基本情報
概要
『東欄梨花』は北宋の文学家蘇軾の漢詩。
作品名 | 東欄梨花 |
作者 | 蘇軾 |
時期 | 北宋(1077) |
出典 | 東坡全集 |
形式 | 七言絶句 |
創作背景
煕寧十年(1077)、蘇軾が徐州の知事に赴任することが決まった後に、後任の密州知事孔宗翰にあてて書かれたもの。
内容
梨花淡白柳深靑 (梨花は淡白にして柳は深青なり)
柳絮飛時花滿城 (柳絮飛ぶとき花は城に満つ)
惆悵東欄一株雪 (惆悵す東欄一株の雪)
人生看得幾清明 (人生看得るは幾清明)
梨の花は淡い白で、柳は深い青色に染まっている
柳の花が飛ぶとき、梨の花が街中に満ちる
物憂げな気持ちで東の欄干から雪のように白く美しい梨花を見る
人生で、あと何回このように清明の季節を向かえ、美しく咲く梨の花を見られるだろう
作者紹介
蘇軾(1037-1101)は北宋の文学家。字は子瞻。号は東坡居士。
父の蘇洵、弟の蘇轍とともに”三蘇”と呼ばれた。
唐宋八大家の一人。
眉州眉山県(現・四川省眉山市東坡区)出身。
八歳のとき道士張士簡の塾に入り、十三歳で弟の蘇轍とともに劉巨の下で詩を学んだ。
嘉祐二年(1057)、弟の蘇轍とともに進士となる。
治平三年(1066)に父蘇洵が亡くなった後、政界から離れて帰郷したが、熙寧二年(1069)政界に復帰した。
だが、蘇軾は神宗が起用した王安石の新法に反対し、辺境へ左遷される。
朝廷を誹謗する詩文を作ったとして処刑の危機に面したこともあった。中国史上初の筆禍事件である。
幸いにも皇帝の情けによって死罪を免れ、蘇軾は黄州に流罪となる。
元豊八年(1085)の神宗没後、哲宗が即位し旧法を復すると蘇軾は中央官界に復帰し礼部尚書まで上り詰めた。
しかし、哲宗の治世の後半(1094)になって新法が復活し、蘇軾は再び左遷されることとなる。
最期は常州で病没した。