資料室 文学

『大鏡』より「太政大臣 藤原道長」

内容

競べ弓

このように世の中にとって光のような存在だった殿も、一年ばかり不遇で心中穏やかでなかった。
その様子を、お天道様はどのようにご覧になっていたのだろうか。
しかしながら、殿は少しも卑屈になったりくじけなかった。朝廷での公事や礼儀作法だけは身分相応に振る舞い、時間を間違えることなく務めたが、私生活ではまったく遠慮しなかった。

師殿(藤原伊周)が南院で人々を集めて弓遊びをした際にこの殿がお越しになったので、中にいた関白殿(道隆)は「思いがけずふしぎなことだ」と驚いて、たいそう機嫌を取って(伊周より)身分が低いにも関わらず、弓を射る順番を(伊周より)前にして、先に射させたところ、師殿の射た数は(道長よりも)二本少なかった。
中の関白殿や、御前にお仕えする人々も「あと二回、延長なさいませ」と申して延長させたので、(道長は)不愉快な気持ちになって「それならば、延長なさいませ」と言って、また矢を射ようとして「私の家から帝や皇后が出てくるなら、この矢当たれ」と言うと、同じように当たったのだが、なんと的の中心に当たったのだ。

次に師殿が射ると、ひどく気後れして手元も震えていたからだろうか、的の側にさえ近寄らず、全然見当違いの方向を射たので、関白殿は青ざめた。

再び入道殿が矢を射る番になって、「私が摂政・関白になるならば、この矢当たれ」と言うと、最初に射たときと同じように、的が破れんばかりに同じところに命中した。
関白殿が道長をもてなした興も醒めて、気まずくなってしまった。
(伊周の)父の大臣おとど(道隆)は師殿に「どうして矢を射るのだ。射るな、射るな」と制止して、すっかりしらけてしまった。

入道殿は矢を戻して、やがてその場を退出した。
当時、人々は殿を左京の大夫と呼んでいた。
殿は弓の名手で、とても好んでいた。

(殿の言っていたことが)今日実現するわけではないが、殿のご様子や発言の趣から、側にいた人々は気後れしたようだ。

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