梶原氏は桓武平氏の一流三浦氏―大庭氏の系譜で、後三年の合戦で武名を残した鎌倉権五郎景政の子孫にあたる一族である。
鎌倉氏は相模国鎌倉郡を中心に勢力を拡大させた一族で、「梶原」は現在の鎌倉市梶原周辺と考えられる。
一般的な梶原景時のイメージは「源義経について源頼朝に讒言し、義経の悲劇的な最期を招いた」という悪評が多い。
人物生平
梶原景時は源頼朝が最も信頼を寄せた家臣で、御家人たちのお目付け役として権勢を誇った。
頼朝の側近として
当初、景時は平家方の大庭景親に与していたが、石橋山の戦いに敗れた頼朝が椙山の山中に潜んでいた際に、温情をかけて頼朝を見逃したとされている。
また、『源平盛衰記』では景親と行動をともにしていた景時が頼朝と目が合い、頼朝がここまでかと思って自害しようとしたところを押し留めた。
景親のもとへ戻った時には、誰もいなかったと報告したという。
頼朝の御家人に加わる
治承五年(1181)1月11日、頼朝の命令により、景時は初めて頼朝の御前に参上した。前年の12月頃に土肥実平が連れてきていた。
景時は弁舌に長けていたので、頼朝に気に入られたという。(『吾妻鏡』同日条)
なお、石橋山での助命の件には触れられていない。
正確で詳細な報告
粟津の戦いで木曽義仲を滅ぼした源範頼・源義経・安田義定・一条忠頼らの飛脚が鎌倉に到着し、20日の合戦で義仲とその仲間を討ち取ったことを報告した。
範頼らの飛脚は合戦の記録を持参していなかったが、景時の飛脚は合戦で討ち取った人々や囚人らの名簿を持参していた。
頼朝は景時の配慮に感心したという。(『吾妻鏡』同年1月27日条)
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参考【源平合戦】粟津の戦い
粟津あわづの戦いは、寿永三年(1184)1月20日に源頼朝が派遣した軍勢と木曽義仲の間で起こった戦いである。 背景 義仲追討の命令 頼朝の軍勢が接近 東国から源頼朝が派遣した数万騎もの軍勢がすでに美濃 ...
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梶原の二度の駆け
『平家物語』によると、河原兄弟が討ち取られたと聞いた景時は、自分の党の責任だと言って五百騎を率いて平氏の大軍の中へ進軍した。
五十騎程討たれたところで戻ると、軍勢の中に景季の姿が見えなかった。
郎等から「敵陣に深く入り込んで討たれてしまったのではないか」と聞くと、景時は「息子が討たれては生きていても仕方がない」と言って敵陣に引き返した。
景時は数万騎の平氏の大軍の中を駆け回って景季を捜した。
すると、五騎に取り囲まれながら必死に防戦している景季がいた。
景時と景季は親子で五騎のうち三騎を討ち取り、二騎に傷を負わせて敵陣を出た。
景時の讒言
源義経の場合
『平家物語』によると、景時は頼朝に義経について讒言した。
判官殿(義経)は「一ノ谷を上から攻め落とさなければ、東西の木戸口を破ることは難しかった。それゆえ生け捕った者も討ち取った者も私に見せるべきなのに、どうして何の役にも立たない範頼の方へ見せるのか。平重衡をこちらに渡さないというのなら、私が直接行って頂戴しよう」と言って、今にも争いが起きそうになったの、を私が土肥実平と協力して三位中将殿の身柄を土肥次郎に預け、その場は収まりました。
頼朝は景時の讒言を信じて、義経を腰越に追い返したという。
夜須行宗の場合
土佐国の住人夜須行宗は壇ノ浦の戦いの際、平氏の家人で周防国の住人でもある岩国兼秀・兼末らを生け捕りにした功績を認めてほしいと主張していた。
これに対し、景時は「壇ノ浦での合戦の際、夜須と名乗る者はいなかった。兼秀らは自ら投降してきたのだ」と行宗の主張は虚言だと異議を申し立てた。
ところが、行宗が合戦の際に春日部兵衛尉と同じ船に乗っていたと主張した。
頼朝が春日部を呼び出して本当かどうか尋ねたところ、同乗していたと証言したので、行宗に褒賞を与えた。
景時は讒訴の罪で鎌倉中の道路を整備させられることになった。(『吾妻鏡』文治三年〈1187〉3月10日条)
畠山重忠の場合
畠山重忠の代官を務めていた内別当真正が員部大領家綱の所従らの財産を奪ったので、家綱は神人(神社に仕える人)らを派遣して訴えた。
頼朝は、職権を濫行していたら事情を報告するよう命じた。(『吾妻鏡』文治三年〈1187〉6月29日条)
その後、重忠の代官真正の罪で重忠の身柄は囚人として千葉胤正に預けられた。(『吾妻鏡』同年9月27日条)
しかし、重忠が恥辱のあまり七日間に渡り寝食を断ったことを知った頼朝は、重忠を許した。(『吾妻鏡』同年10月4日条)
騒動は一件落着したかに見えたが、景時が「重忠は『自分自身には何の罪もないのに拘禁されたことは、自分の功績を破棄されたようなものだと言って武蔵国に籠もり、謀反を起こそうとしているとの報せを受けました。ちょうど、畠山の一族が在国していることと辻褄が合います」と申し立てた。
頼朝は御家人らを集めてどう対処すべきか話し合うよう命じたところ、使者を派遣して重忠に真相を尋ねることになった。(『吾妻鏡』同年11月15日条)
下河辺行平がこの事を重忠に知らせると、重忠は激怒して自害しようとした。
行平は重忠を説得して、ともに鎌倉に戻ることになった。
重忠が謀反の意志はないと言うと、景時は起請文の提出を要求した。
すると重忠は「自分の忠誠心に偽りはないことを頼朝に伝えてほしい」と訴えたので、頼朝は重忠と行平を御前に召した。
しかし、雑談をするばかりでこの事には一切触れなかった。
行平は無事に重忠を連れて戻ってきた功績によって御剣を授かった。(『吾妻鏡』同年11月21日条)
降人の助命役として
諏訪下宮の神官金刺盛澄の話
諏訪下宮の神官金刺盛澄は木曽義仲と縁が深く、義仲が討たれた後は死罪となって身柄を景時に預けられていた。
景時は「盛澄は騎馬の名人なので、死罪にするのは惜しい」と頼朝に訴えたが、頼朝は許さなかった。
そこで景時は盛澄の技を見てから死罪にするよう進言して彼を召し出した。
頼朝は盛澄に八的を射よと命じ、密かに癖馬を与えていたが、盛澄は見事に射通した。
さらに頼朝が的を立ててあった串を射るよう命じると、盛澄は辞退しようとしたが、景時に諌められて出場し、すべての串を射通した。
感心した頼朝は盛澄を赦し、義仲の一党六十余人も同様に赦免した。
越後の城長茂の話
越後の城長茂は藤原秀衡とともに頼朝の背後を衝こうと画策したほどの有力武将だったが、平家方として木曽義仲との戦いに敗れ身柄を景時に預けられた。
奥州征討に際して景時は長茂を従軍させるよう頼朝に進言し、長茂の軍勢は二百余人に及んだといわれている。
この一件で長茂は景時に恩義を感じたのか、景時が討たれた後、建仁元年(1201)1月小山朝政の宿舎を包囲し、仙洞御所へ突入して鎌倉幕府追討の宣旨を要求するも勅許を得られず逐電したという話がある。
長茂は追捕の結果誅殺されるが、その後城資盛が反乱を起こし5月前半に鎮圧されるまで猛威をふるった。
また、この事件で長茂と行動を共にした本吉高衡も奥州合戦に敗れ相模国に配流となった際に景時との関係が生まれたとされている。
景時と義経の対立
『逆櫓(さかろ)』論争
景時と義経の対立は、まず屋島出陣の前にはじまった。
『平家物語』における記述
激しい北風による大波によって船が大破し、出発することができなくなってしまった。
そこで、船を修理するためにその日は留まることになった。
渡辺では大名と小名が小競り合って「船に乗っての戦を訓練したことがないのだが、どうすべきか」と話し合っていた。
船に逆櫓を立てましょう。馬を駆けさせる時は左でも右でも容易に向けられますが、船の方向を変えるのは困難です。艫とも(船尾)と舳へ(舳先)に櫓を立て、脇楫わきかじ(船の左右の船べりにつけた櫓)を取り付けてどちらでも容易く押せるようにしましょう。
合戦というものは一歩も引くまいと思っていても、戦況が悪ければ後退するのはよくあることだ。元から逃げ支度をしてどうするのか。いざ出陣というときに、縁起でもないことだ。
逆櫓でも返様櫓でもいくらでも立てるがよい。義経は櫓一つで充分だ。
よい大将軍は攻める時は攻め、退く時は退いて身の安全を守り、敵を滅ぼしてよい大将軍というのです。
攻めることしか考えないのは猪武者といって、いいものではありません。
猪か鹿か知らぬが、合戦はただひたすら攻めて勝つのが気持ちいいのだ。
武士たちは景時を恐れて大声で笑うことはしなかったが、互いに目配せして嘲笑しあい、義経と景時がいまにも争うのではないかと騒ぎになった。
逆櫓の松跡
義経軍は、船での戦いはあまり経験がなかったので、皆で評議していると、参謀役の梶原景時が「船を前後どちらの方角にも容易に動かせるように、船尾の櫓(オール)だけでなく船首に櫓(逆櫓)をつけたらどうでしょう」と提案した。
しかし義経は、「はじめから退却のことを考えていたのでは何もよいことがない。船尾の櫓だけで戦おう」と述べた。
結局逆櫓をつけることをせず、夜に入って義経は出陣しようとした。
折からの強風を恐れてか、梶原景時に気兼ねしてか、それに従ったのは二百騎艘のうちわずか五艘であったが、義経は勝利をおさめた。
その論争を行った場所が、一説によればこのあたりといわれている。この他には、江戸時代の地誌『摂津名所図会』によれば、幹の形が蛇のような、樹齢千歳を超える松が生えていたという。
この松を逆櫓の松と呼んだ。
逆櫓の松は、近代に入るころには、既に枯れてしまっていたらしい。
景時誅殺
景時は頼朝のために上総広常誅殺や源義経弾劾などの汚れ役を受けもった。
頼朝は、自分のためなら何でもする景時の激しさを制御することができたが、まだ未熟な頼家に景時は扱いきれなかった。
頼家を支えるために選抜された13人の御家人の中で、最初に脱落している。
頼家の乳母夫・宿老として
景時は頼家の乳母夫として彼を支える一方で、宿老の一人として十三人の合議制に名を連ねた。
景時は乳母夫の立場から頼家を守ろうとしたが、これが他の宿老たちの反発を招くことになった。
頼家に忠実な「第一の郎等」という評価は、宿老たちから見れば頼家を正しく補佐しない者という評価であった。
阿波局による弾劾
『吾妻鏡』正治元年(1199)10月25日条によると、下野国の豪族小山政光と頼朝の乳母の一人である寒河尼の子である結城朝光は将軍御所内の侍詰所で「自分は『忠臣は一人の君主にしか仕えないものだ』と聞いているが、まったく本当だ。遺言で固く止められたので出家しなかったのが悔やまれる。今の世の中は危なっかしくて、薄氷を踏むようだ」と漏らした。
ところが27日、政子の妹阿波局は、景時が「結城朝光が『忠臣は二人の君主に仕えず』と言って頼朝の時代を懐かしんだことは不忠である」と頼家に讒言したと話した。
驚いた朝光が親友の三浦義村と和田義盛に相談すると、義村は今こそ景時を潰す好機と考え事態を大きくしていった。
協議の結果、同志を募り「景時と我々御家人一同とどちらが大事なのか」という景時糾弾の署名簿を作成し、頼家に提出することになった。
景時に怨みを持つ中原仲業が訴状を作成した。
一夜のうちに御家人たちに連絡し、10月28日、三浦義村は和田義盛とともに御家人66人の署名を集めた弾劾文を大江広元に提出し、頼家への上奏を頼んだ。
ところが、広元は頼家の意向を尊重して弾劾文を取り次がなかったので、激怒した義盛は先送りを繰り返す広元に詰め寄り奏上を強く迫った。
翌日、広元が頼家に弾劾文を奏上し、頼家は景時に連名簿を見せて弁明を求めた。
しかし、頼家に見捨てられたことを悟った景時はいっさい弁明せず、一族を連れて相模国一宮へ去った。
景時の追放を要求する御家人たちの団結は、もはや頼家一人の手には負えなくなっていた。
景時誅殺
正治二年(1200)1月20日、朝廷から九州諸国の総司令官に任命されたという名目で、景時は大掛かりな謀反を企んだ。
景時が上洛を企てているとの報せを受けた北条時政・大江広元・三浦善信らが御所で会議を開き、三浦義村・比企兵衛尉・糟屋有季・工藤行光らを派遣した。
景時は上洛の途中、駿河国狐ケ崎で追討使の御家人に誅殺された。
この時、比企能員の娘婿糟屋有季が先陣を務めていた。
24日、幕府は景時誅殺を朝廷に報告した。
九条兼実は『玉葉』で「ほかの武士たちに嫌われ仲間はずれにされた景時は、『頼家の弟実朝を将軍にしようという陰謀がある』と頼家に報告して武士たちと対決したが、ついに言い負かされて讒言が明らかになり、鎌倉を追放されてしまったのだ」と記している。
また、『愚管抄』で慈円は景時誅殺は頼家の失策だと記している。
『沙石集』における記述
『沙石集』によると、景時の死後その妻が栄西に慰められて追討のために塔を建てた話がある。
参考資料
- 山本 幸司「頼朝の天下草創 日本の歴史09」講談社、2009年
- 永井 晋「鎌倉源氏三代記―一門・重臣と源家将軍 (歴史文化ライブラリー) 」吉川弘文館、2010年
- 榎本 秋「執権義時に消された13人 闘争と粛清で読む「承久の乱」前史」株式会社ウェッジ、2021年