対立の原因
義経の無断任官
元暦元年(1184)8月17日、源義経の使者が鎌倉に到着し、義経が後白河法皇から左衛門尉と検非違使に任じられたと報告した。
今回の任官に対して義経は「自分が希望したものではなく、後白河院が『平氏追討において義経は大きな功績を残しているのだから、何も与えないというわけにはいかない』と言ったので辞退することができなかった」と主張したが、頼朝は信じなかった。
義経が頼朝の意思に反する行動を取ったのは今回が初めてではなかったからだ。
こういった事情があったので、義経を平家追討氏に任じるのはしばらく保留になったという。(『吾妻鏡』同日条)
元暦二年(1185)4月15日、東国の御家人が頼朝の許可なく任官したことは非常にけしからぬことだと御下文を送った。(『吾妻鏡』同日条)
東国武士たちの不満
元暦二年(1185)4月21日、梶原景時が義経の不義について訴える書状が鎌倉に届いた。(『吾妻鏡』同日条)
判官殿(義経)は君(頼朝)の代官として御家人らとともに合戦に臨みました。
皆で力を合わせたからこそ勝利できたにもかかわらず、義経は合戦の勝利を自分ひとりだけの功績だと考えています。
皆も、判官殿のためではなく君のために戦ったからこそ、心をひとつにして平家を滅ぼすことができたのです。
特に、景時は判官殿のお側に降りましたので、常識はずれな行動を見たときには君のご意向に反すると諌めました。
ですが、その言葉はかえって我が身を苦しめ、罰を受けかねない状況です。
梶原景時の讒言
『平家物語』では、梶原景時の讒言によって頼朝が義経を腰越に追い返した記述がある。
今の天下は残すところなくあなたのものです。ですが、弟の判官殿が最後に敵として立ちはだかるでしょう。
その理由は、一を持って万事を知ると言って『一ノ谷を上の山から攻めなければ、東西の木戸口は突破できなかった。だから生け捕ったものも討ち取ったものも義経に見せるべきなのに、なんの役にも立たない蒲殿(源範頼)に見せるとはどういうことか。本三位中将殿(平重衡)の身柄をこちらへ寄越さないというのなら、この義経が自ら参上しよう』と言って戦の準備をはじめたのを、景時と土肥実平が協力して、三位中将殿の身柄を土肥次郎に預けたので、その場は丸く収まりました。
なお、景時と義経の対立は『平家物語』で屋島の戦いに突入する前に海上での戦い方をめぐって争った記載がある。
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範頼は何かに付けて千葉常胤や和田義盛に相談しながら任務を遂行していたが、義経は誰にも相談せず独断で行っていたので、周囲の人々からは嫌われていたという。(『吾妻鏡』元暦二年〈1185〉4月21日条)