角色

八条院

八条院は、鳥羽院と藤原得子なりことのあいだに生まれた二人目の娘である。

生い立ち

鳥羽院の二女

法延三年(1137)4月8日に鳥羽院と藤原得子の二女として生まれた。
釈迦と同じ誕生日だったので、『中右記』には「釈尊誕生の日生まるなり。定めて貴人と知るか」と記された。

鳥羽院の后たち

当時の鳥羽天皇には正室として藤原璋子たまこ(待賢門院)・藤原泰子やすこ高陽院かやのいん)がいた。

最初に后に迎えたのが白河院の養女璋子で、鳥羽天皇の即位4ヶ月後に女御として入内し、そのまま立后して中宮となった。
鳥羽天皇とのあいだに五男二女の子供がいたが、末の子が生まれた大治四年(1129)に白河院が没してからは疎遠になった。

鳥羽院になってから后に迎えた泰子は、関白藤原忠実の正室源師子が産んだ唯一の子だった。
彼女には結婚適齢期に鳥羽天皇へ入内する計画があったものの、白河院の熊野参詣中に忠実が鳥羽天皇に結婚を打診したことが白河院の逆鱗に触れ、忠実は関白・内覧を剥奪される事態となっていた。
白河院は泰子の鳥羽院への入内を禁じる遺言まで残していたが、その没後に鳥羽院は39歳の泰子を女御に迎え、さらに半月後には皇后に冊立して形だけとはいえ5年ほど妻とした。

八条院の母得子

藤原得子は、権中納言藤原長実ながざねと源俊房の娘方子まさこの子で、中級貴族の諸大夫出身であった。
父長実は白河院の近臣で、白河院没後は没落傾向にあったが、弟家保いえやすの子家成が鳥羽院の近臣になったことで、鳥羽院が家成の従姉妹である得子に近づいていった。
そして、得子を后に迎えたことによって鳥羽院は京都経済の中心地ともいえる八条第という邸宅を王家領に組み込んだ。

だが、得子には当時から厳しい視線が投げかけられた。
摂関家の藤原頼長は日記『台記』に「諸大夫の女」と記している。(『台記』康治三年〈1144〉1月1日条)

内親王宣下

生後一年の保延四年(1138)4月9日、鳥羽院の二女は内親王宣下によって「暲子」という名を与えられた。(『女院次第』)

皇太子の誕生

保延五年(1139)5月18日、鳥羽院と得子の第三子として待望の男子が生まれた。
生後一ヶ月で皇后藤原聖子の猶子となり、生後二ヶ月で親王宣下を受けて翌月には皇太子となった。
母得子も鳥羽院の女御となり、院号宣下によって美福門院となった。

弟になる男子が立太子したとき、数え三歳の暲子は「若宮は東宮になり、私は東宮の姉になった」と言ったので、鳥羽院は大いに喜んだ。(『今鏡』巻三虫の音)

荘園の相続

五歳のとき、暲子は鳥羽院から12ヶ所の荘園を与えられた。(『百錬抄』永治元年〈1141〉8月4日条)
これをきっかけとして、暲子は多くの荘園を鳥羽院または美福門院から相続することになる。

安楽寿院

暲子が与えられた荘園のひとつである安楽寿院は保延六年(1140)に鳥羽院の生前墓として本御塔が建てられており、後に鳥羽院の陵墓となった。
美福門院の墓として新御塔も建てられ、鳥羽院は夫婦ともに安楽寿院に葬るよう遺言したが、美福門院は遺言に従わず女人禁制の高野山へ埋葬するよう遺言し、そのようにされた。

天皇の後継者候補

久寿二年(1155)7月、近衛天皇が17歳の若さで没した。
『愚管抄』『今鏡』『古事談』によると、鳥羽院と美福門院は子供のいなかった近衛天皇の後継者として暲子を推挙した。

最終的に暲子・重仁親王(崇徳天皇の子)・孫王(雅仁親王の子)の三人が新たな天皇候補として挙げられたが、実際に選ばれたのは候補から外れていた雅仁親王だった。
こうして、後白河天皇が誕生した。
これは、若い孫王を関白藤原忠通が裏で操ることを恐れ、父王がいるのに子が即位するのは道理に背くと判断した鳥羽院によって決められたという。(『愚管抄』)

八条院の院号宣下

保元元年(1157)7月に鳥羽院が没してから一年も経たない保元二年(1157)5月19日、暲子は21歳という若さで出家した。

やがて後白河天皇が退位し二条天皇が即位すると、暲子を准母として「八条院」の院号を宣下した。(『山槐記』応保元年〈1161〉12月16日条)

准母

国母(天皇の母)がいない場合、代わりに母として扱われる女性。
幼帝の儀礼などに必要なので、院政期以降頻繁に用いられた。

女院として

仏道に帰依した生活

八条院となってからも、暲子は仏道に帰依した生活を送っていた。
彼女の日常生活は、女房として仕えていた健寿御前(藤原定家の姉)の回想録『健寿御前日記』に記されている。

質素な生活で、人の行き来が少ないところに塵が積もっていても誰も咎めないようなありさまで、女房の身なりが悪くても気に留めなかったという。
八条院に仕えた女房や侍たちはみな鳥羽院の時代からの人たちで、都合のいいときだけ参上しては日が暮れると帰ったという。

生涯独身

八条院は生涯独身だったが、二条天皇や以仁王とその子供、九条良輔(九条兼実の弟)、昇子内親王など多く猶子関係を結び、彼らを養育していた。

独り身とはいえ孤独ではなく、養子たちに囲まれて気心の知れた女房や侍たちと静かに暮らしていたという。

以仁王との関係

以仁王は後白河院の寵愛を受けていた建春門院(平滋子)の圧力で親王宣下を受けられず、天台座主最雲法親王の弟子となっていた。
ところが、最雲の没後に都へ戻り、元服した後に八条院の猶子となったのである。
そして、八条院三位局(高階盛章の娘)らを妻妾として多くの子女を設けた。

平頼盛との交渉

以仁王追討を果たした平家だったが、彼の遺児たちは八条院の庇護下にあったのでうかつに手を出せなかった。
そこで、平清盛は異母兄弟の平頼盛を八条院との交渉役に指名した。
頼盛は遺児たちの確保に成功したが、男子が出家を命じられただけに終わった。

参考資料

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