鎌倉時代

頼朝の上洛

頼朝の上洛

上洛の準備

頼朝が乗る馬を準備する

『吾妻鏡』建久元年(1190)10月3日条で、頼朝は八田知家に上洛の際の先陣・後陣と馬について聞いた。
知家は先陣は頼朝が決めた畠山重忠が務め、後陣には千葉常胤がふさわしいと進言したので、そのようになった。

六波羅新邸に入る

建久元年(1190)11月7日、奥州合戦の後処理を終えた頼朝はついに上洛を果たした。
申の刻、黒糸威くろいとおどしの鎧を着た畠山重忠が家子1人、郎等10人を従え、次いで張替えの弓を持った従者と小舎人童を連れた御家人が三騎一列に並び、総勢180騎が京都に入った。
その後ろを引馬・小具足持・弓袋差・甲着が続き、さらにその後ろを折烏帽子に青丹色の水干袴、紅衣を着た頼朝が黒馬に乗って歩いた。
次いで八田知家ら10騎、後陣の御家人が三騎一列で138騎進み、後陣は勘解由判官、郎等数十騎を従えた梶原景時、最後尾は千葉常胤が子息・親類を従えていた。
賀茂川の河原には牛車の行列ができ、後白河もお忍びで見物しに行った。

弓矢も帯びず、甲冑も着ないで白昼堂々と馬に乗って京に入った頼朝は、六波羅に新造された邸へと向かった。

後白河と会談

9日、頼朝は後白河の御所六条殿に参上した。
『吾妻鏡』によると、会談は日が暮れるまで行われたという。

六条殿を退出した頼朝は参内し、昼御座ひるおましで後鳥羽天皇に拝謁した。
『玉葉』建久元年(1190)11月9日条によると、頼朝は後鳥羽天皇に拝謁した後、鬼間で九条兼実に会っている。

権大納言・右大将の辞任

9日の夜、頼朝が六波羅に戻ると吉田経房を奉者とする院宣が届いた。
そこには、「これまで頼朝は謙遜して褒賞を辞退していたが、すでに上洛したのだから臨時除目を行い11月9日付で権大納言に任じた。今回は辞退しないように」と記されていた。

さらに、24日の臨時除目では武官の最高職の一つである右近衛大将に任じられた。

当時、正二位・権大納言だったのは藤原実宗・隆忠・良経・頼実の4人である。このうち良経は兄良通の急死に伴い摂政である兼実の嫡子になっていた。頼朝は摂関家の嫡子と肩を並べるほどの地位に上り詰めたのである。

しかし12月4日、頼朝は両職とも辞退した。
権大納言と右近衛大将は在京して政務や儀式を務める中央官職であり、鎌倉を本拠地とする頼朝は京都に留まることができなかったからである。
また、この官職によって得るものはなく、むしろ朝廷警護の責任者という名目だけで煩わしくなるだけだし、”前右大将”というだけで配下の武士たちへの権威付けは済む。
なお、この権威をもとに建久二年(1191)頼朝は政所を開設し、武士たちに与える文書を御判下文から政所下文へ切り替えた。

拝賀の儀が行われる

後白河は頼朝へ飾り付けをした牛車や高級な装束を授けた。

後白河崩御!征夷大将軍へ

疑われた兼実

建久二年(1191)7月、九条兼実の家司であった光長・頼輔らが、後白河が摂関家領を兼実に渡さず藤原基通のものとしたことに憤慨して後白河を呪詛し、武士を集めて謀反を企てたり後白河の失点を鎌倉に通報していると記した落書が院中で発見されたという事件があった。

だが、この事件からまもなく後白河は病に倒れ、建久三年(1192)3月13日六条殿で没した。
後白河は保元の乱で亡ぼした崇徳上皇や西海で入水した安徳天皇の怨霊に怯え、病気平癒の祈祷に十列の東遊を日吉社に奉献していた。
後白河の近臣は彼の死が近いことを察して、源通親や後白河の寵姫丹後局らを中心に競って新たに荘園を設立していた。
だが、兼実は頼朝の支持を頼りに荘園群の廃止を断行し、近臣勢力に打撃を与えた。

征夷大将軍を辞退した理由

建久三年(1192)7月26日、頼朝を征夷大将軍に任命する除書を携えた使者二人が鎌倉に到着した。
使者は鶴岡八幡宮の庭に並んで立ち、除書を進上する旨を頼朝に申し上げた。
だが、念願の征夷大将軍の地位を手に下にも関わらず、東大寺大仏殿の再建供養で上洛した際に辞退してしまう。

『吾妻鏡』建久三年(1192)7月26日条で頼朝は元より征夷大将軍を望んでいたが、後白河没後の朝廷における政務を始める際に審議が行われ任命されたのだという。
ところが、『山槐記』建久三年(1192)7月9日条によると「前右大将頼朝は前大将の号を改め、大将軍に仰せられるべきとの旨を申す」とあることから、頼朝が真に望んでいたのは征夷大将軍ではなく、東国で大きな権威を発揮してきた鎮守府将軍よりも大きな権威をもつ大将軍の地位を望んでいたことが明らかになった。

朝廷は「大将軍」の前に付ける名前を「征東」「征夷」「惣官」「上」の4つに絞って協議した。
『山槐記』同年7月12日条によると、「征東」は木曽義仲、「惣官」は平宗盛に付けられていたが、いずれも滅亡したことから却下された。
「上将軍」は先例がないため、坂上田村麻呂の吉例がある「征夷」が残った。
こうして頼朝には『征夷大将軍』の称号が与えられることとなったのである。

征夷大将軍の意義

頼朝にとって征夷大将軍の利用価値は、後白河の干渉を廃して東国の自立した支配権を保持することにあったとすれば、すでに東国の支配が完成され後白河が没したこの時点では、特別固執する理由もなくなっていた。

参考資料

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  • 坂井 孝一「源氏将軍断絶 なぜ頼朝の血は三代で途絶えたか」PHP研究所、2020年
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やみみん

FGOの考察ブログです。 妄想9割、真面目な考察が1割なので基本当たりません。 Twitter→ @yamimiin

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