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養和の飢饉

『方丈記』にはこの飢饉のようすが詳しく記されている。

養和の飢饉

都の枯渇

仁和寺の隆暁法印は餓死・病死した者の額に「阿」の字を書いて回ったところ、その数は42300人にものぼったという。(『方丈記』)

飢饉の極み

藤原経房は『吉記』に「最近、道路には死骸が満ち溢れている。五条河原の辺りでは子供が人肉を食べたというのだから、飢饉の極みだ」と強い衝撃を受けていた。

また、食べ物を分け与えるために夫婦では愛情深い方が先に亡くなり、親子では親が先に亡くなったという。
『方丈記』では「母の命が尽きたのも知らずに赤子が乳を吸って眠っていることもあった」と哀れなようすを綴っている。

年輪の成長幅

後に重源が周防国で東大寺仏殿再建のために伐採した材木の年輪の幅が計測された。
それによると、久寿元年(1154)~永万元年(1165)、仁安元年(1166)~安元二年(1176)、治承元年(1177)~文治二年(1186)の3つに分けられた。
それぞれの成長幅の平均をみると、0.89ミリ、1.76ミリ、1.03ミリとなっていて、年輪の成長幅が短かったという。
これにより、この時期に気候の不順があったことが裏付けられた。

食料の調達

反乱鎮圧の見送り

平氏は、鎮西の菊池隆直の謀反を鎮圧するため4月に太宰府官原田種直を少弐に任じ、隆直追討を命じた。
追討使は平宗盛だったが、実際には現地の地理に詳し平貞能が派遣された。
平氏は飢饉に陥った京都を維持するために物流の確保および軍勢を維持するための兵糧米確保を優先させ、反乱の鎮圧は先送りとなった。
さらに平氏は西国諸国に勧農使(農業の生産力を維持するとともに兵糧米の確保を目的とした使者)を派遣した。
飢饉でたくさんの餓死者を出している京都に軍勢を留めておくことはできないので、平氏は軍勢を各地に分散させた。
京都の維持と反乱鎮圧の軍勢を維持するための経費は重い負担としてのしかかり、平氏の軍事行動を著しく制約することとなった。

参考資料

  • 石井 進「日本の歴史 (7) 鎌倉幕府」中央公論新社、2004年
  • 五味 文彦「鎌倉と京 武家政権と庶民世界」講談社、2014年
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やみみん

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