鎌倉時代

頼朝と義経の対立

対立の予兆

馬引の役目

養和元年(1181)7月20日、鶴岡若宮の上棟の儀式で義経は職人たちに与える馬を引くことを卑しい役目として拒否した。
だが、頼朝はこれを許さず他の御家人同様義経に馬を引かせた。

平氏を滅ぼし、戦いは終わりを告げたかのように見えたが、平氏追討で大きな功績を上げた源義経は独断専行や無断任官によって頼朝の怒りを買い、鎌倉に入れられず京都に追い返されたのである。

義経の無断任官

8月17日、京都からの使者が鎌倉に到着し、8月6日義経が左衛門少尉に任官され、検非違使尉を兼務したという知らせが届いた。
これには、後白河の勧めを断れなかったという義経の弁明付きであった。

だが、頼朝は後白河が人事権を駆使して京都に派遣した源氏軍を取り込み、幕府をかき乱すことをことを最も懸念していた。

存在しなかった腰越状

鎌倉入りを許されなかった義経は自身の心情を訴える書状を大江広元を介して頼朝に渡したといわれ、所謂”腰越状”の写しが流布したが、これは後世の創作である。
史実としては、義経はこの当時鎌倉入りを果たしており、頼朝との対立もまだ決定的ではなかった。

義経を伊予守に任命

8月16日の除目にて、頼朝の知行する六カ国の受領に源氏の諸将が任ぜられるが、頼朝は義経を伊予守に推挙している。
ただ、平家追討において顕著な功績があったはずの義経を特に厚遇しているようにも見えないので、それが義経には不満だったのかもしれない。

後白河による源氏一族の内部対立の利用

意図的に義経を寵愛した後白河

後白河は頼朝が朝廷の権益を侵すほど強大化するのを防ぐため、意識的に義経を寵愛した形跡がある。

叔父・源行家の離反

伊予守補任除目の後、頼朝は梶原景季を上洛させて義経に行家誅殺を命じた。
これは義経の出方を試すものであったが、案の定義経は仮病を装って行家誅殺を引き伸ばした。

頼朝は義経と行家が手を結んでいると判断し、義経誅殺のために土佐坊昌俊を上洛させた。

頼朝追討の宣旨が出される

10月、頼朝・義経の叔父にあたる源行家が頼朝から離反する動きを示した。
頼朝が派遣した土佐坊昌俊らが京都の義経亭を襲撃したが、義経の手勢と駆けつけた行家らに敗れ、頼朝と義経・行家の決裂は決定的なものになった。
当初、義経は行家を引き止めたが、それがかなわないと行家に同心して頼朝と敵対し、頼朝追討の宣旨を朝廷に要求した。
しかし、頼朝方から義経に先制攻撃を仕掛けてきたことによって義経の申請を断りきれなくなった。

17日朝、後白河法皇の使者として高階泰経が九条兼実を訪ね、義経の要求を受け入れて頼朝追討の宣旨を発布してはどうかと相談してきた。
兼実はこう答えた。

九条兼実

頼朝に罪があれば宣旨を下すことには問題ないが、罪もないのに追討すべきだと申し上げることはできない。
平家の時と義仲の時の二度、深く考えずに頼朝追討の宣旨が出されることがあったが、当面の難を逃れるためにその例に倣うというのであれば、聖断により判断されるべきで、臣下として決められることではない。

高階泰経

頼朝に過怠がなく、追討の対象とすべきではないことはわかっている。
しかし義経は、宣旨が得られなければ天皇と法皇以下を連れて鎮西に落ちると計画している。
もはや宣旨を出すしかないというのが内々のご意向であり、それをご了解いただきたいのだ。
おっしゃることは追討を猶予するということで、頼朝を贔屓しているように見える。
頼朝は貴殿を引き立てようとしているが、
貴殿もまたそれに応えて追討を止めようとしているというような疑いを招くのは不都合であろう。
頼朝は平家と義仲の二度の宣旨を恨んではいないのだから、今度も同じことだろう。
宣旨の発布について、はっきり同意してほしい。

九条兼実

頼朝は義経に私刑を加えようとしているようだが、義経に疑いがないのであれば、その身を召し下して行うべきである。
義経の身を京都に置きながら武士を差し上して誅するというのは、朝廷の綱紀を忘れた狼藉にほかならない。
適切な処置を行うべきだと頼朝に命じ、頼朝がその勅命に従わなければ違勅の罪で追討の宣旨を下せばよい。
このように、罪科を定めずに宣旨を下すのは後悔を招くことになる。

兼実の説得も空しく、頼朝追討の宣旨が下された。
だが、義経・行家に加担する勢力は少なく、むしろ彼らを討ち取って功績を上げようとする者もいた。

頼朝の朝廷改革

高階泰経、流罪へ

追討宣旨を出した直後に高階泰経の使者が鎌倉に到着し、義経・行家の叛逆は「天魔の所為」であり、宣旨を出さなければ宮中で自害すると脅したので、難を逃れるために渋々勅許を与えたが、決して後白河の本心から出たものではないと釈明したが、頼朝はこの釈明を受け入れなかった。

12月6日に頼朝が兼実に送った書状には、行家・義経に同意したとみなされる廷臣の解官が指示され、頼朝追討宣旨に職務上関与した蔵人頭・左大史の更迭も指示されている。
泰経の甘い見通しに反して、頼朝は追討宣旨を蒙ったことに非常に怒っていた。
結局、泰経は解官の上流罪に処せられた。

九条兼実を摂政関白へ

さらに、頼朝は九条兼実・徳大寺実定らの議奏公卿を置き、兼実を摂関とするよう後白河に申請した。

義経、奥州へ下る

奥州藤原氏に匿われる

『吾妻鏡』文治三年(1187)2月10日条では、源義経は藤原秀衡を頼るために山伏の姿に変装して奥州へ向かったと記されている。
奥州の藤原秀衡は嘉応二年鎮守府将軍の位に付き、頼朝に軍事的に敵対しうる勢力を持つ唯一の存在だった。
その勢力は、治承五年8月、源氏の背後を東国から突くことを期待して平氏が陸奥守に任じるほどであった。

3月には朝廷で義経の処遇についての審議が行われ、8月には院庁下文が陸奥国へ下された。
このとき同行した頼朝の雑色は9月4日に鎌倉へ戻り、「秀衡は異心はないと弁明しているが、すでに叛逆の準備をしているようだ」ということだったので、朝廷に奥州の情勢を知らせるために今度はその雑色を京都に派遣した。

『玉葉』では文治元年(1185)10月の時点で義経と秀衡の連携が噂されている。

『玉葉』との相違

しかし、『玉葉』に義経が奥州に潜伏していることが初めて記されたのは文治四年(1188)1月9日条である。
このとき、「ある人」から初めて聞いた情報として「去年の9月から10月の頃、義経は奥州にいた。秀衡はこれを匿っていたらしい」と記していたことを踏まえると、文治三年の時点では兼実は義経の奥州逃亡をまったく知らなかったことになる。

一方、『吾妻鏡』文治三年(1187)4月4日条でも義経の所在がわからなかったことが記されている。

源義経の居場所がまだわからない。
「今となってはもう、人の力では及びません。ぜひとも神仏に祈られるべきです」と人々が意見を申したので、鶴岡八幡宮をはじめとする神社やお寺で数日間祈祷が行われた。
すると、円暁えんぎょうが夢の中で「上野国の金剛寺で義経に遭遇するだろう」というお告げを受けた。
そのことを申したところ、頼朝は安達盛長に「この寺の僧侶たちに、各々心を込めて祈祷をするよう伝えよ」と命じたという。

『吾妻鏡』の文治三年条にこのような辻褄の合わない記事が混在していたのは、『吾妻鏡』が編纂されたときに義経に関わる確証のない史料が混入したからではないかと考えられている。

義経が奥州に潜伏しているという確実な情報が伝わったのは、文治四年(1188)2月8日である。
『玉葉』文治四年(1188)2月8日に、出羽国知行国主藤原兼房が派遣していた法師昌尊の申状が九条兼実のもとに届けられている。
その後、朝廷は義経追討の宣旨発布に向けて動き出した。

秀衡による砂金三万両の要求

頼朝は秀衡に「秀衡は『奥六郡の主』、自分は『東海道の惣官』だからもっと親交を深めるべきなのだが、距離が遠くて思うようにいかない。だが、貢馬・貢金などは自分が管領すべきだから京都へ伝送しよう」と申し送りをした。
そして文治二年(1186)4月、「馬と金を鎌倉に送るので京都へ伝送してほしい」という秀衡の書状が届き、5月には馬三疋と長持三棹が送られてきたので、頼朝はこれを京都へ伝送した。

文治三年(1187)、頼朝は後白河に申請して使者を奥州に派遣させ、東大寺大仏のメッキ用の砂金三万両を秀衡に出させようとした。
だが、秀衡は「三万両は前例から見ても多すぎる。しかも近年は大勢の商人が奥州にやって来て砂金を売買するので、大方掘り尽くしてしまっているので調達が難しい」という素っ気ない返事であった。
9月に頼朝は別の使者を派遣して、秀衡から金を引き上げるよう朝廷に要請している。

秀衡滅亡〜義経追討へ

しかし、秀衡は文治三年(1187)10月29日に没した。
秀衡は息子の泰衡とその異母兄藤原国衡に義経に仕え、三人で協力して国務に当たるようにとの遺言を残していた。
頼朝はこの時を待っていたかのように、奥州藤原氏に対する友好的な姿勢を捨て、朝廷に対しても改めて強硬姿勢に転じた。

頼朝は亡き母の供養のための五重塔建立と厄年による一年間の殺生禁止があったので、追討使に補任されても辞退する意向を示した。
代わりに、泰衡に義経の身柄を渡すよう提案した。

文治四年(1188)2月、義経が奥州にいることが確実となったとほぼ同時期に、頼朝は廷臣らの地頭不法禁止の要求を私的な要請であるとして拒絶した。
2月21日、朝廷は頼朝の申請を受けて泰衡と前陸奥守藤原基成に義経の身柄を拘束して引き渡すよう命じる宣旨を発布し、26日にはその内容を記した院庁下文も下された。
泰衡はこれに応じなかったので、10月12日に再び宣旨を出して早急に義経を捕縛するよう命じ、11月には院庁下文も下された。
しかし、結局何の進展もないまま年が

文治四年中に頼朝が軍事行動を取らなかったことは、頼朝と義経・奥州藤原氏との間に軍事的緊張はなかったことを示している。

2月9日、頼朝は南九州の島津忠久へ島津荘官のうち武術に長けたものを奥州に動員するよう命じた。

下す 嶋津庄地頭忠久

早く庄官を召し進らしむべき事
右、件の庄官の中、武器に足るの輩は、兵杖を帯び、来たる七月十日以前に、関東に参着すべきなり。
且つ見参に入らんがため、各忠節を存ずべきの状件の如し。

文治五年二月九日

(文治五年二月九日「源頼朝下文」〈島津家文書、『鎌倉遣文』〉)

このことから、朝廷に申請する以前の2月9日時点で頼朝は諸国の有力御家人に軍勢を促している。
それは南九州の島津忠久にまで及ぶ全国規模の動員であり、奥州征伐を七月中旬に計画していたようだ。

朝廷が要請を出しても泰衡はいっこうに応じなかったのを見て、文治五年(1189)2月22日頼朝は使者を朝廷に派遣し、義経と親密だった前刑部卿藤原頼経の配流と権大納言藤原朝方らの解任を要求した。

頼朝の事書
  1. 藤原泰衡が義経を匿った上、叛逆に与したことは疑う余地もありません。朝廷の許可を得て泰衡を誅伐したいと思っております。
  2. 藤原朝方・藤原宗長・藤原朝経・出雲兵衛尉政綱・前兵衛尉為孝らは義経に味方した罪によって現在の官職を解かれるべきです。
  3. 義経に味方している延暦寺の僧たちに兵具の準備を禁止するよう禁止するとのことでしたが、まだ武装した連中が山中に多いという噂があります。
  4. 平家の流人を都に召還されることについては、平時実・平信基には召還されるとの勅定があるべきです。
  5. 私が崇敬している六条若宮は祭礼のときに騒動が起こるでしょう。このことは特に恐縮です。


ここで頼朝は一年間の殺生禁止の拘束を解き、義経ならびに泰衡の追討を宣言した。
2月25日、泰衡の形勢を探るために雑色を奥州に派遣している。また、文治五年(1189)3月、泰衡から義経捕縛の要請に応じる旨の書状が鎌倉に届くが、頼朝はこれを信用せず朝廷に泰衡追討の許可を要請した。
朝廷は改めて泰衡に宣旨を遣わすか、頼朝が泰衡追討に向かうとすればいつのことかと鎌倉に問い合わせた。
これに対し頼朝は、泰衡の追討を待たずに追討すべきであり、6月上旬に鶴岡八幡宮で行う亡母の塔供養の後に出発するとの返事を送った。

泰衡が義経を討ち取る

泰衡はついに頼朝からの圧力に耐えかねて、閏4月末衣川館にいる義経を襲撃し、6月には泰衡の使者が美酒に浸した義経の首を鎌倉に持参し、頼朝の首実検に供えた。

朝廷の反応

義経が追討された報せを受けた後白河は大いに喜び、九条兼実も「天下の喜び、これに勝るものがあろうか」と『玉葉』に記している。

参考資料

  • 上杉 和彦「源頼朝と鎌倉幕府」新日本出版社、2003年
  • 山本 幸司「頼朝の天下草創 日本の歴史09」講談社、2009年
  • 川合 康「源平の内乱と公武政権 (日本中世の歴史) 」吉川弘文館、2009年
  • 川合 康「源平合戦の虚像を剥ぐ 治承・寿永内乱史研究」講談社、2010年
  • 近藤 成一 「鎌倉幕府と朝廷」岩波書店、2016年
  • この記事を書いた人

やみみん

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