平安時代の年表:円融天皇の御代、天延元年(973)12月20日から天延四年(976)7月13日までの出来事を年表にまとめました。通常の記録に加え、説話も追記。陰陽寮の活動は色付きで紹介しています。
円融天皇時代の年表(天延)
+ 天禄四年/天延元年(973)の年表を見る
天禄四年/天延元年(973)
12月
12月20日 改元/怪異
天延元年(973)12月20日庚子、今日、「天延」に改元が行われた。天変・地震による。(『日本紀略』)
申の刻、内大臣藤原兼通が左仗座に着席し、改元のことが行われた。大内記紀伊輔が詔書を作成した。(『改元部類記』)
巳の刻、太政官庁の前庭に数百もの犬の足跡があった。また、版位石が欠落していた。少納言はこれを見て物の怪のしわざではないかと思った。占いによると、怪所の丑・未・卯・酉年の人は病気の災いがあるということだった。(『改元部類記』)
12月21日 斎院庁屋焼亡
天延元年(973)12月21日辛丑、斎院庁屋で火災があった。(『日本紀略』)
12月26日 荷前
天延元年(973)12月26日丙午、荷前使が立てられた。(『日本紀略』)
+ 天延二年(974)の年表を見る
天延二年(974)
1月
1月1日 元日節会
天延二年(974)1月1日庚戌、例年通り宴があった。(『日本紀略』)
1月2日 二宮大饗
天延二年(974)1月2日辛亥、東宮(師貞親王)ならびに中宮(藤原媓子)の大饗があった。(『日本紀略』)
1月6日 叙位
天延二年(974)1月6日乙卯、叙位の儀が行われた。(『日本紀略』)
1月7日 節会
天延二年(974)1月7日丙辰、節会が行われた。円融天皇が紫宸殿にお出ましになった。(『日本紀略』)
1月8日 御斎会
天延二年(974)1月8日丁巳、御斎会が始められた。(『日本紀略』)
1月14日 結願
天延二年(974)1月14日癸亥、御斎会が結願した。(『日本紀略』)
この日、御斎会内論議が行われた。円融天皇の御物忌により、紫宸殿において行われた。(『親信卿記』)
1月9日 皇太后大饗
天延二年(974)1月9日戊午、皇太后(昌子内親王)の大饗があった。(『日本紀略』)
1月16日 踏歌節会
天延二年(974)1月16日乙丑、踏歌があった。(『日本紀略』)
1月18日 射礼
天延二年(974)1月18日丁卯、射礼が行われた。(『日本紀略』)
1月19日 賭弓/地震
天延二年(974)1月19日戊辰、賭弓が行われた。円融天皇が弓場殿にお出ましになった。酉の刻、地震があった。(『日本紀略』)
1月26日 除目
天延二年(974)1月26日乙亥、除目が始められた。(『日本紀略』)
2月
2月4日 祈年祭
天延二年(974)2月4日癸未、祈年祭が行われた。(『日本紀略』)
2月6日 山城天安寺宝蔵 焼亡
天延二年(974)2月6日乙酉の夜、山城天安寺宝蔵で火災があった。(『日本紀略』)
2月7日 直物/藤原朝光、蔵人頭に補任
天延二年(974)2月7日丙戌、直物があった。(『日本紀略』)
従四位下藤原朝光が蔵人頭に補任した。(『公卿補任』)
2月8日 釋奠/藤原兼通、藤氏長者となる
天延二年(974)2月8日丁亥、釋奠が行われた。(『日本紀略』)
この日、右大臣藤原頼忠の藤氏長者を停め、内大臣藤原兼通を藤氏長者とした。(『公卿補任』)
2月10日 石清水奉幣使発遣
天延二年(974)2月10日己丑、石清水行幸の延期により、奉幣使として近江守大江斎光が発遣されることになった。(『親信卿記』)
2月13日 石清水行幸のことを定める
天延二年(974)2月13日壬辰、諸司を陣頭に召して石清水行幸のことが定められた。陰陽寮に日時を勘申させた。内大臣藤原兼通は式部丞藤原惟成を召して行事定文ならびに陰陽寮の日時勘文を奏させた。(『親信卿記』)
参考【年表】平安時代の陰陽師たちの活動記録―冷泉天皇~花山天皇時代
冷泉天皇時代の安和二年(969)から花山天皇時代の寛和二年(986)までの陰陽師たちの活動年表を紹介します。安倍晴明の活動年表は、別頁に記載しています。安倍晴明だけではなく、たくさんの陰陽師たちが歴史 ...
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2月11日 列見
天延二年(974)2月11日庚寅、列見が行われた。(『日本紀略』)
2月13日 陰陽寮の祭祀
天延二年(974)2月13日壬辰、いろいろな場所で御祭・祓が行われた。
東河において、賀茂保憲が河臨祓を奉仕した。藤原典雅が使者であった。
北野において、文道光が火災祭を奉仕した。
陰陽寮が四角祭を奉仕した。(『親信卿記』)
2月28日 叙位
天延二年(974)2月28日丁未、詔を以て内大臣従二位藤原兼通が太政大臣正二位に叙された。輦車で参内することを許された。(『日本紀略』『公卿補任』)
また、左大臣従二位源兼明も輦車を許された。(『公卿補任』)
3月
3月5日 藤原兼通、初めての神事
天延二年(974)3月5日甲寅、太政大臣藤原兼通が神事を奏することにより、第一・三・四・五、合わせて四巻を出した。ただし、第二巻はなかった。もしくは、他の御日記に紛れたのだろうか。(『親信卿記』)
3月9日 冷泉上皇の皇女光子が内親王になる
天延二年(974)3月9日戊午、冷泉上皇の第三皇女光子が内親王となった。御年2歳。(『日本紀略』)
3月18日 花宴/叙位
天延二年(974)3月18日丁卯、清涼殿において花宴が催された。試題は「花前楽」。菅原文時が詩題を献じ、菅原輔正が序を作成した。この日、文時が正四位下に叙された。(『日本紀略』)
3月26日 藤原兼通が関白になる
天延二年(974)3月26日乙亥、詔によって太政大臣藤原兼通が関白となった。また、随身・兵仗のための内舎人2人・左右近衛各4人を賜った。(『日本紀略』)
3月27日 大祓
天延二年(974)3月27日丙子、大祓があった。仁王会が修されるからである。(『日本紀略』)
3月28日 仁王会
天延二年(974)3月28日丁丑、仁王会が修された。(『日本紀略』)
3月28日 詩宴/源伊陟 昇殿
天延二年(974)3月28日丁丑、冷泉上皇が詩宴を開いた。詩題は「隔花遥勸酒」。(『日本紀略』)菅原輔昭が序を作成した。(『本朝文粹』)
この日、参議従四位下源伊陟が昇殿を許された。(『公卿補任』)
4月
4月1日 旬の停止
天延二年(974)4月1日己卯、円融天皇の御物忌によって、旬の節会はなかった。ただし、厨家のごちそうはあった。(『日本紀略』)
4月2日 藤原兼通、上表
天延二年(974)4月2日庚辰、太政大臣関白藤原兼通は関白を辞す表を上った。(『親信卿記』)
4月7日 勅答
天延二年(974)4月7日、勅答があった。左近衛権中将源正清が勅使を務めた。(『親信卿記』)
4月4日 広瀬・龍田祭
天延二年(974)4月4日壬午、広瀬・龍田祭が行われた。(『日本紀略』)
4月5日 藤原朝成 薨去
天延二年(974)4月5日癸未の夕方、中納言従三位藤原朝成が仏性院において薨じられた。(『親信卿記』)
4月6日 平野祭
天延二年(974)4月6日甲申、平野際が行われた。(『日本紀略』)
4月7日 擬階奏
天延二年(974)4月7日乙酉、擬階奏が行われた。(『日本紀略』)
4月8日 灌仏
天延二年(974)4月8日丙戌、灌仏が行われた。(『日本紀略』)
4月10日 小除目/源伊陟、蔵人頭に補任
天延二年(974)4月10日戊子、小除目が行われた。(『日本紀略』)
この日、参議従四位下源伊陟が蔵人頭に補任した。(『公卿補任』)
4月11日 大神祭使発遣
天延二年(974)4月11日己丑、大神祭祀左近将監物部行忠が参入した。内侍所に付し、罷り向かう由を奏させた。(『親信卿記』)
4月12日 御殿の灯籠が燃える
天延二年(974)4月12日庚寅、子一刻に大殿の内の坤の方角にある灯籠が焼け落ちた。太政大臣藤原兼通が参上し、勅計があった。左近藤原義孝、右近藤原遠度、左衛門、右衛門藤原説孝、左兵衛平親信、右兵衛藤原典雅。(『親信卿記』)
4月16日 斎院御禊
天延二年(974)4月16日甲午、賀茂祭の斎院尊子内親王の御禊が行われた。(『日本紀略』)
4月19日 賀茂祭
天延二年(974)4月19日丁酉、賀茂祭が行われた。(『日本紀略』)
4月29日 藤原安子国忌
天延二年(974)4月29日丁未、贈皇太后藤原安子の国忌であった。(『親信卿記』)
5月
5月7日 怪異
天延二年(974)5月7日甲寅、近江国兵主三上神社において、去る3月より太鼓ならびに鉦を打つ音が絶えず聞こえるとの報告があった。よって、御卜が行われた。(『日本紀略』)
5月8日 季御読経/源伊陟 禁色
天延二年(974)5月8日乙卯、季御読経が行われた。春頃、内裏の触穢によって今まで延期されていた。(『日本紀略』)
この日、源伊陟が禁色を許された。(『親信卿記』)
5月13日 大乗院点地
天延二年(974)5月13日庚申、右大将藤原兼家は左衛門佐を以て仰せて曰く「大乗院を点地すべきことは、先日藤原典雅が承った。しかし、障りを申して動かない。そなたが罷り登るように」と。平親信は仰せを奉り、事の由を案内した。賀茂保憲が大乗院を点地する日を勘申した。よって、保憲も親信とともに登ることになった。内蔵寮によるもてなしがあった。大将が侍に仰せて曰く「件の大乗院は、儲弐を為すときに御願を立て申す所である。御願には『山の上に一院を建立し、十禅師を安置する』とある。しかし、未だに院を建立していない。ただ、御願を修する。ただし故阿闍梨は中山の地を引いた。また、長寿庵に少し土地がある。中山、長寿庵の順に見るように」ということだった。すでに晩になっていた。親信は保憲の邸宅に向かい、翌日のことを案内した。(『親信卿記』)
参考【年表】平安時代の陰陽師たちの活動記録―冷泉天皇~花山天皇時代
冷泉天皇時代の安和二年(969)から花山天皇時代の寛和二年(986)までの陰陽師たちの活動年表を紹介します。安倍晴明の活動年表は、別頁に記載しています。安倍晴明だけではなく、たくさんの陰陽師たちが歴史 ...
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5月16日 諸社奉幣
天延二年(974)5月16日癸亥、16社へ奉幣が行われた。(『日本紀略』)
5月21日 諸社奉幣
天延二年(974)5月21日戊辰、伊勢大神宮などの諸社へ臨時奉幣が行われた。(『日本紀略』)
5月25日 村上天皇国忌
天延二年(974)5月25日壬申、村上天皇の国忌であった。その儀は、先月と同様であった。ただし、権少僧都増垣を呪願とし、源伊陟を陪膳とした。中宮昌子内親王が臨時の膳を供し奉った。(高杯25本。)これを供し、撤収した。前回の儀式と同様である。(『親信卿記』)
5月27日 藤原兼通、法性寺誦経
天延二年(974)5月27日甲戌、太政大臣藤原兼通は木幡に参られた。平親信がお供として供奉した。まず家司を差し、法性寺において御誦経を修させた。その後、酒餞があった。(『親信卿記』)
6月
6月10日 御体御卜奏
天延二年(974)6月10日丁亥、御体御卜奏が行われた。上卿が参らなかったので、内侍所に託された。(『日本紀略』)
6月11日 月次祭・神今食の延期
天延二年(974)6月11日戊子、内裏の触穢によって月次祭・神今食が延期された。よって、建礼門において大祓が修された。(『日本紀略』)
7月9日 月次祭・神今食
天延二年(974)7月9日乙卯、神祇官において月次祭・神今食が行われた。(『日本紀略』)
6月12日 河臨御禊
天延二年(974)6月12日己丑、河臨御禊があった。安倍晴明宿禰が奉仕した。(『親信卿記』)
6月14日 初めての祇園御霊会
天延二年(974)6月14日辛卯、初めて祇園御霊会が行われた。(『祇園社記』)
6月27日 藤原淑姫贈位
天延二年(974)6月27日甲辰、醍醐天皇の更衣藤原淑姫に正四位下が贈られた。(『日本紀略』)
7月
7月4日 広瀬・龍田祭
天延二年(974)7月4日庚戌、広瀬・龍田祭が行われた。(『日本紀略』)
7月6日 雷鳴陣
天延二年(974)7月6日壬子、典薬寮に雷が落ちた。(『日本紀略』)左右近衛が階下で雷鳴陣を行った。また、左右兵衛が南殿で雷鳴陣を行った。(『親信卿記』)
7月7日 乞巧奠
天延二年(974)7月7日癸丑、例年通り乞巧奠があった。後に、藤蔵人がこれを行った。(『親信卿記』)
7月10日 大殿祭
天延二年(974)7月10日丙辰、御物忌であった。丑の刻、神祇官が大殿祭のことを奉仕した。(『親信卿記』)
7月24日 相撲内取
天延二年(974)7月24日庚午、相撲内取があった。(『日本紀略』)
7月26日 相撲召合
天延二年(974)壬申、相撲召合があった。(『日本紀略』)
7月27日 相撲御覧
天延二年(974)7月27日癸酉、相撲御覧があった。(『日本紀略』)
8月
8月2日 釋奠
天延二年(974)8月2日丁丑、釋奠が行われた。(『日本紀略』)
8月3日 石清水行幸の延期
天延二年(974)8月3日戊寅、石清水行幸の延期により、左衛門督源延光は行幸を行う吉日を勘申させた。(『親信卿記』)
8月7日 石清水奉幣使発遣
天延二年(974)8月7日壬午、石清水行幸の延期により、奉幣使を発遣した。御禊があった。(『親信卿記』)
8月10日 賀茂保憲が犯土・造作について勘申
天延二年(974)8月10日乙酉、主計頭賀茂保憲が勘申して「太政官庁は今年御忌方に当たっています。犯土・造作を行われてはいけません」と申した。「右、謹んで八卦の注を案じると『遊年の方角に功を興してはならない』とある。しかし、今年の御遊年は子にある。内裏から官庁を指すと、子の方角に当たる。よって、犯土・造作を行われてはならないと勘申すること、件の如し」。
8月11日 定考/石清水放生会について定める
天延二年(974)8月11日丙戌、定考が行われた。(『日本紀略』)
中納言源延光が仰せて曰く「来たる15日、石清水八幡宮で放生会が行われる。毎年放生会では十列ならびに御幣・音楽を献じる。ただし、今年は使者を以て奉る。後年、諸司は供奉するように」と。「今年は左馬寮の御馬が十疋。左近衛を乗尻とする。来年は右馬寮の御馬。右近衛を乗尻とするように。その装束は□□五月節の十列の装束を用いるように」と。(『親信卿記』)
8月15日 石清水放生会
天延二年(974)8月15日庚寅、石清水放生会が行われた。巳一刻、左衛門督源延光が射場に参った。蔵人藤原典雅に今日の宣命の清書を奏させた。返給した。陣座において使者左近衛中将源正清を召し宣命を給わった。(『親信卿記』)
8月18日 季御読経
天延二年(974)8月18日癸巳、季御読経が行われた。儀式は例年通りであった。ただし、上卿が仰せによって籠候した(参議源忠清・修理大夫源惟正・左近衛中将藤原朝光)。昨夜、御前僧は籠らなかった。よって、上卿が事の由を奏し、外宿の僧を御前に候させた。また、近衛司一人が候した。紫宸殿に召した。御前には候させなかった。ただし先例を問うと「御前に僧を上らせた後、紫宸殿に着し昇らせる」と。(『親信卿記』)
8月26日 大祓
天延二年(974)8月26日辛丑、大祓が行われた。仁王会が行われるからである。(『日本紀略』)
8月29日 臨時陣王会
天延二年(974)8月29日甲辰、臨時仁王会が修された。(『日本紀略』)
8月28日 大祓
天延二年(974)8月28日癸卯、紫宸殿前庭・建礼門・朱雀門において大祓が行われた。天暦元年8月15日の例による。疱瘡の災いを除くためである。(『日本紀略』)
9月
9月3日 御燈
天延二年(974)9月3日戊申、御燈があった。(『日本紀略』)
9月7日 賀茂保憲、禁忌歩敷を勘申する/諸社奉幣の宣命草
天延二年(974)9月7日壬子、主計頭賀茂保憲が隣里犯土の禁忌歩敷について勘申した。(『朝野群載』)
この日、中宮大夫藤原為光が射場殿に参り、蔵人主殿助藤原脩遠に16社臨時奉幣の宣命草を奏させた。疱瘡による。(『親信卿記』)
9月8日 諸社奉幣
天延二年(974)9月8日癸丑、伊勢大神宮など16社へ奉幣が行われた。疱瘡の災いによるものである。(『日本紀略』)
9月9日 重陽平座
天延二年(974)9月9日甲寅、節会はなかった。公卿は参らなかった。(『親信卿記』)平座見参があった。(『日本紀略』)
9月11日 伊勢例幣
天延二年(974)9月11日丙辰、伊勢例幣が行われた。円融天皇が八省院にお出ましになった。(『日本紀略』)
9月16日 御読経
天延二年(974)9月16日辛酉、御読経が始められた。(『日本紀略』)
9月19日 結願
天延二年(974)9月19日甲子、御読経が結願した。(『日本紀略』)
9月22日 山陵使発遣
天延二年(974)9月22日丁卯、山陵使が発遣された。(『日本紀略』)
9月27日 円融天皇、疱瘡に罹る
天延二年(974)9月27日壬申、夕方から円融天皇は体調を崩した。疱瘡であった。(『親信卿記』)
10月
10月1日 旬平座
天延二年(974)10月1日乙亥、平座・見参があった。(『日本紀略』)
10月3日 臨時御読経
天延二年(974)10月3日丁丑、臨時御読経が修された。僧は二十口であった。(『日本紀略』)
10月5日 藤原顕光、蔵人頭に補任
天延二年(974)10月5日己卯、右衛門佐藤原顕光が蔵人頭に補任した。(『職事補任』)
10月6日 御物忌
天延二年(974)10月6日庚辰、今日と明日は御物忌である。雑文書を持ってきた。(『親信卿記』)
10月11日 除目
天延二年(974)10月11日乙酉、除目が行われた。(『日本紀略』)
10月17日 月食
天延二年(974)10月17日辛卯、月食があった。(『日本紀略』)
閏10月
閏10月2日 五節行事
天延二年(974)閏10月2日丙午、頭弁源伊陟が五節の行事を奉仕すべき由を仰せられた。(『親信卿記』)
閏10月5日 射場始
天延二年(974)閏10月5日己酉、射場始であった。(『親信卿記』)
閏10月6日 御物忌
天延二年(974)閏10月6日庚戌、円融天皇の御物忌であった。(『親信卿記』)
11月
11月1日 朔旦冬至
天延二年(974)11月1日乙亥、朔旦冬至があった。上卿が表を上った。円融天皇が紫宸殿にお出ましになった。(『日本紀略』)
11月9日 初雪
天延二年(974)11月9日癸未、夜に大雪が降った。深さは二寸程であった。「勅があり、見参を取らせる」と。(『親信卿記』)
11月10日 平野祭
天延二年(974)11月10日甲申、平野祭が行われた。(『日本紀略』)
11月11日 選子内親王 着裳の儀
天延二年(974)11月11日乙酉、清涼殿において選子内親王の御着裳の儀が行われた。(『日本紀略』)
11月13日 選子内親王を三品に叙す
天延二年(974)11月13日丁亥、選子内親王が三品に叙された。(『日本紀略』)
11月13日 直物/小除目
天延二年(974)11月13日丁亥、左大臣源兼明が参入し、直物があった。次いで仰せがあり、小除目があった。(『親信卿記』)
11月16日 鎮魂祭/五節試
天延二年(974)11月16日庚寅、鎮魂祭が行われた。(『日本紀略』)
また、五節試が行われた。(『親信卿記』)
11月17日 新嘗祭
天延二年(974)11月17日辛卯、新嘗祭が行われた。円融天皇が神嘉殿にお出ましになった。(『日本紀略』)
11月18日 豊明節会/叙位
天延二年(974)11月18日壬辰、豊明節会が行われた。
また、朔旦冬至により叙位があった。詔によって徒罪以下を免じた。例による。(『日本紀略』)
11月23日 賀茂臨時祭
天延二年(974)11月23日丁酉、賀茂臨時祭があった。(『日本紀略』)
12月
12月1日 忌火御膳
天延二年(974)12月1日甲辰、例によって忌火御膳が供された。(『親信卿記』)
12月13日 天文密奏
天延二年(974)12月13日丙午、天文博士安倍晴明が「鎮星が鬼第四星を犯しました」と天文密奏を行った。(『親信卿記』)
12月7日 官奏/東宮参覲/女御藤原懐子を従二位に叙す
天延二年(974)12月7日庚戌、左大臣源兼明が参上し、官奏があった。(『親信卿記』)
また、清涼殿において師貞親王が初めて朝覲を行った。冷泉上皇の女御従三位藤原懐子が従二位に叙された。(『日本紀略』)
12月19日 官奏
天延二年(974)12月19日、申の刻に大納言源雅信が参上し、官奏があった。(『親信卿記』)
12月29日 官奏
天延二年(974)12月29日、大納言源雅信が参上し、官奏があった。(『親信卿記』)
12月10日 触穢
天延二年(974)12月10日癸丑の早朝、宿所の殿の西方で犬の死穢があった。(『親信卿記』)
12月11日 月次祭・神今食
天延二年(974)12月11日甲寅、月次祭・神今食であった。内裏における犬の死穢により、神今食は所司に付された。(『日本紀略』)
12月13日 荷前
天延二年(974)12月13日丙辰、荷前使が立てられた。(『日本紀略』)
12月15日 仁王経転読
天延二年(974)12月15日戊午、清涼殿において僧二十口が仁王経を転読した。前日に賀茂保憲が物忌の覆推を行った。(『親信卿記』)
参考【年表】平安時代の陰陽師たちの活動記録―冷泉天皇~花山天皇時代
冷泉天皇時代の安和二年(969)から花山天皇時代の寛和二年(986)までの陰陽師たちの活動年表を紹介します。安倍晴明の活動年表は、別頁に記載しています。安倍晴明だけではなく、たくさんの陰陽師たちが歴史 ...
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+ 天延三年(975)の年表を見る
天延三年(975)
1月
1月1日 元日節会
天延三年(975)1月1日甲戌、節会があった。円融天皇が紫宸殿にお出ましになった。(『日本紀略』)
1月2日 二宮大饗
天延三年(975)1月2日乙亥、中宮(藤原媓子)・東宮(師貞親王)の大饗があった。(『日本紀略』)
1月5日 叙位
天延三年(975)1月5日戊寅、叙位の儀が行われた。(『日本紀略』)
1月7日 節会
天延三年(975)1月7日庚辰、節会があった。(『日本紀略』)
1月8日 御斎会
天延三年(975)1月8日辛巳、御斎会が始められた。(『日本紀略』)
1月14日 結願
天延三年(975)1月14日丁亥、御斎会が結願した。(『日本紀略』)
1月9日 太政大臣大饗
天延三年(975)1月9日壬午、太政大臣(藤原兼通)の大饗があった。(『日本紀略』)
1月10日 皇太后大饗
天延三年(975)1月10日癸未、皇太后(昌子内親王)の大饗があった。(『日本紀略』)
1月13日 左大臣大饗
天延三年(975)1月13日丙戌、左大臣(源兼明)の大饗があった。(『日本紀略』)
1月16日 踏歌節会
天延三年(975)1月16日己丑、踏歌があった。(『日本紀略』)
1月18日 賭弓
天延三年(975)1月18日辛卯、賭弓が行われた。(『日本紀略』)
1月19日 射礼
天延三年(975)1月19日壬辰、射礼が行われた。(『日本紀略』)
1月20日 政始
天延三年(975)1月20日癸巳、政始があった。(『日本紀略』)
1月23日 除目
天延三年(975)1月23日丙申、除目が始められた。(『日本紀略』)
2月
2月4日 祈年祭
天延三年(975)2月4日丁未、祈年祭が行われた。(『日本紀略』)
2月14日 釋奠
天延三年(975)2月14日丁巳、釋奠が行われた。(『日本紀略』)
2月16日 列見
天延三年(975)2月16日己未、列見が行われた。(『日本紀略』)
2月19日 石清水臨時祭供給
天延三年(975)2月19日壬戌、石清水臨時祭の日の供給について定められた。これまで畿内諸国がこれを勤めてきたが、諸国の愁訴によって今後は内蔵寮・穀倉院に奉仕させるようにとの仰せが下された。(『日本紀略』)
2月27日 斎宮卜定
天延三年(975)2月27日庚午、村上天皇の皇女規子内親王が伊勢斎宮に卜定された。(『日本紀略』)
3月5日 大祓
天延三年(975)3月5日丁丑、朱雀門において大祓が行われた。伊勢斎宮の卜定による。(『日本紀略』)
3月22日 伊勢大神宮に報告
天延三年(975)3月22日甲午、伊勢大神宮へ奉幣し、規子内親王が斎宮に卜定されたことを告げた。(『日本紀略』)
2月28日 武徳殿焼亡
天延三年(975)2月28日辛未、子の刻に武徳殿で火災があった。(『日本紀略』)
3月
3月11日 季御読経
天延三年(975)3月11日癸未、季御読経が行われた。(『日本紀略』)
3月14日 結願
天延三年(975)3月14日丙戌、季御読経が結願した。(『日本紀略』)
3月17日 桓武天皇国忌
天延三年(975)3月17日己丑、桓武天皇の国忌であった。参議以上はみな障りを申して参らなかった。(『西宮記』)
3月20日 石清水臨時祭
天延三年(975)3月20日壬辰、石清水臨時祭であった。(『石清水八幡宮記録』)
3月30日 仁王会
天延三年(975)3月30日壬寅、仁王会が修された。(『日本紀略』)
4月
4月1日 旬平座
天延三年(975)4月1日癸卯、旬平座であった。円融天皇は御物忌により紫宸殿にお出ましにならなかった。(『日本紀略』)
4月3日 藤原懐子 薨去
天延三年(975)4月3日乙巳、冷泉上皇の女御従三位藤原懐子が薨じられた。師貞親王ならびに尊子内親王は斎院を退出した。(『日本紀略』)
4月4日 広瀬・龍田祭
天延三年(975)4月4日丙午、広瀬・龍田祭が行われた。(『日本紀略』)
4月6日 平野祭
天延三年(975)4月6日戊申、平野祭が行われた。(『日本紀略』)
4月7日 擬階奏/大赦
天延三年(975)4月7日己酉、擬階奏が行われた。
この日、詔によって大赦があった。三合厄の病による。(『日本紀略』)
4月8日 東宮移御
天延三年(975)4月8日庚戌、亥の刻に師貞親王が左近衛府大将曹司にお移りになった。(『日本紀略』)
4月11日 諸社奉幣使の停止
天延三年(975)4月11日癸丑、大祓が行われた。触穢により諸社奉幣使が停止されたことによる。(『日本紀略』)
4月14日 賀茂祭の可否を勘申
天延三年(975)4月14日丙辰、内裏でかすかな穢があったことにより、賀茂祭を行うべきか否か神祇官・陰陽寮に占わせた。特に祟りはないと申した。そこで、穢のない所司を以て祭事を奉仕するようにと仰せられた。(『日本紀略』)
4月18日 大祓
天延三年(975)4月18日庚申、建礼門前において大祓があった。明日、賀茂祭があるからである。(『日本紀略』)
4月19日 賀茂祭
天延三年(975)4月19日辛酉、賀茂祭が行われた。斎王尊子内親王は御母藤原懐子の喪のため供奉しなかった。(『日本紀略』)
4月28日 直物/小除目
天延三年(975)4月28日庚午、直物・小除目があった。(『日本紀略』)
5月
5月6日 御読経
天延三年(975)5月6日丁丑、この日から七日間、清涼殿において御読経が修される。(『日本紀略』)
5月23日 諸社奉幣
天延三年(975)5月23日甲午、円融天皇が八省院にお出ましになった。伊勢大神宮などの16社に奉幣使が発遣された。(『日本紀略』)
5月29日 盗人
天延三年(975)5月29日庚子の夜、盗人が大炊寮の御倉に侵入した。(『日本紀略』)
6月
6月4日 止雨奉幣使の発遣
天延三年(975)6月4日乙巳、円融天皇は八省院にお出ましになった。霖雨を止めるために伊勢大神宮奉幣使が発遣された。(『日本紀略』)
6月11日 月次祭・神今食
天延三年(975)6月11日壬子、月次祭・神今食があった。円融天皇は中院にお出ましになった。(『日本紀略』)
6月15日 祇園社に走馬・勅楽を奉納
天延三年(975)6月15日丙辰、今年から、走馬ならびに勅楽・東遊・御幣などを感神院に奉ることになった。これは、去年の秋から続いている疱瘡の御悩による。御願があり、御報賽された。太政大臣藤原兼通が感神院に参り向かった。公卿・上官が供奉した。(『日本紀略』)
6月22日 彗星
天延三年(975)6月22日癸亥の明け方、艮の方角に彗星が見られた。その形は団扇のようで、長さは五六尺であった。連夜見られた。(『日本紀略』)
大外記中原師遠が勘文を奉った。(『諸道勘文』)
6月23日 天変
天延三年(975)6月23日甲子の明け方、月が畢を犯した。また、白虹のような客星が見られた。(『日本紀略』)
6月26日 天変
天延三年(975)6月26日丁卯の明け方、月が東井を犯した。(『日本紀略』)
6月23日 陰陽寮が日食の予定を奏する
天延三年(975)6月23日甲子、陰陽寮が来月朔日の日食の予定を奏した。(『朝野群載』)
6月25日 斎院卜定
天延三年(975)6月25日丙寅、選子内親王が賀茂斎院に卜定された。(『日本紀略』)
6月26日 天変勘文/光子内親王薨去
天延三年(975)6月26日丁卯、主税頭中原以忠が天変勘文を上った。(『諸道勘文』)
この日、光子内親王が薨じられた。(『日本紀略』)
7月
7月1日 大赦
天延三年(975)7月1日辛未、日食があった。詔によって大赦が行われた。(『日本紀略』)
7月2日 大祓
天延三年(975)7月2日壬申、大祓があった。賀茂奉幣使が発遣された。(『日本紀略』)
7月4日 広瀬・龍田祭
天延三年(975)7月4日甲戌、広瀬・龍田祭が行われた。(『日本紀略』)
7月10日 大祓
天延三年(975)7月10日庚辰、建礼門において大祓があった。仁王会があるからである。(『日本紀略』)
7月12日 仁王会
天延三年(975)7月12日壬午、仁王会が行われた。日食ならびにに度々天変があったことによる。(『日本紀略』)
7月13日 相撲節の停止/東宮還御
天延三年(975)7月13日癸未、相撲節を停止するとの宣下があった。天変による。
この日、師貞親王が左近衛府から凝華舎へお戻りになった。(『日本紀略』)
8月
8月1日 七大寺御読経
天延三年(975)8月1日庚子、七大寺において御読経があった。前月の日食による。(『日本紀略』)
8月8日 釋奠
天延三年(975)8月8日丁未、釋奠が行われた。(『日本紀略』)
8月9日 諸社奉幣
天延三年(975)8月9日戊申、13社へ奉幣が行われた。前月の日食による。(『日本紀略』)
8月10日 封事
天延三年(975)8月10日己酉、詔により、公卿以下に封事を上らせた。(『日本紀略』)
8月12日 季御読経
天延三年(975)8月12日辛亥、季御読経が始められた。(『日本紀略』)
8月15日 結願
天延三年(975)8月15日、季御読経が結願した。(『日本紀略』)
8月13日 源兼明、亀山神を祀る
天延三年(975)8月13日壬子、左大臣源兼明は自ら祭文を作成し、亀山において水を祈願した。すると、清水が湧き出てきた。(『日本紀略』『扶桑略記』)
8月17日 定考
天延三年(975)8月17日丙辰、定考が行われた。(『日本紀略』)
8月24日 天変
天延三年(975)8月24日癸亥、上総国が「夜、月が申の方角にある間、別の満月が東方から出てきました。(月が二つ現れた)」と申した。(『日本紀略』)
8月27日 流人召還
天延三年(975)8月27日丙寅、去る安和二年3月25日に流罪となった者たちを召し返す官符が下された。前月の日食による。(『日本紀略』)
9月
9月3日 御燈
天延三年(975)9月3日辛未、御燈があった。(『日本紀略』)
9月9日 重陽宴
天延三年(975)9月9日丁丑、重陽宴が停止された。(『日本紀略』)
9月12日 伊勢例幣
天延三年(975)9月12日庚辰、伊勢例幣が行われた。雨が降っていたので、円融天皇はお出ましにならなかった。(『日本紀略』)
9月14日 御読経
天延三年(975)9月14日壬午、清涼殿において三日間に渡る御読経が修された。僧四十一口。(『日本紀略』)
10月
10月1日 旬
天延三年(975)10月1日己亥、旬であった。円融天皇が紫宸殿にお出ましになった。音楽の演奏があった。(『日本紀略』)
10月5日 藤原兼通、輦車
天延三年(975)10月5日癸卯、太政大臣藤原兼通に輦車を許す宣旨が下された。(『日本紀略』)
10月9日 盗人
天延三年(975)10月9日丁未、盗人が施薬院の御倉に侵入し、雑物を盗み取った。(『日本紀略』)
11月
11月4日 平野祭・春日祭
天延三年(975)11月4日壬申、平野祭・春日祭が行われた。(『日本紀略』)
11月5日 東宮方違
天延三年(975)11月5日癸酉、師貞親王は左近衛府から官朝所へお移りになった。四十五日の忌みを避けるためである。(『日本紀略』)
11月6日 還御
天延三年(975)11月6日甲戌、師貞親王は左近衛府からお帰りになった。(『日本紀略』)
11月8日 宇佐使発遣
天延三年(975)11月8日丙子、宇佐奉幣使が発遣された。(『日本紀略』)
11月9日 小除目
天延三年(975)11月9日丁丑、小除目が行われた。(『日本紀略』)
11月14日 朔平門等焼亡
天延三年(975)11月14日壬午、丑の刻に朔平門・右衛門陣屋において火災があった。吉上時光が禁獄となった。(『日本紀略』)
11月21日 園・韓神祭
天延三年(975)11月21日己丑、園・韓神祭があった。(『日本紀略』)
11月22日 鎮魂祭
天延三年(975)11月22日庚寅、鎮魂祭が行われた。(『日本紀略』)
11月23日 新嘗祭
天延三年(975)11月23日辛卯、新嘗祭が行われた。(『日本紀略』)
11月24日 豊明節会
天延三年(975)11月24日壬辰、豊明節会が行われた。(『日本紀略』)
11月25日 東宮鎮魂祭の停止
天延三年(975)11月25日癸巳、東宮鎮魂祭は本宮の重服により行われなかった。(『日本紀略』)
11月27日 除目
天延三年(975)11月27日乙未、除目が行われた。(『日本紀略』)
11月29日 賀茂臨時祭
天延三年(975)11月29日丁酉、賀茂臨時祭が行われた。(『日本紀略』)
12月
12月9日 諸社奉幣
天延三年(975)12月9日丙午、12社へ奉幣が行われた。朔平門の火災ならびに変異による。(『日本紀略』)
12月11日 月次祭・神今食
天延三年(975)12月11日戊申、月次祭・神今食が行われた。(『日本紀略』)
12月16日 月食・天変
天延三年(975)12月16日癸丑の夜、皆既月食があった。熒惑星が房星を犯した。(『日本紀略』)
12月20日 御仏名
天延三年(975)12月20日丁巳、御仏名があった。(『日本紀略』)
12月21日 外記局文書焼失
天延三年(975)12月21日戊午の夜、外記局の文書が自然焼失した。物の怪の仕業だろうか。翌朝これを奏することにした。金剛般若経の転読を行うことになった。(『日本紀略』)
12月23日 荷前
天延三年(975)12月23日庚申、荷前使が立てられた。(『日本紀略』)
12月24日 中宮御仏名
天延三年(975)12月24日辛酉、中宮(藤原媓子)の御仏名があった。(『日本紀略』)
12月28日 大祓
天延三年(975)12月28日乙丑、八省院東廊において大祓が行われた。今月27日、伊勢斎宮規子内親王が東河において御禊を行う予定だったが、延期されたことによる。(『日本紀略』)
+ 天延四年/貞元元年(976)の年表を見る
1月
1月1日 元日節会/御悩
天延四年(976)1月1日戊辰、宴会が開かれた。円融天皇は体調がすぐれなかったので、お出ましにならなかった。(『日本紀略』)
1月2日 中宮大饗/陸奥国不動穀倉二十一字焼亡
天延四年(976)1月2日己巳、中宮(藤原媓子)の大饗があった。
この日、陸奥国不動穀倉二十一字が神火のため焼亡した。(『日本紀略』)
1月3日 冷泉上皇の皇子誕生
天延四年(976)1月3日庚午、冷泉上皇の女御藤原超子が第二皇子を出産した。名は居貞。(『日本紀略』)
次の帝は三条院という。冷泉院の第二皇子である。御母は贈皇后宮藤原超子である。太政大臣藤原兼家公の第一番目の娘である。この帝は、貞元元年(976)1月3日にお生まれになった。(『大鏡』)
1月6日 叙位
天延四年(976)1月6日癸酉、叙位の儀があった。(『日本紀略』)
1月7日 節会
天延四年(976)1月7日甲戌、節会があった。(『日本紀略』)
1月8日 御斎会
天延四年(976)1月8日乙亥、御斎会が始められた。(『日本紀略』)
1月14日 結願
天延四年(976)1月14日辛巳、御斎会が結願した。内論議が行われた。(『日本紀略』)
1月15日 太政大臣大饗
天延四年(976)1月15日壬午、太政大臣(藤原兼通)の大饗があった。(『日本紀略』)
1月16日 女踏歌
天延四年(976)1月16日癸未、女踏歌があった。(『日本紀略』)
1月17日 射礼
天延四年(976)1月17日甲申、射礼が行われた。(『日本紀略』)
1月18日 賭弓
天延四年(976)1月18日乙酉、賭弓が行われた。(『日本紀略』)
1月23日 除目
天延四年(976)1月23日庚寅、除目が始められた。(『日本紀略』)
2月
2月4日 祈年祭
天延四年(976)2月4日辛丑、祈年祭が行われた。(『日本紀略』)
2月6日 大原野祭
天延四年(976)2月6日癸卯、大原野祭が行われた。(『日本紀略』)
2月10日 釋奠
天延四年(976)2月10日丁未、釋奠が行われた。(『日本紀略』)
2月11日 春日祭
天延四年(976)2月11日戊申、春日祭が行われた。(『日本紀略』)
2月12日 大風雨
天延四年(976)2月12日己酉、激しい風と雨によって内蔵寮の雑舎一字が顛倒した。男女二人が亡くなった。(『日本紀略』)
2月13日 列見
天延四年(976)2月13日庚戌、列見が行われた。(『日本紀略』)
2月16日 園・韓神祭
天延四年(976)2月16日癸丑、園・韓神祭が行われた。(『日本紀略』)
2月17日 触穢
天延四年(976)2月17日甲寅、桂芳坊において犬の死穢があった。よって、来たる19日に予定されていた斎王規子内親王の御禊は延期された。(『日本紀略』)
2月23日 大祓
天延四年(976)2月23日庚申、建礼門において大祓が行われた。去る19日の斎王御禊が延期されたからである。(『日本紀略』)
2月26日 斎王御禊
天延四年(976)2月26日癸亥、伊勢斎王の御禊が行われた。侍従御厨にお移りになった。(『日本紀略』)
2月22日 季御読経
天延四年(976)2月22日己未、季御読経が始められた。(『日本紀略』)
2月25日 結願
天延四年(976)2月25日壬戌、季御読経が結願した。(『日本紀略』)
2月25日 怪異
天延四年(976)2月25日壬戌、但馬国が「出石大社で鵲が群集していました」と言上した。よって、御卜が行われた。(『日本紀略』)
2月26日 怪異
天延四年(976)2月26日癸亥、去る19日に興福寺で水鳥の怪異があった。御卜が行われ、公家ならびに氏卿は慎みが必要だということになった。石清水社は坤の方角にあたる。よって、石清水行幸は延期された。(『日本紀略』)
3月
3月3日 御燈
天延四年(976)3月3日庚午、御燈があった。(『日本紀略』)
3月5日 大祓
天延四年(976)3月5日壬申、建礼門において大祓が行われた。仁王会があるからである。(『日本紀略』)
3月6日 仁王会
天延四年(976)3月6日癸酉、仁王会が修された。(『日本紀略』)
3月8日 藤原兼通、春日社参詣
天延四年(976)3月8日乙亥、太政大臣藤原兼通が春日社に参詣した。公卿・上官が相従った。(『日本紀略』)
3月16日 東宮遷御
天延四年(976)3月16日癸未、師貞親王が左近衛府から内裏へお移りになった。(『日本紀略』)
3月20日 石清水臨時祭
天延四年(976)3月20日丁亥、石清水臨時祭が行われた。(『日本紀略』)
3月23日 藤原兼通、法会
天延四年(976)3月23日庚寅、太政大臣藤原兼通は首楞厳院に参上し、故右大臣藤原師輔のために法会を修した。(『日本紀略』)
3月25日 直物
天延四年(976)3月25日壬辰、直物があった。(『日本紀略』)
3月28日 音楽
天延四年(976)3月28日乙未、清涼殿において音楽の演奏があった。諸卿が参仕した。(『日本紀略』)
3月29日 御宴
天延四年(976)3月29日丙申、御宴があった。文人を召して詩を賦させた。また、伶人を召して音楽を演奏させた。(『日本紀略』)
4月
4月1日 旬平座の停止
天延四年(976)4月1日丁酉、納言が参らなかった。よって旬平座は停止となったが、見参を上った。(『日本紀略』)
4月4日 広瀬・龍田祭
天延四年(976)4月4日庚子、広瀬・龍田祭が行われた。(『日本紀略』)
4月5日 大神祭使発遣
天延四年(976)4月5日辛丑、大神祭使近衛将監が障りを申したので、左兵衛尉藤原惟親を以て左近権将監を勅使とした。(『日本紀略』)
4月7日 擬階奏
天延四年(976)4月7日癸卯、擬階奏が延期された。上卿が参らなかったことによる。(『日本紀略』)
4月9日 擬階奏
天延四年(976)4月9日乙巳、擬階奏が行われた。(『日本紀略』)
4月12日 平野祭
天延四年(976)4月12日戊申、平野祭が行われた。(『日本紀略』)
4月23日 賀茂祭警固の延期
天延四年(976)4月23日己未、上卿が参らなかったので、賀茂祭の警固は延期された。(『日本紀略』)
4月24日 警固
天延四年(976)4月24日庚申、警固の召し仰せがあった。(『日本紀略』)
4月25日 賀茂祭
天延四年(976)4月25日辛酉、賀茂祭が行われた。斎王選子内親王がまだ本院に入っていなかったので、供奉はなかった。この日、太政大臣藤原兼通は堀川第から賀茂社へ参詣した。弁・少納言が供奉した。(『日本紀略』)
4月26日 解陣
天延四年(976)4月26日壬戌、解陣が行われた。(『日本紀略』)
5月
5月2日 除目
天延四年(976)5月2日戊辰、除目が行われた。(『日本紀略』)
5月7日 御読経
天延四年(976)5月7日癸酉、御読経が始められた。(『日本紀略』)
5月10日 結願
天延四年(976)5月10日丙子、御読経が結願した。(『日本紀略』)
5月11日 内裏焼亡
天延四年(976)5月11日丁丑、子の刻、内裏で火災があった。仁寿殿の西面から出火した。しかし、外の舎屋は焼けていなかった。円融天皇は玄輝門を出て桂芳坊にお移りになった。火の気があったので、天皇は職曹司にお移りになった。中宮(藤原媓子)・師貞親王は縫殿寮庁にお移りになった。一品資子内親王は縫殿寮を出た。師貞親王は左近衛府にお移りになった。資子内親王は乳母命婦藤原輔子の邸宅に向かった。(『日本紀略』)
5月12日 廃務
天延四年(976)5月12日戊寅、六衛府・左右馬寮・兵庫寮に警固の由を仰せられた。この日から三日間、廃務となった。(『日本紀略』)
円融天皇の御代はたびたび内裏で火災があり、菅原道真の祟りだと言い伝えられた。神鏡は損傷こそしていなかったが、輝きを失い黒ずんでしまった。(『愚管抄』)
5月14日 造宮・遷宮の日時勘申
天延四年(976)5月14日庚辰、陰陽寮を召して造宮ならびに遷宮の日時を勘申させた。上卿は弁に時杭ならびに案を造らせた。(『日本紀略』)
5月19日 御読経
天延四年(976)5月19日乙酉、大極殿において僧百二口が御読経を修した。(『日本紀略』)
5月22日 結願
天延四年(976)5月22日戊子、御読経が結願した。(『日本紀略』)
5月20日 御卜
天延四年(976)5月20日丙戌、造宮が始められた。また、神祇官・陰陽寮に内裏焼亡について御卜を行わせた。(『日本紀略』)
5月23日 大祓
天延四年(976)5月23日己丑、建礼門において大祓が修された。去る11日に内裏で火災があったことによる。(『日本紀略』)
6月
6月1日 諸社奉幣
天延四年(976)6月1日丙申、雨が降った。円融天皇は八省院にお出ましになった。伊勢奉幣使が発遣された。また、石清水・賀茂・松尾・平野へ奉幣使が発遣された。(『日本紀略』)
6月9日 服御常膳を減じる/調庸及び半徭を免じる
天延四年(976)6月9日甲辰、詔によって天皇及び皇后の御常膳のものを減らし、諸国に天禄三年以往の調庸未進及び半徭を免じた。内裏焼亡による。(『日本紀略』)
6月10日 御体御卜奏
天延四年(976)6月10日乙巳、御体御卜奏が行われた。(『日本紀略』)
6月11日 月次祭・神今食
天延四年(976)6月11日丙午、月次祭・神今食があった。激しい風のため円融天皇はお出ましにならなかった。(『日本紀略』)
6月14日 源延光 出家
天延四年(976)6月14日己酉、権大納言源延光が病のため出家した。(『日本紀略』)
6月17日 源延光 薨去
天延四年(976)6月17日壬子、源延光が薨じられた。(『日本紀略』)
6月18日 大地震
天延四年(976)6月18日癸丑、申の刻に大地震があった。雷のように鳴り響いた。宮城の諸司の多くが破壊・顛倒した。左右両京の舎屋も多くが被災した。八省院・豊楽院・東寺・西寺・極楽寺・清水寺・円覚寺も顛倒した。未曾有の災害であった。(『日本紀略』)
6月19日 地震
天延四年(976)6月19日甲寅、地震が14度あった。左衛門陣後庁・堀川院廊舎・閑院西対屋・民部省舎三字が顛倒した。(『日本紀略』)
6月20日 地震
天延四年(976)6月20日乙卯、地震が11度あった。(『日本紀略』)
6月21日 地震
天延四年(976)6月21日丙辰、地震が13度あった。(『日本紀略』)
6月22日 地震
天延四年(976)6月22日丁巳、地震が12度あった。(『日本紀略』)
6月23日 日食・地震
天延四年(976)6月23日戊午、辰の刻に日食があった。地震が10度あった。(『日本紀略』)
6月26日 暴雨・雷鳴・地震
天延四年(976)6月26日辛酉、未の刻に暴雨・雷鳴があった。地震が8度あった。(『日本紀略』)
6月29日 地震
天延四年(976)6月29日甲子、地震が5度あった。(『日本紀略』)
6月30日 地震
天延四年(976)6月30日乙丑、地震が8度あった。(『日本紀略』)
7月11日 地震
天延四年(976)7月11日丙子、地震が6度あった。(『日本紀略』)
7月12日 地震
天延四年(976)7月12日丁丑、地震が4度あった。(『日本紀略』)
7月14日 地震
天延四年(976)7月14日己卯、地震が2度あった。(『日本紀略』)
7月18日 大地震
天延四年(976)7月18日癸未、大地震があった。(『日本紀略』)
7月20日 雷雨・大地震
天延四年(976)7月20日、雷雨・大地震があった。(『日本紀略』)
7月21日 地震
天延四年(976)7月21日、地震が3度あった。(『日本紀略』)
7月23日 地震
天延四年(976)7月23日、地震が絶えなかった。(『日本紀略』)
6月20日 内裏焼亡を山科・村上両陵に報告
天延四年(976)6月20日乙卯、山科・村上の両陵に使者を発遣した。去る5月に内裏焼亡があったことによる。(『日本紀略』)
7月
7月13日 臨時御読経/改元
天延四年(976)7月13日戊寅、八省院大極殿において臨時御読経が修された。去る6月18日の大地震による。中納言藤原文範らが参入した。巳二刻に始められた。(『改元部類記』)
この日、天延四年から貞元元年に改元が行われた。災いならびに地震による。赦があった。大内記紀伊輔が詔書を作成した。(『日本紀略』)