平安時代の年表:朱雀天皇の御代、天慶四年(941)1月1日から天慶九年(946)4月20日までの出来事を年表にまとめました。通常の記録に加え、説話も追記。陰陽寮の活動は色付きで紹介しています。
朱雀天皇時代の年表(天慶)
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天慶四年(941)
1月
この月の下旬、出雲の国の海辺に戛を打つ音が聞こえた。夜が明けて見ると、島根の郡の堺から楯縫郡の堺まで一町余り程に渡って、氷が重なり塔のようになったものが並んでいた。それぞれ高さ三丈余りで、周囲は七、八尺程であった。後に消えてなくなった。(『古今著聞集』)
1月1日 小朝拝/元日節会
天慶四年(941)1月1日辛酉、小朝拝のことがあった。雨により、王卿は仁寿殿の西廂に列立した。(北上。)侍臣は長橋の中に立った。(東上北面。)六位がその後ろに立った。拝舞が終わった。(『西宮記』-吏部王記)
1月4日 太政大臣大饗
天慶四年(941)1月4日甲子、太政大臣家(藤原忠平)の大饗があった。(『西宮記』★)
1月5日 左大臣大饗
天慶四年(941)1月5日乙丑、左大臣(藤原仲平)の大饗があった。(『九条殿記』)
1月7日 叙位
天慶四年(941)1月7日丁亥、叙位の議があった。(『公卿補任』)
1月14日 御斎会内論議
天慶四年(941)1月14日甲戌、御斎会内論議が行われた。(『西宮記』★)
1月15日 藤原純友のことについて
天慶四年(941)1月15日乙亥、諸卿を御前に召して藤原純友のことを定めた。(『北山抄』)
1月16日 節会/追捕南海凶賊使の解文
天慶四年(941)1月16日丙子、女踏歌があった。今日、追捕南海賊使が解文を持ってきた。(『日本紀略』)
1月17日 射礼
天慶四年(941)1月17日丁丑、射礼が行われた。(『西宮記』)
1月20日 延暦寺惣持院 焼亡
天慶四年(941)1月20日庚辰、延暦寺惣持院が焼亡した。(『華頂要略』)
1月21日 伊予国が藤原三辰の首を進上
天慶四年(941)1月21日辛巳、伊予国が前山城掾藤原三辰の首を進上した。海賊の中でも暴悪の者である。讃岐国の乱は三辰に発したものであった。西の獄所の辺りに遣わされた。(『師守記』)
2月
2月6日 諸社奉幣
天慶四年(941)2月6日丙申、山陽・南海道の凶賊により、諸社へ奉幣が行われた。(『師守記』)
2月7日 釋奠
天慶四年(941)2月7日丁酉、釋奠が行われた。(『江次第』)
2月9日 海賊討伐
天慶四年(941)2月9日己亥、讃岐国の飛駅が来て言った。「兵庫允宮道忠用・藤原恒利が伊予国へ向かい、賊類を頗る撃ちました。」。(『日本紀略』)
2月10日 讃岐国へ勅符を賜る/大江維時 昇殿
天慶四年(941)2月10日庚子、讃岐国へ勅符を賜った。(『日本紀略』)
また、参議正四位下大江維時・参議正四位下源兼忠が昇殿を許された。(『公卿補任』)
2月12日 公卿論奏
天慶四年(941)2月12日壬寅、公卿論争を奉った。勅があり、参議藤原当幹は病のため不上を免じられた。(『本朝世紀』)
2月16日 殿上賭弓
天慶四年(941)2月16日丙午、朱雀天皇が弓場にお出ましになった。藤原師輔は懸物を給わった。唐綾三疋。前例では、中科の人が仰せによって懸物を取った。しかし、所掌朝忠が懸物を取り、師輔を召してお伝えになった。頗る例に違うことである。(『西宮記』-『九暦』)
2月20日 橘公頼 薨去
天慶四年(941)2月20日庚戌、中納言兼太宰権帥従三位橘公頼が薨じられた。(『日本紀略』)
2月22日 藤原実頼の娘 入内
天慶四年(941)2月22日壬子、「夕方、右大将藤原実頼卿の長女が初めて内裏に参りました。昭陽舎に陪しました。そこで夜、侍寝しました」という。(『吏部王記』)
3月
この月、酉の方に星があった。その光は白虹のようであった。本体は細く、末に向かって広がっていた。(『扶桑略記』)
また、玄蕃頭紀貫之が御屏風の和歌を献上した。(『玉葉和歌集』)
3月6日 殿上賭弓負態
天慶四年(941)3月6日丙寅、東弓場において負方の献物があった。(『日本紀略』)
3月11日 位禄定
天慶四年(941)3月11日辛未、朝綱が今年の位禄の国充勘文を持ってきた。右大将(藤原実頼)が申させたところである。(『西宮記』-貞信公記抄)
3月15日 花宴/源相職を蔵人頭に補す
天慶四年(941)3月15日乙亥、承香殿の東庭において花宴があった。詩題は「花樹暮雲深」。(『日本紀略』)
左近衛少将源相職を蔵人頭に補した。(『職事補任』)
3月17日 桓武天皇国忌/季御読経
天慶四年(941)3月17日丁丑、桓武天皇の国忌であった。季御読経は通例のとおり行われた。(『西宮記』)
3月23日 賭弓
天慶四年(941)3月23日癸未、成明親王が温明殿において賭射を奉仕した。(『日本紀略』)
3月27日 文選竟宴
天慶四年(941)3月27日丁亥、大学北堂において文選竟宴があった。詩を賦し、和歌を献じた。(『日本紀略』)
3月28日 除目
天慶四年(941)3月28日戊子、除目が行われた。(『公卿補任』)
4月
4月1日 旬
天慶四年(941)4月1日庚寅、蔵人頭藤原師氏が陣頭に進み、宣旨二枚を給わった。(『西宮記』)
4月8日 御物忌/灌仏
天慶四年(941)4月8日丁酉、晴れ。中納言藤原師輔・参議源高明・藤原忠文が庁に着した。少納言が参らなかったので、外記政はなかった。今日は御物忌にあたるが、灌仏があった。延寂法師を導師とした。(『北山抄』)
4月11日 直物
天慶四年(941)4月11日庚子、直物があった。(『江次第』)
4月27日 文章生試
天慶四年(941)4月27日丙辰、文章生試があった。(『類聚符宣抄』)
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天慶五年(942)
1月
1月1日 元日節会
天慶五年(942)1月1日丙辰、元日朝賀は停止となった。(『本朝世紀』)
1月4日 太政大臣大饗の停止
天慶五年(942)1月4日己巳、太政大臣大饗は停止となった。去る12月27日から、太政大臣藤原忠平が痢病を患っているからである。(『九暦』)
1月7日 白馬節会
天慶五年(942)1月7日壬戌、大雨が降っていたが、青馬が引かれた。(『西宮記』)
1月8日 御斎会
天慶五年(942)1月8日癸亥、御斎会が行われた。(『西宮記』)
1月14日 男踏歌
天慶五年(942)1月14日己巳、男踏歌が行われた。(『日本紀略』)
1月16日 女踏歌
天慶五年(942)1月16日辛未、女踏歌が行われた。(『西宮記』)
1月18日 賭弓
天慶五年(942)1月18日癸酉、賭弓が行われた。(『北山抄』)
2月
2月3日 釋奠
天慶五年(942)2月3日丁亥、釋奠が行われた。(『吏部王記』)
3月
3月1日 公卿著陣
天慶五年(942)3月1日乙卯、晴れ。参議源高明・藤原忠文が左衛門の陣座に著した。しかし、上卿が遅参したので政はなかった。(『本朝世紀』)
3月2日 外記政
天慶五年(942)3月2日丙辰、晴れ。雪が降った。中納言源清蔭・参議藤原忠文・伴保平宿禰が外記政を行った。(『本朝世紀』)
3月3日 触穢
天慶五年(942)3月3日丁巳、晴れ。触穢により御燈が停止となった。例によって廃務となった。午後、蔵人少内記藤原文範が外記を召し、少外記安倍有春が参入した。大納言藤原実頼が参入し、宜陽殿の西廂座に著し外記を召した。有春が参入し、仰せを蒙った。昨日、死人の頭と足が発見されたので、勘申するようにと仰せられた。(『本朝世紀』)
3月4日 申文
天慶五年(942)3月4日戊午、晴れ。中納言藤原師輔・藤原顕忠・参議源高明・伴保平宿禰が政を行った。申文があった。(『本朝世紀』)
大納言藤原実頼・中納言藤原師輔・参議藤原元方・源高明・伴保平・源庶明・藤原敦忠・藤原在衡が宜陽殿の西廂座に著し、昨日の触穢について話し合いが行われた。今月2日に宮内省庁で死人が発見された。その穢は宮中に及んだ。そこで上卿が少外記安倍有春を召し、かの省の官人に件の穢を執り申しなかったことに対して過状を進めさせることにした。(『本朝世紀』)
3月5日 政
天慶五年(942)3月5日己未、晴れ。中納言藤原顕忠・参議伴保平宿禰が政を行った。(『本朝世紀』)
3月6日 休日
天慶五年(942)3月6日庚申、晴れ。午後は雨が降った。休日であった。(『本朝世紀』)
3月7日 政/地震
天慶五年(942)3月7日辛酉、晴れ。中納言藤原顕忠・参議藤原忠文・伴保平宿禰が政を行った。(『本朝世紀』)
戌の刻、地震が一度あった。(『本朝世紀』)
3月8日 政
天慶五年(942)3月8日壬戌、晴れ。中納言源清蔭・藤原顕忠・参議源高明・藤原忠文が政を行った。(『本朝世紀』)
3月9日 政の停止
天慶五年(942)3月9日癸亥、晴れ。参議源高明・藤原忠文・伴保平宿禰が左衛門の陣座に著した。しかし上卿の遅参により、政は行われなかった。(『本朝世紀』)
3月10日 政
天慶五年(942)3月10日甲子、晴れ。中納言藤原顕忠・参議藤原忠文が政を行った。(『本朝世紀』)
3月15日 政
天慶五年(942)3月15日己巳、晴れ。中納言藤原師輔・参議藤原忠文・伴保平宿禰が政を行った。(『本朝世紀』)
3月16日 弁官申文/地震
天慶五年(942)3月16日庚午、晴れ。中納言藤原師輔・藤原顕忠・参議藤原元方・源高明・藤原忠文が政を行った。弁官申文があった。(『本朝世紀』)
午の刻に地震が一度あった。とても猛々しい響きであった。(『本朝世紀』)
また、臨時御読経の僧を請うことと日時を定めることになった。陰陽寮が日時を勘申し、来たる25日巳二刻に発願し、28日巳二刻に結願することになった。(『本朝世紀』)
3月17日 桓武天皇国忌/涅槃経供養
天慶五年(942)3月17日辛未、晴れ。桓武天皇の国忌により、諸司は廃務であった。(『本朝世紀』)
今日、藤原穏子が法性寺において涅槃経供養を行った。親王・公卿も参入した。(『本朝世紀』)
3月18日 休日/地震
天慶五年(942)3月18日壬申、晴れ。休日であった。(『本朝世紀』)
巳の刻に地震があった。(『本朝世紀』)
3月19日 天変・地震を祓う
天慶五年(942)3月19日癸酉、天変・地震により天文陰陽道が勘申したところ、兵事・水旱の災いの兆しがあり、巽・乾の方角に兵革・疾疫の兆しがあると申した。そこで、神祇官において祭主大中臣頼基が祓を行った。(『本朝世紀』)
3月20日 政
天慶五年(942)3月20日甲戌、雨が降った。中納言藤原師輔・藤原顕忠・参議源高明・藤原忠文が政を行った。宜陽殿の西廂座に相次いで著し、大納言藤原実頼も参入して同じ座に著した。(『本朝世紀』)
3月21日 仁明天皇国忌
天慶五年(942)3月21日乙亥、晴れ。仁明天皇の国忌により、諸司は廃務であった。(『本朝世紀』)
3月22日 政の停止
天慶五年(942)3月22日丙子、晴れ。中納言源清蔭・藤原顕忠・参議藤原忠文・伴保平宿禰が著したが、少納言が参らなかったので政は行われなかった。(『本朝世紀』)
3月23日 政
天慶五年(942)3月23日丁丑、晴れ。中納言藤原顕忠・参議源高明・藤原忠文が政を行った。内書があった。宜陽殿の西廂座に著した。(『本朝世紀』)
3月24日 休日
天慶五年(942)3月24日戊寅、晴れ。休日であった。(『本朝世紀』)
3月25日 臨時御読経
天慶五年(942)3月25日己卯、雨が降った。午後から晴れた。仁寿殿において臨時御読経が行われた。(『本朝世紀』)
閏3月
閏3月1日 除目
天慶五年(942)閏3月1日甲申、晴れ。大納言藤原実頼・参議伴保衡宿禰が弁官庁の座に著し、除目が行われた。(『本朝世紀』)
閏3月2日 外記政
天慶五年(942)閏3月2日乙酉、雨が降った。中納言藤原顕忠・参議藤原忠文が外記政を行った。(『本朝世紀』)
閏3月3日 外記政の停止
天慶五年(942)閏3月3日丙戌、雨が降った。参議源高明・藤原忠文・伴保平宿禰が左衛門の陣座に著した。しかし納言が参らなかったので、外記政は行われなかった。(『本朝世紀』)
閏3月4日 申文/踏歌後宴
天慶五年(942)閏3月4日丁亥、晴れ。中納言藤原顕忠・参議藤原忠文・伴保平宿禰が外記政を行った。申文があった。(『本朝世紀』)
朱雀天皇が弓場殿にお出ましになり、踏歌後宴があった。中務卿重明親王・左大臣藤原仲平・大納言藤原師輔が召されて候した。射興の戯れがあり、天皇の矢はよく的に当たった。(『本朝世紀』)
閏3月5日 外記政
天慶五年(942)閏3月5日戊子、晴れ。中納言藤原顕忠・参議源高明・藤原忠文・伴保平宿禰が外記政を行った。内文を見たが、内侍が急に障りによって奉仕することができなくなり、停止となった。(『本朝世紀』)
閏3月6日 休日
天慶五年(942)閏3月6日己丑、晴れ。休日であった。(『本朝世紀』)
閏3月7日 外記政/直物
天慶五年(942)閏3月7日庚寅、雨が降った。中納言藤原顕忠・参議源高明・藤原忠文が外記政を行った。(『本朝世紀』)
また、直物が行われた。(『本朝世紀』)
閏3月8日 外記政の停止
天慶五年(942)閏3月8日辛卯、晴れ。参議藤原忠文・伴保平宿禰が左衛門の陣座に著した。しかし、上卿の遅参により外記政は停止となった。(『本朝世紀』)
閏3月9日 外記政
天慶五年(942)閏3月9日壬辰、晴れ。中納言藤原忠文・伴保平宿禰が外記政を行った。(『本朝世紀』)
閏3月10日 藤原乙牟漏国忌
天慶五年(942)閏3月10日癸亥、桓武天皇の皇后藤原乙牟漏の国忌であった。(『本朝世紀』)
閏3月11日 外記政
天慶五年(942)閏3月11日甲午、晴れ。中納言藤原顕忠・参議源高明・藤原忠文・伴保平宿禰が外記政を行った。(『本朝世紀』)
閏3月12日 休日
天慶五年(942)閏3月12日乙未、雨が降った。休日であった。(『本朝世紀』)
閏3月13日 外記政
天慶五年(942)閏3月13日丙申、朝、雨が降っていた。中納言藤原顕忠・参議藤原忠文が外記政を行った。午後は晴れた。(『本朝世紀』)
閏3月14日 外記政
天慶五年(942)閏3月14日丁酉、晴れ。中納言藤原顕忠・参議藤原忠文・伴保平宿禰が外記政を行った。(『本朝世紀』)
閏3月15日 内印
天慶五年(942)閏3月15日戊戌、晴れ。中納言藤原顕忠・参議藤原忠文・伴保平宿禰が外記政を行った。内印があった。(『本朝世紀』)
閏3月16日 弁官申文
天慶五年(942)閏3月16日己亥、曇りで雨気があった。中納言藤原顕忠・参議藤原忠文・伴保平宿禰が外記政を行った。弁官申文があった。午後、雨が降った。上卿が式部・兵部の二省を召して宣旨を給わった。(『本朝世紀』)
閏3月17日 外記政の停止
天慶五年(942)閏3月17日庚子、曇りで雨が降った。上卿が参らなかったので、外記政は行われなかった。(『本朝世紀』)
閏3月18日 地震/休日
天慶五年(942)閏3月18日辛丑、晴れ。卯の刻に地震が二度あった。休日であった。(『本朝世紀』)
閏3月19日 外記政
天慶五年(942)閏3月19日壬寅、晴れ。中納言源清蔭・藤原顕忠・参議源高明・藤原忠文・伴保平宿禰が外記政を行った。宜陽殿の西廂座に著した。大納言藤原実頼・藤原師輔・権中納言藤原敦忠も参入し、同じ座に就いた。また、太宰大弐源清平が殿上に召され、餞ならびに被物を賜った。この日、仁王会のことが定められた。(『本朝世紀』)
閏3月20日 外記政/仁王会の日時を勘申
天慶五年(942)3月20日癸卯、晴れ。中納言藤原顕忠・参議藤原忠文が外記政を行った。(『本朝世紀』)
午後、大納言藤原実頼・参議伴保平宿禰・源庶明が参入し、宜陽殿の座に著した。仁王会の日時が定められた。陰陽寮が来たる26日に修されるべきだと勘申した。(『本朝世紀』)
閏3月21日 外記政
天慶五年(942)閏3月21日甲辰、晴れ。中納言藤原顕忠・参議源高明・藤原忠文・伴保平宿禰が外記政を行った。午後、雨が降った。(『本朝世紀』)
閏3月22日 外記政
天慶五年(942)閏3月22日乙巳、曇り。中納言藤原顕忠・参議藤原忠文・伴保平宿禰が外記政を行った。(『本朝世紀』)
閏3月23日 外記政の停止
天慶五年(942)閏3月23日丙午、晴れ。上卿の遅参により外記政は行われなかった。(『本朝世紀』)
閏3月24日 休日/大祓
天慶五年(942)閏3月24日丁未、晴れ。休日であった。(『本朝世紀』)
閏3月25日 外記政
天慶五年(942)閏3月25日戊申、晴れ。中納言藤原顕忠・参議藤原忠文・伴保平が外記政を行った。宜陽殿の西廂座に著した。(『本朝世紀』)
午二刻、建礼門前において大祓が修された。(『本朝世紀』)
閏3月26日 仁王会
天慶五年(942)閏3月26日己酉、朝、雨が降っていた。仁王会が修された。巳二刻に発願し、申二刻に結願した。(『本朝世紀』)
閏3月27日 外記政
天慶五年(942)閏3月27日庚戌、晴れ。中納言藤原顕忠らが外記政を行った。(『本朝世紀』)
閏3月28日 内書
天慶五年(942)閏3月28日辛亥、晴れ。大納言藤原顕忠・参議源高明・藤原忠文が外記政を行った。内書があった。(『本朝世紀』)
閏3月29日 三局史生を補任
天慶五年(942)閏3月29日壬子、晴れ。中納言藤原顕忠・参議源高明・藤原忠文・伴保平宿禰が政を行った。度縁請印があった。大納言藤原師輔も参入し、宜陽殿の座に著した。式部省を召して、三局史生を補す宣旨を給わった。(『本朝世紀』)
4月
4月1日 日食
天慶五年(942)4月1日甲寅、晴れ。日食により廃務となった。(『本朝世紀』)
4月2日 旬
天慶五年(942)4月2日乙卯、晴れ。朱雀天皇は紫宸殿にお出ましにならなかった。諸司は宜陽殿の西廂に親王・公卿の座を設け、同廂の南の壇上に侍従の座を設けた。(『本朝世紀』)
4月3日 外記政の停止
天慶五年(942)4月3日丙辰、曇り。上卿の遅参により外記政はなかった。午後、雨が降った。(『本朝世紀』)
4月4日 広瀬・龍田・山科祭の延期
天慶五年(942)4月4日丁巳、曇りで雨が降った。広瀬・龍田祭が行われる予定だったが、去る6日に死穢があったので延期された。山科祭も延期された。(『本朝世紀』)
4月10日 広瀬・龍田祭の日時を勘申
天慶五年(942)4月10日癸亥、晴れ。陰陽寮が広瀬・龍田祭の日時を勘申した。16日になった。
また、去る巳の日に穢によって山科祭を停止したので、中巳の日を用いることにした。(『本朝世紀』)
4月16日 広瀬・龍田祭
天慶五年(942)4月16日己巳、晴れ。広瀬龍田祭が行われた。よって、廃務であった。(『日本紀略』)
4月7日 平野祭/擬階奏
天慶五年(942)4月7日庚申、晴れ。平野祭が行われた。(『本朝世紀』)
また、擬階奏が行われた。二省が参入し、内記所に候した。大納言藤原師輔・権中納言藤原敦忠が参入した。大外記三統宿禰公忠を召し、擬階奏の由を奉るよう仰せられた。(『本朝世紀』)
4月8日 當宗祭・杜本祭/灌仏
天慶五年(942)4月8日辛酉、晴れ。當宗祭・杜本祭が行われた。昨日、件の祭使が発遣された。また、御灌仏があった。(『本朝世紀』)
4月10日 怪異
天慶五年(942)4月10日癸亥、晴れ。伊賀国・出雲国が物の怪のことを言上してきた。そこで神祇官・陰陽寮が日本紀所において御卜を行った。
また、陰陽寮が宇佐八幡使を発遣する日時を勘申し、27日を選び申した。(『本朝世紀』)
4月14日 諸社奉幣
天慶五年(942)4月14日丁卯、伊勢大神宮などの奉幣が行われた。東国・南海の賊徒を平定したことによる。(『日本紀略』)
廃務であった。巳二刻に朱雀天皇が輿に乗り、大極殿小安殿にお出ましになった。所司の装束は例年通りであった。大納言藤原実頼・中納言藤原顕忠・参議藤原忠文・伴保平宿禰・源庶明が御前に奉仕した。(『本朝世紀』)
4月20日 賀茂祭
天慶五年(942)4月20日癸酉、晴れ。賀茂祭が行われた。廃務であった。酉の刻に雨が降った。(『本朝世紀』)
4月25日 藤原顕忠 昇殿
天慶五年(942)4月25日戊寅、午後、大納言藤原実頼、藤原師輔、参議藤原在衡が宜陽殿の西廂座に著した。(『本朝世紀』)
中納言従三位藤原顕忠が昇殿を許された。(『公卿補任』)
4月27日 石清水臨時祭/宇佐八幡使発遣
天慶五年(942)4月27日庚辰、宇佐八幡宮、香椎廟に奉幣使が発遣された。東西の賊徒を討伐・平定したことに対する御報賽のためである。(『日本紀略』)
この日、初めて石清水臨時祭が行われた。(『本朝世紀』)後に恒例行事となり、毎年三月の午の日に行われるようになった。
舞人十人、左右衛門、兵衛、左右馬、兵庫などの判官、歌人十人、堪能六位などが参列した。(『石清水文書』)
4月10日癸亥に陰陽寮が勘申した吉日である。(『本朝世紀』)
石清水臨時祭は朱雀天皇の御代に始まったが(中略)、天皇が御即位なさってから平将門の乱が起こり、将門の討伐を祈願して始まったらしい。この臨時祭に奏上される東遊びの和歌は、紀貫之が詠んだものである。それは「松も生いまたも苔むす石清水行く末遠く仕え奉らん(松の木が生い育ち、苔のむす遥か遠い未来まで石清水八幡に末永くお仕えいたしましょう)」という歌で『貫之集』にも記されている。(『大鏡』)
4月29日 賀茂社行幸
天慶五年(942)4月29日壬午、朱雀天皇が賀茂社へお出かけになった。神宝・幣帛・走馬を奉った。禰宜に爵位を加えた。兵乱平和の御報賽によるものである。(『日本紀略』)
また、左右の検非違使に銭三十貫文を給わった。勅により、大納言藤原師輔に御剣を授けた。(『本朝世紀』)
4月10日癸亥に陰陽寮が勘申した吉日である。(『本朝世紀』)
4月30日 群盗
天慶五年(942)4月30日癸未、夜に群盗が入京して人家に侵入し、財物を奪った。(『日本紀略』)
5月1日 夜警
天慶五年(942)5月1日甲申、諸衛が夜警をすることになった。(『本朝世紀』)
5月
5月1日 地震
天慶六年(943)5月1日戊寅、地震があった。(『日本紀略』)
5月5日 臨時諸社奉幣使を定める
天慶五年(942)5月5日戊子、晴れ。触穢により、今月9日に予定されていた臨時奉幣使の発遣を停止することを仰せられた。(『本朝世紀』)
5月16日 深紅色の禁止
天慶五年(942)5月16日己亥、6月1日から紅染深色を一切禁止することになった。延喜十八年三月・延長四年十月・承平七年九月の宣旨による。(『日本紀略』)
5月17日 蕃客来朝の戯れ
天慶五年(942)5月17日庚子、殿上に置いて外国からの客人が来朝したときの礼が行われた。詩興を催すためである。(『日本紀略』)
6月
6月18日 賑給
天慶五年(942)6月18日庚午、晴れ。東西両京に賑給があった。先例により廩院の米を給わることになった。しかし、廩院には米がなかった。そこで、常平所の穀を給わった。(『本朝世紀』)
6月20日 祈年穀奉幣
天慶五年(942)6月20日壬申、晴れ。年穀を祈るための奉幣使が諸社へ発遣された。廃務であった。(『本朝世紀』)
6月21日 祇園社に東遊及び走馬を奉納
天慶五年(942)6月21日癸酉、祇園社に東遊及び走馬十列を奉った。東西の賊徒を平定した御報賽である。(『日本紀略』)
6月29日 夜警
天慶五年(942)6月29日辛酉、晴れ。未の刻に中納言藤原顕忠が参入し、殿上の座に著した。権少外記多治文正を召し「去る5月1日に夜警を勤めるよう仰せが下されたが、諸衛は勤めていない。また、馬寮が御馬を牽いてこない。近頃、京中では群盗の噂が多い。よって、奏した。また、滝口の武者を毎晩四人、諸衛ならびに検非違使に副えて今日から勤めさせるように」と仰せられた。また、左右馬寮は御馬十匹を牽くほかに、二匹を加えた。(『本朝世紀』)
6月30日 大祓/藤原胤子国忌
天慶五年(942)6月30日壬午、未の刻に激しい雨が降ったが、すぐに晴れた。早朝は藤原胤子の国忌で、晩に大祓が行われた。(『本朝世紀』)
7月
7月1日 伴保平が朝臣の姓を賜る
天慶五年(942)7月1日癸未、参議正四位下伴保平が朝臣の姓を賜った。(『日本紀略』)
7月5日 源允明 卒去
天慶五年(942)7月5日丁亥、醍醐天皇の皇子従四位上播磨権守源允明が卒去した。(『一代要記』)
7月27日 相撲召合
天慶五年(942)7月27日己酉、相撲召合が行われた。抜出の日、上達部に甘瓜を給わる儀が行われた。(『小野宮年中行事』)
従四位下左兵衛佐兼右中弁藤原師尹、左近少将源為善、左衛門佐源俊、右少将が出居した。(『西宮記』)
7月28日 追相撲
天慶五年(942)7月28日、追相撲が行われた。公卿は簀子に居し、簾中より瓜を給わった。蔵人頭藤原師氏が簾中から出て盃を勧めた。(『西宮記』)
8月
8月6日 釋奠
天慶五年(942)8月6日丁巳、釋奠が行われた。(『西宮記』)
8月11日 定考の延期
天慶五年(942)8月11日壬戌、激しい風雨により、定考が停止となった。(『日本紀略』)
8月13日 定考
天慶五年(942)8月13日、定考が行われた。音楽は雨儀を用いた。大唐・高麗の各二曲である。(『西宮記』)
8月30日 洛中集の講義
天慶五年(942)8月30日辛巳、殿上において大学頭維時が初めて洛中集を講じた。(『西宮記』)
9月
9月29日 醍醐天皇国忌
天慶五年(942)9月29日庚戌、醍醐天皇の国忌であった。(『西宮記』)
10月
10月1日 日食
天慶五年(942)10月1日辛亥、日食であった。諸司は廃務になった。(『日本紀略』)
10月27日 菊花御覧
天慶五年(942)10月27日丁丑、承香殿の東廂において公卿と殿上侍臣を召し、菊花の御遊があった。(『日本紀略』)
11月
11月5日 伊勢大神宮臨時奉幣使発遣
天慶五年(942)11月5日甲申、朱雀天皇が大極殿にお出ましになり、伊勢大神宮へ臨時奉幣使が発遣された。(『日本紀略』)
11月15日 新羅船が来着
天慶五年(942)11月15日甲午、出雲国が「隠岐国に新羅船七艘が寄着しました」と言上した。(『日本紀略』)
11月23日 五節御前試/源盛明 元服
天慶五年(942)11月23日壬寅、五節御前試が行われた。舞姫が急病により参らなかった。忠幹の娘である。(『江次第』)
また、醍醐天皇の皇子源盛明が元服した。(『日本紀略』)
11月24日 新嘗祭
天慶五年(942)11月24日癸卯、新嘗祭が行われた。朱雀天皇が中院にお出ましになった。(『政事要略』)
11月25日 節会
天慶五年(942)11月25日甲辰、節会が行われた。(『政事要略』)
11月30日 賀茂臨時祭
天慶五年(942)11月30日己酉、賀茂臨時祭が行われた。戌四刻、使者が賀茂社から帰ってきた。(『政事要略』)
12月
12月8日 除目の停止
天慶五年(942)12月8日壬戌、太政大臣藤原忠平が参らなかったので、除目は停止となった。(『日本紀略』)
12月21日 荷前/御仏名
天慶五年(942)12月21日庚午、建礼門前において荷前があった。大納言藤原実頼が行った。朱雀天皇がお帰りになるとき、激しい風と雪によって右大臣藤原師輔は心神がよろしくなかった。よって、御仏名に候することができなくなり、帰った。(『九条殿記』)
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天慶六年(943)
この年、慶滋保胤が誕生したという説がある。(『池亭記』)
1月
1月1日 元日節会
天慶六年(943)1月1日庚辰、藤原師輔は長年身につけていた魚袋を修理させるので参内が遅れると申し上げたので、藤原忠平が自分の魚袋を貸した。翌日、師輔は紀貫之に代詠してもらった「吹く風に氷溶けたる池の魚千代まで松の影に隠れん」という和歌を添えて魚袋を返した。(『紀貫之集』)
ある年の元日、参賀の礼服として身につける魚袋が壊れていたので、師輔は父忠平に「魚袋を修繕させているので、宮中に参上するのが遅くなる」と申し上げたので、忠平は自分の魚袋を取り出して師輔に渡した。
師輔はお礼の歌を詠もうとしたが、紀貫之に代詠させるのがよいだろうと思い、貫之の家を訪ねた。その時、貫之が詠んだ歌は「吹く風に 氷溶けたる 池の魚 千代まで松の 影に隠れん」というものだった。貫之はこの歌を自分の歌集にも入れたという。(『大鏡』)
1月7日 節会/叙位
天慶六年(943)1月7日丙戌、叙位の儀が行われた。藤原朝忠が昇殿を許された。(『公卿補任』)
- 藤原仲平 左大臣 正二位 ▶ 左大将 正二位
- 藤原実頼 大納言 正三位 ▶ 右大将 按察使 正三位
- 藤原在衡 参議 従四位下 ▶ 左大弁 式部大輔 備中守 従四位上 など
1月9日 子の日
天慶六年(943)1月9日戊子、御前において子の日の興があった。(『日本紀略』)
1月10日 太政大臣大饗
天慶六年(943)1月10日己丑、時々小雪が降っていた。太政大臣(藤原忠平)の大饗があった。左大臣藤原仲平は室家の穢により参らなかった。例年は4日に行われるが、3日、4日、5日、6日は、厳重に慎む必要はないと言っても御物忌に当たる日であった。よって、今日行われることとなった。魚類をやめて、精進料理で饗宴を行った。御斎会の期間中だからである。
去る承平七年10日に御饗があったときは、魚類を用いた。その時の3日、4日、5日、6日は特に御物忌ではなかったのだが、御斎会の期間中精進することを称するために延期された。今日は、時々風と雪があった。そこで、雨儀を用いた。未の刻、納言以下官吏以上の人々が東対の南廂からそれぞれ着席した。中務卿重明親王、大納言藤原実頼が盃を執った。(『九条殿記』)
1月12日 卯杖
天慶六年(943)1月12日辛卯、所司が卯杖を献じた。朱雀天皇は紫宸殿にお出ましにならなかった。(『近衛家文書』)
1月14日 男踏歌
天慶六年(943)1月14日癸巳、男踏歌が行われた。(『日本紀略』)
2月6日 男踏歌後宴
天慶六年(943)2月6日甲寅、去る月の男踏歌の後宴が行われた。東弓場において弓のことがあった。(『日本紀略』)
1月16日 女踏歌/節会
天慶六年(943)1月16日乙未、女踏歌が行われた。(『西宮記』)
1月18日 賭弓
天慶六年(943)1月18日丁酉、賭弓が行われた。(『西宮記』)
1月21日 殿上逍遥
天慶六年(943)1月21日庚子、殿上逍遥があった。(『日本紀略』)
1月24日 内宴
天慶六年(943)1月24日癸卯、内宴が行われた。大納言藤原実頼が事の由を奏した。中納言藤原元方を召した。左大臣藤原在衡らが題を進める由を仰せた。二人は仰せを奉り、大納言の後ろに座った。納言が硯を渡した。紙に二人の題を書き、紙と筆を回収した。題を柳箱に入れて大納言に渡した。大納言は題を見て、元方の題を用いることにした。大納言は元方に題を書かせた。直幹が序文を作成した。(『西宮記』)
1月29日 藤原善子四十九日法事
天慶六年(943)1月29日戊申、極楽寺において故藤原善子の四十九日法事が修された。内蔵寮が御諷誦を修した。(『春記』)
2月
2月7日 雷鳴陣
天慶六年(943)2月7日乙卯、激しい風が吹き雷雨が止まなかった。そこで、雷鳴陣を立てた。(『日本紀略』)
2月11日 列見
天慶六年(943)2月11日己未、列見が行われた。(『西宮記』)
2月27日 除目
天慶六年(943)2月27日乙亥、除目があった。(『公卿補任』)
3月
3月4日 怪異
天慶六年(943)3月4日壬午、大宰府が「去年10月2日に牝牛が二尾八足の子牛を産みました」と言上した。(『日本紀略』)
3月7日 藤原敦忠 薨去
天慶六年(943)3月7日乙酉、中納言従三位藤原敦忠が薨じられた。(『日本紀略』)
3月12日 穀倉院の倉・庁屋焼亡
天慶六年(943)3月12日庚寅の夜、穀倉院の倉二字・庁屋一字で火災があった。(『日本紀略』)
3月29日 季御読経の結願
天慶六年(943)3月29日丁未、季御読経が結願した。王公は一人も参らなかった。(『西宮記』)
4月
4月1日 日食
天慶六年(943)4月1日戊申、日食により廃務であった。(『日本紀略』)
4月2日 斎院御禊の前駈及び臨時奉幣使を定める
天慶六年(943)4月2日己酉、侍従を召して臨時奉幣使ならびに斎院御禊の前駈を定めた。(『西宮記』)
4月8日 灌仏
天慶六年(943)4月8日乙卯、重明親王は障りがあったので参らなかった。布施銭五百文を奉った。蔵人所に付した。親王は品階によらず、施物は同じだからである。(『吏部王記』)
4月9日 源相職 卒去
天慶六年(943)4月9日丙辰、蔵人頭右大弁従四位下源相職が卒去した。(『一代要記』)
4月18日 藤原実頼の息子、元服
天慶六年(943)4月18日乙丑、大納言藤原実頼の息子小舎人藤原斉敏が御前に召され、元服した。(『日本紀略』)
4月24日 藤原頼忠 昇殿
天慶六年(943)4月24日辛未、参議従四位藤原頼忠が昇殿を許された。(『公卿補任』)
5月
この月、石清水・賀茂上・賀茂下・松尾・平野・稲荷・春日・大原野・住吉・大神・比叡の11社で御読経が行われた。それぞれ僧十口を率いた。また、五龍祭を行った。(『北山抄』)
5月17日 祈雨御読経
天慶六年(943)5月17日甲午、僧百口が大極殿において甘雨を請う読経を修した。(『日本紀略』)
5月29日 蹴鞠御覧
天慶六年(943)5月29日丙午、内裏で蹴鞠が行われた。京中から蹴鞠の上手な者を二十余人召した。烏帽子を着用して温明殿の南に供した。(『吏部王記』)
6月
6月5日 祈年穀奉幣
天慶六年(943)6月5日辛亥、伊勢大神宮などの16社へ祈年穀奉幣が行われた。(『日本紀略』)
6月10日 御体御卜奏
天慶六年(943)6月10日丙辰の夜、蔵人遠規が来て「神祇官が陣の外で御卜奏を行いました。納言以上が一人も参入しなかったので、奏聞することができませんでした」と言った。仰せがあって召させた。「それぞれ障りももうして参りませんでした。どうしましょう」と言った。外記が勘申して「他の例があるので、それに従いましょう」と言った。その例により、参議に行わせる状を報奏した。(『西宮記』)
6月11日 神今食祭
天慶六年(943)6月11日丁巳、「昨日、例年通り御体御卜奏を奏したが、納言らが障りを申した。よって、穢の由を知り食しながら陣の外において奏聞させるために召した。しかし、参らなかった。よって、参議藤原忠文に奏させた。ただし、今日の神今食は所司に付して行わせるように」と仰せがあった。(『西宮記』)
6月17日 怪異
天慶六年(943)6月17日癸亥、太宰府四天王寺が「天王像が振鳴しました」と言上した。(『永昌記』)
7月
7月9日 祈雨奉幣
天慶六年(943)7月9日乙酉、11社へ祈雨奉幣が行われた。(『日本紀略』)
7月15日 祈年穀
天慶六年(943)7月15日辛卯、五畿七道に官符を下し、年穀を祈らせた。(『日本紀略』)
7月26日 元良親王 薨去
天慶六年(943)7月26日壬寅、兵部卿三品元良親王が薨じられた。(『日本紀略』)
7月27日 相撲召合
天慶六年(943)7月27日癸卯、紫宸殿において相撲召合が行われた。音楽の演奏があった。(『日本紀略』)
7月28日 追相撲
天慶六年(943)7月28日甲辰、追相撲が行われた。(『日本紀略』)
8月
8月1日 釋奠
天慶六年(943)8月1日丁未、釋奠が行われた。納言らは障りがあって参らなかった。参議伴保平・藤原在衡が大学寮に著した。(『西宮記』)
8月2日 伊勢大神宮臨時奉幣
天慶六年(943)8月2日戊申、朱雀天皇が八省院にお出ましになり、伊勢大神宮へ奉幣が行われた。太宰府四天王寺の仏像堂舎が鳴動したことによる。(『日本紀略』)
8月8日 藤原忠平の家に候する史生に上日を給わる
天慶六年(943)8月8日甲寅、大納言藤原師輔は、去る4月5日から5月29日までの54日間、太政大臣藤原忠平の家に候して大般若金光明経などを行った者に上日を給わった。(『類聚符宣抄』)
8月11日 定考/皇太后 体調不良
天慶六年(943)8月11日丁巳、定考が行われた。皇太后藤原穏子の体調不良により、音楽はなかった。(『政事要略』)
9月
9月10日 行幸の召仰
天慶六年(943)9月10日乙酉、上卿が陣に参った。明日の行幸の由を仰せ奉った。外記が諸衛を召し仰せた。(『西宮記』)
9月12日 藤原盛子 薨去
天慶六年(943)9月12日丁亥、大納言藤原師輔室従三位藤原盛子が薨じられた。(『願文集』)
11月
11月18日 豊明節会
天慶六年(943)11月18日壬辰、豊明節会が行われた。(『西宮記』)
内弁右大将藤原実頼・大納言藤原師輔は所労により列に候しないことを奏した。(『政事要略』)
11月23日 賀茂臨時祭/敦実親王 昇殿
天慶六年(943)11月23日丁酉、賀茂臨時祭が行われた。王卿が御前に候した。(『西宮記』)
11月29日 石清水臨時祭の延期
天慶六年(943)11月29日癸卯、石清水臨時祭があった。使者・舞人・陪従がみな装束を賜った。御禊を奉仕した。笛歌を行おうとしたとき、太政官の右少弁曹司から犬の産穢が内裏を通った。よって、神事は中止となった。(『西宮記』)
12月
12月8日 成明親王、太宰帥に補任
天慶六年(943)12月8日壬子、成明親王が太宰帥に任ぜられた。(『日本紀略』)
12月11日 神今食
天慶六年(943)12月11日乙卯、触穢により、神祇官において神今食が行われた。(『西宮記』)
12月24日 日本紀竟宴
天慶六年(943)12月24日戊辰、宜陽殿において日本紀竟宴が行われた。(『日本紀略』)
12月26日 荷前
天慶六年(943)12月26日庚午、荷前のことがあった。右大将藤原実頼は物忌のため参らなかった。よって、下官が行った。今日、使者の公卿は中納言源清蔭・参議源高明・伴保平・源庶明・藤原在衡の計5人であった。皆、障りを申して参らなかった。(『九条殿記』)
12月27日 外記政
天慶六年(943)12月27日辛未、朝、右大将藤原実頼は障りを申した。まず殿に参り、執り申すことを言った。次いで参内した。大納言藤原師輔・参議藤原在衡が参入した。師輔が「今日、宰相は参っていない。しかし、欠勤が多いのはとてもよいことではない。旧例により、独り身に政を聴く」と言った。内印があった。(『清慎公記』)
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天慶七年(944)
1月
1月1日 元日節会/四方拝の停止
天慶七年(944)1月1日甲戌、朱雀天皇の御物忌により四方拝はなかった。ただし、御装束は例年通りであった。(『江次第』)
1月6日 卯杖
天慶七年(944)1月6日己卯、朱雀天皇の御物忌により、卯杖は内侍所に付された。(『近衛家文書』)
1月7日 節会
天慶七年(944)1月7日庚辰、大納言藤原師輔が宜陽殿の座に着席した。節会が行われた。(『西宮記』)
太政大臣藤原忠平は12月28日から昨日までの8日間、閉門して物忌している。そこで、巳の刻に藤原師輔は殿に参った。(『九暦』)
1月9日 長谷寺焼亡
天慶七年(944)1月9日壬午、夜半に風雨があった。大和国長谷寺の堂舎がみな悉く焼亡した。験仏も燃えてなくなった。建立から224年経っていた。(『日本紀略』)
1月5日丑の刻頃、山城国葛野郡太秦の広隆寺の僧14人が同時に夢を見た。当寺の観音が女性の姿となって現れ、かの寺の薬師如来に「私は昔から和州長谷寺にいて、広く衆生を守ってきました。今月から15日間、少しの間他所に移ろうと思います。どうか、私が帰って来るまで、私の代わりに衆生をお守りください」と語った。御帳の中から音が聞こえた。如来は「どうしてこの国を捨てることができようか」と答えた。観音は重ねて「私が隠れるのは衆生のためなのです。衆生に発心修行の縁を結ばせるために没し、衆生に増長福寿の益を為させるために顕れるのです。如来は15日間、私にお代わりください」と言って去っていった。15日間、広隆寺の薬師如来に参詣するものは速疾の益に預かった。
1月6日、当寺の観音堂で五羽が終日争っていた。人を打ち放っては寄り合い争って、とうとう三羽が喰い殺されてしまった。また、1月8日午の刻頃、観音堂の上に紫雲が現れ、棟上に下りてきた。その夜、亥の終刻から三時ほど、山・川・石・木が悉く金色になり、当寺の寺僧恵興房覚信法師が夢を見た。諸仏ならびに冥道諸神が艮の方角を指して去っていった。車輿には牛・午の士卒が前駈を勤め万騎を率いて山の中に満ちていた。1月9日、当寺に雷が落ちて御堂ならびに諸坊が燃えた。御堂が燃え盛るなか神鳴があり、後ろの山へ光が飛んでいった。夜の間、ずっと光っていた。多くの人々が不審に思い、その光を探して山に登った。頂上には黄金の仏が奇妙な石の上にいた。それを見た者は渇仰の思いに駆られた。これをとって、新しい観音像として安置することした。寺の中にはたくさんの人が死んでおり、疾病も起こって穏やかな状況ではなかった。これを嘆いた人々は、観音の宝前に籠もり宝号を唱えた。すると、12歳の少童に護法が施され「私は守護の童子である。頂上の仏を奉れば憂いはなくなる。頂上に仏が現れたのは、御堂の主として後世まで衆生に広く益を与えためだ」というお告げがあった。そのお告げに従い、頂上の仏に取り替えて奉ると、憂いもなくなった。
1月10日 太政大臣大饗
天慶七年(944)1月10日癸未、晴れ。太政大臣(藤原忠平)の大饗は毎年4日に行われてきた。しかし、その日は御物忌の期間に当たる上、魚類を避けるために今日行われた。御斎会の期間中だからと精進するためである。頭中将を差し、左大臣藤原仲平邸に奉った。しかし、障りを称して参られなかった。また、右大将藤原実頼も所労があり参らなかった。よって、大納言藤原師輔が行った。午の刻に大饗が始まった。酉の刻に終わった。秉燭には及ばなかった。(『九条殿記』)
1月16日 旬/節会
天慶七年(944)1月16日己丑、朱雀天皇は御物忌により紫宸殿にお出ましにならなかった。簾を施した。内侍が進み参った。申の刻、陣を引いた。大納言藤原師輔が内弁を行った。踏歌があった。(『吏部王記』)
1月18日 賭弓
天慶七年(944)1月18日辛卯、賭弓が行われた。終わってから、左右少将が奏文を持ってきた。右少将真忠に付して奏させた。中務卿重明親王が「まず蔵人に付して奏させよ」と言った。(『九暦』)
1月23日 怪異
天慶七年(944)1月23日丙申、子の刻に振動があり、上空から声が聞こえた。夜、雪が降った。(『日本紀略』)
1月24日 五月節・諸司修理を定める
天慶七年(944)1月24日丁酉、曇り、雨が降った。未の刻に内豎が来て「蔵人修理亮藤原仲陳が『ただいま参入しました』との事です」と言った。申の刻、藤原師輔は参入し、宜陽殿の座に着席した。仲陳に参入の由を奏させた。五月節について話し合いがあった。諸司に勘文を奉らせた。(『九暦』)
1月27日 子の日の興
天慶七年(944)1月27日庚子、子の日の興があった。(『日本紀略』)
2月
2月4日 祈年祭/春日祭使
天慶七年(944)2月4日丁未、内裏において丁穢があったが、祈年祭が行われた。穢を忌まない例であった。(『玉葉』)
重明親王が春日使の饗所に詣でた。左中将藤原師氏を使者とした。装束を給わった。大蔵卿伴保平・左大弁藤原在衡がこれを取って給わった。その後、使者は庭で馬に乗った。右大将藤原実頼は「旧例にはないことである」と言った。(『吏部王記』)
2月11日 列見
天慶七年(944)2月11日甲寅、列見が行われた。雨が降ってきたので、雨儀に改めた。(『西宮記』)
2月21日 除目
天慶七年(944)2月21日甲子、除目があった。(『公卿補任』)
3月
3月16日 月食
天慶七年(944)3月16日戊子、皆既月食があった。(『日本紀略』)
3月21日 季御読経
天慶七年(944)3月21日癸巳、季御読経が行われた。終わってから、重明親王は宜陽殿に著した。行事の史・巻数・僧名を大納言藤原師輔に見せた。(『吏部王記』)
3月27日 殿上賭弓
天慶七年(944)3月27日己亥、殿上で賭弓が行われた。朱雀天皇が射場にお出ましになった。(『日本紀略』)
3月29日 除目
天慶七年(944)3月29日辛丑、除目が行われた。(『除目』)
4月
4月1日 旬
天慶七年(944)4月1日癸卯、大外記公忠が次侍従の欠の勘文を持参し「件の勘文を参入のついでに奏聞してください」と言った。大納言藤原師輔は参内し、右中弁藤原師尹に奏聞させた。「諸卿がともに選んで定め申せ」と仰せられた。勘文に記載されている8人の中から6人を選び奏聞した。選んだものを任ずるようにと仰せがあった。外記に仰せて中務輔を召し遣わせた。左大弁が処分を承り、座の録事を召し仰せた。大外記公忠が「中務輔南金が参入しました」と申した。膝突に召し、侍従の補任簿を給わった。(『九暦』)
4月8日 灌仏
天慶七年(944)4月8日庚戌、灌仏が行われた。(『西宮記』)
4月9日 除目/任大臣大饗
天慶七年(944)4月9日辛亥、除目があった。大納言正三位藤原実頼が右大臣に任ぜられた。その日の内に任大臣大饗があった。(『日本紀略』)
4月22日 成明親王が皇太弟になる
天慶七年(944)4月22日甲子、寅の刻に三品太宰帥成明親王が凝華舎へお渡りになった。朱雀天皇が紫宸殿にお出ましになり、成明親王を皇太弟とした。(『日本紀略』)
大納言藤原師輔が勅を奉り、大内記橘直幹が宣命を作成した。(『吏部王記』)
4月25日 除目
天慶七年(944)4月25日丁卯、除目が行われた。(『公卿補任』)
- 藤原顕忠 中納言 従三位 ▶兼 中宮大夫
- 藤原師尹 参議 従四位下 ▶左近中将
- 大江朝綱 参議 従四位上 ▶右中弁 など
5月
5月5日 競馬御覧
天慶七年(944)5月5日丙子、朱雀天皇が武徳殿にお出ましになり、競馬をご覧になった。(『日本紀略』)
5月6日 競馬御覧
天慶七年(944)5月6日丁丑、朱雀天皇が武徳殿にお出ましになり、右近衛府の競馬をご覧になった。(『日本紀略』)
5月23日 東宮帯刀試
天慶七年(944)5月23日甲午、参議藤原師氏が勅を奉り、右近馬場において東宮帯刀試を行った。(『吏部王記』)
6月
6月11日 神今食
天慶七年(944)6月11日辛亥、上卿の不参により、朱雀天皇は神嘉殿にお出ましにならなかった。仰せがあり、祭事は中院で行われた。(『西宮記』)
6月20日 庚申御遊
天慶七年(944)6月20日庚申の夜、殿上において庚申御遊が行われた。(『日本紀略』)
7月
7月1日 雷鳴陣
天慶七年(944)7月1日辛未、午の刻に雷鳴陣を立てた。(『日本紀略』)
7月4日 西京失火
天慶七年(944)7月4日甲戌の夜、雷電があった。西京の小宅で失火があった。(『日本紀略』)
7月29日 相撲召合
天慶七年(944)7月29日己亥、紫宸殿前において相撲召合があった。音楽の演奏があった。(『日本紀略』)
7月30日 追相撲
天慶七年(944)7月30日庚子、追相撲が行われた。(『日本紀略』)
8月
8月8日 釋奠内論議
天慶七年(944)8月8日戊申、釋奠の内論議が行われた。左大弁藤原在衡が「博士が参るとき、助教以下を座主とするが、まずは博士を答者として、座主を問者とする。その後、座主は移動して答者の座に就く」と言った。(『吏部王記』)
8月11日 定考の延期
天慶七年(944)8月11日辛亥、左衛門陣の物忌により、定考は延期となった。(『西宮記』)
8月13日 定考
天慶七年(944)8月13日、定考があった。左衛門陣の物忌によって延期されていた。(『政事要略』)
9月
9月1日 日食/左近衛府失火
天慶七年(944)9月1日庚午、日食があった。(『日本紀略』)
また、左近衛府で失火の穢があった。侍臣は左近衛府に向かい、戻って内裏に参った。(『北山抄』)
9月2日 大風暴雨
天慶七年(944)9月2日辛未の夜、大風暴雨により諸司官舎・京中の庁舎が顛倒した。信濃守従五位下紀文幹が倒れてきた建物の下敷きになり卒去した。(『日本紀略』)
9月9日 藤原盛子の周忌法会
天慶七年(944)9月9日戊寅、大納言藤原師輔は法性寺において室藤原盛子の周忌法会を修した。(『願文集』)
9月11日 洪水
天慶七年(944)9月11日庚辰、激しい雨が降り、川の水が溢れた。(『日本紀略』)
9月13日 皇太后六十賀
天慶七年(944)9月13日壬午、二品康子内親王が皇太后藤原穏子の六十御算を祝った。公家が諷誦を修せられた。(『日本紀略』)
9月15日 月食
天慶七年(944)9月15日甲申の夜、雨が降った。皆既月食があった。(『日本紀略』)
10月
10月1日 旬
天慶七年(944)10月1日庚子、旬の儀があった。中納言源清蔭が庁に著した。(『西宮記』)
10月11日 旬
天慶七年(944)10月11日庚戌、藤原忠平は「寛平・昌泰の間、天皇が旬を行う日、紫宸殿にお出ましになることを蔵人もしくは近衛少将が陣頭に来て告げる。しかし、延喜の始めの頃、故左大臣藤原時平は諸事を故実に倣って申し行い、古日記により内侍に人を召させた。その後、今に従い行う」と仰せられた。(『九暦』)
10月24日 藤原忠平、病により度者を賜る
天慶七年(944)10月24日癸亥、関白太政大臣藤原忠平の重病により、度者50人を賜った。(『日本紀略』)
10月25日 諷誦
天慶七年(944)10月25日甲子、藤原忠平の病により、公家が16ヶ所の寺において諷誦を修せられた。(『日本紀略』)
11月
11月5日 公卿著座
天慶七年(944)11月5日甲戌、子の刻に参議藤原在衡、源庶明がともに座に著した。(『西宮記』)
11月9日 常明親王 薨去
天慶七年(944)11月9日戊寅、醍醐天皇の皇子四品常明親王が薨じられた。(『日本紀略』)
11月19日 大原野祭
天慶七年(944)11月19日戊子、大原野祭が行われた。五位以上に禄を給わらなかった。ただし、日上一人は賜った。(『貞信公記抄』)
11月23日 豊明節会
天慶七年(944)11月23日壬辰、豊明節会が行われた。皇太弟成明親王の椅子を立てなかった。所司の失儀か。(『政事要略』)
11月24日 東宮鎮魂祭
天慶七年(944)11月24日癸巳、例年通り東宮鎮魂祭が行われた。(『西宮記』)
12月
12月2日 藤原仲平、七十算賀
天慶七年(944)12月2日庚子、有明親王の北の方藤原時子が、父左大臣藤原仲平の七十算を祝った。(『日本紀略』)
12月11日 神今食
天慶七年(944)12月11日己酉、神今食が行われた。(『北山抄』)
12月28日 皇太后六十御賀の御諷誦/賑給
天慶七年(944)12月28日丙寅、皇太后藤原穏子の六十御算を祝い、公家が13ヶ所の寺において諷誦を修した。(『日本紀略』)
また、京都の貧民が施物を賜った。(『日本紀略』)
閏12月
閏12月2日 荷前
天慶七年(944)閏12月2日庚午、建礼門の南大場において荷前のことが行われた。午二刻、朱雀天皇がお出ましになった。(『九暦』)
+ 天慶八年(945)の年表を見る
天慶八年(945)
天慶八年五日夜、宜陽・建秋両門の間に、馬二万程の音がした。内裏に引き入ってから数刻が経った。左近の脇の陣に伺候していた近衛・左兵衛の吉上は皆この音を聞いていた。始めは馬の音であったが、その後にまた数百人の音が聞こえた。同じ十日の朝にまた、紫宸殿の前の桜の下から永安門まで鬼の足跡、馬の足跡などがたくさん見えた。昔、このようなことは常にあったそうだ。(『古今著聞集』)
1月
1月1日 小朝拝/元日節会
天慶八年(945)1月1日戊戌、朱雀天皇が紫宸殿にお出ましになった。皇太弟成明親王も参上した。宴会は例年通りであった。成明親王は禄の時に及ばず退下した。(『貞信公記』)
また、小朝拝があった。その後、王卿が外弁に出る間、温明殿の南方において皇太弟成明親王が参って休屋に就いた。この間、公卿は殿の南の立蔀の西に佇立していた。重明親王は蔀の後ろに隠れた。跪いて礼をした。諸王・公卿は最初のように佇立していた。皇太弟成明親王は幔門に入った。王公が外弁に就いた。その後、重明親王は大納言に「東宮が参られる間、王公は跪くべきだろうか。すぐに案を得ることはできなかった。そこで、屏の後ろに隠れたのだ」と語った。大納言は「説があります。先帝が東宮でいらっしゃるとき、節会に参られる日は陣の座にいる親王が座を避けて跪きました。文献太子が朝参するとき、故式部卿是忠親王は腰を深く折り曲げて立っていました。何を以て良しとするのかはわかりません」と言った。親王が地に跪くことは過礼に思えるが、座を動かないのもまた、穏便ではない。よって座を避け、陣の後ろに隠れるのを良しとする。(『吏部王記』)
1月2日 二宮大饗
天慶八年(945)1月2日己亥、二宮(中宮・東宮)大饗があった。(『貞信公記抄』)
1月4日 左大臣大饗の停止
天慶八年(945)1月4日、左大臣(藤原仲平)は病により大饗を行わなかった。(『貞信公記抄』)
1月5日 右大臣大饗
天慶八年(945)1月5日壬寅、右大臣(藤原実頼)の大饗があった。(『貞信公記抄』)
1月7日 節会/叙位
天慶八年(945)1月7日甲辰、節会があった。雨儀であった。叙位の儀があった。成明親王は参上しなかった。今日は禄を賜らなかった。(『貞信公記抄』)
宣旨により、右大臣藤原実頼が外記を召し、内侍所に御弓を付すよう仰せた。(『西宮記』)
1月8日 藤原忠平が御書を賜る
天慶八年(945)1月8日丙午、藤原忠平は御書を賜った。犬の死穢があった。(『貞信公記抄』)
1月9日 女叙位
天慶八年(945)1月9日丙午、中使中将。敦敏朝臣などが藤原忠平のもとを訪れた。女叙位があった。深夜、中使藤原伊尹が来た。尚侍に正三位の位記を給わった。しかし、犬の死穢を忌むため、被物はなかった。辰一刻、位記を奏した。公卿が退出した。忠平は左衛門督を召し、大納言の娘の位記のことを行わせた。皇太弟成明親王の妻である。先例を調べると、未だないことである。しかし、御心愛が盛んなため叙すことになった。(『貞信公記抄』)
1月13日 源清平 卒去
天慶八年(945)1月13日庚戌、参議正四位下太宰大弐源清平が薨じられた。(『日本紀略』)
1月14日 御斎会内論議
天慶八年(945)1月14日辛亥、納言以上は皆障りを申して参入しなかった。よって内の仰せがあり、納言らを召させた。藤原元方が未の刻に参入し、事を行った。秉燭を布施堂に着した。御前に参上する間に戌の刻になった。真言宗の僧綱泰は病により参入しなかった。一定法師に香水を注がせた。(『貞信公記』)
事が終わり、親王たちが内に入った。修明門の泥途により、春華門から入った。(『吏部王記』)
1月15日 月食
天慶八年(945)1月15日壬子、月食があった。十五分の五分であった。(『日本紀略』)
1月16日 節会
天慶八年(945)1月16日癸丑、申一刻、朱雀天皇が紫宸殿にお出ましになった。「式部卿敦実親王が参入したが、先年の宣旨により列に立たなかった」と言われた。大納言藤原師輔を貫首とした。今日は禄を給わなかった。(『貞信公記』)
1月17日 射礼
天慶八年(945)1月17日甲寅、大納言藤原師輔が勅を奉り、建礼門の南庭において射させた。諸衛ならびに春宮帯刀舎人などは例年通りであった。(『貞信公記抄』)
1月18日 御物忌/藤原寛子 卒去
天慶八年(945)1月18日乙卯、朱雀天皇の御物忌であった。(『西宮記』)
中務卿重明親王の妻藤原寛子が卒去した。(『日本紀略』)
1月22日 賭弓
天慶八年(945)1月22日己未、賭弓が行われた。(『西宮記』)
1月29日 外記政始
天慶八年(945)1月29日丙寅、外記政始。藤原元方を日上とした。(『貞信公記抄』)
2月
この月、玄蕃頭紀貫之が御屏風の和歌を献上した。(『紀貫之集』)
2月3日 触穢
天慶八年(945)2月3日庚午、春日祭使正明が突然の穢に触れたため、発向することができなくなった。そこで、左兵衛佐有年に選び直した。(『貞信公記抄』)
2月6日 斬草祭
天慶八年(945)2月6日、辰の刻、重明親王は小君の遺骸を山背国葛野郡田邑郷の興隆山の西尾に蔵した。陰陽允平野義樹に斬草祭を修させた。(『吏部王記』)
2月10日 園・韓神祭
天慶八年(945)2月10日丁丑、園・韓神祭が行われた。(『貞信公記抄』)
2月11日 列見の延期
天慶八年(945)2月11日戊寅、列見が延期された。(『貞信公記抄』)
2月13日 列見
天慶八年(945)2月13日、列見が行われた。(『貞信公記抄』)
2月12日 大原野祭
天慶八年(945)2月12日己卯、大原野祭が延期された。(『貞信公記抄』)
2月24日 大原野祭
天慶八年(945)2月24日辛卯、大原野祭が行われた。奉幣は例年通りに行われた。しかし、藤原忠平の所労は未だ平癒しておらず、束帯を着用することができなかった。そこで、烏帽子・直衣を着用した。忠平は簾中に下りて敬礼し拝した。去年、冬祭、今日の祭において五位以上に禄を給わなかった。ただし日上一人がこれを賜った。修繕が未だ終わっていなかったので、法師たちは家中にいた。(『貞信公記抄』)
2月15日 月食
天慶八年(945)2月15日壬午、月食があった。(『日本紀略』)
3月
3月4日 手番
天慶八年(945)3月4日庚子、西弓場において弓結のことがあった。朱雀天皇がお出ましになった。(『日本紀略』)
3月12日 義海の房舎が焼亡
天慶八年(945)3月12日戊申、天台座主義海の房舎で火災があった。(『貞信公記抄』)
3月13日 御遊
天慶八年(945)3月13日己酉、音楽の演奏があった。その装束には、相撲司のものを用いた。大納言藤原師輔・左右衛門督(藤原顕忠・源高明)・源兼明が候した。(『貞信公記抄』)
3月15日 季御読経
天慶八年(945)3月15日辛亥、季御読経が始められた。(『貞信公記抄』)
3月19日 除目
天慶八年(945)3月19日、除目の議が始められた。(『貞信公記抄』)
3月20日 朱雀天皇、体調不良
天慶八年(945)3月20日丙辰、朱雀天皇は体調がすぐれなかった。(『日本紀略』)
3月21日 廃務
天慶八年(945)3月21日、廃務により除目の議はなかった。(『貞信公記抄』)
3月23日 藤原忠平、重病
天慶八年(945)3月23日、今日から藤原忠平はひどく体調が悪かった。中使が再三訪ねて来た。(『貞信公記抄』)
3月26日 除目
天慶八年(945)3月26日壬戌、御前において除目の議があった。去る23日、関白藤原忠平の病により止められていた。(『日本紀略』)
使者藤原師尹が藤原忠平のもとを訪ねて来て「除目の議を行うため左丞を召させた。しかし、病を称して参らない。受領の吏を定め奏するようにとの事です」と仰せた。しかし、忠平は体調が悪く参内に堪えない状を奏した。ただし、委趣は記さなかった。(『貞信公記抄』)
3月27日 除目
天慶八年(945)3月27日、御前において除目の議が行われた。藤原忠平は病により、一言も奏しなかった。(『貞信公記抄』)
3月28日 除目/賭弓/藤原忠平、輦車
天慶八年(945)3月28日甲子、除目の議が行われた。殿上において賭弓が行われた。藤原忠平は藤壺を退出した。宣旨があり、輦車に乗った。(『貞信公記抄』)
4月
4月1日 旬
天慶八年(945)4月1日丙寅、朱雀天皇は紫宸殿にお出ましになろうとした。しかし、大臣・納言が皆障りを称して参らない。重ねて仰せがあり、右大臣藤原実頼を召した。大臣は夜になって参入した。藤原忠平は見参を奏した。(『貞信公記抄』)
4月3日 誦経
天慶八年(945)4月3日、昨夜から今朝にかけて藤原忠平はひどく体調が悪かった。17ヶ所の寺において誦経が行われた。中使が来た。夜になって、中務卿重明親王が入って座った。(『貞信公記抄』)
4月7日 擬階奏
天慶八年(945)4月7日壬申、公卿は一人も参らなかった。よって、殿上に仰せがあり、藤原忠平は右衛門督源高明を召した。他の公卿がいない状況で擬階奏を行った例を調べさせた。寛平・承平の例があった。(『貞信公記抄』)
4月13日 藤原仲平の家僕、濫行
天慶八年(945)4月13日戊寅、藤原忠平は御書を賜った。左丞相(藤原忠平)の家僕の濫行についてのことであった。(『貞信公記抄』)
4月14日 左大臣家別当を獄に入れる
天慶八年(945)4月14日、左大臣家別当藤原遠根が獄に入れられた。(『貞信公記抄』)
4月16日 藤原忠平が私日記を藤原師輔に渡す
天慶八年(945)4月16日、藤原忠平が延喜八年の私日記を大納言藤原師輔に渡した。一両ある要事を書き取らせるためである。(『貞信公記抄』)
4月19日 平野祭
天慶八年(945)4月19日甲申、平野祭が行われた。藤原忠平は平野に奉幣した。上の申の祭日は物の疑いがあり、奉るか否かを占わせた。「後の申の日を以て奉るのが吉である」ということで、今日奉った。(『貞信公記抄』)
4月20日 賀茂祭
天慶八年(945)4月20日乙酉、賀茂祭が行われた。奉幣は例年通りであった。しかし、藤原忠平は病により束帯を着用することができなかった。礼拝した。(『貞信公記抄』)
5月
5月1日 賀茂社御祈/藤原忠平邸に盗賊が侵入
天慶八年(945)5月1日丙申、賀茂社上下の禰宜を召し、祈り申すように仰せた。穢によって奉幣使を立てなかった。(『北山抄』)
丑の刻、藤原忠平の邸宅に盗人が侵入した。銀の銚子・中将の衣などを盗んでいった。(『貞信公記抄』)
5月13日 豊楽院北門顛倒
天慶八年(945)5月13日戊申、豊楽院北御門が半ばより顛倒した。(『貞信公記抄』)
5月25日 諷誦
天慶八年(945)5月25日庚申、朱雀天皇の体調不良により、七ヶ所の寺において諷誦が修された。(『日本紀略』)
6月
6月11日 神今食
天慶八年(945)6月11日乙亥、亥弐二刻に朱雀天皇が神嘉殿にお出ましになった。右大臣藤原実頼・三品元良親王・参議伴保平・藤原在衡などが小忌座に著した。(『西宮記』)
7月
7月2日 軒廊御卜
天慶八年(945)7月2日丙申、大納言藤原師輔が仰せを奉った。「神祇官・陰陽寮に御卜をさせよ。雨が降らなくなって久しい。もしや、祟りがあるのではないか」と。(『貞信公記抄』)
7月4日 広瀬・龍田祭
天慶八年(945)7月4日戊戌、広瀬・龍田祭が行われた。よって、廃務であった。(『本朝世紀』)
7月5日 祈雨
天慶八年(945)7月5日己亥、陰陽寮が占い申したことにより、賀茂・稲荷の二社に奉幣し、雨を祈ることになった。大納言藤原師輔がこれを行った。(『貞信公記抄』)
7月7日 七夕御遊
天慶八年(945)7月7日辛丑、七夕の御遊があった。(『日本紀略』)
7月12日 雨
天慶八年(945)7月12日、雨が降った。甘雨である。(『貞信公記抄』)
7月19日 明経得業生に天文道を学習させる
天慶八年(945)7月19日癸丑、明経得業生十市部以忠に天文道を学習するよう宣旨があった。弁官がこれを奉った。以忠は主計頭兼助教左京権亮良佐宿禰の息子である。良佐宿禰は去る延長八年7月14日の宣旨により、天文奏者に進んだ。そこで、申文を奉り以忠に天文学を学ばせることを薦めた。今日、大納言藤原師輔は大外記三統宿禰公忠を召して「天文道を習わせる宣旨は外記が奉るのか、弁官が奉るのか」と問うた。公忠宿禰は「藤原三仁、同議柄、同時柄らが天文道を習う宣旨のときは、弁官が承りました」と申した。そこで、件の申文は弁官に給わった。この申文は、殿上から蔵人頭左近中将藤原師尹をして大納言藤原師輔に給わった。その宣旨には「左大弁藤原在衡が伝え宣う、大納言藤原師輔が宣う、明経得業生十市部以忠は天文道を学ぶように」とあった。(『本朝世紀』)
7月26日 唐船来着
天慶八年(945)7月26日庚申、大宰府が「唐人の乗った船が肥前国松浦郡柏嶋に来着しました」と言上した。7月4日に件の船の飛帆が南海から突然走ってきた。警調兵士らが十三艘の船を以て追跡した。肥最埼港嶋浦に留まった。5日、牒状によって大唐呉越船だと分かった。(『本朝世紀』)
7月29日 藤原忠平、唐人安置を奏する
天慶八年(945)7月29日、中使好古が来て「延喜十一年の制の後、唐人が来着したときの度々の符案を見せます」と言った。藤原忠平は「期限を過ぎたら、早く安置すべき者です」と奏した。(『貞信公記抄』)
7月27日 相撲召合
天慶八年(945)7月27日辛酉、早朝から激しい風と暴雨であった。午後から晴れた。紫宸殿前において相撲召合が行われた。未二刻に朱雀天皇が紫宸殿にお出ましになった。皇太弟成明親王も参上した。四品式明親王・有明親王・大納言藤原師輔・中納言源清蔭・藤原顕忠・藤原元方・参議源高明・伴保平・源兼明・藤原有衡が参入した。(『本朝世紀』)
左右大将は参らなかった。相撲の夾名は左衛門督が奏した。音楽の演奏があった。(『貞信公記抄』)
7月28日 追相撲
天慶八年(945)7月28日壬戌、追相撲が行われた。(『日本紀略』)
8月
8月1日 日食
天慶八年(945)8月1日甲子、日食により廃務であった。(『本朝世紀』)
雨が降っていたので見えなかった。(『日本紀略』)
8月3日 藤原忠平、左右囚人の軽犯者の免状を定める
天慶八年(945)8月3日丙寅、藤原忠平は左右囚人の軽犯者を赦免する状を定め申した。(『貞信公記抄』)
8月4日 釋奠/触穢/季御読経定
天慶八年(945)8月4日丁卯、釋奠が行われた。また、犬の産穢があった。
この日、秋季御読経の請僧のことが定められた。殿上から大納言藤原師輔を召した。すぐに参入した。参議左大弁藤原在衡が御読経のことにより内裏に参入した。講座には就かなかった。(『本朝世紀』)
8月5日 内論議
天慶八年(945)8月5日戊辰、釋奠内論議が行われた。(『本朝世紀』)
8月7日 季御読経定
天慶八年(945)8月7日庚午、明日から季御読経が始められることを定められた。(『本朝世紀』)
8月8日 秋季御読経
天慶八年(945)8月8日辛未、卯四刻に季御読経が発願した。(『本朝世紀』)
8月11日 結願
天慶八年(945)8月11日甲戌、季御読経が結願した。(『本朝世紀』)
8月10日 定考の習礼
天慶八年(945)8月10日癸酉、弁少納言・外記・史以下が弁官庁に著した。定考の習礼があった。(『本朝世紀』)
8月11日 定考の延期
天慶八年(945)8月11日甲戌、例年通り定考が行われることになっていた。しかし、障りによって延期となった。来たる14日に行うことが定められた。(『本朝世紀』)
8月14日 定考
天慶八年(945)8月14日丁丑、定考が行われた。(『本朝世紀』)
8月16日 月食
天慶八年(945)8月16日己卯、月食があった。(『日本紀略』)
8月19日 花宴
天慶八年(945)8月19日壬午、承香殿の東北の庭で花宴があった。(『貞信公記抄』)
8月26日 光孝天皇国忌
天慶八年(945)8月26日己丑、光孝天皇の国忌であった。(『本朝世紀』)
8月29日 止雨使発遣の神社を占う
天慶八年(945)8月29日壬辰、権少外記賀茂安国を召し、8月・9月に止雨使を神社に発遣した例を勘申するように仰せがあった。年々の日記を引くと、先例があった。そこで陰陽寮を召し、止雨使を発遣する神社を占わせた。(『本朝世紀』)
9月
9月1日 藤原仲平 出家
天慶八年(945)9月1日甲午、左大臣生二位兼行左近衛大将皇太子傅藤原仲平が出家した。(『日本紀略』)
9月5日 藤原仲平 薨去
天慶八年(945)9月5日戊戌、入道左大臣藤原仲平が薨じられた。(『日本紀略』)
大臣は久しく所労があり、朝廷の政に参加できなかった。そんな中、今年の8月11日に大臣は堀川邸において相撲人の帰去の饗があった。その日から病状は悪化し、ひどく苦しんだ。そして、9月1日の夜、僧綱名僧を請うて剃髪し出家した。今夜、極楽寺に移し奉った。(『本朝世紀』)
9月7日 葬儀
天慶八年(945)9月7日庚子の夜、極楽寺で前左大臣藤原仲平の葬送が行われた。出家していたので、薨奏・贈位はなかった。(『本朝世紀』)
10月12日 四十九日法事
天慶八年(945)10月12日乙酉、故丞相藤原仲平の四十九日法事が極楽寺で修された。誦経が行われた。(『本朝世紀』)
9月11日 伊勢例幣使発遣
天慶八年(945)9月11日甲辰、伊勢大神宮へ奉幣使が発見された。廃務であった。(『本朝世紀』)
9月12日 地震
天慶八年(945)9月12日の夜、地震が起こった。(『貞信公記抄』)
9月14日 地震/仁王経
天慶八年(945)9月14日の夜、地震が起こった。仁王経の読経が始められた。請僧十口。藤原忠平は近頃の夢想で慎むべきだと暗示があったことによる。(『貞信公記抄』)
9月29日 醍醐天皇国忌
天慶八年(945)9月29日壬戌、醍醐天皇の国忌であった。(『本朝世紀』)
10月
10月1日 官奏
天慶八年(945)10月1日甲子、旬の宴があった。(『本朝世紀』)
朱雀天皇が紫宸殿にお出ましになった。官奏があった。庭に立った。番奏があった。音楽はなかった。理由はわからない。大納言藤原師輔らが参入した。親王・大臣は参らなかった。(『貞信公記抄』)
10月2日 藤原忠平、鷹を献上
天慶八年(945)10月2日乙丑、藤原忠平は内裏・春宮にそれぞれ鷹二聯を献上した。中将・宮権を使者とした。(『貞信公記抄』)
10月13日 除目
天慶八年(945)10月13日丙子、除目の議が始められた。(『本朝世紀』)
10月19日 官奏
天慶八年(945)10月19日壬午、官奏があった。(『本朝世紀』)
10月20日 唐物交易使のことを定める
天慶八年(945)10月20日癸未、唐物交易使のことを定めた。(『本朝世紀』)
10月26日 申文
天慶八年(945)10月26日己丑、申文があった。(『本朝世紀』)
10月27日 触穢
天慶八年(945)10月27日庚寅、宮内省の死穢が内裏に及んだ。太政大臣藤原忠平は神祇官に御卜を行わせた。(『西宮記』)
11月
11月1日 御暦奏
天慶八年(945)11月1日甲午、朱雀天皇が紫宸殿にお出ましになった。御暦奏が行われた。御物忌によりお出ましにならなかった。中納言藤原顕忠は蔵人左衛門尉平善理に奏させた。内侍所に付すよう勅答があった。上卿が外記三統宿禰公忠を召し、御暦を内侍所に付すよう仰せられた。(『本朝世紀』)
11月3日 春日祭・平野祭・山科祭
天慶八年(945)11月3日丙申、春日祭・平野祭・山科祭が行われた。(『本朝世紀』)
11月4日 内御修法
天慶八年(945)11月4日丁酉、台山において内御修法が修された。座主を阿闍梨とした。伴僧20人。熾盛光法である。天変・物の怪により行った。(『貞信公記抄』)
11月17日 園・韓神祭の停止/鎮魂祭の延期
天慶八年(945)11月17日庚戌、園・韓神祭が停止となった。また、鎮魂祭が延期された。他司において行う例を勘申させた。上卿を件の勘文をもって大外記三統宿禰公忠をして太政大臣藤原忠平のもとへ遣わし奉った。(『本朝世紀』)
11月19日 大原野祭/五節舞姫参入
天慶八年(945)11月19日壬子、大原野祭が行われた。(『本朝世紀』)
藤原忠平は服により奉幣しなかった。(『貞信公記抄』)
藤原忠平の家が出した五節の舞姫が参入した。他の家の舞姫は参入させなかった。(『貞信公記抄』)
11月20日 園・韓神祭の停止
天慶八年(945)11月20日癸丑、宮内省の死穢により園・韓神祭は停止となった。(『貞信公記抄』)
11月21日 鎮魂祭
天慶八年(945)11月21日甲寅、神祇官において鎮魂祭が行われた。中宮鎮魂祭も行われた。(『本朝世紀』)
11月22日 新嘗祭
天慶八年(945)11月22日乙卯、新嘗祭が行われた。廃務であった。午後、諸卿が宜陽殿の西廂座に就いた。雨が降ったので、朱雀天皇は神嘉殿にお出ましにならなかった。(『本朝世紀』)
11月23日 豊明節会
天慶八年(945)11月23日丙辰、豊明節会が行われた。(『貞信公記抄』)
11月24日 東宮鎮魂祭
天慶八年(945)11月24日丁巳、神祇官において東宮鎮魂祭が行われた。(『本朝世紀』)
11月25日 除目
天慶八年(945)11月25日戊午、右大将藤原師輔が慶賀を奏した。勅授により帯剣を解かなかった。(『本朝世紀』)
- 藤原実頼 右大臣 正三位 ▶ 左大将
- 藤原師輔 大納言 従三位 ▶ 右近大将
- 源兼明 参議 従四位上 ▶ 兼 治部卿
- 藤原師尹 従四位下 ▶ 参議 など
11月26日 藤原忠平が藤原氏の戸主となる
天慶八年(945)11月26日己未、藤原忠平が藤原氏の戸主となった。(『貞信公記抄』)
11月28日 賀茂臨時祭
天慶八年(945)11月28日辛酉、賀茂臨時祭が行われた。上卿の不参により、参議右衛門督源高明が宣命文を奏した。侍従源重光を賜った。(『本朝世紀』)
11月29日 藤原実頼の蔵人所別当補任
天慶八年(945)11月29日壬戌、晩頭、敦敏が来て「昨日『右大臣(藤原実頼)を蔵人所別当とする』との仰せを蒙りました」と言った。(『貞信公記抄』)
12月
12月4日 著座の儀
天慶八年(945)12月4日丙寅、大納言藤原師輔が参入し、初めて右近陣座に著した。大将を兼任することによる。また、参議藤原師尹も参入し、初めて宜陽殿の西廂座に著した。(『本朝世紀』)
12月5日 触穢
天慶八年(945)12月5日丁卯、縫殿寮が「去る5日から寮の中で産穢があります」と申した。(『本朝世紀』)
12月6日 敦実親王の御辞表及び藤原師尹の昇殿を定める
天慶八年(945)12月6日戊辰、左右獄所の軽犯者及び東大寺の三綱が赦免された。皇太后藤原穏子が病を患った。天変が頻りにあったので、赦書を出した。徒罪以下である。中使敦敏が藤原忠平のもとに式部卿敦実親王の御辞表を持ってきた。「藤原師尹の昇殿を許すように。朝頼が昇殿を望む」と仰せた。(『貞信公記抄』)
12月7日 大赦
天慶八年(945)12月7日己巳、右大臣藤原実頼が参入した。天変により、大赦があった。去る2日、実頼は大外記三統宿禰公忠を召して「天文家が頻りに変異を奏上してくる。先例によると、このようなときは大赦を行った」と仰せた。少な内記菅原文時が詔書を作成した。(『本朝世紀』)
12月10日 御体御卜奏
天慶八年(945)12月10日壬申、御体御卜奏があった。内裏の触穢により内侍所に付された。例年通り奏聞があった。中納言藤原元方は障りを申して参らなかった。(『本朝世紀』)
12月11日 神今食・月次祭
天慶八年(945)12月11日癸酉、月次祭・神今食が行われた。(『本朝世紀』)
12月20日 荷前
天慶八年(945)12月20日壬午、荷前のことがあった。政はなかった。右大臣以下が長楽門の南庁座に著し、この事が行われた。(『本朝世紀』)
12月23日 光仁天皇国忌
天慶八年(945)12月23日乙酉、光仁天皇の国忌であった。(『本朝世紀』)
12月29日 来年の朝賀を停止する
天慶八年(945)12月29日辛卯、来年の朝拝を停止する宣旨が下された。(『本朝世紀』)
12月30日 大祓/追儺
天慶八年(945)12月30日壬辰、朱雀門において大祓が修された。例年通り追儺が行われた。(『本朝世紀』)
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天慶九年(946)
1月
1月1日 小朝拝/元日節会
天慶九年(946)1月1日癸巳、小朝拝・節会が行われた。(『日本紀略』)
朱雀天皇が紫宸殿にお出ましになった。皇太弟成明親王も参上した。禄を給わった後、退出した。(『貞信公記抄』)
1月2日 流星/地震
天慶九年(946)1月2日、流星が天を渡った。明け方、少し大地が揺れた。(『貞信公記抄』)
1月5日 右大臣大饗
天慶九年(946)1月5日丁酉、夜になって藤原忠平は体調を崩した。(『貞信公記抄』)
晴れか曇りか定まらなかった。右大臣(藤原師輔)の大饗があった。午の刻に師輔が進み向かい、未の刻に拝礼した。三献の後、下官が盃を勧めた。隠座の間、安世が来て「殿下(藤原忠平)が重く煩われています」と言った。師輔は驚いて忠平のもとに参った。顔色を見て、禄及び引出物を給わって早くに終わった。(『九条殿記』)
1月7日 節会/叙位
天慶九年(946)1月7日己亥、節会・叙位があった。皇太弟成明親王が参上した。(『貞信公記抄』)
1月8日 御斎会
天慶九年(946)1月8日庚子、御斎会が始められた。(『日本紀略』)
1月14日 結願
天慶九年(946)1月14日丙午、御斎会が結願した。内論議が行われた。(『日本紀略』)
1月11日 卯杖
天慶九年(946)1月11日癸卯、朱雀天皇が紫宸殿にお出ましになった。東宮卯杖を献上すること、諸司がこれを献上することは例年通りであった。(『貞信公記抄』)
1月16日 踏歌節会
天慶九年(946)1月16日戊申、踏歌があった。朱雀天皇が紫宸殿にお出ましになった。中納言藤原元方が内弁のことを行った。(『日本紀略』)
藤原忠平以外の大臣・納言は皆障りを称して参らなかった。源清蔭は召されたので参入し「年来、遅くお出ましになっていました。それで、怠ってしまいました。誰が内弁のことを行いますか」と言った。外記公忠が「上臈が参るといえども、元のように藤中納言(藤原元方)が行うように」と申した。外記の申すことに従い、上臈を置きながら執り行った。「今日、東宮の御座を立てませんでした。掃部寮が申したことにより、立てませんでした」と。(『貞信公記抄』)
1月17日 射礼
天慶九年(946)1月17日己酉、射礼が行われた。朱雀天皇が建礼門にお出ましになった。(『日本紀略』)
王卿は朱雀天皇の行幸に供奉しなかった。その後、大庭に向かった。失儀である。(『九暦』)
1月18日 賭弓
天慶九年(946)1月18日庚戌、賭弓があった。朱雀天皇が武徳殿にお出ましになった。右近が勝った。(『日本紀略』)
1月21日 内宴の停止
天慶九年(946)1月21日癸丑、内宴が停止となった。(『日本紀略』)
1月22日 祈年祭・春日祭・釋奠の延期
天慶九年(946)1月22日甲寅、死穢のことが定められ丙穢とされた。件の穢は2月11日まで及ぶ。その間の諸祭は延期するよう仰せがあった。祈年・釋奠・春日祭が延期となった。(『日本紀略』)
1月24日 諸衛・東宮帯刀の射御覧
天慶九年(946)1月24日丙辰、内裏に諸衛歩射以上・東宮帯刀を召し、賭弓が行われた。(『日本紀略』)
1月25日 外記政始
天慶九年(946)1月25日丁巳、外記政が始められた。(『貞信公記抄』)
2月
2月1日 日食
天慶九年(946)2月1日壬戌、日食であった。(『日本紀略』)
2月3日 除目
天慶九年(946)2月3日甲子、除目が始められた。(『日本紀略』)
2月4日 除目/大祓
天慶九年(946)2月4日乙丑、除目が行われた。(『日本紀略』)
祈年祭が穢により延期されるため、建礼門において大祓が行われた。(『日本紀略』)
2月5日 除目
天慶九年(946)2月5日丙寅、除目が行われた。(『日本紀略』)
2月6日 除目
天慶九年(946)2月6日丁卯、除目が行われた。(『日本紀略』)
2月7日 除目
天慶九年(946)2月7日戊辰、除目が行われた。(『日本紀略』)
2月11日 列見
天慶九年(946)2月11日壬申、列見が行われた。(『日本紀略』)
2月14日 直物
天慶九年(946)2月14日乙亥、直物が行われた。(『日本紀略』)
2月16日 釋奠
天慶九年(946)2月16日丁丑、釋奠が行われた。上の丁の日は、穢により延期となっていた。(『日本紀略』)
2月18日 大原野祭
天慶九年(946)2月18日己卯、大原野祭が行われた。(『日本紀略』)
2月19日 祈年祭
天慶九年(946)2月19日庚辰、祈年祭が行われた。(『日本紀略』)
2月23日 春日祭
天慶九年(946)2月23日甲申、春日祭が行われた。(『日本紀略』)
3月
3月3日 御燈
天慶九年(946)3月3日甲午、御燈があった。ただし、藤原忠平は物忌により河原に出なかった。家の中で解除を行った。使者を差し、奉らせた。(『貞信公記抄』)
3月20日 季御読経
天慶九年(946)3月20日辛亥、季御読経が始められた。(『日本紀略』)
3月23日 結願
天慶九年(946)3月23日、季御読経が結願した。(『日本紀略』)
4月
4月1日 旬
天慶九年(946)4月1日辛酉、旬の儀があった。(『西宮記』)
4月4日 広瀬・龍田祭
天慶九年(946)4月4日甲子、広瀬・龍田祭が行われた。(『日本紀略』)
4月7日 大神祭/擬階奏
天慶九年(946)4月7日丁卯、大神祭・擬階奏が行われた。(『日本紀略』)
4月8日 灌仏
天慶九年(946)4月8日戊辰、灌仏が行われた。(『日本紀略』)
4月12日 平野祭
天慶九年(946)4月12日壬申、平野祭が行われた。(『日本紀略』)
4月14日 藤原忠平、馬を献上
天慶九年(946)4月14日甲戌、夜になって、藤原忠平は体調を崩し、ひどく苦しんだ。また、厩の馬四疋を内裏に奉った。(『貞信公記抄』)
4月15日 地震
天慶九年(946)4月15日乙亥、地震があった。(『興福寺年代記』)
4月16日 御譲位を山陵に報告
天慶九年(946)4月16日丙子、譲位することを山陵に告げた。(『西宮記』)
4月19日 譲位を所司に伝える
天慶九年(946)4月19日己卯、明日天皇の御譲位が行われるため、宜陽殿において警固が行われた。(『日本紀略』)
4月20日 譲位
天慶九年(946)4月20日庚辰、朱雀天皇は皇太弟成明親王に譲位を行った。(『日本紀略』)