坂部行綱、嬰女を拾う #藻女、和歌を捧げて官女に補せらる
吉備大臣が帰国したのは天平七年(735)で、聖武天皇の時代だった。
この時、白面金毛九尾の狐は計略を巡らせて日本に渡り、時を待って表舞台に姿を表そうと神通力を操って身を潜めていた。
しかし、なかなか好機は訪れずおよそ370年余りの間いたずらに時を過ごしていた。
そんな時、人王七十三代堀河院の時代に、先帝白河上皇に仕えた北面の武士で坂部庄司蔵人行綱という人がいた。
彼は自身の過ちによって勅勘を蒙り、山城国山科のほとりに籠もり、いつか勅免のあることを願いながら清水の観音のもとへ毎日参詣していた。
折しも、承徳二年(1098)3月半ばに参詣して帰る途中、春風に誘われて散る桜が空に知られぬ雪と見間違うほど美しかった。
落ちた花が道を埋め尽くし、薄紅色の桃の花や白い李は枝を交錯させ、吹き付ける風からもいい匂いがするほどだ。
美しい景色をあちらこちらと見て回ると、音羽の滝の清らかな流れに心を澄ました。
さらに世俗から離れた景色が広がっていた。
北は祇園の甍高く、下河原から広々と南を臨むと、稲荷山に歌中山清閑寺、今熊野から鳥羽まで連なる山を眺めつつ、辺りには荊棘が生い茂り、高く伸びた木は雲を貫くほどで、ウグイスの声も寂しい。
餌を探している鳩の鳴き声も寂しく、雉の驚声も山路ではことさら澄んで聞こえてくる。
普門品を読誦しながら帰る途中で、道の傍らの藪陰から生まれたばかりの赤子の泣き声が聞こえてきた。
坂部行綱が不思議に思って近づいてみると、生後一週間になるか、ならないかというぐらいの赤子が綾錦の布に包まれて捨てられていた。
行綱はこれを見て、
「この子は貧しい者が捨てた子ではない。おそらく貴族が若気の至りで仕方なく作ってしまった子なのだろう。ともかく、このままにはしておけない。
私は四十近くにもなって一人の子もいない。見ると玉のように美しい娘を、観音様が哀れんで授けてくれたのだろう」と思ったので子供を抱きかかえ、「私の子にしよう」と家に連れて帰った。
さっそく妻にこの話をすると、妻は行綱が赤子を抱いているのを見て「身分の高い人の子どもを授かって、こんなに幸せなことはありません」とたいそう喜んで、夫婦は娘を我が子のように可愛がった。
改めて七夜のお祝いをして、娘を「藻」と名付けた。
拾い子で親がわからないから、水草が生えていてもどこから生えてきたのかわからないことに喩えて、「藻(みくず)」という読み方にしたのだ。
こうして藻女は歳を重ねるごとに健やかに育ち、容姿の美しさは類ないほどだったので夫婦はますます溺愛した。
今年でまだ7歳にもかかわらず礼儀作法をわきまえ、機転が利き、一を教えれば十を悟った。
文字の読み書きは言うまでもなかった。歌書をそらんじ、学ばずして和歌を詠み、文学を好んであらゆる芸に通じているのを見て驚かないものはいなかった。
長治元年(1104)春の半ばのことだった。
天皇から御殿の内外に「『独り寝の別れ』を詠め」という和歌の課題が出された。
独りで寝ているのだから、どうして別れる人がいるのだろうとまったく難しい問題で読み手の智慧を測るものであった。
皇后や内侍、親王、公卿、堂下に至るまでさまざまな人が智慧をめぐらせても課題を通過することはできなかった。
期日が迫ってきても、誰も答えられなかった。
藻女は誰からこのことを聞いたのか、父行綱の前に出て、
「父上は上皇にお仕えしていたとき、思いがけない過ちによってはからずも勅勘を蒙ったと聞きます。
それ以来家に籠もるようになり、なんとかお許しを得て元の生活に戻れたらと心を痛めていましたが、幼い私にはどうすることもできず、ただ嘆くばかりの日々を過ごしてきました。
ですが、先立って天皇から出された歌のお題に対して堂上・堂下・后・内侍の方々は詠歌を奉るようにとの勅諚があり、難しいお題だったので皆思い悩み、期日が迫ってきても歌を奉る人はいません。
そこで、私はこっそり一首の和歌を考えて詠んだものを天皇に奉り、もし認めていただけたなら父上の勅勘をお許しいただきたいと思います。
どうかこの歌をお披露目して御歌所へ召し出され、詠歌を奉るようにお願いいただけないでしょうか」と懇ろに頼んだ。
行綱は娘の背中をさすって、優しく「よく言ってくれた。幼い身でここまで心を尽くし、親を大切に思う孝行な心だけで十分だ。成長してからもその心の在り方は変わらない。ただ、和歌を学んだこともないお前が、帝のお題など軽々しく詠んで奉ることはできないだろう。
この度は期日が延ばされるだろうから、よい機会があれば和歌を学びお題に答えられる方法を明らかにして、父のために奉りなさい」と諭した。
藻女はひれ伏して言った。
「仰ることはごもっともですが、私はまだ若いけれど朝廷を恐いとは思いません。父をぞんざいに扱うべきでしょうか。
難題と聞いたのでどんなお題なのか人に尋ねたところ、「独り寝の別れ」というお題だそうです。
これは難題ではないと思い、私が一首詠んだところ秀逸な歌ができたのでご叡慮を賜りたいのです。
まだ若いのですから、そこまでいい歌ではなくても許してくださるでしょう」
と言葉に任せ、ついに父行綱は御歌奉行・烏丸大納言光兼卿の館に来て長臣に対面して事のいきさつを説明して頼んだ。
長臣はさっそく「子供の奇特な話ではあるが、そなたは勅勘を被っているから取り計らうことはできない。まず娘を連れてきて、顔を見せなさい。それから考えよう」と言った。
行綱は拝謝して帰宅し、藻女を連れて足早に烏丸家に戻って会わせると、程なく烏丸光兼卿は御同列・蔓野小路前大納言広房卿に相談して御歌所の花山院内大臣雅実公へ取りなし、関白公忠実公へ奏聞した。
すぐに参内させよとの勅宣が下ったので、両卿は7歳の藻女をきれいな着物に着替えさせて内裏に参上した。
御車をよせて殿上に上った。
藻女は上奥の女蔵人口より召され、清涼殿の縁側に差し置かれた。
帝が御座に座り、后・内侍・官女たちも豪華絢爛な五つ重ねに緋色の袴、後宮の下級女官の人々も身を飾り立ててお供し、公卿百官は威儀堂々としたようすで列座していた。
雅実公は奉行光兼卿、弘房卿に御詞を伝えると硯箱を取って差し出した。
両卿が藻女を召して渡すと、まだ7歳の娘はこれを受け取り、元の席に座るのを見て、公卿や官女は涙ながらに感心した。
とはいえ、子どもの歌など大したものではないだろうと思っていたところ、息を詰めて見てみると藻女は静かに墨をすり流し、筆を染め、短冊にさらさらと歌を書いた。
夜やふけぬ ねやの灯火 いつか消えて 我影にさえ わかれてしかも
短冊を持って雅実公に渡すと、雅実公は短冊を手にとって高らかに歌を詠んだ。
恭しく帝に捧げると、「秀逸な和歌であるばかりか、字も美しく思慮深く、居合わせた殿上人で感心しないものはいないだろう。類まれな才女だ。このまま宮中に仕えよ」と大きな勅命を蒙り、「これはすべて父上と母上に育てられたからです。父上をお許しください」と願い出たので、行綱は勅免を賜り復職し、従五位下左衛門尉に復帰して元の暮らしに戻り、烏丸の厚情と花山院の恩義を感じて、忠実に仕えると清水国通大士に誓った。