鎌倉時代

文治の勅許

文治勅許は源頼朝に叛逆した源義経・源行家を追討するために、全国各地に地頭職の設置を認めたものである。

文治の勅許

北条時政の上洛

文治元年(1185)11月25日、北条時政が上洛した。

そして28日、時政は吉田経房と対面して諸国への守護・地頭の設置と権門勢家の荘園・公領を問わず反別五升の兵糧米を充てることを申し入れた。(『吾妻鏡』文治元年〈1185〉11月28日条)
時政以下の郎従に五機・山陰・山陽・南海・西海諸国を分かち賜い、荘園・公領を問わず兵糧米を徴収する権限が与えられることになり、その権限は田地の支配にも及ぶということだった。(『玉葉』文治元年〈1185〉11月28日条)

こうして11月29日、義経・行家を追討するために全国各地に地頭職を設置することを承認する文治勅許が発布された。

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参考守護・地頭

守護は国を単位とする軍事・警察権を掌握する役職で、地頭はその土地を領有する「地頭人」を意味する。 守護地頭制が成立した背景 義経を捜索するため 大和国の吉野山・多武峰とうのみねに一時潜伏していたという ...

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時政の要求

時政は源行家・義経との合戦を想定して畿内・西国に国地領を設置し、各国の国衙を掌握して兵糧米の徴収や国内武士の動員を行い、強力な軍事体制を再構築しようとしていたと思われる。

文治勅許の意義

文治勅許を得たことによって、頼朝は御家人に対して「地頭職補任」というかたちで新しい所領を与える権限を獲得した。

地頭職設置の範囲は限定されていた

源頼朝は諸国荘園の地頭職の権限を掌握したものの反発が強く、まず北条時政が自身の七ヵ国の地頭職成敗権を辞退した。
さらに、5月に源行家が討たれ、源義経はいまだ行方知れずとはいえ、戦時体制を無期限に続けるわけにはいかないということで、6月から7月にかけての頼朝と朝廷の交渉により、平家没官領・謀反人所帯跡以外の地頭職を停止することとなった。

平家没官領とは、寿永二年(1183)7月に都落ちした平氏一門の荘園・所領を朝廷が没収したものである。 翌年の寿永三年(1184)3月に後白河から頼朝に恩賞として給付された。この「平家没官領注文」に入らなかった平氏所領や、平氏方の武士あるいは木曽義仲方の武士などの財産として、内乱の過程で没収された所領を謀反人所帯領という。

こうして地頭は平家没官領・謀反人所帯領にかぎり設置を許可され、鎌倉時代を通してこの体制が敷かれた。
この取り決めは地頭設置の範囲を限定するものではあったが、謀反人が発生すれば地頭を設置する理由となった。

文治勅許以前から地頭は存在した?

治承四年(1185)10月の論功行賞

治承四年(1185)10月23日、相模国府ではじめて大規模な論功行賞が行われた。

元暦二年(1185)6月、島津忠久を地頭職に補任

元暦二年(1185)6月、頼朝は伊勢国波出御厨の地頭職に島津忠久を補任している。

波出御厨は元々伊勢平氏の有力武士だった出羽守平信兼の家人の所領だったが、信兼が前年に伊勢国・伊賀国の両国で鎌倉に対して反乱を引き起こした疑いで追討されており、その事件に関わった武士の所領が謀反人所帯領として鎌倉に没収されていたものである。
地頭の設置は文治勅許を得る前からすでに行われていたことがわかる。

参考資料

  • 川合 康「源平の内乱と公武政権 (日本中世の歴史) 」吉川弘文館、2009年
  • 関 幸彦「北条時政と北条政子―「鎌倉」の時代を担った父と娘」山川出版社、2009年
  • 川合 康「源平合戦の虚像を剥ぐ 治承・寿永内乱史研究」講談社、2010年
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