生い立ち
当初、広元は中原姓を名乗っていたが、建保四年(1216)に大江姓に改めている。
誰の子?
大江広元の親にはさまざまな説があるが、大きく分けて大江惟光・中原広季・藤原光能の3つの説がある。
後に広元が中原姓から大江姓に改めた際に「大江惟光とは『父子の儀』にあり、中原広季には『養育の恩』がある」と話しているので、惟光が生みの親で、広季が育ての親という説が有力と思われる。
大江惟光の子説
生みの親が大江惟光で、育ての親が中原広季という説。(『尊卑分脈』「大江氏系図」より)
惟光は院政期に文人貴族だった大江匡房の孫である。
広季は明教博士である。
中原広季の子説
生みの親が中原広季で、育ての親が大江惟光という説。(『続群書類従』「中原系図」より)
藤原光能の子説
後白河院の親戚である藤原光能を生みの親とする説。
母が中原広季と再婚したことによって中原姓を名乗るようになったという。(『系図纂要』『江氏家譜』より)
九条兼実の下で外記を務める
外記局の最高責任者の地位を占めつつあった中原氏の庶流にあった広元は、明経得業生となった。
仁安三年(1168)に縫殿允となった。(『兵範記』『山槐記除目部類』)
嘉応二年(1170)に権少外記となった。
承安元年(1171)に少外記となった。
当時は伊勢神宮関連のことを担当する神官上卿であった九条兼実の下で外記を務めていたが、承安三年(1173)1月に従五位下になると外記局をやめた。
頼朝政権時代
頼朝が挙兵したという知らせを聞いて、寿永二年(1183)8月に中原親能は関東へ向かった。
広元もまた、親能の推挙で関東へ行き頼朝に仕えたと思われる。
親能は源雅頼の家人となり、妻が雅頼の子兼忠の乳母だった関係で、挙兵当時の頼朝と京都を繋ぐ窓口としての役割を果たしていた。(『玉葉』寿永二年〈1183〉9月4日条)
また、寿永三年(1183)3月23日、広元は中原広季を介して自ら執筆した頼朝奏状の内容を兼実に知らせた。(『玉葉』同日条)
公文所別当になる
元暦元年(1184)10月6日に公文所が新設され、広元が公文所別当になった。
配下の職員には、中原親能・二階堂行政・足立遠元・大中臣秋家・藤原邦通らがいた。(『吾妻鏡』同日条)
広元が公文所別当に抜擢されたのは太政官の外記として務めた経験を生かしてのことと考えられる。
太政官は幕府でいうところの公文所や政所のような役割をもっていたので、広元の知識と技術が重用されたのだ。
守護・地頭の設置を推奨
文治元年(1185)11月12日、頼朝は弟義経の叛逆についてどう対処すべきか思い悩んでいた。
広元は頼朝に守護・地頭の設置を薦め、首尾の通った意見だと感心した頼朝は広元の提案を受け入れた。(『吾妻鏡』同日条)
世の中はすでに悪人がもっとも栄える時代です。
天下に反逆する者たちがなくなることはありますまい。
東海道は鎌倉殿の御居所なので平穏ですが、他の地方では悪行が起こるでしょう。
それを鎮圧するために毎度関東の武士を派遣するのでは、人々の迷惑となりますし、国にとって大きな出費となります。
この機会に、諸国にご命令が行き渡るよう国衙・荘園ごとに守護・地頭を設置されれば、何も怖いものはありません。
早く朝廷に申請すべきです。
一方、文治元年以前の東国での戦乱において敵方から没収した所領が頼朝から家人に分け与えられたが、これは朝廷の委譲とは無関係な頼朝による地頭職補任とも考えられる。
御家人の支配基盤を保障する職権である地頭は、すでに内乱の中で頼朝によって生み出されていた。
だが、文治元年以前の平氏追討の戦いのなかで急速に形成されていった東国御家人の在地支配権限の名称には、地頭職のほかにも沙汰人職・下司職などの多様な職が存在していた。
それらを「地頭職」という名前に統一して全国一律の一般的職務に位置づけ、頼朝の任免権が朝廷から認められたことは、頼朝による家人支配を強固なものとする重要な意味を持ったことは間違いない。
朝廷との交渉
文治二年(1186)、広元は頼朝の第一の腹心として7月14日から朝廷で厚遇されるようになった。
また、広元が上洛した際に後白河から守護・地頭について質問攻めにあったので、自分の意見を伝えた。(『吾妻鏡』文治二年〈1186〉閏7月19日条)
建久二年(1191)3月、広元は明法博士ならびに左衛門大尉、検非違使に任じられた。
九条兼実は広元の任官は源通親の口添えによるものだと非難した。(『玉葉』同年4月1日条)
また、無断で官職に就いたので頼朝には怒られたようだ。
建久三年(1192)に後白河の最期を見届けた後、5月に鎌倉に帰還した。
頼朝の”爪牙耳目”
7月に頼朝が征夷大将軍になってからは、広元は頼朝の側近ならびに政所別当として御家人制や政所の整備を務めた。
同時に、訴訟や恩賞の申請に関する頼朝への取次を引き受けるようになった。
これらの功績を認められて、肥後国球磨郡の関東御領の預所職などの所領を得た。(『鎌倉遺文』929号)
頼家政権時代
比企氏の乱
建仁三年(1203)9月2日、比企能員が頼家の寝室に赴き時政追討の密談をしていたとの知らせを受けた時政は、広元に能員を討つべきか相談した。
近頃、能員が権威を振りかざして人々をないがしろにしている。
そればかりか将軍が病気で意識がはっきりしていない機会を狙い、将軍の命令と偽って叛逆の陰謀を企てようとしていると聞いた。
この上は、能員を討つべきだろうか。どうであろう。
広元は「頼朝の時代から政治を補佐しているが、兵法には明るくないので誅殺するか否かは任せる」と答えたので、時政は能員を討つことに決めた。
能員追討を決めた時政は、再び広元を招いた。
広元はためらい、気の進まないまま向かったという。
広元の家人たちが付き従おうとしたが、広元は考えがあると言って飯富宗長だけを連れて行った。
道中、広元は宗長に世の中の情勢を憂えた。
世の中の様子は、本当に恐ろしいものだ。
重大な事については今朝詳しく話し合ったが、再び(時政に)呼ばれるのは理解し難い。
もしものことがあれば、私に手をかけよ。
名越殿で時政と話し合っていたときも、宗長は広元の後ろを離れなかったという。(『吾妻鏡』同日条)
実朝政権時代
北条氏とともに
源実朝が三代目の将軍になるとともに、北条時政が政所別当に就任した。
以降は時政と広元が幕府の政治を主導するようになるため、時政とともに関東執権あるいは鎌倉執権と呼ばれることもあった。
広元の改姓
建保四年(1216)閏6月1日、広元は中原姓から大江姓に改姓した。(『吾妻鏡』同年閏6月14日条)
天皇の恩により、先例に従い中原姓を改めて大江氏となることを申請します。
改姓について広元が謹んで文書を調べますと、事情があって氏姓を改めるのは中国では変わらぬ規範であり、我が国でも通例です。
散位従四位上大江惟光は私と父と子の関係にあり、すでに後を継ぐ道理にかなっています。
従四位下行掃部頭中原広季には育ててもらった恩がありますが、姓氏を改めようと思います。
ここ数年、中原氏が優れた人材を数多く排出しているのに対して、大江氏は人材が少なくなっています。
速やかに本姓に戻り、今にも絶えようとしている大江氏を継ぎたいと思います。
もし天皇の恩により大江氏となるよう宣旨を下されたならば、ますます広く行き渡る皇恩を仰いで儒学の家を再興しましょう。
晩年の広元
嘉禄元年(1225)に78歳または83歳で没したという説がある。
参考資料
- 平 雅行 (編)「公武権力の変容と仏教界 (中世の人物 京・鎌倉の時代編 第三巻)」清文堂出版、2014年
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