚人を追捕/右京一条二坊で火災
天徳二年(958)4月14日乙丑、右獄を脱走した囚人8人を摂津国において追捕した。そのうち2人を射殺した。(『日本紀略』)
夜、右京一条二坊一二七八町で火災があった。(『日本紀略』)
4月17日 源自明 卒去
天徳二年(958)4月17日戊辰、参議正四位下源自明が卒去された。(『日本紀略』)
4月19日 廃朝
天徳二年(958)4月19日庚午、参議源自明が去る17日に卒去されたことが奏された。三日間廃朝となった。(『日本紀略』)
村上天皇が錫紵を著した。(『西宮記』)
4月21日 村上天皇、錫紵を除く
天徳二年(958)4月21日壬申、村上天皇は錫紵を除かれた。(『九暦』)
4月19日 賀茂祭の斎院御禊
天徳二年(958)4月19日庚午、賀茂祭の斎院御禊が行われた。(『日本紀略』)
4月20日 警固
天徳二年(958)4月20日辛未、賀茂祭の警固が行われた。(『日本紀略』)
4月21日 賀茂祭の宣命
天徳二年(958)4月21日壬申、賀茂祭の宣命があった。先例にとり内侍に付された。内裏で丙穢があったので使者は参れず、奏聞しなかった。(『日本紀略』)
4月22日 賀茂祭
天徳二年(958)4月22日癸酉、賀茂祭が行われた。(『西宮記』)
4月26日 小除目
天徳二年(958)4月26日丁丑、小除目があった。(『日本紀略』)
5月
5月5日 東宮御修法
天徳二年(958)5月5日乙酉、東宮御修法が行われた。度者を給わった。(『九暦』)
5月8日 大祓
天徳二年(958)5月8日戊子、大祓が修された。仁王会が行われることによる。(『日本紀略』)
5月10日 仁王会
天徳二年(958)5月10日庚寅、仁王会が行われた。大江文時が呪願文を作成した。(『日本紀略』)
5月14日 官奏
天徳二年(958)5月14日甲午、官奏が行われた。(『西宮記』)
5月17日 仁王経転読・祈祷
天徳二年(958)5月17日丁酉、疫病の流行により、諸社寺が仁王経の転読・祈祷を行った。(『類聚符宣抄』)
5月23日 元平親王 薨去
天徳二年(958)5月23日癸卯、式部卿三品元平親王が薨じられた。(『日本紀略』)
5月25日 菅原文時が石清水八幡宮別当に補任
天徳二年(958)5月25日乙巳、右少弁菅原文時が石清水八幡宮俗別当に補任した。(『石清水八幡宮略補任』)
5月26日 雷電
天徳二年(958)5月26日丙午、雷電があった。雨が降った。(『日本紀略』)
6月
6月4日 康子内親王周忌
天徳二年(958)6月4日甲寅、右大臣藤原師輔は法性寺において故康子内親王の周忌法事を行った。(『日本紀略』)
6月5日 御卜
天徳二年(958)6月5日乙卯、霖雨により御卜が行われた。(『日本紀略』)
6月10日 御体御卜奏
天徳二年(958)6月10日庚申、御体御卜奏があった。内裏の丙穢により、陣の外において外記に付した。(『日本紀略』)
6月15日 二条院焼亡
天徳二年(958)6月15日乙丑、子二刻に二条院が焼亡した。(『日本紀略』『九暦』)
6月16日 伊勢・平野奉幣使発遣
天徳二年(958)6月16日丙寅、霖雨によって伊勢・平野奉幣使が発遣された。(『園太暦』)
6月27日 御読経
天徳二年(958)6月27日丁丑、御読経が修された。(『日本紀略』)
7月
7月1日 日食/源兼忠 卒去
天徳二年(958)7月1日庚辰、日食があった。
参議治部卿正四位下源兼忠が卒去された。(『日本紀略』)
7月4日 広瀬・龍田祭
天徳二年(958)7月4日癸未、広瀬・龍田祭が行われた。(『日本紀略』)
7月7日 乞巧奠
天徳二年(958)7月7日丙戌、乞巧奠が行われた。(『親信卿記』)
7月18日 盗人が大蔵省に侵入
天徳二年(958)7月18日丁酉の夜、大蔵省の下殿に納められていた絹百匹が盗まれた。(『日本紀略』)
7月23日 触穢
天徳二年(958)7月23日壬寅、内裏で丙穢があった。(『日本紀略』)
7月29日 相撲召合/藤原兼通、禁色宣旨
天徳二年(958)7月29日戊申、相撲召合があった。春夏の飢饉・疾疫により音楽はなかった。(『日本紀略』)
この日、参議正四位下藤原兼通が禁色を許された。(『公卿補任』)
7月30日 追相撲
天徳二年(958)7月30日己酉、追相撲があった。(『日本紀略』)
7月29日 藤原兼通が禁色を許される
天徳二年(958)7月29日戊申、左近衛少将藤原兼通が禁色を許された。(『公卿補任』)
8月
8月7日 直物
天徳二年(958)8月7日乙酉、直物があった。(『日本紀略』)
8月9日 釋奠
天徳二年(958)8月9日丁亥、釋奠が行われた。(『日本紀略』)
8月10日 内論議
天徳二年(958)8月10日戊子、内論議が行われた。村上天皇は御物忌によりお出ましにならなかった。博士以下に禄を給わった。(『日本紀略』)
8月11日 定考
天徳二年(958)8月11日己丑、定考が行われた。(『日本紀略』)
8月13日 直物
天徳二年(958)8月13日辛卯、直物が行われた。(『日本紀略』)
8月15日 季御読経
天徳二年(958)8月15日癸巳、季御読経が始められた。(『日本紀略』)
8月18日 結願
天徳二年(958)8月18日丙申、季御読経が結願した。(『日本紀略』)
8月27日 藤原元輔 昇殿
天徳二年(958)8月27日乙巳、参議従四位上藤原元輔、参議従四位下源伊陟が昇殿を許された。(『公卿補任』)
9月
9月3日 御燈
天徳二年(958)9月3日庚戌、御燈があった。(『日本紀略』)
9月8日 京都の樹木に花が咲く
天徳二年(958)9月8日乙卯、京都の樹木に花が咲いた。(『日本紀略』)
9月11日 伊勢例幣
天徳二年(958)9月11日戊午、伊勢大神宮へ例幣が行われた。村上天皇が大極殿にお出ましになった。天変・地震・物の怪などによる。また、左右馬寮の御馬各二疋が副えられた。(『日本紀略』)
9月13日 石清水などに奉幣
天徳二年(958)9月13日庚申、天変により、石清水などの五社に奉幣使が発遣された。17日には七社に奉幣が行われた。(『日本紀略』)
10月
10月1日 旬
天徳二年(958)10月1日戊寅、旬があった。村上天皇が紫宸殿にお出ましになった。(『日本紀略』)
10月2日 直物
天徳二年(958)10月2日己卯、直物があった。(『日本紀略』)
10月10日 直物・除目
天徳二年(958)10月10日丁亥、直物・除目があった。坎日であったが、先例により行われた。(『日本紀略』)
10月17日 宇佐使発遣
天徳二年(958)10月17日甲午、宇佐使少納言橘宗臣が発遣された。(『日本紀略』)
10月21日 残菊宴
天徳二年(958)10月21日戊戌、残菊宴があった。管弦の演奏があった。詩題は「惜残菊」。(『日本紀略』)
10月27日 藤原安子の中宮冊立
天徳二年(958)10月27日甲辰、女御従三位藤原安子が中宮に冊立された。(『扶桑略記』)
10月28日 藤原芳子が女御になる
天徳二年(958)10月28日乙巳、左大臣藤原師尹の娘芳子が女御になった。(『日本紀略』)
11月
11月1日 日食
天徳二年(958)11月1日丁未、曇り時々雨であった。日食により、廃務になった。(『日本紀略』)
11月2日 旬
天徳二年(958)11月2日戊申、旬の儀があった。村上天皇が紫宸殿にお出ましになった。(『日本紀略』)
11月19日 園・韓神祭
天徳二年(958)11月19日乙丑、園・韓神祭が行われた。(『日本紀略』)
11月20日 鎮魂祭・中宮鎮魂祭
天徳二年(958)11月20日丙寅、鎮魂祭・中宮鎮魂祭が行われた。(『九条年中行事』)
11月21日 新嘗祭
天徳二年(958)11月21日丁卯、新嘗祭が中院において行われた。(『日本紀略』)
11月22日 豊明節会
天徳二年(958)11月22日戊辰、豊明節会があった。(『日本紀略』)
11月23日 東宮鎮魂祭
天徳二年(958)11月23日己巳、東宮(憲平親王)鎮魂祭があった。(『日本紀略』)
11月27日 賀茂臨時祭
天徳二年(958)11月27日癸酉、賀茂臨時祭が行われた。近江守源俊が使者を務めた。(『日本紀略』)
12月
12月4日 中宮御印鋳造
天徳二年(958)12月4日庚辰、内匠寮が中宮の御印を鋳造した。(『日本紀略』)
12月7日 怪異
天徳二年(958)12月7日癸未、住吉社で鶏が鳴かない怪異によって軒廊御卜が行われた。(『日本紀略』)
12月10日 御体御卜奏
天徳二年(958)12月10日丙戌、御体御卜奏が行われた。(『日本紀略』)
12月11日 月次祭・神今食
天徳二年(958)12月11日丁未、月次祭・神今食が行われた。(『日本紀略』)
12月17日 御仏名
天徳二年(958)12月17日癸巳、御仏名が行われた。(『日本紀略』)
12月18日 荷前
天徳二年(958)12月18日甲午、荷前使が立てられた。(『日本紀略』)
12月26日 柏原・後山科に立后を報告
天徳二年(958)12月26日壬寅、柏原・後山科の山陵において立后のことを報告した。(『日本紀略』)
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天徳三年(959)
1月
1月1日 元日節会
天徳三年(959)1月1日丁未、元日節会があった。(『日本紀略』)
1月2日 東宮大饗/東宮拝覲
天徳三年(959)1月2日戊申、憲平親王の拝覲があった。また、東宮大饗があった。(『日本紀略』)
1月3日 中宮大饗/東宮拝覲
天徳三年(959)1月3日己酉、憲平親王が朱雀院に参り、中宮藤原安子に拝覲された。また、中宮大饗があった。(『日本紀略』)
1月6日 叙位の儀なし
天徳三年(959)1月6日壬子、叙位の儀はなかった。(『日本紀略』)
1月7日 節会
天徳三年(959)1月7日癸丑、例年通り節会が行われた。叙位の儀はなかった。村上天皇はお出ましにならなかった。(『日本紀略』)
1月8日 御斎会
天徳三年(959)1月8日甲寅、御斎会が始められた。(『日本紀略』)
1月14日 結願
天徳三年(959)1月14日庚申、御斎会が結願した。(『日本紀略』)
1月9日 卯杖
天徳三年(959)1月9日乙卯、中宮卯杖が作物所に奉仕された。ただし、覆帯料は本宮より給わられたと糸所の女官が申した。東宮卯杖は中宮に奉られた。(『九暦』)
1月11日 左大臣大饗
天徳三年(959)1月11日丁巳、左大臣(藤原実頼)の大饗があった。(『日本紀略』)
1月12日 右大臣大饗の停止
天徳三年(959)1月12日戊午、触穢により右大臣(藤原師輔)の大饗は停止となった。(『日本紀略』)
1月13日 大饗の料を給わる
天徳三年(959)1月13日己未、故藤原忠平の例により、大饗料に設けるところの酒食・魚鳥を史に給わらせた。(『九暦』)
1月22日 除目
天徳三年(959)1月22日戊辰、除目が始められた。(『日本紀略』)
1月25日 皇后遷御
天徳三年(959)1月25日辛未、中宮藤原安子が朱雀院から藤原師尹の小一条邸にお移りになった。(『日本紀略』)大納言藤原顕忠以下が御前に奉仕した。御産期が近づいているためである。(『御産部類記』)
1月27日 左大臣実頼六十算
天徳三年(959)1月27日癸酉、興福寺の僧徒が左大臣藤原実頼の六十算を祝った。(『日本紀略』)
2月
2月2日 釋奠
天徳三年(959)2月2日丁丑、釋奠が行われた。(『日本紀略』)
2月4日 祈年祭/大原野祭
天徳三年(959)2月4日己卯、祈年祭・大原野祭が行われた。(『日本紀略』)
2月7日 賀茂忠行が箱の中身を占う
天徳三年(959)2月7日壬午、勅によって賀茂忠行が箱の中身を占った。水精念珠であった。(『朝野群載』)
2月10日 直物
天徳三年(959)2月10日乙酉、直物があった。(『日本紀略』)
2月11日 列見
天徳三年(959)2月11日丙戌、列見があった。(『日本紀略』)
2月22日 内宴
天徳三年(959)2月22日丁酉、雨が降った。内宴が開かれた。詩題は「春樹花珠顆」。式部権大輔藤原国光が序を作成した。歌と舞があった。この日、章明親王に帯剣を許し、女御藤原芳子を正五位下に叙した。(『日本紀略』)
2月25日 北野社増築
天徳三年(959)2月25日庚子、右大臣正二位藤原師輔は神殿屋舎を増築し、神宝数品を献上した。(『菅家御傅記』)
3月
この月、内裏において花宴が開かれた。(『歴代編年集成』)
3月2日 皇子守平誕生
天徳三年(959)3月2日丁未、皇后藤原安子が第五皇子守平(後の円融天皇)をお産みになった。(『日本紀略』)
3月3日 御燈の停止/曲水宴
天徳三年(959)3月3日戊申、内裏の触穢により御燈が停止となった。
この日、曲水宴があった。御製は「水映紅桃色」。(『日本紀略』)
3月8日 御七夜の儀
天徳三年(959)3月8日癸丑、夜に中宮藤原安子の御産七夜の儀が行われた。諸卿が参った。ごちそうがあった。(『日本紀略』)
3月11日 直物/小除目
天徳三年(959)3月11日丙辰、直物・小除目が行われた。(『日本紀略』)
また、蔵人頭藤原伊尹が勅により左大弁藤原有相が糺問した。(『西宮記』)
3月13日 射礼/闘乱
天徳三年(959)3月13日戊午、建礼門において歩射があった。
また、感神院と清水寺の闘乱があった。検非違使がこれを制止した。(『日本紀略』)
3月14日 賭弓
天徳三年(959)3月14日己未、賭弓の間に左右兵衛の闘乱があった。(『日本紀略』)
3月16日 季御読経
天徳三年(959)3月16日辛酉、季御読経が始められた。(『日本紀略』)
3月19日 結願
天徳三年(959)3月19日甲子、季御読経が結願した。(『日本紀略』)
3月22日 京中巡検
天徳三年(959)3月22日丁卯、弾正が京中を巡検している間、修理職の辺りで闘乱があった。(『日本紀略』)
3月24日 殿上賭弓
天徳三年(959)3月24日己巳、殿上賭弓が行われた。(『九暦』)
3月27日 雷雨
天徳三年(959)3月27日壬申、丑の刻に雷雨があった。(『日本紀略』)
3月30日 賦詩
天徳三年(959)3月30日乙亥、村上天皇は秘書閣において文人を召し、詩を賦させた。詩題は「春被鶯花送」。御製があった。(『日本紀略』)
4月
4月1日 旬平座
天徳三年(959)4月1日丙子、旬平座があった。村上天皇は御物忌により紫宸殿にお出ましにならなかった。(『日本紀略』)
4月4日 広瀬・龍田祭
天徳三年(959)4月4日己卯、広瀬・龍田祭が行われた。(『日本紀略』)
4月5日 新銭を親王以下諸司の官人に頒布する
天徳三年(959)4月5日庚辰、親王以下諸司官人以上が新銭を給わった。村上天皇ならびに中宮藤原安子、憲平親王にも奉った。親王以下に軒廊の南においてこれを給わった。(『日本紀略』)
4月7日 擬階奏
天徳三年(959)4月7日壬午、擬階奏が行われた。(『日本紀略』)
4月8日 灌仏
天徳三年(959)4月8日癸未、灌仏が行われた。(『日本紀略』)
寛平の例により、お布施として古銭を進めた。(『九暦』)
4月9日 平野祭・松尾祭
天徳三年(959)4月9日甲申、平野祭・松尾祭が行われた。(『日本紀略』)
4月13日 公卿の座を改める
天徳三年(959)4月13日戊子、左大臣藤原実頼が「建春門院を修理する間、先例により公卿の座を北方官の人座所に敷くように」と述べた。(『類聚符宣抄』)
4月17日 新銭を諸社に奉る
天徳三年(959)4月17日壬辰、伊勢大神宮などの11社に新銭を奉った。神祇官を使者とした。廃務になった。先例ははっきりとしなかったが、廃務にすると仰せられた。(『日本紀略』)
4月19日 賀茂祭の斎院御禊
天徳三年(959)4月19日甲午、斎院婉子内親王の御禊が行われた。酉の刻から激しい雷雨があった。(『日本紀略』)
4月20日 賀茂祭の警固
天徳三年(959)4月20日乙未、賀茂祭の警固が行われた。(『日本紀略』)
4月22日 賀茂祭
天徳三年(959)4月22日丁酉、賀茂祭が行われた。中将藤原伊尹が勅使を務めた。藤原兼通が中宮使を務めた。(『九暦』)
5月
5月4日 諸社奉幣
天徳三年(959)5月4日戊申、村上天皇が大極殿にお出ましになり、伊勢大神宮など16社へ奉幣が行われた。風雨・雷鳴があった。雨が降っていたとき、その例があるのかは分からなかったが、神祇伯大中臣安則の説により奉幣が行われた。(『日本紀略』)
5月7日 小野道風が藻璧門の額を書す
天徳三年(959)5月7日辛亥、藻璧門の額の字が消えていたので、仰せによって木工頭小野道風が額を書した。(『日本紀略』)
5月9日 藤原有相 卒去
天徳三年(959)5月9日癸丑、参議正四位下左大弁藤原有相が卒去された。(『日本紀略』)
5月16日 洪水/御宴
天徳三年(959)5月16日庚申、この頃霖雨で晴れなかったので、洪水が京都に入ってきた。
また、殿上で宴が開かれた。(『日本紀略』)
5月26日 童舞御覧
天徳三年(959)5月26日庚午、御前において音楽の演奏があった。舞人には童を用いた。(『日本紀略』)
6月
6月3日 納涼
天徳三年(959)6月3日丁丑、諸卿は陣座から冷泉院に向かい、釣殿で納涼した。盃酌があった。(『日本紀略』)
6月7日 御卜
天徳三年(959)6月7日辛巳、霖雨により御卜が行われた。(『日本紀略』)
6月10日 御体御卜奏の延期
天徳三年(959)6月10日甲申、神祇官で馬の斃穢があったので、御体御卜奏は延期となった。(『日本紀略』)
6月11日 月次祭・神今食の延期
天徳三年(959)6月11日乙酉、触穢により月次祭・神今食が延期となった。建礼門において大祓があった。件の穢は、去る月に伊勢奉幣使が京に帰る途中で触穢となったものである。(『日本紀略』)
6月21日 月次祭・神今食
天徳三年(959)6月21日乙未、月次祭・神今食が行われた。村上天皇が神嘉殿にお出ましになった。(『日本紀略』)
6月16日 皇后遷御
天徳三年(959)6月16日庚寅の夜、中宮藤原安子が小一条邸から飛香舎へお入りになった。(『日本紀略』)
7月
7月4日 広瀬・龍田祭
天徳三年(959)7月4日丁未、広瀬・龍田祭が行われた。(『日本紀略』)
7月5日 祈雨
天徳三年(959)7月5日戊申、丹生・貴船の両社に降雨を祈願した。未の刻に雷雨があった。神威である。(『日本紀略』)
7月7日 御製
天徳三年(959)7月7日庚戌、御製があった。詩題は「風驚織女秋」。(『日本紀略』)
中宮藤原安子が小車の遊を行った。(『九暦』)
7月10日 祈年穀奉幣
天徳三年(959)7月10日癸丑、16社に祈年穀奉幣が行われた。(『日本紀略』)
7月12日 季御読経
天徳三年(959)7月12日乙卯、季御読経が始められた。(『日本紀略』)
7月15日 結願
天徳三年(959)7月15日戊午、季御読経が結願した。(『日本紀略』)
7月16日 除目
天徳三年(959)7月16日己未、除目が始められた。(『日本紀略』)
7月17日 除目
天徳三年(959)7月17日庚申、除目が行われた。(『日本紀略』)
7月22日 相撲内取
天徳三年(959)7月22日乙丑、仁寿殿において相撲内取が行われた。(『日本紀略』)
7月26日 相撲試楽
天徳三年(959)7月26日己巳、相撲試楽が行われた。(『日本紀略』)
右府藤原師尹以下が衣を脱ぎ、舞人に給わった。(『九暦』)
7月28日 相撲節代
天徳三年(959)7月28日辛未、相撲節代があった。(『日本紀略』)
7月29日 抜出/追相撲
天徳三年(959)壬申、抜出・追相撲が行われた。(『日本紀略』)
7月30日 雑芸御覧
天徳三年(959)7月30日癸酉、雑芸の中、御殿前においてその伎芸が施された。また、音楽の演奏があった。(『日本紀略』)
8月
8月1日 有明親王 帯剣/式明親王 昇殿
天徳三年(959)8月1日甲辰、有明親王は勅により帯剣を授かった。(『日本紀略』)
また、中務卿式明親王が昇殿を許された。(『西宮記』)
8月3日 桃園邸雑舎焼亡
天徳三年(959)8月3日丙子、未の刻に右大臣藤原師輔の桃園雑舎が焼亡した。(『日本紀略』)
8月4日 釋奠
天徳三年(959)8月4日丁丑、釋奠が行われた。(『日本紀略』)
8月5日 内論議
天徳三年(959)8月5日戊寅、内論議が行われた。村上天皇がお出ましになった。博士に禄を給わった。(『日本紀略』)
8月8日 大風
天徳三年(959)8月8日辛巳、激しい風が吹いた。(『日本紀略』)
8月11日 定考
天徳三年(959)8月11日甲申、定考が行われた。(『日本紀略』)
8月15日 直物
天徳三年(959)8月15日戊子、直物があった。(『日本紀略』)
8月16日 詩合
天徳三年(959)8月16日己丑、清涼殿において詩合があった。(『日本紀略』)
8月20日 御読経
天徳三年(959)8月20日癸巳、御読経が始められた。(『日本紀略』)
8月23日 結願
天徳三年(959)8月23日丙申、御読経が結願した。(『日本紀略』)
9月
9月3日 御燈
天徳三年(959)9月3日乙巳、御燈があった。(『親信卿記』)
9月5日 臨時除目
天徳三年(959)9月5日丁未、臨時除目があった。左大臣藤原実頼が奉り行った。(『九暦』)
9月11日 伊勢例幣の延期
天徳三年(959)9月11日癸丑、内裏における犬の産穢により伊勢例幣は延期となった。(『日本紀略』)
9月25日 伊勢例幣
天徳三年(959)9月25日丁卯、八省行幸は雨により停止となった。伊勢幣が諸司に付された。伊勢例幣は延期となり、今日になった。(『九暦』)
9月18日 中宮女房歌合
天徳三年(959)9月18日庚申、中宮女房歌合があった。(『藤原元真集』)
9月26日 官奏/直物
天徳三年(959)9月26日戊辰、官奏・直物があった。(『日本紀略』)
10月
10月1日 旬
天徳三年(959)10月1日癸酉、旬の儀があった。村上天皇は紫宸殿にお出ましになった。音楽の演奏があった。(『日本紀略』)
10月3日 地震
天徳三年(959)10月3日乙亥、地震が起こった。(『日本紀略』)
10月5日 残菊宴
天徳三年(959)10月5日丁丑、残菊宴が行われた。詩題は「寒花低岸菊」。(『日本紀略』)
10月19日 内教坊の妓女に琴を弾かせる
天徳三年(959)10月19日辛卯、内教坊の妓女を召し、清涼殿の西渡殿において琴を弾かせた。饗禄を給わった。(『九暦』)
10月25日 皇子守平、親王宣旨
天徳三年(959)10月25日丁酉、第五皇子守平が親王となった。(『日本紀略』)
11月
11月1日 日食
天徳三年(959)11月1日壬寅、日食であったが、雨が降っていたので見えなかった。廃務であった。(『日本紀略』)
11月2日 旬
天徳三年(959)11月2日癸卯、村上天皇が紫宸殿にお出ましになった。旬のことがあった。(『日本紀略』)
11月12日 園・韓神祭
天徳三年(959)11月12日癸丑、園・韓神祭が行われた。(『日本紀略』)
11月13日 鎮魂祭・中宮鎮魂祭
天徳三年(959)11月13日甲寅、鎮魂祭・中宮(藤原安子)鎮魂祭が行われた。(『日本紀略』)
11月14日 新嘗祭
天徳三年(959)11月14日乙卯、新嘗祭が行われた。村上天皇が神嘉殿にお出ましになった。(『日本紀略』)
11月15日 豊明節会
天徳三年(959)11月15日丙辰、豊明節会が行われた。(『日本紀略』)
11月16日 東宮鎮魂祭
天徳三年(959)11月16日丁巳、東宮鎮魂祭が行われた。(『日本紀略』)
11月20日 賀茂臨時祭の延期
天徳三年(959)11月20日辛酉、内裏の触穢により賀茂臨時祭が延期となった。(『日本紀略』)
11月26日 賀茂臨時祭
天徳三年(959)11月26日丁卯、賀茂臨時祭が行われた。(『日本紀略』)
11月23日 大原野祭の停止
天徳三年(959)11月23日甲子、落胎の穢が内裏に来たことによって、大原野祭が停止となった。(『日本紀略』)
12月
12月9日 天変
天徳三年(959)12月9日己卯、日が三輪出てきて、白虹が日を貫いた。(『九暦』)
12月10日 御体御卜奏/官奏
天徳三年(959)12月10日庚申、官奏の後、御体御卜奏が行われた。(『西宮記』)
12月11日 月次祭・神今食
天徳三年(959)12月11日辛巳、月次祭・神今食が行われた。村上天皇が神嘉殿にお出ましになった。(『日本紀略』)
12月14日 藤原在衡、一分宣旨
天徳三年(959)12月14日甲申、民部卿藤原在衡が一分宣旨を給わった。(『九暦』)
12月15日 左大臣六十算
天徳三年(959)12月15日乙酉、勧学院の学生が左大臣藤原実頼の六十算を祝った。(『日本紀略』)
12月16日 踏歌
天徳三年(959)12月16日丙戌、殿上において踏歌が行われた。左大臣藤原実頼・藤原朝忠・藤原朝成らが候した。右近中将藤原元輔が寿言を行い、藤原兼通・珍材が輪を取った。この踏歌は去る9月の天変により停止されていたが、左大臣が催し奏したので行われた。世間の人々は不穏なことだと言い合った。(『日本紀略』『九暦』)
12月20日 御読経/御仏名
天徳三年(959)12月20日庚寅、紫宸殿において御読経が行われた。御仏名により、御前に僧を召さなかった。(『日本紀略』)
12月20日 結願
天徳三年(959)12月20日壬辰、御読経が結願した。(『日本紀略』)
12月25日 荷前
天徳三年(959)12月25日乙未、荷前使が立てられた。(『日本紀略』)
+ 天徳四年(960)の年表を見る
天徳四年(960)
天徳四年(960)
1月1日 小朝拝/元日節会
天徳四年(960)1月1日辛丑、村上天皇は紫宸殿にお出ましにならなかった。(『日本紀略』)
左大臣藤原実頼が忠君に七曜御暦奏・氷様などを奏させた。年来の例により、内侍所に付した。酉の刻、小朝拝が行われた。夜に入ると、列を引いた。右大臣藤原師輔は腰痛が完治していないため、列に候じ難いと奏した。しかし「腋から参上するように」との仰せがあった。師輔は仰せを蒙った後、心神を病んだ。よって参上するに堪えず、九条邸に帰った。(『九暦』)
1月2日 中宮大饗/左大臣臨時客
天徳四年(960)1月2日壬寅、中宮(藤原安子)の大饗があった。憲平親王が参覲した。(『日本紀略』『西宮記』)
また、左大臣藤原実頼が臨時客を行った。四親王の拝賀があった。(『九暦』)
1月3日 卯杖/東宮大饗/右大臣臨時客
天徳四年(960)1月3日癸卯、内侍所に卯杖が付された。この日、東宮大饗が行われた。(『日本紀略』『九暦』『西宮記』)
また、右大臣藤原師輔が臨時客を行った。(『九暦』)
1月4日 法性寺御八講
天徳四年(960)1月4日甲辰、この年初めて法性寺において御八講が行われた。(『扶桑略記』)
1月5日 受領功過
天徳四年(960)1月5日乙巳、陣において受領功過のことが定められた。(『九暦』)
1月6日 熾盛光法・不動法・大般若経/叙位
天徳四年(960)1月6日丙午、延暦寺大日院において熾盛光法・不動法の両法が行われた。また、七日間に渡る大般若経の転読が始まった。天変によるものである。(『延喜天暦御記抄』)
また、叙位の儀が行われた。(『日本紀略』)
1月7日 節会/叙位
天徳四年(960)1月7日丁未、叙位の儀が行われた。(『日本紀略』)申の刻に左大臣藤原実頼が参入し、夜に入ってから始められた。伊尹・兼通・兼家・忠君・遠量ら五人を加階した。兄弟三人以上が同時に加階された例は往古にも聞いたことがない。もしくは、栄華の極みか。(『九暦』)
1月8日 御斎会/女叙位
天徳四年(960)1月8日戊申、御斎会が始まった。また、女叙位が行われた。(『日本紀略』)
1月14日 結願
天徳四年(960)1月14日甲寅、御斎会が結願した。藤原伊尹が告げて曰く「大饗の日、令により今宮(為平親王)は尊者の禄物を取り出しました」と言った。右大臣藤原師輔は布施の物を取らずに退出した。(『九暦』)
1月11日 左大臣大饗
天徳四年(960)1月11日辛亥、左大臣藤原実頼が大饗を開いた。(『日本紀略』『九暦』)
1月12日 右大臣大饗
天徳四年(960)1月12日壬子、右大臣藤原師輔が大饗を開いた。(『日本紀略』『九暦』)
1月21日 除目
天徳四年(960)1月21日辛酉、除目が始められた。(『日本紀略』)
1月24日 除目
天徳四年(960)1月24日甲子、除目が行われた。(『日本紀略』)
2月
2月2日 春日祭
天徳四年(960)2月2日壬申、春日祭が行われた。(『日本紀略』)
2月4日 祈年祭
天徳四年(960)2月4日甲戌、祈年祭が行われた。(『日本紀略』)
2月6日 御遊
天徳四年(960)2月6日丙子、右大臣藤原師輔が供膳を調えた。侍臣が管弦を演奏した。(『日本紀略』)
2月7日 園・韓神祭、釋奠
天徳四年(960)2月7日丁丑、釋奠並びに園・韓神祭が行われた。(『日本紀略』)
2月9日 荘子女王、若菜を供する
天徳四年(960)2月9日己卯、麗景殿において女御藤原荘子が若菜を供された。(『日本紀略』)
2月11日 列見の延期/第六皇子、昌平親王になる
天徳四年(960)2月11日辛巳、明日仁王会が修されるため、列見は延期となった。よって、大祓が行われた。
この日、村上天皇の第六皇子昌平が親王となった。左大臣藤原実頼らが仁寿殿の東庭において慶びの言葉を奏した。村上天皇の御物忌により、弓場殿に参らなかった。(『日本紀略』『九暦』)
2月12日 臨時仁王会
天徳四年(960)2月12日壬午、仁王会が修された。式部大輔橘直幹が呪願文を作成した。(『日本紀略』)
2月17日 雷鳴
天徳四年(960)2月17日丁亥、雷電が大膳職院に落ちた。(『日本紀略』)右大将中納言藤原師尹が参内した。(『西宮記』)
2月19日 直物
天徳四年(960)2月19日己丑、直物が行われた。(『日本紀略』)
2月21日 熾盛光法
天徳四年(960)2月21日辛卯、この日から延暦寺大日院において五十日に渡る熾盛光法が始まった。天変によるものである。(『延喜天暦御記抄』)
2月28日 大蔵省が怪異を奏する
天徳四年(960)2月28日戊戌、大蔵省は神態御庫が度々鳴動することを奏した。(『扶桑略記』)
3月
3月3日 御燈
天徳四年(960)3月3日壬寅、御燈があった。廃務であった。(『日本紀略』)
3月8日 踏歌後宴/殿上賭射
天徳四年(960)3月8日丁未、村上天皇が弓場殿にお出ましになり、殿上において賭弓が行われた。大臣たちが射た。(『日本紀略』)
3月13日 射礼
天徳四年(960)3月13日壬子、射礼が行われた。(『日本紀略』)
3月16日 季御読経
天徳四年(960)3月16日乙卯、季御読経が始められた。(『日本紀略』)
3月19日 結願
天徳四年(960)3月19日戊午、季御読経が結願した。(『日本紀略』)
3月17日 摂津四天王寺 焼亡
天徳四年(960)3月17日丙辰、摂津国四天王寺で火災があった。(『日本紀略』)
3月19日 為平親王、御註孝経を読む
天徳四年(960)3月19日戊午、村上天皇の第四皇子為平親王は飛香舎において、初めて御註孝経を読んだ。右中弁菅原文時が詩宴を開いた。民部少輔藤原後生が序文を作った。式部少丞源伊輔が尚復を務めた。(『日本紀略』)
3月21日 仁明天皇
天徳四年(960)3月21日庚申、仁明天皇の国忌により廃務であった。(『菊亭文書』)
3月22日 諸社奉幣
天徳四年(960)3月22日辛酉、伊勢大神宮などの12社に奉幣が行われた。(『日本紀略』)
3月30日 天徳内裏歌合
天徳四年(960)3月30日己巳、清涼殿において歌合が行われた。
方人を務める女房が左右に分かれた。左方が六人、右方が四人であった。大納言源高明が琵琶を弾いた。頻りにお酌をして巡る人がいた。音楽が途切れることはなかった。大臣以下は禄を賜った。(国史大系-『扶桑略記』)
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参考天徳内裏歌合(天徳歌合)
天徳四年(960)3月30日、内裏の清涼殿において村上天皇が主催した歌合である。後の歌合の規範となった。左方と右方に分かれて和歌の優劣を競い、結果は左方の10勝5敗5分で左方の勝ちとなった。 歌合 お ...
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4月
4月1日 旬/霜が降る
天徳四年(960)4月1日庚午、早朝に霜が降り、人々は怪しく思った。(『天徳御記』)
旬の儀があり、村上天皇が紫宸殿にお出ましになった。疫病の流行と楽人の不足により、音楽の演奏はなかった。(『日本紀略』『九暦』)
4月3日 大般若経
天徳四年(960)4月3日壬申、東大寺・元興寺・大安寺・西大寺・法隆寺・東寺・西寺・延暦寺に大般若経を転読させ、疫病が鎮まるよう祈祷させた。(『類聚符宣抄』)
4月4日 広瀬・龍田祭の延期/天変
天徳四年(960)4月4日癸酉、触穢により、広瀬・龍田祭が延期された。(『日本紀略』)
この日、月と太白星が合宿していた。(『日本紀略』)
陰陽寮の勘文により、5月6日改めて行うことになった。(『西宮記』)
5月6日 広瀬・龍田祭
天徳四年(960)5月6日甲辰、広瀬・龍田祭が行われた。去る4月4日に穢で延期されていたものである。(『日本紀略』)
4月5日 天変
天徳四年(960)4月5日甲戌、戌の刻に月が北の河を犯していた。(『日本紀略』)
4月7日 天変
天徳四年(960)4月7日丙子、鎮星が牽牛を犯していた。(『日本紀略』)
4月8日 灌仏
天徳四年(960)4月8日丁丑、灌仏が行われた。(『日本紀略』)
4月9日 熾盛光法
天徳四年(960)4月9日戊寅、延暦寺大日院において五十日に渡る熾盛光法が修された。天変の災いを鎮めるためである。(『日本紀略』)
4月13日 五月節の停止
天徳四年(960)4月13日壬午、仰せによって五月節が停止された。(『日本紀略』)
4月18日 美福門院前で闘乱
天徳四年(960)4月18日丁亥、式部大輔橘直幹は退出する途中、美福門院において雑人に暴行された。
19日戊子に検非違使右衛門府生穂積良氏、石生秋郷らが参内し、下手人式部史生奈癸忠雅を捕らえたことを報告した。(『扶桑略記』『侍中群要』)
4月20日 天文奏
天徳四年(960)4月20日己丑、主税頭十市以忠が去る18日の寅の刻に月が南斗第二星を犯したことを奏上した。(『日本紀略』『扶桑略記』)
4月21日 理子内親王 薨去
天徳四年(960)4月21日庚寅、理子内親王が薨じられた。(『日本紀略』)
4月26日 賀茂祭の警固
天徳四年(960)4月26日乙未、賀茂祭の警固が行われた。(『日本紀略』)
4月27日 斎院御禊
天徳四年(960)4月27日丙申、賀茂祭の斎院御禊が行われた。先例では午の日に行われるが、触穢期間で延期されていたので、今日行った。(『日本紀略』)
4月28日 賀茂祭
天徳四年(960)4月28日丁酉、賀茂祭が行われた。ただし、内蔵寮・近衛・馬寮などの使者及び典侍・命婦・蔵人・国司・春宮坊の使者は停止された。理子内親王の薨去によるものである。斎院は例によって社頭に参った。また、中宮藤原安子が使者を発向した。その忌みはない。(『日本紀略』)
4月29日 解陣
天徳四年(960)4月29日戊戌、解陣が行われた。(『日本紀略』)
5月
5月1日 日食/藤原師輔 出家
天徳四年(960)5月1日己亥、日食により廃務となった。(『日本紀略』)
この日、右大臣藤原師輔は病により度者15人を賜った。師輔は病により出家した。(『日本紀略』)
5月2日 読経
天徳四年(960)5月2日庚子、疫病の流行により、諸国並びに十五大寺に官符を下して疫病を鎮めるための祈祷を行わせた。(『扶桑略記』)
5月3日 諸社奉幣・読経
天徳四年(960)5月3日辛丑、久しく雨が降っていないので、人々の憂いは甚だ多かった。また疫病による死者も多かったので、諸社へ奉幣し読経させた。(『祈雨記』)
5月4日 藤原師輔 薨去
天徳四年(960)5月4日壬寅、右大臣藤原師輔が九条第において薨去された。享年53歳。(『日本紀略』『祈雨記』)
右大臣藤原師輔は長男伊尹に自分の葬儀は簡略化するように遺言を書いておいたが、伊尹は遺言に従わずに通例通りの葬儀を行った。そのせいで、伊尹は早逝したといわれている。(『大鏡』)
5月5日 祈雨
天徳四年(960)5月5日癸卯、神祇官において降雨並びに疫病が除かれることを祈った。また、丹生・貴船の両社に奉幣して雨を祈った。(『日本紀略』)
5月8日 祈雨
天徳四年(960)5月8日丙午、炎旱により、寛空僧正に仁寿殿において孔雀経法を修させた。(『東寺長者補任』)
香隆寺の僧正寛空は、河内国の人である。神日律師の入室、宇多天皇、灌頂の弟子である。
天徳四年(960)、炎旱の愁いがあったとき、5月9日から仁寿殿において孔雀経法を修したが、雨は降らなかった。結願の日になって巻数を奉るとき、殿上に霊験がなかったと申して奏上しなかった。僧正はそのことを聞いて、法服を着て香炉を捧げ、庭の中に立って深く観念していると、香炉の煙が空高く昇り大雨が降った。ただし、雨が降ったのは宮中だけで、郭外には降らなかった。人々は不思議に思った。(『古今著聞集』)
5月9日 祈雨
天徳四年(960)5月9日丁未、東大寺大仏殿において、七大寺の僧が祈雨の読経を行った。(『祈雨記』)
陰陽寮が勘申した日である。(『祈雨記』)
5月10日 皇后遷御/憲平親王の病
天徳四年(960)5月10日戊申、右大臣藤原師輔の薨去により、中宮藤原安子が右近権中将藤原伊尹の一条邸にお移りになった。また、勅によって、蔵人藤原雅材が憲平親王の病状を訪ねに行った。(『扶桑略記』)
5月12日 漁御覧
天徳四年(960)5月12日庚戌、申の刻に村上天皇が釣殿に漁者丹波春助を召し、網で魚を捕えるのをご覧になった。鯉と鮎が一、二匹捕えられたので、すぐに放した。夜にお帰りになった。(『河海抄』)
5月13日 軒廊御卜/孔雀経法
天徳四年(960)5月13日辛亥、炎旱により、神祇官と陰陽寮が祟りによるものか軒廊御卜を行った。(『祈雨記』)
5月21日 臨時仁王会
天徳四年(960)5月21日己未、仁王会が行われた。文章博士紀在昌が呪願文を作成した。(『日本紀略』)
5月28日 直物/相撲人の停止
天徳四年(960)5月28日丙寅、直物が行われた。疫病の流行により、相撲人を貢ぐのを停止された。(『日本紀略』)
6月
6月1日 大祓
天徳四年(960)6月1日己巳、宮中の死穢によって、建礼門において大祓が行われた。(『日本紀略』)
6月5日 大般若経
天徳四年(960)6月5日癸酉、炎旱により、延暦寺大日院において五十日に渡って大般若経が行われた。(『日本紀略』)
6月11日 月次・神今食祭の延期
天徳四年(960)6月11日己卯、内裏における死穢によって月次・神今食が延期された。建礼門院において大祓が行われた。(『日本紀略』)
6月13日 除目
天徳四年(960)6月13日辛巳、蔵人助信が右大将藤原師尹の家に遣わされ、内給所のことを仰せられた。(『西宮記』)
6月22日 藤原師輔の七十七日忌
天徳四年(960)6月22日庚寅、中宮藤原安子は法性寺において右大臣藤原師輔の七十七日忌法会を修した。布三百段の布施があった。(『日本紀略』)
7月
7月7日 御製
天徳四年(960)7月7日乙巳、御製があった。お題は「月扇動涼風」。(『日本紀略』)
7月17日 石清水等十五社に奉幣使を発遣
天徳四年(960)7月17日乙卯、炎旱によって石清水などの十五社に奉幣使を発遣した。(『日本紀略』)
7月19日 祈雨
天徳四年(960)7月19日丁巳、大和室生龍穴において読経を行い、降雨を祈願した。(『日本紀略』)
7月23日 山城国神泉苑の水を汲む
天徳四年(960)7月23日辛酉、山城国に申請して神泉苑の水を汲んだ。(『日本紀略』)
7月25日 雩祭
天徳四年(960)7月25日癸亥、この日から三日間に渡って、陰陽寮が神泉苑において雩祭(雨乞いの祭祀)を行った。(『日本紀略』)
7月26日 山陵使発遣
天徳四年(960)7月26日甲子、炎旱によって、山階・柏原・深草・後田邑・後山科などの諸陵に山陵使を発遣した。(『日本紀略』)
7月27日 藤原師尹、冷泉院別当になる
天徳四年(960)7月27日乙丑、中納言藤原師尹が冷泉院別当に補任した。(『西宮記』)
7月28日 季御読経
天徳四年(960)7月28日丙寅、季御読経が行われた。(『日本紀略』)
8月
8月10日 釋奠の延期
天徳四年(960)8月10日丁丑、大学寮における犬の死穢により、釋奠は延期となった。(『日本紀略』)
8月20日 釋奠
天徳四年(960)丁亥、釋奠が行われた。(『日本紀略』)
8月21日 内論議
天徳四年(960)8月21日戊子、内論議が行われた。村上天皇が紫宸殿にお出ましになった。例年通り、禄を給わった。(『日本紀略』)
8月11日 定考
天徳四年(960)8月11日戊寅、定考が行われた。(『日本紀略』)
8月18日 大風
天徳四年(960)8月18日乙酉、激しい風が吹いた。(『扶桑略記』)
8月22日 藤原顕忠、右大臣兼左近衛大将になる
天徳四年(960)8月22日己丑、大納言藤原顕忠が右大臣に任ぜられた。(『日本紀略』)
8月29日 諸社奉幣
天徳四年(960)8月29日丙申、諸社に奉幣し、神宝を献じた。(『日本紀略』)
9月
9月4日 除目
天徳四年(960)9月4日辛丑、除目が行われた。(『日本紀略』)
9月23日 内裏焼亡
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参考天徳四年の内裏焼亡と安倍晴明の霊剣鋳造
天徳四年(960)、内裏で大火事があり宝物として安置されていた御剣が消失した。陰陽寮の太一式盤も焼失した。天徳四年は安倍晴明が初めて史料に登場した年。この年、晴明は40歳になる。翌年に神護寺で五帝祭が ...
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9月28日 内裏造営
天徳四年(960)9月28日乙丑、内裏造営のことが定められた。参議源雅信がこれを書した。紫宸殿・仁寿殿・承明門は修理職、常寧殿・清涼殿は木工寮、承香殿・淑景舎北一字は近江国、麗景殿は大和国、宜陽殿は安芸国、温明殿は伊賀国、安福殿は摂津国、校書殿は丹波国、弘徽殿は河内国、登華殿は備前国、後涼殿は紀伊国、昭陽舎南一字は美作国、同舎北一字は淡路国、飛香舎は阿波国、凝華舎は和泉国、建春門院は若狭国、宣陽門は尾張国、陰明門は長門国、玄輝門は土佐国、四面廊下は東面が伊勢国・越前国、南面が伊予国、西面が備中国・備後国、北面が讃岐国、進物所・作物所・御輿宿屋及び殿々の間の軒廊・直盧屋などは近隣諸国が担当することになった。(『扶桑略記』)
9月29日 勧学院庁舎焼亡
天徳四年(960)9月29日丙寅、亥の刻に勧学院庁で火災があった。(『日本紀略』)
勧学院倉一字と政所板屋二字が燃えた。(『扶桑略記』)
10月
10月1日 旬平座
天徳四年(960)10月1日丁卯、左大臣藤原実頼・右大臣藤原顕忠が職曹司に参った。(『日本紀略』)
10月2日 平将門の子を捜索
天徳四年(960)10月2日戊辰、右大将藤原師尹が「近頃、人々が『故平将門の息子が入京した』と噂しています」と奏した。勅があり、右衛門督藤原朝忠は検非違使に捜索させた。また、源延光も源満仲・義忠・春実らに捜索させた。(『扶桑略記』)
10月4日 触穢/伊勢大神宮奉幣/怪異
天徳四年(960)10月4日庚午、伊勢大神宮へ奉幣が行われた。夜、左近衛府で死人の頭部が発見された。よって、大祓が行われた。外記が勘申し、五体不具穢は七日間の慎みが必要だということだった。(『日本紀略』)
夜、人々は清水寺において鬼火が京城に満ちている光景を目撃した。(『扶桑略記』)
10月5日 大学寮南堂東曹司焼亡
天徳四年(960)10月5日辛未、戌の刻に大学寮南堂東曹司ならびに算堂東三間で火災があった。(『日本紀略』)
10月7日 造内裏行事所
天徳四年(960)10月7日癸酉、大納言藤原在衡らが初めて内裏行事所に著した。(『日本紀略』)
10月9日 直物・小除目
天徳四年(960)10月9日乙亥、直物・小除目があった。(『日本紀略』)
10月18日 内裏防火の功賞
天徳四年(960)10月18日甲申、左近衛中将源重光、少納言藤原兼家が内裏防火の功績によって禄を賜った。(『日本紀略』)
10月19日 恩詔
天徳四年(960)10月19日乙酉、恩詔があった。右中弁菅原文時が詔を作成した。(『日本紀略』)
10月22日 賀茂保憲が冷泉院遷御の可否を勘申する
天徳四年(960)10月22日戊子、源延光が「賀茂保憲・秦具瞻・文道光らを召し、職御曹司から冷泉院への遷御の可否を勘申させました。大将軍の方角に当たり、四十五日に満ちていないが遷御を忌むべきかについて、保憲は忌むべきではないと勘申しました。大将軍は一年の忌みであると、秦具瞻・文道光は忌むべきだと勘申しました」と奏した。(『西宮鈔』)
10月23日 触穢
天徳四年(960)10月23日己丑、去る21日に綾綺殿の壇の南から骸骨が出てきた。五体不具穢に准じ、七日間の慎みが必要となった。(『日本紀略』)
11月
11月1日 諸社奉幣
天徳四年(960)11月1日丁酉、村上天皇は職曹司から大極殿にお出ましになり、伊勢大神宮などの諸社へ奉幣使が発遣された。去る9月の内裏焼亡によって累代の宝物が焼損したことを告げた。(『日本紀略』)
11月2日 御暦奏
天徳四年(960)11月2日戊戌、御暦奏が行われた。(『日本紀略』)
女房前の小庭において奏された。(『西宮記』)
11月4日 冷泉院遷御
天徳四年(960)11月4日庚子、村上天皇は職曹司から冷泉院へお移りになった。天文博士賀茂保憲が反閇を奉仕した。陰陽頭秦具瞻が院内鎮法を勤めた。饗膳・屯食があった。憲平親王もまた職曹司から同院の東南対屋にお移りになった。(『日本紀略』)
11月5日 穀倉院が饗餞を設ける
天徳四年(960)11月5日辛丑、穀倉院が饗餞と所々の屯食を設けた。(『日本紀略』)
11月7日 旬
天徳四年(960)11月7日癸卯、冷泉院遷御の後、初めて旬の儀が行われた。村上天皇は南殿にお出ましになった。(『日本紀略』)
また、内侍所を縫殿寮から冷泉院に移した。(『年中行事秘抄』)
11月12日 平野祭
天徳四年(960)10月12日戊申、平野祭が行われた。(『日本紀略』)
11月13日 政
天徳四年(960)10月13日己酉、冷泉院遷御後初めての政があった。(『日本紀略』)
11月14日 夜警
天徳四年(960)11月14日庚戌、左大臣藤原実頼が仰せて曰く、近頃京中に盗人が横行しているので、検非違使のほかに武力に長けた官人に夜の見回りをさせた。(『西宮記』)
11月16日 大原野祭
天徳四年(960)11月16日壬子、大原野祭が行われた。(『日本紀略』)
11月17日 園・韓神祭
天徳四年(960)11月17日癸丑、園・韓神祭が行われた。(『日本紀略』)
11月18日 鎮魂祭/五節試
天徳四年(960)11月18日甲寅、鎮魂祭が行われた。(『日本紀略』)
亥一刻、五節の舞姫が中殿の南廂に参上した。舞歌人が同殿の西渡廊下に参上した。子四刻に終わり、退出した。(『西宮記』)
11月19日 新嘗祭/諸社奉幣
天徳四年(960)11月19日乙卯、神祇官斎院において新嘗祭が行われた。(『日本紀略』)
また、八省院において諸社奉幣使が発遣された。(『日本紀略』)
11月20日 豊明節会/怪異
天徳四年(960)11月20日丙辰、豊明節会が行われた。(『日本紀略』)
辰の刻に御殿が鳴動し、巳の刻に内膳御竈神が鳴動する怪異があったので、陰陽寮が御卜を行った。(『日本紀略』)
11月25日 賀茂臨時祭
天徳四年(960)11月25日辛酉、賀茂臨時祭が行われた。内裏火災ならびに天変・怪異の宣命辞別があった。(『日本紀略』)
11月28日 内裏木作始
天徳四年(960)11月28日甲子、内裏木作始が行われた。まず、建礼門において大祓が修された。(『日本紀略』)
12月
12月1日 理趣般若経
天徳四年(960)12月1日丙寅、建礼門においてこの日から三日間、僧三口が理趣般若経を修した。内裏造営による。(『日本紀略』)
12月5日 諸社奉幣
天徳四年(960)12月5日庚午、七道諸国の諸社へ奉幣使が発遣された。内裏焼亡ならびに天変・怪異による。(『日本紀略』)
12月11日 月次祭・神今食
天徳四年(960)12月11日丙子、月次祭・神今食が行われた。(『日本紀略』)
12月15日 皇后遷御
天徳四年(960)12月15日庚辰、中宮藤原安子が東院へお移りになった。(『日本紀略』)
12月16日 臨時仁王会
天徳四年(960)12月16日辛巳、仁王会が行われた。菅原文時が呪願文を作成した。(『日本紀略』)
12月18日 紅梅を植える
天徳四年(960)12月18日癸未、中殿の艮の方角に紅梅を植えた。(『禁秘抄』)
12月25日 漏刻・金鼓を冷泉院に移す
天徳四年(960)12月25日庚寅、漏刻・金鼓を冷泉院に移した。(『日本紀略』)
12月30日 追儺
天徳四年(960)12月30日乙未、追儺が行われた。方相氏が西中門から入った。陰陽官人が呪を読んだ。(『西宮記』)
+ 天徳五年/応和元年(961)の年表を見る
天徳五年/応和元年(961)
1月
1月1日 四方拝/供御薬/小朝拝の停止
天徳五年(961)1月1日丙申、四方拝が行われた。女房が尋常装束を著し、御薬を供した。村上天皇の御物忌により小朝拝は停止となった。(『西宮記』)
1月2日 東宮参覲/東宮大饗
天徳五年(961)1月2日丁酉、憲平親王が参覲された。(『日本紀略』)
また、憲平親王が院の巽の方角の御厩町において大饗を行った。(『西宮記』)
1月5日 叙位の日を改める
天徳五年(961)1月5日庚子、叙位の儀は今まで6日に行われていたが、夜明けまで及んで7日の節会に懈怠があったので、今後は5日に行うよう定められた。(『公事根源』)
1月7日 節会/叙位
天徳五年(961)1月7日壬寅、節会・叙位が行われた。(『桂史抄』)
1月22日 除目
天徳五年(961)1月22日丁巳、除目が始められた。(『日本紀略』)
2月
2月3日 大原野祭/釋奠
天徳五年(961)2月3日丁卯、大原野祭が行われた。また、釋奠が行われた。(『日本紀略』)
2月4日 祈年祭
天徳五年(961)2月4日戊辰、祈年祭が行われた。(『日本紀略』)
2月8日 春日祭/触穢
天徳五年(961)2月8日壬申、内裏で触穢があったので、春日祭使は参内しなかった。(『北山抄』)
2月11日 列見
天徳五年(961)2月11日乙亥、列見が行われた。(『日本紀略』)
2月15日 直物
天徳五年(961)2月15日己卯、直物があった。(『日本紀略』)
2月16日 改元
天徳五年(961)2月16日庚辰、詔により天徳五年から応和元年へ改元が行われた。(『日本紀略』)