人物生平
三浦義村が史料に初めて登場するのは、『吾妻鏡』寿永元年(1182)8月11日条での北条政子の安産祈願の使者に任じられた記事である。
なお、三浦一族と畠山重忠らが戦った衣笠城の戦いでは、義村の名前はない。
参考【源平合戦】衣笠城の戦い
衣笠城きぬがさじょうの戦いは、治承四年(1180)8月26日に起こった畠山重忠率いる秩父党(平氏軍)と三浦氏(源氏軍)の戦いである。 重忠の父畠山重能しげよしは武蔵国の有力武士である秩父党の者で、平氏 ...
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北条政子の安産祈願
寿永元年(1182)8月11日、政子が産気づいたので、安産祈願のための使者を二所権現(伊豆・箱根)や近国の神社へ派遣した。
このとき、義村は安房国東条庤に赴いた。(『吾妻鏡』同日条)
治承・寿永の乱
元暦元年(1184)8月8日、義村は平家追討のため源範頼に従い西海へ向かった。(『吾妻鏡』同日条)
頼朝上洛
建久元年(1190)に頼朝が上洛する際、義村は右兵衛尉に任じられた。
景時誅殺
正治元年(1199)10月28日、義村ら御家人たちが鶴岡八幡宮に集まり、景時追討を神仏に誓った。
義村は中原仲業が読み上げた訴状の「鶏を養うものは狸を畜わず、獣を牧う者は犲を育てない」という句に感心したという。
その後、義村は和田義盛とともに訴状を中原広元に渡した。(『吾妻鏡』同日条)
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北条氏と協調関係を結ぶ
建仁二年(1202)8月23日、義村の娘が義時の子北条泰時に嫁いだ。(『吾妻鏡』同日条)
翌年、時氏が生まれた。
建仁三年(1203)8月4日、義村は土佐国守護職に任じられた。
同年9月10日、千幡(後の源実朝)を擁立して次の将軍にすることとなったので、千幡は政子の邸宅から時政の邸宅に移った。
義村と義時が御輿寄に控えた。(『吾妻鏡』同日条)
だが、同年9月15日、時政の妻牧の方は千幡の守役として信用できないということで、政子が千幡を引き取ることになった。
義村・義時・結城朝光が政子の使者として千幡を引き取った。(『吾妻鏡』同日条)
実朝政権時代
実朝の直衣始
建保六年(1218)7月8日、鶴岡八幡宮で実朝の直衣始が行われた。
義村が左に、長江明義が右に並ぶことになったが、義村は「明義は自分より年上なので、右に並ばせることはできない」と言った。
すると、明義が「義村は左衛門尉に任じられており、三浦義澄の後継ぎなのだから、左に並ぶべきだ」と言った。
二人はしばらく言い争っていたが、実朝が「明義は先が長くないのだから、左に並んで子孫の名誉とせよ」と命じたので、従った。(『吾妻鏡』同日条)
実朝暗殺
実朝は頼家の遺児で鶴岡八幡宮の別当になっていた公暁に暗殺された。
『愚管抄』によると、公暁は実朝を暗殺した後三浦義村のもとへ行き、「俺はこうして親の仇を討ったから、自分こそが次の将軍になるだろう」と言った。
これを聞いた義村は義時に報告し、公暁と彼に共謀した者たちをみな討ち取った。
公卿が義村に連絡を取った理由
『愚管抄』によると、公暁は義村を鎌倉殿にとって第一の御家人と捉えていたからだとされている。
三寅の関東下向
実朝没後、次の将軍を誰にするか議論が行われた。
『愚管抄』によると、義村の強い推薦で九条家の三寅(九条頼経)が次期将軍に決まった。
11月、義村は駿河守に任じられた。
御家人の中から初めて受領となった。
承久の乱
弟からの手紙
義村の弟胤義は義時に恨みを持ち、次第に後鳥羽方に付くようになった。
承久三年(1221)5月15日に北条義時追討宣旨が発給されると、胤義は後鳥羽方に付くよう勧める手紙を兄に送った。
晩年
延応元年(1239)12月5日に没した。
参考資料
- 平 雅行 (編)「公武権力の変容と仏教界 (中世の人物 京・鎌倉の時代編 第三巻)」清文堂出版、2014年