玄翁 殺生石教化問答 #玉藻神社勧請
春が去り、夏が来て、年が去り、年が改まった。
人王八十八代後深草天皇の時代となった。
この時の摂政は近衛兼経公で、武将は鎌倉の征夷大将軍・宗尊親王の治世だった。
北条氏の正五位下相模守平時頼が執政を務め、それからなお年月を経ても那須野の毒石の害は収まらなかったので、天皇は深く心を悩ませた。
ここに、播州法華寺の玄翁和尚という住僧がいた。
博学秀才で、智識悟道との評判だったので、やがてその僧を都に召して殺生石を教化解脱させよとの勅命があった。僧は畏まって引き受けた。
僧侶の身だったので帰国はせず、そのまま都を出発して関東へ赴く道中で相模国に差し掛かり、鎌倉将軍の邸宅を訪れた。
この度は那須野に至って毒石を教化せよとの勅命を蒙ったことを伝え、将軍の謁見を願った。
征夷大将軍・宗尊親王が来て、「そなたの道徳の智識は珍しいものだ。その救済が木や石にまで及ぶことは僧侶の本意だろう」と言って、玄翁をもてなした。
玄翁は拝謝して鎌倉を出発した。
一人の弟子も連れず、たった一人で綿の服に麻の三衣を着て、右手には払子を携え、左手には念珠を持ち、草履を履いた独り歩きの旅だった。
しばらくして下野国にたどり着き、那須野に至ってかの殺生石の遠くからお経を唱えながら近づいていくと、石の下にある土が動いたように見えた。
すると、妖しい風が激しく吹いてきて、一歩も歩けなかった。
身を横にそむけて払子を打ち振り風をよけ、大乗妙典を高らかに読んで近づくと、不思議なことに着ていた衣服はずたずたに引き裂かれ、破れ乱れていた。
けれども、身にはその毒は当たっておらず、難なく石のそばに近寄ってお経を読み上げた。
「釈迦すでに一切衆生悉有仏性如来」と説き、さらに「草木国土悉皆成仏」と説いた。
「木や石には心がないというが、元より仏性は万物に備わっている。大乗妙典の功力によれば、成仏するだろう」と石に向かい、
「今、お前に一句くれてやろう」
噫石霊石霊(ああ、石霊よ)
魔則有法済(魔があれば、それを救う方法がある)
執魂無所帰(執念に満ちた魂の帰る場所はない)
即今汝念底(今すぐにお前の心の底を示しなさい)
魔風が治まって草むらがそよいでいた時、不思議なことにかの大石が少し震えたかと思うと、石の精が忽然と姿を現した。
十六歳ほどの少女で、綾羅錦繍の五つ襲の緋色の袴を着て、長い黒髪は麗しく、檜扇を手に携えて立っている装いは朝廷で玉藻前として過ごした時の姿だった。
本当に、天から降ってきたのではないかと疑うほどだった。
玄翁を流し目で見て微笑んでいる愛嬌は、たとえどんな悟道の名僧でも心を惑わされてしまうだろう艶やかさだった。
少女は媚びてたぶらかそうとしたが、玄翁和尚は智識正覚の高僧だったので心を乱されることはなかった。声高らかに、
「お前、元々は殺生石だろう。心の迷いが解かれないから執着を捨てられないのだ。仏性を持ちながら、どうして悪業を積んで百千の劫の苦しみを求めるのだ」
「早々に去れ、早々に去れ。そなたの言う通り善悪不二なのであれば、未来永劫に妾の執念が止むことはないだろう」
玄翁は一喝して、
「迷悟一如を説くことはできぬ。煩悩即菩提であり、迷うがゆえに三界(欲界・色界・無色界)は狭く、悟りを得るときはすべてが虚しいものだと知ることになる。再び一句を示そう。お聞きなさい」
人畜悉皆宇宙塵(人も獣もみな宇宙の塵にすぎない)
端的不逢劫外春(この真理を時を超越したところで悟らなければ)
本来面目有何所(お前の本性はどこにも見つからないだろう)
無位心印磨不磷(真の悟りは磨いてもすり減ることはない)
この時、少女は手を合わせて、
「妾は今まで何度も生まれ変わっては三千世界を魔界にしようとしてきたが、尊き僧の教化によって得脱した。今は何も隠すことはない。妾は元より人ではない。天地開闢のときに陰々たる濁気が凝り固まったものが狐の形をとったものなのだ。数千万の星霜を経て、白面金毛九尾の狐に変じ、大唐にあっては殷の紂王の妃・妲己となって彼の地を魔国にしようとしたが、太公望に邪魔された。再び生まれ変わって狐の形を為したときは天竺に入り、班足太子を惑わした。また生まれ変わった時は、周の幽王の妃・褒姒に化けて周王朝を傾けた。吉備公が唐から帰る船に乗って日本に渡り、潜み隠れてその時が来るのを待った。たまたま玉藻前に化け、鳥羽天皇に近づいたが泰親の呪術に縛られて遠くこの野に隠れていたら、三浦介と上総介の矢に射られて命を落としたが、一念の怨恨は消すことのできない毒石となって人民や鳥獣を害した。また時が経てば、日本国を傾けようと幾星霜修羅の輪廻に浮かぶであろうこの大きいな怨念が解脱することの嬉しさよ」
そう言ったかと思うと、少女は煙のように消えていった。
玄翁はなおも念珠を振り上げ、
「阿耨多羅三藐三菩提、石に精あり、水に音あり、風は太虚に渡る、喝!」と活を入れて殺生石を打つと、不思議なことに苔むした大石は二つに割れ、一条の白気が立ち上った。
粉々に砕けた石が交じり、西の空へ行方も見えず去っていった。
玄翁は砕けて飛び去った石を持って地蔵菩薩の尊像を彫り、鎌倉に携えて置いていった。
その後、執権・北条高時の没した後、足利義満公がこの地蔵を都に持ってこさせて神楽園真如堂に安置した。
今では将軍地蔵あるいは鎌倉地蔵とも呼ばれ、霊験あらたかなることが世に知られている。
玄翁が都に戻ると、天皇は大いに感激して大寂法翁禅師の称号を授けた。
玄翁は那須野の原に大寂院千渓寺を建てた。
その後、人王九十代宇多天皇の時代、弘安三年(1280)3月7日、摂州護国寺で七十歳余りでこの世を去った。
さて、玄翁は毒石を教化したとき、石の中から立ち上った気は長門国萩の城下より七里ほど西にあり、古郷というところに落ちた。
その地では後年、里人神を祀り、玉藻大明神と号して神社を造営し、毎年9月28日に祭礼が行われたという。
また、気に包まれて砕けて飛び去った石は美作国の高田の庄に落ちた。
石は神として祀られ、玉藻大権現と崇められた。
宮居には鍵が掛けられて人を寄せ付けず、その上を鳥が飛び渡り、鶏などが誤って玉垣の中に入れば足を失うという。
別当は禅宗にて玉藻山化生寺と号し、例年9月21日に祭礼が行われた。
この時、別当に長老が一丈ほどの頭子といえるものを錦に包んだものを渡すと、神輿に納められる。
決まった神主はおらず、祭礼の時に他所から呼んでくるのだという。
これは皆、実際に目で見た人の物語だ。
また、那須野の原で砕けた石は今も苔深く残されている。
人民に害はないといっても、農夫や牧童がかの石の近くに佇んで渡りくる風にあたったときは、気分が悪くなるという。
きっと妖魔の毒が今もまだ残っているのだと里人は言う。
また、今の世に石工の石を穿つ鉄器に玄翁の名が付いているのは、硬い石を割り砕く縁から名付けられたものだ。
同じように、番匠が使う器にもこの名が付けられているという。
いずれにせよ、玄翁和尚の広大な法徳によって石魂の怨念は解脱し、後代までの人々の憂いを取り除き、あまつさえ毒石はご利益のある神社となった。
前代未聞の伝記を述べ、挿絵を交えて女性を楽しませた。
身分の貴賤や美しい人に心を捕われるものは家を失い、身を亡ぼす。昔も今も変わらない。
今の時代の美人はたとえ妖狐が化けたものではなくとも、男子が心を惑わされれば妖狐と同じようなものだ。
この話を教訓として修身斉家のきっかけになれば、奇怪な談も咎められるようなものではないだろうと、弁解して筆を止めよう。