藤原純友の乱
年表
承平六年(936)6月 朝廷が藤原純友に海賊追捕の宣旨を下す
承平六年(936)6月某日、南海の賊徒の首藤藤原純友は党を結成し、伊予国日振島に集まって千艘余りの船を設け、官物や私財を奪った。
そこで、朝廷は紀淑人を伊予守に任命し、純友追捕を兼行させた。2500人余りの賊徒が刑に就いた。
伊予国日振島では、藤原純友が千艘余りの船を率いて海上の官物を強奪した。
南海道で海賊が横行していることにより、朝廷は従四位下紀淑人を伊予守に任命し、藤原純友に海賊を捕らえるよう宣旨を下した。(『日本紀略』『扶桑略記』)
淑人は純友を連れて上洛した。また、この時平将門も京都にいたという。(『将門純友東西軍記』)
承平六年(936)8月19日 平将門と藤原純友が比叡山で結託する
承平六年(936)8月19日、平将門と藤原純友の両人は比叡山から平安京を見下ろし、互いに朝廷へ反逆することを約束した。そして、本意を遂げた後は、王孫(桓武天皇の後裔)である将門は新たな帝となり、藤原氏である純友は関白になることを約束した。(『将門純友東西軍記』『大鏡』『前太平記』)
『将門記』によると、承平六年9月7日には平将門を京都に召還せよとの太政官符が東国に到着している。また、藤原純友も承平六年三月に伊予国へ派遣されている。一方、『本朝世紀』では「将門と純友は結託して今回の兵乱を起こしたかのようだった」とある。
承平六年(936)藤原純友が海賊追捕の宣旨を蒙る
承平六年(936)、藤原純友は海賊追捕の宣旨を蒙ったが従わず、伊予国日振島を本拠地として海賊の頭領になった。
当時、藤原純友は海賊の首領となっており、大軍を率いて南海・山陽などの国々で濫行をはたらいた。官物を奪い取っては官舎に火をつけた。(『純友追討記』)
西国から「藤原純友は海上において強奪をはたらき、諸国から来た船の積荷を強奪しており、人を殺めている」との上申書が朝廷に届いた。
天慶二年(939)
2月9日 平将門の乱・藤原純友の乱を鎮めるための祈願が行われる
天慶二年(939)2月9日辛巳、大神宮へ奉幣が行われ、東賊の平将門と西賊の藤原純友の追討を祈願した。(『太神宮諸雑事記』)
5月15日 伊勢・石清水などの諸社と東海・東山の神々へ奉幣が行われる
天慶二年(939)5月15日丙辰、諸社及び東海・東山両道の神々へ臨時奉幣使が建てられ、兵革が鎮まるよう祈願が行われた。(『日本紀略』『本朝世紀』)
9月26日 僧貞救に南海の兵乱鎮圧について祈祷させる
天慶二年(939)9月26日甲午、僧貞救は祇園社において南海の兵乱について七日間祈祷を行った。(『貞信公記抄』)
11月21日 藤原純友調伏の修法が行われる
天慶二年(939)11月21日、内供奉十禅師明達が摂津国住吉神宮寺に派遣され、藤原純友を降伏させるために毘沙門天調伏の法が行われた。(『古事談』)
『扶桑略記』には天慶三年(940)の出来事として記されている。
12月21日 官符を下して藤原純友を召し進めさせる
天慶二年(939)12月21日、官符を摂津・丹波・但馬・播磨・備前・備中・備後などに下して前伊予守藤原純友を召し進めさせた。(『日本紀略』『本朝世紀』)
12月25日 諸寺において純友追討の祈祷が行われる
12月25日、諸寺において藤原純友追討祈願のための仁王経転読が三日間に渡って行われた。(『貞信公記抄』『柳原家記録』)
12月26日 藤原純友の士卒が備前介と播磨介を捕縛する
12月26日壬戌、摂津国須岐沢において、藤原純友の士卒が備前介藤原子高と播磨介島田惟幹らを捕縛した。(『日本紀略』『本朝世紀』)
12月29日 警固・固関などが行われる
12月29日乙丑、東西の兵乱により、京都の諸陣の警固を固めた。(『日本紀略』)
天慶三年(940)
1月4日 追捕警固の結政請印が行われる
1月4日庚午、諸卿が参入し追捕警固の結政請印が行われた。(『園太暦』)
また、兵乱のため太政大臣藤原忠平の大饗は中止された。(『九條殿記』)
1月6日 大神宮へ奉幣が行われ、五畿七道の諸神に各位一階を授ける
1月6日壬申、五畿七道へ祭文を祈申し、伊勢大神宮へ奉幣を行った。(『貞信公記抄』)
中納言藤原師輔が伊勢大神宮へ奉幣を行った。(『師守記』)
1月7日 伊勢大神宮に奉幣使を派遣する
1月7日癸酉、節会が催されたが音楽はなく、朱雀天皇も南殿に出御しなかった。東西の兵乱鎮圧を祈願するため、伊勢大神宮へ奉幣使を派遣した。(『日本紀略』『貞信公記抄』)
1月20日 西国の兵船が備中に侵入してきたので、五ヶ所に祈祷する
1月20日丙戌、西国の兵船が多く来たことにより、五ヶ所において修法が行われた。(『貞信公記抄』)
1月30日 石清水・賀茂・住吉の三社へ東西の兵乱鎮圧を祈願するための奉幣が行われる
1月30日丙申、石清水・賀茂・住吉の三社へ東西の兵乱鎮圧を祈願するための奉幣が行われた。(『貞信公記抄』『師守抄』)
2月3日 藤原純友を従五位下に叙す/藤原明方が伊予国の解状と純友の申文を持ち帰る
2月3日己亥、伊予掾藤原純友が従五位に叙された。また、藤原明方が伊予国の解状と藤原純友の申文を携えて帰ってきた。(『貞信公記抄』)
2月22日 小野好古が藤原純友の上洛を報告する
2月22日、追捕凶賊小野好古が解文を送り、藤原純友が海路を渡って上洛してくることを報告した。(『貞信公記抄』)
3月2日 藤原純友に位記を給う使者が従五位に叙された純友の喜びを報告する
3月2日、藤原純友に位記を給う使者蜷淵有相が、純友は従五位下に叙されて喜んでいると報告した。(『貞信公記』)
4月10日 諸社へ奉幣使を派遣する
4月10日乙巳、東西の兵乱鎮圧を祈願するため、諸社へ奉幣使が派遣された。(『貞信公記抄』)
4月18日 藤原純友の士卒追捕が定められる
4月18日壬子、藤原純友の士卒追捕のことが定められた。(『貞信公記抄』)
8月18日 海賊の船400艘が備前・備後の兵船を焼き払う
8月18日辛亥、海賊の船400艘が伊予及び讃岐を掠奪し、備前・備後の兵船100艘を焼き払った。(『師守記』)
8月29日 紀伊国から海賊の状況が報告される
8月29日壬戌、紀伊国から南海の凶賊についての報告があったので、延暦寺が五壇法を、法琳寺が太元帥法を修した。(『日本紀略』)
天慶四年(941)
1月15日 藤原純友のことについて会議が行われる
1月15日乙亥、諸卿が集まって藤原純友のことについて定められた。(『北山抄』)
1月16日 海賊追捕使から解文が届く
1月16日丙子、追捕南海賊使から解文が届いた。(『日本紀略』)
1月21日 伊予国から前山城掾藤原三辰の首が進上される
1月21日辛巳、伊予国から前山城掾藤原三振の首が進上された。三振は海賊の中でも特に暴悪な人物で、讃岐国の乱が起こった原因であったという。(『師守記』裏書)
2月9日 讃岐国から報告が届く
2月9日己亥、讃岐国から「兵庫允宮道忠用・藤原恆利らが伊予国に赴いて海賊を撃つ」との知らせが届いた。(『日本紀略』)
5月19日 小野好古が賊徒によって太宰府が掠奪されたことを報告する
5月19日戊寅、山陽・南海両道の追捕凶賊使小野好古が「大宰府が賊徒に掠奪された」と朝廷に報告した。
そこで、参議藤原忠文が征西大将軍に任じられた。副将軍・軍監以下も任じられた。(『日本紀略』)
5月20日 小野好古が博多津で藤原純友を破る
天慶四年(941)5月20日、小野好古らが博多津において藤原純友軍を撃破した。(『本朝世紀』『扶桑略記』『将門純友東西軍記』)
6月20日 橘遠保が藤原純友を討つ
天慶四年(941)6月20日、橘遠保が藤原純友らを討ち取った。(『師守記』)
7月7日 橘遠保が上洛し、合戦の結果を報告する
天慶四年(941)7月7日、橘遠保は純友と重太丸の首を携えて上洛し、右近馬場において合戦の結果を奏上した。都は大騒ぎになり、一ヶ所に留まれないほどの大混雑になった。(『今昔物語集』)
同年7月8日、朱雀天皇は純友と重太丸の首を直接見たかったが、内裏に持ち込むことはできないため、絵師掃守在上に二人の首を写生させてご覧になった。しかし、世間からはよく思われなかった。
10月26日、但馬国が賊徒藤原文元らの誅戮を報告する
10月26日壬子、但馬国から「賊徒藤原文元らを誅戮した」との知らせが届いた。(『本朝世紀』)
11月 純友の乱平定
天慶四年(941)11月、乱の平定によって「天下安寧、海内清平」となった。(『日本紀略』)