生い立ち
保元二年(1157)、北条時政の娘として生まれた。
頼朝と政子
政子が頼朝と結ばれたときは20歳を超えており、当時の女性としては晩婚であった。
長女大姫が生まれた。
文治二年(1186)、鶴岡八幡宮で源義経の愛妾静御前が義経を想った舞を奉納したとき、頼朝は「八幡宮の神前で芸を披露する時は関東の平安を祝うべきなのに、反逆者の義経との別れの曲を歌うとはけしからん」と立腹した。
これを聞いた政子は、愛する人を恋い慕わないならば真の貞女ではないと頼朝をなだめた。(『吾妻鏡』同年4月8日条)
君(頼朝)が流人として伊豆にいらっしゃった頃、私と契を交わしましたが、北条殿(時政)は平氏の権力を恐れて私を閉じ込めました。
けれど、君を慕って暗い夜道をさまよい歩き、大雨を凌いで君のところにたどり着きました。
また、石橋山の戦場にお出になった時は独りで伊豆山に残り、君の生死もわからず毎晩魂も消えるような気持ちでした。
その愁いの気持ちを思えば、今の静の心と同じです。
予州(義経)との長年の深い関係を忘れて恋い慕わないならば、貞女の姿ではありません。
頼家政権時代
横恋慕した頼家を叱責
「妾のことについて安達景盛が頼家を恨んでいる」との讒言があった。
頼家は小笠原長経らに景盛を誅殺するよう命じ、安達盛長の邸宅に向かわせた。
ところが、鎌倉中の武士たちが我先にと集まってきたので、政子は急いで盛長邸に行き、二階堂行光を使者として頼家を叱責した。(『吾妻鏡』正治元年〈1199〉8月19日)
幕下(頼朝)が亡くなられて時が経たぬうちに姫君(三幡)も早世して悲嘆に暮れていたところ、今度は合戦を好まれようとは。
これは乱世の源です。
特に景盛は信頼も厚く、(頼朝が)情けをかけておられました。
(景盛の)罪状を聞かせてくれたら、私が速やかに対処します。
事情を聞かずに誅殺すれば、必ず後悔を招くでしょう。それでも追討するというならば、まず私を討ってからにしなさい。
頼家はしぶしぶ景盛の追討を取りやめた。
このことは鎌倉中の騒ぎになったという。
蹴鞠に興じる頼家を叱責
建仁二年(1202)1月29日、藤原親能の邸宅で蹴鞠を行う予定があった。
頼家が出かけようとしたところ、政子が二階堂行光を使者として遣わし、外出を止めた。
故仁田入道上西(新田義重)は源氏の遺老であり、武家にとってなくてはならない人でした。
14日に亡くなってからまだ20日にも満たないのに外で遊んでは、人々から非難されるでしょう。よろしくありません。
これに対し頼家は「蹴鞠は人から非難されるようなものではない」と反論したが、結局蹴鞠の会を取りやめた。(『吾妻鏡』同日条)
実朝政権時代
幼い実朝に代わって論功行賞を行う
元久二年(1205)7月8日、まだ幼い実朝の代わりとして、政子の計らいで畠山重忠の残党の所領が勲功のある者に与えられた。(『吾妻鏡』同日条)
和田義盛からの上総国国司推挙について相談される
承元三年(1209)5月12日、和田義盛が上総国の国司に推挙してほしいと要求してきたので、実朝は政子に相談した。
頼朝の時代に侍による受領の停止を決めており、新しい例を始めるのであれば女性の自分が口出しすることではないと言ったので、実朝は義盛を推挙しなかった。(『吾妻鏡』同日条)
三度の上洛
東大寺供養
一度目の上洛は、建久六年(1195)に東大寺供養のために訪れたときである。
熊野参詣
二度目の上洛は、承元二年(1208)10月10日に熊野参詣のため弟の北条時房を連れて上洛したときである。
疱瘡を患った実朝の快復祈願のためだったが、在洛中のできごとは不明である。
また、子に恵まれない実朝を不安に思ったのか鎌倉周辺の霊地を訪れている。
日本の最高権力者に
建保六年(1218)4月14日、政子を従三位に叙すとの宣下があった。
15日に後鳥羽から対面を提案されたが、政子は「片田舎の老尼が天子に拝謁するのは無益でふさわしくない」と言って、すぐに鎌倉に帰った。(『吾妻鏡』同年4月29日条)
将軍後継問題
源家の将軍が途絶えた場合は御家人間の紛争も懸念されるため、執権の立場を強めていた北条氏にとって上位をあおぐ将軍が必要だった。
そのためには、実朝の後継者として皇族の人間が必要とされた。
「女人入眼の日本国」
藤原兼子との交渉
建保六年(1218)2月21日、政子たちは上洛し、当時の政界で権力を握っていた卿二位藤原兼子と面談を行った。
藤原兼子の父は刑部卿藤原範兼である。彼の娘範子は源通親の妻で、前夫能円との間に生まれた在子を後鳥羽天皇に嫁がせた。
その後、在子は土御門天皇を産んだ。
兼子は範子の妹で、叔父の高倉範季とともに後鳥羽院に仕え権勢を誇る、後白河の寵姫丹後局にも並びうる女性だった。
その後、兼子の推挙によるものなのかは不明だが、政子は従三位に叙せられた。
後鳥羽院から謁見の旨が伝えられたが、断って鎌倉に帰った。
慈円の観察眼
慈円は著書『愚管抄』の中で「女人入眼の日本国、いよいよまことなりけりと云うべきにや」と述べている。
「入眼」とは仏に眼を入れることから転じた「完成する」という意味の言葉で、女性が権力を持つ時代になった日本に対する皮肉を込めている。
鎌倉には政子、京都には兼子がいて、彼女たちが政治上で大きな役割を果たしていることに対して「日本という国は、まさに女性によって大事な問題が決まる国なのだ」ということである。
尼将軍・政子
四代目の将軍
『吾妻鏡』冒頭に収められている「関東将軍次第」(鎌倉幕府将軍の一覧表)には以下のような記述がある。
- 源頼朝 治廿年
- 源頼家 治五年
- 源実朝 治十七年
- 平政子 治八年
- 藤原頼経 治十八年
- 藤原頼嗣 治九年
- 宗尊親王 治十五年
- 惟康親王 治廿四年
- 久明親王 治廿年
- 守邦親王 治廿五年
政子は女性のため征夷大将軍にこそ任じられていないが、彼女を「四番目の将軍」とする認識は古くから存在していたようだ。
承久の乱
承久の乱が起こる少し前に、政子は夢の中で伊勢大神宮のお告げを聞いた。
表面が二丈ほどある鏡が由比浦の波間に浮かび、中から声がした。
我は伊勢大神宮である。
世の中は大いに乱れて兵を集める事態となる。
北条泰時が私を輝かせれば太平を得るであろう。
そこで、波多野朝定が政子の使者として伊勢大神宮に向かった。(『吾妻鏡』承久三年〈1221〉3月22日条)
晩年の政子
執権政治の確立
元仁元年(1224)、義時の子泰時を執権に、弟の時房を連署にした。
嘉禄元年(1225)に没した。
『御成敗式目』第七条
政子の死後成立した『御成敗式目』第七条には、「源頼朝の時代以降、代々の将軍と政子様の時代に御家人に与えられた所領に関して元の持ち主が返還のための訴訟を起こしてはならない」と定められている。
参考資料
- 平 雅行 (編)「公武権力の変容と仏教界 (中世の人物 京・鎌倉の時代編 第三巻)」清文堂出版、2014年
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