治承・寿永の乱
頼朝の挙兵
謀反の賊源義朝の子はかねてより伊豆国へ配流となっていた。
『玉葉』治承四年九月三日条
だが近頃、凶悪を為し(中略)およそ伊豆・駿河両国を押領した。
かの義朝の子は謀反の大略を企てているのか。まるで平将門のようだ。
これはおおむね当時の貴族の頼朝挙兵に対する認識を代表すると言ってもいいものである。
朝廷の貴族たちにとって頼朝は「謀反の賊源義朝の子」でしかなく、名前すら覚えられていなかった。
このときはあくまで平治の乱の謀反人の子が、関東で再び反乱行動に出たものとして語られているにすぎない。
兼実が頼朝の挙兵から平将門の蜂起を連想したのは、承平・天慶の乱が平安末期の貴族たちの間でいまだに東国における忌まわしい出来事として記憶されていたことを示している。
また、頼朝が押領した国として伊豆国と頼朝の行先とは正反対である駿河国が挙げられているのは、甲斐源氏による駿河国での戦いの知らせが多少混乱して伝えられたものだと考えられている。
頼朝の名前が認識される
治承四年(1180)9月4日、頼朝が伊豆国府を占領したという知らせが福原に届いた。
翌日、朝廷は伊豆国流人源頼朝とそれに従う者の追討宣旨を発給した。
頼朝、兼実に接触し後白河へ密奏する
8月、頼朝は兼実を通じて後白河へ秘密裏に上奏し、早くも朝廷との政治交渉に乗り出した。
頼朝、飢饉に苦しむ貴族をサポートする
挙兵当時は頼朝の名前すら知らず「謀反の賊」「凶賊」と呼んでいた兼実も、「頼朝の体たらく、威勢厳粛、其の性強烈、成敗分明、理非断決」と賞賛している。
頼朝の上洛
頼朝上洛時に会談
『玉葉』建久元年(1190)11月9日条によると、頼朝は後白河との会談を終えて後鳥羽天皇に拝謁した後、鬼間で兼実に会った。
このとき、頼朝は「八幡神のご託宣によって自分は天皇に従い、百代に至るまでお守りするつもりだ」と述べたという。
さらに、頼朝は「今は(後白河)法皇が政治を執り行っているので、まず法皇に従う。天子(後鳥羽)は皇太子のようだが、法皇が崩御なさった後は天皇に従うつもりでいる。今も粗末に扱っているわけではない」と後白河に従いつつも後鳥羽天皇を尊重していると主張した。
また、頼朝は院政を執り行う後白河に遠慮しながらも後鳥羽天皇による親政を期待しているとも語った。
会談の最後に、頼朝は「私はすでに朝廷の大将軍である」と述べたという。
頼朝は「ただ一人の武家の棟梁」であり、「ただ一人の官軍」となってその軍事力を全国に及ぼす正当性を得たのである。
頼朝と兼実の仲違い
征夷大将軍の辞退
建久五年(1194)10月、源頼朝は征夷大将軍を辞退した。
朝廷は頼朝の辞退を受け入れず、11月には再提出、12月にはこれを返却している。
この期間はちょうど頼朝が大姫を入内させるために源通親へ手紙を送った時期と一致している。
だが、兼実の娘任子もまた頼朝上洛前の建久元年(1190)4月26日に後鳥羽の中宮となっていた。
この大姫入内問題がきっかけで、頼朝と兼実の仲は悪化した。
九条家の没落
建久七年(1196)11月、九条兼実は関白を罷免され、中宮任子は宮中から追い出され、弟慈円も天台座主の地を奪われ、九条家は没落していった。
だが、源通親はこれだけでは飽き足らず、兼実すらも配流しようと企んだ。
頼朝は承知の上だった
頼朝は通親の計画を事前に知っていたようで、洛中では「罷免後の兼実邸に出入りする者には頼朝からのお咎めがある」とすら噂されていた。
参考資料
- 上杉 和彦「源頼朝と鎌倉幕府」新日本出版社、2003年
- 永井晋「平氏が語る源平争乱 歴史文化ライブラリー」吉川弘文館、2019年
- 坂井 孝一「源氏将軍断絶 なぜ頼朝の血は三代で途絶えたか」PHP研究所、2020年
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