角色 鎌倉時代

梶原景時

梶原氏は桓武平氏の一流三浦市―大庭氏の系譜で、後三年の合戦で武名を残した鎌倉権五郎景政の子孫にあたる一族で、「梶原」は現在の鎌倉市梶原周辺と考えられる。

一般的な梶原景時のイメージは「源義経について源頼朝に讒言し、義経の悲劇的な最期を招いた」という悪評が多い。

源頼朝の側近として

梶原景時は源頼朝が最も信頼を寄せた家臣で、御家人たちのお目付け役として権勢を誇った。

頼朝との出会い

当初、景時は平家方の大庭景親に与していたが、石橋山の戦いに敗れた頼朝が椙山の山中に潜んでいた際に、温情をかけて頼朝を見逃したとされている。
だが、『吾妻鏡』治承五年(1181)1月11日の記述では、前年末に土肥実平が連れてきた景時が初めて頼朝の前に参上したとあり、助命の件については触れられていない。

降人の助命役として

諏訪下宮の神官金刺盛澄の話

諏訪下宮の神官金刺盛澄は木曽義仲と縁が深く、義仲が討たれた後は死罪となって身柄を景時に預けられていた。
景時は「盛澄は騎馬の名人なので、死罪にするのは惜しい」と頼朝に訴えたが、頼朝は許さなかった。
そこで景時は盛澄の技を見てから死罪にするよう進言して彼を召し出した。
頼朝は盛澄に八的を射よと命じ、密かに癖馬を与えていたが、盛澄は見事に射通した。
さらに頼朝が的を立ててあった串を射るよう命じると、盛澄は辞退しようとしたが、景時に諌められて出場し、すべての串を射通した。
感心した頼朝は盛澄を赦し、義仲の一党六十余人も同様に赦免した。

越後の城長茂の話

越後の城長茂は藤原秀衡とともに頼朝の背後を衝こうと画策したほどの有力武将だったが、平家方として木曽義仲との戦いに敗れ身柄を景時に預けられた。
奥州征討に際して景時は長茂を従軍させるよう頼朝に進言し、長茂の軍勢は二百余人に及んだといわれている。

この一件で長茂は景時に恩義を感じたのか、景時が討たれた後、建仁元年(1201)1月小山朝政の宿舎を包囲し、仙洞御所へ突入して鎌倉幕府追討の宣旨を要求するも勅許を得られず逐電したという話がある。
長茂は追捕の結果誅殺されるが、その後城資盛が反乱を起こし5月前半に鎮圧されるまで猛威をふるった。

また、この事件で長茂と行動を共にした本吉高衡も奥州合戦に敗れ相模国に配流となった際に景時との関係が生まれたとされている。

景時と義経の対立

『逆櫓(さかろ)』論争

景時と義経の対立は、まず屋島出陣の前にはじまった。

『平家物語』における記述

激しい北風による大波によって船が大破し、出発することができなくなってしまった。
そこで、船を修理するためにその日は留まることになった。
渡辺では大名と小名が小競り合って「船に乗っての戦を訓練したことがないのだが、どうすべきか」と話し合っていた。

梶原景時

船に逆櫓を立てましょう。馬を駆けさせる時は左でも右でも容易に向けられますが、船の方向を変えるのは困難です。艫とも(船尾)と舳へ(舳先)に櫓を立て、脇楫わきかじ(船の左右の船べりにつけた櫓)を取り付けてどちらでも容易く押せるようにしましょう。

源義経

合戦というものは一歩も引くまいと思っていても、戦況が悪ければ後退するのはよくあることだ。元から逃げ支度をしてどうするのか。いざ出陣というときに、縁起でもないことだ。
逆櫓でも返様櫓でもいくらでも立てるがよい。義経は櫓一つで充分だ。

梶原景時

よい大将軍は攻める時は攻め、退く時は退いて身の安全を守り、敵を滅ぼしてよい大将軍というのです。
攻めることしか考えないのは猪武者といって、いいものではありません。

源義経

猪か鹿か知らぬが、合戦はただひたすら攻めて勝つのが気持ちいいのだ。

武士たちは景時を恐れて大声で笑うことはしなかったが、互いに目配せして嘲笑しあい、義経と景時がいまにも争うのではないかと騒ぎになった。

逆櫓の松跡

『平家物語』の逆櫓の段によれば、一一八五年二月、源義経は、平氏を討つため京都を出発し、摂津国の渡辺、福島から、四国の八島(屋島)を船で急襲しようとした。
義経軍は、船での戦いはあまり経験がなかったので、皆で評議していると、参謀役の梶原景時が「船を前後どちらの方角にも容易に動かせるように、船尾の櫓(オール)だけでなく船首に櫓(逆櫓)をつけたらどうでしょう」と提案した。
しかし義経は、「はじめから退却のことを考えていたのでは何もよいことがない。船尾の櫓だけで戦おう」と述べた。
結局逆櫓をつけることをせず、夜に入って義経は出陣しようとした。
折からの強風を恐れてか、梶原景時に気兼ねしてか、それに従ったのは二百騎艘のうちわずか五艘であったが、義経は勝利をおさめた。
その論争を行った場所が、一説によればこのあたりといわれている。この他には、江戸時代の地誌『摂津名所図会』によれば、幹の形が蛇のような、樹齢千歳を超える松が生えていたという。
この松を逆櫓の松と呼んだ。
逆櫓の松は、近代に入るころには、既に枯れてしまっていたらしい。

景時の最期

景時は頼朝のために上総広常誅殺や源義経弾劾などの汚れ役を受けもった。
頼朝は、自分のためなら何でもする景時の激しさを制御することができたが、まだ未熟な頼家に景時は扱いきれなかった。

頼家の乳母夫・宿老として

景時は頼家の乳母夫として彼を支える一方で、宿老の一人として十三人の合議制に名を連ねた。

景時は乳母夫の立場から頼家を守ろうとしたが、これが他の宿老たちの反発を招くことになった。
頼家に忠実な「第一の郎等」という評価は、宿老たちから見れば頼家を正しく補佐しない者という評価であった。

阿波局による弾劾

下野国の豪族小山政光と頼朝の乳母の一人である寒河尼の子である結城朝光は将軍御所内の侍詰所で「自分は『忠臣は一人の君主にしか仕えないものだ』と聞いているが、まったく本当だ。遺言で固く止められたので出家しなかったのが悔やまれる。今の世の中は危なっかしくて、薄氷を踏むようだ」と漏らした。
ところが正治元年(1199)10月27日、政子の妹阿波局は、景時が「結城朝光が『忠臣は二人の君主に仕えず』と言って頼朝の時代を懐かしんだことは不忠である」と頼家に讒言したと話した。

驚いた朝光が親友の三浦義村と和田義盛に相談すると、義村は今こそ景時を潰す好機と考え事態を大きくしていった。
協議の結果、同志を募り「景時と我々御家人一同とどちらが大事なのか」という景時糾弾の署名簿を作成し、頼家に提出することになった。

一夜のうちに御家人たちに連絡し、10月28日、三浦義村は和田義盛とともに御家人66人の署名を集めた弾劾文を大江広元に提出し、頼家への上奏を頼んだ。
ところが、広元は頼家の意向を尊重して弾劾文を取り次がなかったので、激怒した義盛は先送りを繰り返す広元に詰め寄り奏上を強く迫った。
翌日、広元が頼家に弾劾文を奏上し、頼家は景時に連名簿を見せて弁明を求めた。
しかし、頼家に見捨てられたことを悟った景時はいっさい弁明せず、一族を連れて相模国一宮へ去った。

景時の追放を要求する御家人たちの団結は、もはや頼家一人の手には負えなくなっていた。

景時誅殺

正治二年(1200)1月20日、朝廷から九州諸国の総司令官に任命されたという名目で、景時は大掛かりな謀反を企んだ。
だが、景時は上洛の途中、駿河国狐ケ崎で追討使の御家人に誅殺された。
この時、比企能員の娘婿糟屋有季が先陣を務めていた。

九条兼実は『玉葉』で「ほかの武士たちに嫌われ仲間はずれにされた景時は、『頼家の弟実朝を将軍にしようという陰謀がある』と頼家に報告して武士たちと対決したが、ついに言い負かされて讒言が明らかになり、鎌倉を追放されてしまったのだ」と記している。

また、『愚管抄』で慈円は景時誅殺は頼家の失策だと記している。

『沙石集』における記述

『沙石集』によると、景時の死後その妻が栄西に慰められて追討のために塔を建てた話がある。

参考資料

 

  • 山本 幸司「頼朝の天下草創 日本の歴史09」講談社、2009年
  • 永井 晋「鎌倉源氏三代記―一門・重臣と源家将軍 (歴史文化ライブラリー) 」吉川弘文館、2010年
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やみみん

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