平安時代

頼朝の挙兵

治承四年(1180)4月27日、源行家が伊豆国の北条館に到着し、頼朝に以仁王の令旨を渡した。

頼朝が永暦元年3月11日に伊豆国へ配流されてから、すでに20年の歳月が過ぎていた……。
しかし、好き勝手に振る舞う平清盛に対して上皇が怒り心頭であったときにこの令旨が到来したので、平氏討滅のために挙兵しようと考えたのであった。

源氏追討令

三善康信の使者が頼朝に源氏追討令を報告

三善康信の母は頼朝の乳母の妹であるため、その縁によって10日に一度、毎月3回使者を頼朝のもとに送って京の様子を報告していた。
そこへ今回の源氏追討令が出されるという重大な事が起こったので、弟の康清と相談して仮病を使い朝廷への出仕を休ませ、使者として遣わしたのであった。
6月19日、康信の使者が北条館に到着し、源頼政の挙兵が失敗に終わったことと以仁王の令旨に従った源氏への追討令が出されていることを報告した。(『吾妻鏡』治承四年〈1180〉6月19日条)

先月26日に高倉宮(以仁王)が討死された後、令旨に応じた源氏はすべて追討せよとの命令が出されています。
源氏の正統な血筋であるあなた様は、特にご注意ください。早く奥州の方にお逃げください。

この知らせを単なる噂として聞き流すわけにはいかないと考えた頼朝は、逆に平氏を追討しようと計略を巡らせ、源氏累代の御家人たちを呼び寄せることにした。
安達盛長を使者として遣わし、中原光家を副えた。(『吾妻鏡』治承四年〈1180〉6月24日条)

一般的に頼朝は以仁王の令旨に呼応して挙兵したと説明されることが多いが、頼朝のもとに令旨が届いたのは4月27日のことで、実際に挙兵したのは8月17日のため、挙兵は令旨に応じたものではなく源氏追討令を受けてものという説もある。

伊豆国は平氏の監視が最も厳しかった

伊豆国は仁安二年(1167)から源頼政の嫡子仲綱が国守を務め、承安二年(1172)からは頼政が知行国主となっていた。
さらに頼政・仲綱父子が宇治川の戦いで討死した当時は仲綱の子息有綱が目代として伊豆国に在国していたこともあり、頼政の挙兵後は平氏による監視の目が最も強く向けられていた。

頼政父子が討死した後は平時忠が伊豆国知行国主に、時忠の猶子時兼が伊豆守に任じられた。
だが、平清盛は有綱を打ち取るために追討使派遣という形式を取らず、在京していた平氏家人で相模国の大庭景親をすぐに向かわせた。
もっとも、景親らが伊豆国に到着したときには、すでに有綱は奥州に逃げた後であった。

御家人が続々と集まる

治承四年(1180)6月27日、三浦義明の二男三浦義澄と千葉常胤の六男千葉胤頼が北条館に参上した。
この二人は大番役のため在京していた。

また、同年7月23日、住吉昌長長江頼隆も参上した。

反発する御家人

多くの御家人が頼朝の召集に応じたが、波多野義常や山内首藤経俊らは呼びかけに応じないばかりか、悪口さえ言ったという。(『吾妻鏡』治承四年〈1180〉7月10日条)

なお、義常の父義通は平治の乱の前年に父義朝と決別し、さる保元三年春頃に突然京都を去り、波多野郷に移り住んでいたという。(『吾妻鏡』治承四年〈1180〉10月17日条)

頼朝、仏に自分の願いを表明

治承四年(1180)7月5日、前日に呼び寄せた走湯山(伊豆山神社)の僧侶である文陽房覚淵が北条館に参上した。
頼朝は覚淵に、仏に自分の意思を表明してもいいか尋ねた。

私は心に思うところがあって、法華経の読経一千部を終えた後に自分の真意を表明しようと以前から願っていたが、事態が急変したので、これ以上先に延ばすことができそうにない。
そこで、転読した八百部を以て仏に申し上げようと思うが、どうだろうか。

覚淵は、一千部に達していないとはいえ願いを申し上げること自体は仏の意思に背くものではないといった。

頼朝は仏前に香華を供え、仏に願いを表明した。

私は、恐れ多いことに八幡大菩薩の氏人で、法華経八軸を護持するものです。八幡太郎の遺跡を継承し、昔同様関東八ヶ国の武士を従えております。八逆を行う凶悪な八条入道相国の一族を退治することは、掌の内にあります。これはすべてこの法華経八百部を読誦したことの加護によるものです。

その夜、覚淵は館を出た。「世の中が静まったら、蛭ヶ島を今日の布施として与えよう」と言ったので、覚淵はたいそう喜んで出発したという。

平氏方の反応

大庭景親が挙兵に備える

平氏の有力家人で相模国の武士である大庭景親は近江国の住人佐々木秀義を招き、北条時政と比企掃部允ひきかもんのじょうが源頼朝を大将軍として叛逆しようとしているので、挙兵の準備をしておくよう伝えた。(『吾妻鏡』治承四年〈1180〉8月9日条)

朝廷の反応

九条兼実の場合

謀反の賊源義朝の子はかねてより伊豆国へ配流となっていた。
だが近頃、凶悪を為し(中略)およそ伊豆・駿河両国を押領した。
かの義朝の子は謀反の大略を企てているのか。まるで平将門のようだ。

『玉葉』治承四年九月三日条

これはおおむね当時の貴族の頼朝挙兵に対する認識を代表すると言ってもいいもので、頼朝の名前すらきちんと記されていない。
このときはあくまで平治の乱の謀反人の子が、関東で再び反乱行動に出たものとして語られているにすぎない。

中山忠親の場合

権中納言中山忠親の日記『山槐記』では、前述の兼実の日記とは対照的に源頼朝の名と以前の官途まで記した上で、その行動を「義兵」と評している。

ある者が言うには、故源義朝の子兵衛佐頼朝が義兵を起こすのだという。
伊豆国を慮掠したので、坂東は大騒ぎになった。

『山槐記』治承四年九月四日条

参考資料

  • 川合 康「源平の内乱と公武政権 (日本中世の歴史) 」吉川弘文館、2009年
  • 元木 泰雄「治承・寿永の内乱と平氏 (敗者の日本史) 」吉川弘文館、2013年
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やみみん

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