悪狐 石に変じ災いをなす #貴僧殺生石を教化し毒に遇ふ
保延七年(1141)、元号が永治と改元される。
この年の3月10日、先帝の鳥羽上皇が出家して、ご法諱を空覚と称した。
同年12月7日、崇徳院は太子・躰仁親王に譲位して、在位18年で仙洞御所(退位した天皇の御所)に移り住むことになった。
これを、新院と呼ぶ。
太子は即位後、翌年を康治元年(1142)とした。
後の人王七十六代近衛天皇である。
実は、近衛天皇は鳥羽法皇の第八皇子で、母は贈左大臣藤原長実の息女・得子だった。後の美福門院である。
康治元年から天養・久安・仁平の年号を経て久寿三年(1155)になり、十四年の年月が過ぎた。
けれども十九年前の保延三年(1137)、三浦介義澄と上総介広常に勅宣が下り、下野国の那須野で退治した白面金毛九尾の狐は石に姿を変え、毒気を放って人を襲ったが、札を立てて人が近づかないようにしたので、人々の生活に再び安寧が訪れた。しかし、今年になって石に宿った妖狐の魂がまたしても障碍を為し、下野国から他国の人まで往来する人を傷つけて悩ませた。
これによって、領主・那須八郎より当時の執政・左大臣藤原頼長公へ報告書を提出し、彼の家の長臣・大園宮内少輔利孝と箕野内蔵頭昌行まで飛脚を遣わした。
頼長公はこの事を知って、播磨守安倍泰親を召して
「そなたの修法でなければ、このような変事は鎮められないだろう。以前の狐退治の仔細も伝えられており、その大功には感じ入るばかりだ。
しかし、そなたはもう老年にして、記憶も昔とは違うだろう。苦労するだろうが、他に頼れる者がいなかったので相談した」
このように言われたので、泰親は、
「厳命を謹んで承ります。私はもう七十三歳になります。以前の妖狐退治よりも身体は衰えていますが、心は健康です。
片時も天恩を忘れたことはないのに、どうして苦労を厭うことがありましょうか。国のために民の憂いを取り除くのは、元より願うところです。勅命が下れば、今すぐにでも出発しましょう。石魂を鎮めて人々に安寧を取り戻します」
忠誠心を表して頼長の頼みを引き受けたので、頼長は大いに感動して泰親をもてなした。
二人は語り合い、しばらくして泰親は退出した。
こうして泰親は内裏に召され、下野国那須野の怪石が人々を苦しめているという訴えがあったので、早々に向かって石魂を鎮めよとの勅命があった。
これまで位階は四位、官は侍従に昇り、播磨守は元のように兼任していたが、この度従三位に叙せられた。
泰親は勅定をありがたく承り、早速下野国に向かい、家に代々伝わる秘伝の修法を行った。
かの悪石の四方を区切り、この石に近づいてはいけないと記した札を立てて往来の旅人や他国の者に知らせた。
泰親は上洛の帰途についた。
急ぎの旅ではなかったので、悠々と各地の名所を観光し、都の土産にしようと歌枕を見た。面白い旅の空であった。
程なくして帰洛し、事の次第を詳細に報告すると、帝は深く感嘆して恩賞を下し、正四位に除した。
泰親の毎度の誠勤は家の名を輝かし、子孫に栄光を遺した。
そもそもこの泰親という人は、孝元天皇の子孫である。また、左大臣・倉橋麿九代天文博士、司天算術の長・従四位下大膳大夫安倍晴明から数えて六代目にあたる。
父泰長は早世し、祖父は従四位で有行という。
泰親は幼少のときから天文と卜筮の家系を継ぎ、その道を磨いて術を極めた。
保安年中に清涼殿に壇を構え、天皇の病気平癒を祈祷し玉藻前の障碍を除いたのは彼が四十一歳のときだ。
彼の子孫は繁栄して、今の土御門家に引き継がれている。本当に稀代の名家だ。
その頃、下野国住人の那須八郎は、
「毎度朝廷のお恵みによって那須野の妖怪を鎮め、領内の混乱は収まり、人々が安心して暮らせるようになったのはとてつもない天恩で、感謝せずにはいられない」
やがて八郎は上洛し、左大臣・頼長公の邸宅を訪れた。
慎で挨拶し、泰親とも対面して毎度の苦労に感謝して、都で年を越して翌年帰国した。
近衛天皇は即位十四年、17歳のときに崩御した。
こうして鳥羽法皇の第四皇子・雅仁親王が即位した。
翌年に改元があって、保元元年となった。
後の後白河院で、母は崇徳院と同じである。
今年の7月2日、鳥羽法皇が崩御した。
五十四歳で、その年の秋に八郎も那須の領地で病死した。
彼の息子・那須与一が家督を相続し、弓馬の達人となり名誉を後世に伝えた。
こうして年月が移り変わっていたが、なおも石魂は人々に害を為し続けた。
人に近づくことを禁じても、動物たちが近づいては倒れ、鳥もまた石の上を飛んで近づけばたちまち倒れた。
かの石の周りには禽獣の骸が山のように積み上がっていた。
よって、殺生石と名付けられた。
殺生石の下から湧き出る水は、少しとはいえ絶えず流れていたので、鍋懸川に流れ落ちた。
川の上には魚がいたが、湧き水が落ちてからは下流には魚がいなくなった。毒水のせいだ。
本当に稀有な悪獣石となって怨念を残すのは嘆かわしい上に恐ろしい。
けれども、この時代は世の中が大いに乱れて朝廷の仕事も多く、合戦が終わることもなかったので、石のことはそのまま放っておかれた。
遥かな年月を経て、仁安・嘉応・承安の時代、朝廷は知識悟道の僧侶を那須野に向かわせて、殺生石の怨恨を強化して執着を留めるよう勅命があった。
そして紀伊国紀三井寺の浄恵という博学知識で有名であり、道徳心のある僧侶がいた。
彼は朝廷に奏上して那須野に下り、石魂を教化しようと思って、かの石からおよそ2町ほど間隔を空け、お経を唱えながら徐々に近づこうとした。
すると、石の下から生臭い匂いの風が起こって身に吹き付けたが、お供に連れていた弟子たちがたちまち毒に当たって斃れた。
浄恵は驚き、少し動揺したところで再び悪しき風が吹きかけ、ついに斃れてしまった。
その後、播磨国書写山の了空坊という有名な智識悟道の名僧がこのことを聞きつけて、朝廷に奏上して那須に下った。
殺生石を教化得脱してやろうと立ち寄った時に石の下から毒風が起こり、吹き付けてきた。
了空と弟子二人は風に吹き倒され、師弟三人の命は露のように儚く散った。
その後遥かな年月を経て、筑前国眞静寺の僧に道基阿闍利という道徳に優れ博学秀才の名僧が都に上り、奏聞を経て那須に赴いた。
「かの毒石の怨恨を解脱させて後にくる害を留め、禽獣の難を救おう」と思い立って弟子四人を引き連れ上洛し、許しを受けて那須野に下った。
師弟五人がお経を唱えながら段々と殺生石に近づいていくと、思いがけず石の方から怪しげな風がさっと吹いた。
身体に風が当たると師弟はみな毒気が回ってたちまちに斃れた。
そんなわけで、これ以来殺生石の悪魂を教化して鎮めようと思う僧侶はいなくなった。
数年の星霜を経て殺生石のことが世に知れ渡り、禁制の札がなくとも誰も近づかなくなった。
人の命は失われないとはいえ、何も知らない禽獣が石に近づいて命を落としたことは、数え切れないほどだった。
石の表面は苔むして、その周りの景色は恐ろしいものだった。