資料室 文学

泉州信田白狐伝 現代語訳 巻四 晴明、伯道上人のもとで修行する

内容

童子は言った。

「まことに、道満は聞きしに勝る術者だ。

私は、さる天暦の初めに竜宮に入って一晩過ごしたと思っていたが、実際のところ地上では九年が過ぎており、天徳の終わりになっていた。今は改元があって、応和元年になる。

それゆえ、道満の考えている通り、私が少年のままでいるのは竜宮で賜った秘符のおかげだ」

童子と道満の対決は、関白忠平公をはじめその場にいた人々を感心させた。

再び内裏で起こった怪異についての話題が出ると、童子は謹んで申し上げた。

「私は摂州天王寺の山門で鳥の会話を聞きました。

此度だけではなく、去る天長八年の雷災や天徳四年の火災もともに、菅丞相の御祟りによるものです。

かの君は今、十六万八千の眷属を率いて祟りを為しております。

ですが、これもまた先帝の御誤りによるものですので、天も祟りを受け入れているのです。

菅丞相の霊魂を手厚く祀れば、御恨みは鎮護の神となるでしょう。何の疑いもありますまい」

すぐに菅公の御霊は太政大臣正一位を賜り、洛西北野に大社を設けられて厚く敬われ、西方大威徳天満大自在天神として祀られた。

すると、祈らずとも震動はただちに収まった。ふしぎなことだ。

菅丞相の霊魂は禁裡守護の三十六社の一となって、天下梅花の主、乾坤文字の祖として末代までご利益を施したという。

関白公は感動して、安倍童子へ官位を授けることにした。

除目の儀が行われ、童子は従四位上兼主計頭に任ぜられ安倍晴明と名乗り、天下陰陽の頭と天文博士となった。

やがて、晴明は入唐することになり、後のことは弟子の道満に任せ、父の保名を摂州から呼び寄せて京の一条堀河の西に居宅を賜った。

今では、一条大路の晴明町というところの家屋の中に祠に晴明の霊魂が祀られている。

こうして、晴明が入唐したのは第六十二代村上天皇の応和年間のことで、唐土は宋の太宗皇帝の建陸年間にあたる。

雍州の城刑山という高山が厳かにそびえ立っており、刀で削ったような形をしていて苔も滑らかになっており、登ることができた者は稀である。

この山に伯道という大仙人がいる。

古より伝わる天竺五臺山の文殊大士より金烏玉兎集と授かった者である。

去る玄宗皇帝の開元年間、阿倍仲麻呂に伝えられたのだが、仲麿は唐土で没したので、吉備大臣がこの書を日本に持ち帰って伝えたという。

しかし今、晴明は仲麻呂の子孫として図らずも賀茂保憲からこの書を授かっているのはなんとも奇妙なことだ。

賀茂保憲は吉備公の子孫だが、書の内容を伝えられなかった。

そこで、晴明は城刑山に登ってこの書について大仙人に教わろうと考えたのだ。

何とか山にたどり着いたが、峰には老松の枝がそびえて空は一片の雲にむせび、岩間には瀑布が飛流して布をさらしたようになっていて、絶妙な佳境であった。

晴明がしばらく岩に腰掛けて周囲を仰ぎ見るも、登るべき道標を失って、さすがの晴明も呆然としていた。

その時、山の頂からかすかに神鈴の音が聞こえてきたかと思うと、岩の上に大仙人が現れた。

木の葉の衣を着て、鳩の杖に助けられて現れた白髪の老翁は悠然としたようすだったので、晴明は思わず頭を下げて渇仰かつごうした。

大仙人は遥かに晴明を見下ろし、悠然と涼し気な声で言った。

「おお、なんということだ。

昔、仲麻呂と交わした師弟の契りが朽ち果てずに、ここに来てくれたとは喜ばしいことよ」

晴明はかたじけなく謹んで言った。

「大仙人の金言、ありがたく存じます。

しかし、私は安倍晴明と申す日本の小童です」

「そなたが言うのももっともなことだ。

そなたはまさしくかつて我が国へ来たりし阿倍仲麻呂の後身である。

そなたの母の白狐は、かつて雍州の官人玄東の妻陸昌女という者だったが、風渡の津において吉備大臣のために自害した。

その霊魂は日本に渡りそなたを産んだが、前世の縁であろうか、そなたの父保名はまさしく阿部満月丸の子孫である。

師匠の賀茂保憲は吉備大臣の子孫である。

彼らは皆、前世の願いを託されたのだ。

金烏玉兎集には八十三箇所の秘伝があり、暦にも同じ数だけ秘伝がある。

今、これを授けよう」

伯道上人は四寸四方の箱を投げ下ろして、晴明に授けた。

晴明は箱を受け取って開けようとするが、開かない。

「ふしぎなことです。私は父の教えを以て卜占を明らかにし、母の白狐の通力を得て、その上竜宮に至って龍仙の丸を賜りました。
そのおかげで、万事において思案をめぐらせば金山鉄壁が立ちはだかろうとも通れるようになりました。
以前禁廷で術比べをしたときも、柑子を鼠に変えられる程の私がわずか四寸四方の箱の中身がわからないとは、残念なことだ」

伯道は笑った。

「千里の向こうを知りながらこの箱の中身を知ることができぬのは、そなたが竜宮で得た箱だからである。

その箱を開けば、そなたの齢は縮まり災難が降りかかる。だが、箱を開かなければ秘伝を得ることはできぬ」

「私は暦道を開くためにここまで来たのです。どうして災難を恐れることがありましょう。どうか大仙人様、箱を開いて秘伝をお授けください」

「かわいそうな晴明よ、ならば好きにしろ」

晴明が箱の上にかかれている一文字を打つと、箱が開いた。

こうして晴明は伯道仙人のもとで修行に励み、三年間花を摘み、水を汲んで、二千日茅を刈った。

伯道は晴明に降りかかる災いを取り除くために文殊菩薩の像を造って山の頂に置き、晴明が刈った茅で御堂を造った。

三年の内に伯道は晴明に秘伝を伝授し、晴明が帰朝するときに三つのことを禁ずるよう命じた。

一つ目は、酒に溺れないこと。

二つ目は、女と交わらないこと。

三つ目は、言い争いをしないこと。

もしこの三つのうち一つでも犯せば、ひと月の内に災いが訪れ、三つとも犯せば、その日の内に災いが訪れるだろう。

竜宮秘符の箱を開けたことによって、小童だった晴明はわずか三年の内に九年分の齢を得て、壮年の二十二歳となった。

晴明が帰朝するとの知らせを受けた道満は橘元方と示し合わせ、直ちに参内して暦道の伝を悉く伝えるよう勧めた。

道満と元方は、晴明を殺めようと企んでいた。

晴明は明察の者ゆえ道満は与するつもりはなかったが、元方の厚恩を蒙っていたのでやむなく加担した。

道満が播州から遥々都に上ってきたのは家名を興すためだった。

それを晴明に取られたせいで、このような陰謀があったのだろう。

晴明が災難を免れることができないのも、竜宮秘符の箱を開いたせいであろうか。

博識の智者でさえ、天命には逆らえぬのだ。

 

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