平治の乱での敗北によって伊豆国へ配流された源頼朝が流人として過ごした日々は、『頼朝伊豆流離説話』や『流人頼朝説話』などと呼ばれる。
一種の貴種流離譚ともいえる。
幼い神や身分の高い主人公が故郷を離れて放浪を続け、さまざまな試練を乗り越えて尊い存在になる説話を『貴種流離譚』という。
流人時代の頼朝に関するはっきりとした史料はほとんど残っていない。
源義朝の嫡子とはいえ、流人となった頼朝を気に留める人はほとんどいなかったからだ。
しかし、頼朝が平家を滅ぼし鎌倉幕府を樹立したことによって、「これほどの大偉業を成し遂げた人には、流人時代にも相当なできごとがあったに違いない」という願望・推測が加わってさまざまな伝承が形作られることとなった。
頼朝の流人時代の説話は、主に『曽我物語』『延慶本平家物語』『源平闘諍録』で語られており、『吾妻鏡』でも断片的に記されている。
背景
従五位下・右兵衛権佐に叙されて朝廷での地位を順調に築いていった頼朝だったが、平治元年(1159)12月に起こった平治の乱で父義朝が平清盛に敗戦したことによって状況は一変する。
池禅尼の助命で死罪を免れる
永暦元年(1160)2月9日、頼朝は平頼盛の郎等平宗清によって捕縛された。
鳥羽上皇の皇后待賢門院璋子と関係のあった頼朝の母の実家熱田大宮司は、頼朝を救うために奔走した。
助命の嘆願は後白河院と待賢門院の娘である上西門院のもとに届き、平清盛の亡父平忠盛の後家で頼盛の母でもある池禅尼は、頼盛が連れてきた幼い頼朝を見てかわいそうに思い、「どうしてあんな小さい子の首が斬れましょう。私に免じて許していただけないでしょうか」と涙ながらに助命を嘆願した。
当時の武士の家では前当主の後家の発言力が大きかったので、清盛も継母の願いを受け入れざるを得なかった。
こうして頼朝は死罪を免れ、永暦元年(1160)3月に平重盛の家人である伊豆国の伊東氏のもとへ流されることとなった。
伊豆国は、流刑地のなかでは京都から最も近く父義朝の本拠地だった南関東に隣接していた。
伊豆国は中央政権から隔絶しやすい半島で、政治犯を配流するのに適していた。 さらに、平家の家人である伊東氏の本拠地があった。
配流へ
『平家物語』では、頼朝が配流された地は蛭ヶ小島だと伝えられている。
山間の渓谷から小平野に出た狩野川の流れが乱流してできた中洲のひとつで、低湿地で蛭が多かったのでこの名が付けられたという。
山木館と北条館の間に位置する田に一本の老松と大きな石碑の立っている場所がそこだといわれているが、これは江戸時代中期に伊豆地方の郷土史研究家が推定して石碑を立てたというだけなので、はっきりとした証拠があるわけではない。
あらすじ
幼少時代からの乳母比企尼は都から武蔵国比企郡に引っ越して、そこから食料を送り生活上の面倒を見てくれた。
尼の長女の婿で武蔵国の武士安達盛長は頼朝の側に仕えていた。
源氏方に従ったため所領を失って放浪していた佐々木四兄弟(定綱・経高・盛綱・高綱)も従者として頼朝に仕えた。
頼朝の母の出身である熱田大宮司からも援助の手が差し伸べられた。
八重姫との恋
伊豆国の住人伊東祐親には4人の娘がいた。
このうち、3番目の娘(八重姫)はまだ誰にも嫁いでいなかったので、頼朝は彼女と密かに逢瀬を交わしていた。
そうしているうちに男の子が生まれて、「千鶴」と名付けられた。
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千鶴の受難
ある日、千鶴は乳母に抱かれて庭の花を見て楽しんでいたところを、都から戻ってきた祐親に見つかってしまった。
祐親が乳母に「誰の子だ」と尋ねると、乳母は何も答えず逃げていった。
祐親が妻に尋ねたところ、妻は「あなたが都に行っていた間に、兵衛佐殿との間にできた子供ですよ」と答えた。
平家の家人である祐親は、娘が源氏の流人と繋がっていたことに激怒した。
祐親は郎等らに命じて千鶴を川に沈めさせた。
その後、八重姫を江間小次郎と結婚させた。
これを知った頼朝は怒りと嘆きのあまり祐親法師を討とうと思ったが、「大志のあるものは小さな恨みを忘れるものだ」と思いとどまった。(『源平盛衰記』)
政子との出会い
北条館に逃げ込む
祐親が攻めてくると知った頼朝は北条館に逃げ込んだ。
北条時政を頼りにして館に匿われているうちに、頼朝は時政の娘政子と恋仲になった。
都から帰ってくる途中で二人の関係を知った時政は驚き、政子を山木兼隆のもとへ嫁がせることにした。
しかし、政子は兼隆の家を抜け出して伊豆山を登り、頼朝のところに籠もった。
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さまざまな人々が頼朝の邸宅に出入りする
流人生活の間に頼朝の居場所は蛭ヶ小島から北条の中心部に移っていった。
『吾妻鏡』で時政が住む北条館とは別に登場する北条御亭が頼朝の邸宅と思われるが、そこにはさまざまな人々が出入りした。
- 伊豆国・相模国の武士
- 頼朝の乳母関係者
- 浪人(亡命者)
伊豆国・相模国の武士
伊豆国の在地武士では時政のほかに工藤茂光・宇佐美祐茂・天野遠景などが頼朝のもとを訪れ、相模国の在地武士では土肥実平・岡崎義実などが訪れている。
これに関東の大豪族である千葉氏や三浦氏の一族も加わった。
なお、土肥実平は在京経験があって平氏のもとで閑院内裏の大番役などを務めたこともあり、その際に身柄を預かった興福寺土佐坊昌俊を頼朝のもとに行かせた。
佐々木定綱は矢を作ることが得意だったので、頼朝は辺りに人影がないのを見計らって定綱に「お前の作ってくれる矢を、いつになったら射られるかな。この矢でもって、憎き平家を滅ぼし、日本国の主人となられる日は」と語ったという。
頼朝の乳母関係者
頼朝の配流とともに夫の掃部允と伴って京都から武蔵国へ移り、頼朝を援助し続けた比企尼は安達盛長・河越重頼・伊東祐清に頼朝を支えるよう命じた。
安達盛長の年上の甥である足立遠元は京都で働き娘を後白河院近臣の藤原光能の妻にしていたが、盛長自身も大和判官代藤原邦通を頼朝に右筆(書紀役)として推挙している。
このため、頼朝は流人の身でありながら京都の事情にも通じていたと思われる。
浪人(亡命者)
近江国の佐々木秀義は平治の乱後に本拠地の近江国佐々木荘を没収されたので、奥州藤原氏を頼ろうとしたが渋谷重国に引き止められ20年に渡り渋谷の地に滞在した。
滞在期間中は子息の定綱・盛綱を頼朝のもとへ向かわせて惜しみない援助を行ったという。
伊勢国の加藤景員は同じ平氏家人の伊藤氏と揉めて伊勢国を出て、子息を連れて伊豆国の工藤茂光のもとに身を寄せた。
景員も長期間伊豆に滞在し、子息の光員・景廉を頼朝のもとに向かわせた。
文覚上人の荒行
承安三年(1173)、京都の高雄にある神護寺の再興を企てた文覚上人が勧進のために法住寺御所で狼藉をはたらいた罪で伊豆奈古屋に配流となった。
もとより、頼朝と同じく上西門院に仕えた摂津渡辺党の遠藤武者盛遠という名の武士でもあった文覚は、しきりに頼朝に挙兵を勧めた。
父義朝の髑髏
久しぶりに父の名を聞いた頼朝は思わず涙を流し、平家に反旗を翻すにはどうしたらいいか文覚に尋ねた。
すると、文覚は京都に上って光能に「頼朝は勅勘を解かれ院宣をくださるならば、関東の武士たちを召集して平家を滅ぼし、天下を鎮めようと言っている」と伝え、後白河法皇は院宣を下した。
文覚は院宣を首にかけ、伊豆国へ戻った。
『平家物語』では頼朝が挙兵を決断したのは文覚上人の説得によるものとしている。
文覚上人は頼朝のもとへ参上してこう言った。
平家一門では平重盛公が剛毅で智謀にも長けていましたが、平家の運も尽きたのか去年の八月に亡くなられました。
今は源氏と平氏の中であなたほど将軍にふさわしい方はおりません。はやく謀反を起こして、日本国を手中にお収めください。
思いもよらないことを言われるお方だ。
私は亡き池の尼御前に生きていても仕方ない身を助けていただいたのだから、尼御前の後世を弔うために毎日法華経の一部を転読するほかには何も考えていない。
天が与えるものを受け取らなければ、かえってその咎を受けることになります。
こう申しますとあなたの心を試そうとしているのだとお思いでしょうか。私があなたに深く心を寄せている証拠として、これをご覧ください。
これこそあなたの父、故左馬頭殿(義朝)の頭蓋骨です。
平治の乱の後、牢屋の前の苔に埋もれたままで弔う人もいなかったのを、私が牢番から貰い受け、十余年の間首にかけて山々寺々を回って弔ったので、今はあの世で苦しみから解放されたでしょう。
また、『愚管抄』では光能が後白河の意向を察して、高雄の神護寺の再興のために力を入れすぎて伊豆に流された文覚に命じて、頼朝に宣旨を見せたという説に触れている。
だが、慈円によればこれは事実ではなく、文覚は弟子とともに流され4年間頼朝と親交を深めていたのであり、その文覚が法皇や平家の心中を探って差し出がましいことを言っただけなのだという。
頼朝と文覚が出会ったのは承安三年(1173)〜治承二年(1178)の間だが、これを頼朝挙兵の治承四年(1180)の出来事としたり、幽閉同様の状況に置かれていた法皇から院宣を受けるなど、虚構の上に成り立っていると考えられる。
参考資料
- 上杉 和彦「源頼朝と鎌倉幕府」新日本出版社、2003年
- 石井 進「日本の歴史 (7) 鎌倉幕府」中央公論新社、2004年
- 川合 康「源平の内乱と公武政権 (日本中世の歴史) 」吉川弘文館、2009年
- 五味 文彦「鎌倉と京 武家政権と庶民世界」講談社、2014年
- 坂井 孝一「源氏将軍断絶 なぜ頼朝の血は三代で途絶えたか」PHP研究所、2020年
- 坂井 孝一「鎌倉殿と執権北条氏 義時はいかに朝廷を乗り越えたか」NHK出版、2021年