陰陽道

天徳四年の内裏焼亡と安倍晴明の霊剣鋳造

天徳四年(960)、内裏で大火事があり宝物として安置されていた御剣が消失した。陰陽寮の太一式盤も焼失した。
天徳四年は安倍晴明が初めて史料に登場した年。この年、晴明は40歳になる。
翌年に神護寺で五帝祭が行われ、霊剣は再鋳造された。

天徳四年の内裏焼亡は神武天皇の時代から三度目の内裏焼亡になる。一度目は天武十五年(686)1月の難波宮(『日本書紀』)、和銅四年(711)の藤原宮(『扶桑略記』)である。

内裏焼亡

  • 『源平盛衰記』:遷都して百六十六年後、村上天皇の御宇天徳四年(960)9月23日子の刻に内裏焼亡があった。火は左衛門陣より出来たもので、内侍所のある温明殿も近かった上に、夜半のことだったので、内侍も女官も参ることができず、内侍所を持ち出すこともできず、小野宮(藤原実頼)が急いで参上したときには、温明殿は早くも焼けていた。

霊剣の再鋳造

天徳四年(960)9月23日、内裏で大規模な火災があり、宜陽殿や温明殿にあった霊鏡・太刀・節刀などの宝物が焼失した。(『扶桑略記』)
その後、温明殿にあった四十四柄の太刀が焼損した状態で発見された。
焼損した御剣のうち、大刀契だいとけいと呼ばれる二柄は特に重要な霊剣だった。
二柄は神鏡と同じ温明殿に安置されており、晴明曰く十二神・日月・五星の体が刻まれていた。

天文得業生晴明は宣旨を奉じて勘文を進上し、御剣を再鋳造させた。

ただし、この年から37年後の長徳三年に晴明が語った内容に基づいているものである。

鎌倉時代の辞書『塵袋』巻八によると、二本の剣はそれぞれ護身剣と破敵剣という名前で、庚申正月に百済国で鋳造された。
霊剣の左右には文様が刻まれていたという。

霊剣左側右側
護身剣

太陽
南斗六星
朱雀
青龍


北斗七星
玄武
白虎
破敵剣三皇子五帝形
南斗六星
青龍
西王母の兵刃符
北極五星
北斗七星
白虎
老子の破敵符

さらに、『塵袋』は天徳四年12月12日安倍晴明に焼損した霊剣を宜陽殿で鋳造させたことを伝えている。

大刀の中には二つの霊剣があり、百済国より奉ったものである。三公戦闘の釖と名付けられ、また将軍の釖とも、破敵の剣とも言う。護身の剣は、疾病邪気を除く。釖の左には日形、南斗六星、朱雀の形、青龍の形が刻まれている。右には月形、北斗七星、玄武の形、白虎の形が刻まれている。
破敵の釖には、左には三皇五帝の形、南斗六星、青龍の形、西王母の兵刃符が刻まれている。右には北極五星、北斗七星、白虎の形、老子の破敵符が刻まれている。(『塵袋』)

長徳三年5月24日、『蔵人信経私記』曰く、主計助安倍晴明が宜陽殿に召されて御刀のことを問われた際「件の御刀は四十四柄あったが、去る天徳内裏焼亡の日にみな悉く焼損した。晴明が天文得業生であったときに宣旨を奉り、勘文を進めた。四十四柄の御刀のうち二腰は名霊刀で、一腰は破敵、一腰は守護という名前であった。件の刀は十二神や日月、五星などが刻まれていたが、焼損して見えなくなっていた。(『中右記』)

焼失した四十四柄の御剣のうち、「破敵」と「守護」という名前の特に重要な霊剣が二本ある。
その剣には十二神・日月・五星の体が刻まれていたが、焼けたことによって文様が分からなくなってしまった。
そこで私は勘文を提出し、再び刀身に文様を刻ませた。
「破敵」の剣が大将軍が派遣される際に節刀として賜る剣で、「守護」の剣は宮中に安置されるものだ。
これらの剣は百済国から献上されたもので国家の大切な宝なのだから、必ず鋳造しなければならない。
備前国の鍛冶師白根安生しらねのやすおに高雄山にて御剣を再鋳造させた。
造酒令史の安倍宗生によると、鋳造は七月あるいは八月の庚申日に行う必要がある。
今年(長徳三年)は八月二十六日が庚申日である。この日以外はよくないので、来年の庚申日に鋳造するべきだ。(『中右記』裏書)

実際のところ、霊剣鋳造に関わったのは当時天文博士だった賀茂保憲だと記されている。

天徳四年の秋、内裏が焼損した。これによって、賀茂保憲朝臣に命じて御剣を再鋳造させた。(『左大史小槻季継記』安貞二年一月二十四日条)

だが、季継は晴明が御剣の再鋳造に関わったとされていることについて次のような見解を述べている。

晴明は賀茂保憲朝臣の弟子である。その器量を見て、保憲は天文道を晴明に伝授し、暦道を賀茂家に伝授したそうだ。弟子の晴明が口を挟んだのだろう。(『左大史小槻季継記』)

式神の神通力で文様を知る

天徳四年に内裏が燃えた際、二柄の節刀が灰燼となった。その後、四十柄は元通りに再鋳造できたが、この二柄だけは元の姿が分からず、未だ造られずにいた。
だが、晴明朝臣が式神の神通力を以て再鋳造した。この功績によって、晴明は上臈三人を飛び越えて陰陽寮のさかんに任ぜられた。(『陰陽道旧記抄』)

霊剣の再鋳造

応和元年(961)6月28日、高雄山の神護寺で霊剣を再鋳造するための五帝祭が行われた。
庚申の日に造られた霊剣だったので、祭祀も庚申の日に行われた。

『大刀契事』によると、次の役割で行われたという。

  • 祝(祭文などを読む) 天文博士・賀茂保憲
  • 奉礼(進行役) 天文得業生・安倍晴明
  • 祭郎(供物を配置する) 暦得業生・味部好相あじべのよしみ

また、『左大史小槻季継記』安貞二年(1228)1月11日条においても、安倍吉平が「天徳四年に霊剣が焼損し、翌年に鋳造を行った」と語っている。

五帝…歳星(木星)・熒惑星(火星)・鎮星(土星)・太白星(金星)・辰星(水星)から成る五つの星を神様とみなしたもの

霊剣修復までの年表

内裏焼亡の逸話

いろいろな説話

神鏡がひとりでに飛び出す

火災が起こったのは夜遅くのことだったので、皆が慌てて逃げ惑うなか多くの宝物が焼失した。その中でも三種の神器のうち、神璽と宝剣は村上天皇が自ら持って脱出したが、なぜか神鏡だけは宮中に残したままだった。左大臣藤原実頼が急いで参内すると、天皇は早々と出御していた。実頼は温明殿へ参ったが、早々と焼け失せており、仁寿殿の棟木も半分焼け落ちていた。実頼は涙が止まらず炎の中を神鏡を探し回った。すると、温明殿の灰燼の中から神鏡が飛び出し、紫宸殿の桜の木に掛かって光を放っていた。実頼は袖で涙を抑えながら「君が代はまだ終わりではなかったのだ」と感動した。やがて神鏡は実頼に従っていた内侍の女房の袖に入り、女房は神鏡を包んで太政官の朝所に進上した。(『前太平記』)

平安京遷都の際に植えた梅の木が焼ける

延暦十三年(794)、平安京遷都の際に紫宸殿の前に梅の木が植えられた。しかし、承和年間に枯れてしまったので、仁明天皇が改めて植えた。天徳四年(960)の内裏火災によって焼けてしまったので、内裏を再建した際に重明親王の家の桜の木を移して植えた。この木は、元々吉野山に生えていたものだったという。(『古事談』)

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