葦屋浦の戦いは、元暦二年(1185)2月1日に豊後国葦屋浦で行われた源範頼率いる源氏軍と原田種直とその息子種益らとの合戦。
渋谷重国が種直を、下河辺行平が美気敦種を討ち取って源氏軍が勝利した。
経過
範頼が頼朝へ手紙を書く
平氏追討のために西海に派遣された東国武士たちが、船も兵糧もなくて合戦を行うことができないとの情報が入った。
数日間に及ぶ評議の末に船と兵糧米を送る旨を西海に伝えようとしたところ、前年に範頼が派遣した飛脚が元暦二年(1185)1月6日になって到着した。
内容は、兵糧がなく武士たちの士気が低下していることと、範頼の乗る馬がほしいというものだった。
頼朝は雑色に手紙を届けさせた。(『吾妻鏡』同日条)
臼杵惟隆と緒方惟栄が味方に加わる
同年1月12日、範頼は赤間関に到着したが、兵糧が尽きて渡海する船もなく数日間逗留を余儀なくされた。
東国武士たちの士気も地に落ちようとしていたが、豊後国の住人臼杵惟隆とその弟緒方惟栄は源氏に加わる意志があったので、彼らから船をもらうことにした。
範頼は周防国に戻った。(『吾妻鏡』同日条)
豊後国に上陸
同年1月26日、範頼の命で臼杵惟隆と緒方惟栄らが82艘の船を調達した。
また、周防国の住人宇佐那木遠隆が兵糧米を調達してきたので、範頼らは豊後国に上陸した。(『吾妻鏡』同日条)
勇敢な行平
範頼たちが豊後国への上陸を目指すなか、下河辺行平は甲冑を売った金で小舟を買い取り、最前を漕いでいった。
これを見た人々は「甲冑を着けて大将軍の船に参上し、準備万端にして合戦に赴くべきだ」と行平を非難した。
行平が「自分の命は惜しくないので、甲冑は着けるよりも船を漕いで一番乗りに着きたい」と言ったので、ほかの武士たちも船に乗った。
範頼が周防国の守護に当たらせる者は誰が適任か聞くと、千葉常胤が三浦義澄を推挙した。
義澄は周防国に留まるよりも敵地に一番乗りに着いて勲功を立てたい思いが強かったが、勇敢な者を留まらせることは予め伝えられていたので、結局周防国に陣を構えることになった。(『吾妻鏡』同年1月26日条)
葦屋浦で平氏軍を破る
同年2月1日、範頼は豊後国に到着し、北条義時・下河辺行平・渋谷重国・品川清実らが最初に上陸した。
葦屋浦で原田種直とその息子種益らと合戦になり、渋谷重国が種直を、下河辺行平が美気敦種を討ち取って源氏軍が勝利した。(『吾妻鏡』同日条)
花絮
遊女との戯れ
『平家物語』では、範頼は敵陣に向かわず遊女と戯れていたと記されている。
なお、『延慶本』では範頼が遊女と戯れていたのは藤戸の戦いの前となっている。