陰陽道 平安時代

【年表】陰陽師たちの活動記録(淳和天皇~宇多天皇時代)

年表

天長三年(826)

9月6日 安倍真勝 卒去

天長三年(826)9月6日庚午、伊予守従四位上安倍朝臣真勝が卒去した。延暦年間に従五位下に叙され、陰陽頭に任じられた。卒時七十三。(『日本後紀』)

9月20日 陰陽寮に土地が充てられる

天長三年(826)9月20日甲申、河内国若江・渋河両群地二十町を陰陽寮に充てた。(『類聚国史』)

天長八年(831)

2月2日 陰陽寮が怪異の御卜を行う

天長八年(831)2月2日辛未、卜徒及び陰陽寮を内裡に召し、殿庭班位下で卜筮を行った。物の怪のためである。(『類聚国史』)

承和九年(842)

6月5日 陰陽寮が怪異について占う

承和九年(842)6月5日戊辰、仁明天皇は次のように勅した。
「まず陰陽寮に物の怪について占わせたところ、疫気があると奏上してきた。使者を伊勢大神宮へ遣わして奉幣し、災いを祓うための祈祷をさせるように」。(『続日本後紀』)

承和十年(843)

5月3日 陰陽寮が天変に謝す

承和十年(843)5月1日己丑、太陽に光がなく、終日回復しなかった。雲でもなく霧でもない黒い気が天に広がった。午後になって時々太陽が見えたが、日光の色は黄みのかかった赤色であった。(『続日本後紀』)

同年5月3日辛卯、陰陽寮は神祇官とともに先日の天変を謝した。この日の午の刻、太陽が明るくはっきりと見えるようになった。(『続日本後紀』)

承和十四年(847)

1月12日 陰陽頭を故のままとする

承和十四年(847)1月12日己酉、従五位下藤原朝臣並藤を兼加賀守に任じ、陰陽頭は故とした。(『続日本後紀』)

承和十五年(848)

6月10日 陰陽寮が今秋の雨について奏上する

承和十五年(848)6月10日丁酉、仁明天皇は次のように勅した。
「陰陽寮が申して言ったことには、今年の秋は雨による被害があるという。もし予防しなければ、年穀が損害を受けるだろう。五畿七道の諸国に命じて明神に奉幣し、雨の被害を防ぐように」。(『続日本後紀』)

嘉祥二年(849)

2月25日 陰陽寮が疫病と洪水について奏上する

嘉祥二年(849)2月25日庚戌、陰陽寮が言上したことには「今年は疫病が流行するおそれがあり、また四、五月には洪水があります」という。仁明天皇は次のように勅した。
「年来、疫病に感染した人は往々にして早死している。それを防ぐためには神仏の威光が頼りであり、その救済は仏教の力に期する。五畿七道の諸国に命じて名神に奉幣し、併せて国分二寺及び定額寺において七日間に渡り、昼は経を転読し、夜は観音を拝むように。法のように修行すれば、必ずや感応があるだろう」。(『続日本後紀』)

嘉祥三年(850)

6月28日 陰陽師一人を出羽国の国境に配置することを許可する

嘉祥三年(850)6月28日甲戌、出羽国が奏上して言ったことには「国境が夷の集落に接しており、兵乱になるでしょう。兵乱の疑いがあるときは必ず占うので、史生一人を省き陰陽師を一人配置させていただきたい」という。これを許した。(『日本文徳天皇実録』)

仁寿三年(853)

5月13日 藤原並藤 卒去

仁寿三年(853)5月13日壬寅、従五位上藤原朝臣並藤を正五位下に加階した。同日、並藤が卒去した。並藤は、参議従三位刑部卿大宰員外帥勲四等濱成の曾孫であり、中判事正六位上臣継の孫で、豊前介正六位上石雄の子である。並藤は陰陽推歩の学に善く、天文風星に明るかった。初めて丹波権掾になり、天長二年には陰陽助に留まった。六年正月には従五位下に叙された。七年には筑後守になった。九年二月に陰陽頭になった。承和四年に和泉守になった。七年正月に陰陽頭に還復した。十四年正月には加賀守を兼任した。嘉祥三年正月に従五位上に叙された。今日、正五位下に加階された。その才は年衰えても優れていた。時年六十二。(『日本文徳天皇実録』)

7月21日 藤原三藤が陰陽頭に任じられる

仁寿三年(853)7月21日庚戌、藤原朝臣三藤が陰陽頭になった。(『日本文徳天皇実録』)

12月8日 陰陽寮が害気を鎮めることについて奏言する

仁寿三年(853)12月8日甲子、陰陽寮が奏上して言ったことには「諸国郡及び国分二寺において、陰陽書法に基づき毎年の害気を鎮めましょう」と天皇に申し上げ、承認された。(『日本文徳天皇実録』)

斉衡元年(854)

9月5日 刀岐直川人らが滋岳朝臣姓を賜る

斉衡元年(854)9月5日丁亥、陰陽権允兼陰陽博士正六位上刀岐直川人、上総少目従六位上刀岐直雄貞等が滋岳朝臣姓を賜った。(『日本文徳天皇実録』)

11月2日 藤原三藤が紀伊介に任じられる

斉衡元年(854)11月2日癸未、従五位下藤原朝臣三藤が紀伊介になった。陰陽頭は元のとおりであった。(『日本文徳天皇実録』)

斉衡三年(856)

3月11日 藤原三藤が土佐権守に任じられる

斉衡三年(856)3月11日甲寅、藤原朝臣三藤が土佐権守になった。陰陽頭は元のとおりであった。(『日本文徳天皇実録』)

天安元年(857)

10月24日 陰陽寮の漏刻が鳴動する

天安元年(857)10月24日戊子、陰陽寮が持っていった漏刻の鼓が自ら三度鳴動した。(『日本文徳天皇実録』)

12月9日 滋岳川人が陰陽権助に、笠名高が権陰陽博士に任じられる

天安元年(857)12月9日壬申、外従五位下陰陽博士滋岳朝臣川人が陰陽権助を兼任した。笠朝臣名高が権陰陽博士を兼任した。(『日本文徳天皇実録』)

天安二年(858)

1月5日 陰陽寮の漏刻の鼓が鳴動する

天安二年(858)1月5日戊戌、陰陽寮の漏刻の鼓が撃っていないのに自ら鳴動した。(『日本文徳天皇実録』)

5月3日 陰陽寮が漏水を始めて置く

天安二年(858)5月3日癸亥、陰陽寮が漏刻博士等を率いて、侍従殿において始めて漏水を置いた。糺院の外、漏刻の誤りがあった。ただし、金鼓はなかった。(『日本文徳天皇実録』)

8月29日 天文密奏

天安二年(858)8月29日丁巳、陰陽寮が奏上して言ったことには「夜、ある星が紫微宮に入っていきました。炎火のように赤い色をしていました。長さは十余丈程でした。およそ天文の風雲、気色に異変があるでしょう」という。陰陽頭及び天文博士が密夫して奏聞した。修国史局が陰陽寮を召した。(『日本三代実録』)

9月2日 滋岳川人らが山陵の地を定める

天安二年(858)9月2日庚申、外従五位下行陰陽権助兼陰陽博士滋岳朝臣川人、外従五位下行陰陽助兼権博士笠朝臣名高らが山城国葛野郡田邑郷真原岡に至り、山陵の地を定めた。(『日本三代実録』)

10月8日 陰陽寮の漏刻の器が鳴動する

天安二年(858)10月8日乙未、夜、陰陽寮の漏刻盛水銅器が自ら一度鳴動した。(『日本三代実録』)

10月23日 笠名高が真原山陵を鎮謝する

天安二年(858)10月23日庚戌、外従五位下行陰陽助兼陰陽権博士笠朝臣名高を遣わし、真原山陵を鎮謝した。(『日本三代実録』)

11月1日 御暦奏

天安二年(858)11月1日戊午、陰陽寮が明年の暦を進上した。内侍所に託して奏上した。(『日本三代実録』)

貞観元年(859)

8月3日 滋岳川人が祭礼を行う

貞観元年(859)8月3日丙戌、外従五位下陰陽権助兼陰陽博士滋岳朝臣川人らを遣わして、大和国吉野郡高山において祭礼を修させた。董仲舒祭法によると、虫が五穀を害しているときに清潔な場所で害虫駆除の祭礼を行うので、このことをおこなった。(『日本三代実録』)

11月1日 御暦奏

貞観元年(859)11月1日壬子、陰陽寮が来年の御暦ならびに頒暦を進め奉った。天皇はお出ましにならなかったので、内侍所に託して奏上した。(『日本三代実録』)

11月19日 滋岳川人が外従五位下に叙される

貞観元年(859)11月19日庚午、陰陽権助兼陰陽博士滋岳朝臣川人が従五位下に叙された。(『日本三代実録』)

貞観二年(860)

閏10月23日 笠名高が朔旦冬至について奏上する

貞観二年(860)閏10月23日己巳、今年は十九年に一度の朔旦冬至にあたる。しかし、暦博士真野麻呂等が暦を上って言ったことには「今年の冬至は十一月二日にあたります」という。勅によって従五位下行暦博士兼備後介大春日朝臣真野麻呂・外従五位下行陰陽助兼権陰陽博士笠朝臣名高等が僉議を行い、朔旦冬至とすべきではないとなった。しかし群臣がこれについて議論を行った結果、朔旦冬至とすることになった。(『日本三代実録』)

11月27日 大春日真野麻呂が陰陽頭に任じられる/藤原三藤が下野守に任じられる

貞観二年(860)11月27日癸卯、従五位下行暦博士兼備後介大春日朝臣真野麻呂が陰陽頭になった。
従五位上行陰陽頭藤原朝臣三藤が下野守になった。(『日本三代実録』)

貞観三年(861)

1月13日 滋岳川人が播磨権大掾に任じられる

貞観三年(861)1月13日戊子、従五位下行陰陽権助兼陰陽博士滋岳朝臣川人が播磨権大掾になった。(『日本三代実録』)

6月16日 宣命暦の使用が始まる

貞観三年(861)6月16日己未、長慶宣命暦経の頒行を始めた。(『日本三代実録』)

11月1日 御暦奏

貞観三年(861)11月1日辛未、清和天皇は前殿にお出ましにならなかった。陰陽寮が来年の御暦を貢献した。内侍司に託して奏上した。(『日本三代実録』)

貞観四年(862)

1月7日 叙位

貞観四年(862)1月7日丙子、陰陽頭兼暦博士大春日朝臣真野麻呂、陰陽助兼陰陽博士笠朝臣名高らが従五位下に叙された。(『日本三代実録』)

7月28日 阿刀物部貞範が左京職に貫附される

貞観四年(862)7月28日乙未、摂津国西成郡人陰陽允阿刀物部貞範が左京職に貫附された。(『日本三代実録』)

11月1日 御暦奏

貞観四年(862)11月1日乙丑、中務省が陰陽寮を率いて明年の御暦を献じた。清和天皇は前殿にお出ましにならなかった。そこで、内侍司に託して奏上した。(『日本三代実録』)

貞観五年(863)

2月1日 滋岳川人らが大和国吉野郡高山において祭祀を修する

貞観五年(863)2月1日甲午、勅により、従五位下行陰陽権助兼陰陽博士播磨権大掾滋岳朝臣川人が大属従八位上日下部利貞ならびに陰陽師等を率いて大和国吉野郡高山において祭祀を修した。事前に虫害を祓うためである。(『日本三代実録』)

4月7日 陰陽寮が河内国の土地を賜る

貞観五年(863)4月7日己亥、河内国若江郡空閑地四町を陰陽寮に賜った。(『日本三代実録』)

10月11日 飛鳥戸造清貞らが百済宿禰姓を賜る

貞観五年(863)10月11日庚午、右京人陰陽少属従六位上飛鳥戸造清貞らが百済宿禰姓を賜った。(『日本三代実録』)

貞観六年(864)

8月8日 阿刀物部貞範が良階宿禰姓を賜る

貞観六年(864)8月8日壬戌、右京人陰陽允阿刀物部貞範が良階宿禰姓を賜った。
また、播磨国飾磨郡人陰陽寮陰陽師従八位弓削是雄とその父正六位上弓削連安人等が本居貫を山城国愛宕郡に改めた。(『日本三代実録』)

11月1日 御暦奏

貞観六年(864)11月1日甲申、陰陽寮が御暦を奏進した。清和天皇は前殿にお出ましにならなかった。そこで、内侍に託してこれを奏上した。(『日本三代実録』)

貞観七年(865)

1月4日 天文密奏

貞観七年(865)1月4日丙戌、去年陰陽寮が奏上したことには「明年は兵疫の災いがあるでしょう」という。近日天文博士が奏上したことには「警兵の事があります」という。(『日本三代実録』)

1月27日 滋岳川人が播磨権介に任じられる

貞観七年(865)1月27日己酉、従五位下行陰陽権助兼陰陽博士滋岳川人が播磨権介になった。その他の官職は元のとおりであった。(『日本三代実録』)

8月21日 陰陽寮が清和天皇の遷御について意見する

貞観七年(865)8月21日己巳、清和天皇が東宮から御太政官曹司庁へ遷御した。来る十一月に内裏に遷御する。この時、陰陽寮が言ったことには「天皇の御本命は庚午です。この年の御絶命は乾にあります。東宮から内裏は乾の方角にあたります。ゆえに避けるべきです」という。(『日本三代実録』)

貞観八年(866)

1月13日 笠名高が備前権介に任じられる

貞観八年(866)1月13日庚寅、従五位下行陰陽助兼権陰陽博士笠朝臣名高が備前権介に任じられた。その他の官職は元のとおりであった。(『日本三代実録』)

2月13日 藤原三直が陰陽頭に任じられる

貞観八年(866)2月13日己未、散位従五位上藤原朝臣三直が陰陽頭になった。(『日本三代実録』)

4月17日 陰陽寮が太宰府の怪異を占う

貞観八年(866)4月17日辛卯、京師が頻りに怪異を目撃した。陰陽寮が言ったことには「隣国の兵が来窺するでしょう。危険を忘れてはなりません。警固に勤めるべきです」という。(『日本三代実録』)

4月18日 陰陽寮が兵庫の怪異を占う

貞観八年(866)4月18日壬辰、兵庫が自ら鳴動した。
陰陽寮が言ったことには「遠国の人が来投げするでしょう。兵乱天行があります」という。(『日本三代実録』)

4月26日 陰陽寮が兵庫の大鼓を賜る

貞観八年(866)4月26日庚子、漏刻を修理している間、兵庫の大鼓一面を陰陽寮に賜った。(『日本三代実録』)

7月16日 陰陽寮が水疫を占う

貞観八年(866)7月16日戊午、陰陽寮が言ったことには「天下に水疫の憂いがあります」という。五畿七道を以て国内の諸神に幣を分配させ、金剛般若経を転読させた。(『日本三代実録』)

11月2日 御暦奏

貞観八年(866)11月2日癸卯、中務省が陰陽寮を率いて明年の御暦を進め奉った。清和天皇は紫宸殿にお出ましにならなかったので、所司が内侍に託してこれを奏上した。(『日本三代実録』)

貞観九年(867)

1月12日 除目

貞観九年(867)1月12日癸丑、従五位上行陰陽頭藤原朝臣三直が阿波権守になった。(『日本三代実録』)

1月26日 陰陽寮が鬼気祭の実施を奏言

貞観九年(867)1月26日、神祇官と陰陽寮は「天下に疫病の憂いがあります。よって、五畿七道の諸国において仁王般若経を転読し、鬼気祭を修しましょう」と申し上げた。(『日本三代実録』)

11月13日 陰陽寮が疫癘・風雨を占う

貞観九年(867)11月13日戊申、去る春、神祇官と陰陽寮が言ったことには「疫癘・風雨を慎むべきです」という。神明に祈祷した。予防のためである。(『日本三代実録』)

貞観十年(868)

1月16日 除目

貞観十年(868)1月16日辛亥、従五位下行陰陽助兼権陰陽博士前権介笠朝臣名高が中介に任じられた。陰陽助権陰陽博士は元の通りであった。(『日本三代実録』)

貞観十一年(869)

1月7日 叙位

貞観十一年(869)1月7日乙丑、陰陽允良階宿禰貞範等が外従五位下に叙された。(『日本三代実録』)

3月3日 陰陽寮が疫病を占う

貞観十一年(869)3月3日辛酉、陰陽寮が言ったことには「今年の夏季は疫病があるでしょう」という。そこで、勅令により五畿七道諸国に境邑の諸神に幣を分配させた。並びに金剛般若・摩訶般若等の経を転読させた。三日に限り行った。転経の間、殺生を禁じた。(『日本三代実録』)

12月17日 陰陽寮が怪異を占う

貞観十一年(869)12月17日庚子、去る夏、新羅の海賊が貢綿を掠奪した。また、大きな鳥が太宰府庁事ならびに門楼兵庫上に集まった。神祇官と陰陽寮が言ったことには「隣境に兵寇があります。肥後国では風水があり、陸奥国では地震によって廨舍が損傷するでしょう。人民が溺れるでしょう」という。この日、勅命によって五畿七道諸国に境内の諸神に幣を分配させた。事前に後の害を防ぐためである。(『日本三代実録』)

貞観十三年(871)

4月13日 笠名高 卒去

貞観十三年(871)4月13日己丑、従五位下行陰陽助兼陰陽博士笠朝臣名高が卒去したという。(『日本三代実録』)

12月14日 陰陽寮が怪異を占う

貞観十三年(871)12月14日乙卯、陰陽寮が言ったことには「明年は天行にあります」という。また古老が言ったことには「今年は衆木に冬の華が咲いています。昔もこのような怪異がありました。天下に大疫があります」という。勅によって五畿七道諸国に境内の諸神に幣を分配させ、国分二寺においてお経を転読させた。(『日本三代実録』)

貞観十四年(872)

5月19日 天文生以上が位階に応じた朝服を賜る

貞観十四年(872)5月19日戊子、天文生以上がそれぞれの位階に応じた朝服を賜った。(『日本三代実録』)

8月13日 家原郷好が朝臣姓を賜る

貞観十四年(872)8月13日辛亥、外従五位下行暦博士兼陰陽助家原宿禰郷好らが朝臣姓を賜った。(『日本三代実録』)

貞観十五年(873)

2月23日 陰陽寮が三合について述べる

貞観十五年(873)2月23日戊午、陰陽寮が三合の年に当たると言ったので、詔によって五畿七道諸国に境内の名神に幣を分配させた。(『日本三代実録』)

5月5日 陰陽寮が雨雹の怪異を占う

貞観十五年(873)5月5日戊辰、神祇官と陰陽寮が言ったことには「雨雹の怪異は、賀茂・松尾等の神が祟りをなしております」という。使者を社頭に遣わし、幣ならびに走馬を奉った。神の怒りに謝るためである。(『日本三代実録』)

12月1日 弓削是雄らが本居を改める

貞観十五年(873)12月1日壬辰、河内国大縣郡の人である陰陽允正七位上弓削連是雄が本居貫を右京三条二坊に改めた。
また、陰陽権允従七位上部連利貞等が本居貫を右京二條三坊に改めた。(『日本三代実録』)

貞観十六年(874)

1月15日 滋岳川人が安芸権介に任じられる

貞観十六年(874)1月15日丙子、従五位上行陰陽頭兼陰陽博士滋岳朝臣川人が安芸権介になった。その他の官職については、元のとおりであった。(『日本三代実録』)

5月27日 滋岳川人 卒去

貞観十六年(874)5月27日甲寅、従五位上行陰陽頭兼陰陽博士安芸権介滋岳朝臣川人が卒去した。
川人は『世要動静経』三巻、『指掌宿曜経』一巻、『滋川新術遁甲書』二巻、『金匱新注』三巻を作成した。(『日本三代実録』)

貞観十七年(875)

8月8日 陰陽寮の漏刻の鼓が自ら鳴る

貞観十七年(875)8月8日戊午、未漏上二刻、陰陽寮の漏刻の鼓が自ら一度鳴動した。(『日本三代実録』)

11月15日 陰陽寮が三合について述べる

貞観十七年(875)11月15日甲午、陰陽寮が言ったことには「黄帝九宮経肅吉九篇に言ったことには『承天の道は人の情けによる。上は三光を占い、下は五行を用いる。三神が相合う。これを三合という。所謂”三神”とは、大歳・客気・太陰のことである』とあります。三合の運はちょうど明年にあたります。」という。(『日本三代実録』)

貞観十八年(876)

8月25日 陰陽寮が火の気を見る

貞観十八年(876)8月25日己巳、中臣・齋部の両氏六位以下を分けて遣わし、五畿七道諸国の境内・神社に幣を分配した。神祇官・陰陽寮がまた火の気を見たことによる。(『日本三代実録』)

元慶元年(877)

1月3日 弓削是雄が外従五位下に叙される

元慶元年(877)1月3日乙亥、陰陽権助兼播磨権少目弓削連是雄が外従五位下に叙された。(『日本三代実録』)

2月29日 陽成天皇の遷御に際し、陰陽家の新宅作法が用いられる

元慶元年(877)2月29日辛未、申の刻、陽成天皇が東宮から仁寿殿にお移りになった。童女四人。一人が燎火を持ち、一人が盥手器を持った。二人が黄牛二頭を牽いた。御輿の前で陰陽家の新居を鎮める法を用いた。公卿が内裏に宿侍した。三日間出なかった。(『日本三代実録』)

4月1日 夜間の日蝕について弓削是雄が意見を述べる

元慶元年(877)4月1日壬申、夜丑一刻に日蝕があった。中務省は予め陰陽寮が四月朔日の夜に日蝕があると言ったことを奏上していた。
詔命により、明経・紀伝・明法等の博士が夜に日蝕がある場合に廃務とすべきか否か議論した。
陰陽頭従五位下兼行暦博士越前権大掾家原朝臣郷好、外従五位下行陰陽権助弓削連是雄等が言ったことには「天長八年四月一日の夜、日蝕がありました。予め奏上しませんでした。朝廷はその由を問いました。暦博士外従五位下刀岐直浄濱が言ったことには『陰陽寮の壁に書いてあったことには、夜の日蝕は奏上しないとありました。そこで予め奏上しなかったのです』ということでした。参議従三位行刑部卿兼下野守南淵朝臣弘貞が陰陽寮に仰って言ったことには『国家の急務である。どうして明朝を待つのか。夜といえども日蝕である。奏上しないことがあってはならない』ということでした。謹んで案じるに、およそ日月の蝕は陰陽の虧敗の象徴です。ゆえに日蝕があれば徳を修め、月蝕があれば刑を修めるのです。経典に言ったことには『日蝕が慎むべきところに昼夜の区別はない』といいます。また、壁書については根拠がなく、寮式にもこのような文章はありません。それゆえ、天長八年の例より後は事前の奏上に漏れがあるのは道理ではないということになりました。これにより、夜間の日蝕でも予め中務省に申し送るようになりました」という。(『日本三代実録』)

12月25日 弓削是雄らが宿禰姓を賜る

元慶元年(877)12月25日辛卯、右京人外従五位下行陰陽権助弓削連是雄が宿禰姓を賜った。
また、右京人外従五位下行陰陽助日下部連利貞が宿禰姓を賜った。
近江国浅井郡人陰陽権充正八位下秦経尚が山城国葛野郡に移管した。(『日本三代実録』)

元慶二年(878)

2月27日 陰陽寮が怪異を占う

元慶二年(878)2月27日癸巳、越前国が言ったことには「氣比大神宮祝部等が申して言ったことには『神宮が忽ち火災に見舞われ、鷺が宮に走り入ってきて、失火はありませんでした』ということです」という。
陰陽寮が占って言ったことには「神社に穢があるので怪異の祟りとなって現れたのです。彼の国には疫癘・風水の災いがあるでしょう」という。この日、国宰に下知し、神宮を酒掃させて仏教を転読させた。(『日本三代実録』)

9月7日 陰陽寮が怪異を占う

元慶二年(878)9月7日己亥、ある鳥が肥後国八代郡の倉上に集まった。また、宇土郡正六位上蒲治比〓神社前の河水が赤くなっていた。緑の辺りの山野の草木は枯れて厳冬のようであった。神祇官と陰陽寮が卜筮して言ったことには「彼の国に風水火疾があり、災いをなすでしょう」という。(『日本三代実録』)

元慶三年(879)

11月25日 朔旦冬至

元慶三年(879)11月25日庚辰、陰陽博士山村曰左得道が外従五位下に叙された。(『日本三代実録』)

元慶四年(880)

2月28日 陰陽寮が地震を占う

元慶四年(880)2月28日壬子、地震があった。まず、隠岐国が言ったことには「兵庫が振動し、三日後には庫の中が鼓のように鳴動しました」という。
陰陽寮が占って言ったことには「遠方の兵賊が北方より起こります」という。
この日、太政官符を因幡・伯耆・出雲・隠岐等の国に下し、慎んで厳重に防護させた。(『日本三代実録』)

11月1日 御暦奏

元慶四年(880)11月1日辛亥、陰陽寮が御暦を奏上した。通例の通りであった。(『日本三代実録』)

12月7日 陰陽寮が地震を占う

元慶四年(880)12月7日丙戌、陰陽寮が奏上して言ったことには「地震の徴があります。併せて兵賊・飢饉・疫病を慎むべきです」という。
大和・伊賀・伊勢等の国に下知し、行宮を造らせた。伊勢斎内親王(識子)が宮を出て帰京した。左右の検非違使が左衛門府の南門において、詔を以て獄に繋がれていた囚人を出した。この日の夜、戌の刻から子の刻まで地震が二度あった。(『日本三代実録』)

元慶五年(881)

11月1日 御暦奏

元慶五年(881)11月1日乙丑、陰陽寮が明年の御暦を奏進した。通例のとおりであった。陽成天皇が紫宸殿にお出ましにならなかったので、内侍所に託して奏上した。(『日本三代実録』)

元慶六年(882)

1月7日 叙位

元慶六年(882)1月7日庚戌、陰陽助兼播磨権大掾日下部宿禰利貞・陰陽権助権備前権掾弓削宿禰是雄・権暦博士大春日朝臣氏主が従五位下に叙された。(『日本三代実録』)

11月1日 御暦奏

元慶六年(882)11月1日己巳、陰陽寮が明年の御暦を奏進した。通例のとおりであった。陽成天皇が紫宸殿にお出ましにならなかったので、内侍所に託して奏上した。(『日本三代実録』)

元慶七年(883)

7月13日 陰陽寮が怪異・天変を占う

元慶七年(883)7月13日丁丑、六月二十七日に鷺が大極殿の鵄尾に集まった。今月三日には霖雨によって河水が溢れ、内外に愁いがあった。陰陽寮が占い奏上して言ったことには「主上に疫病の患いがあります。また、天下に風水の憂いがあります」という。(『日本三代実録』)

11月1日 御暦奏

元慶七年(883)11月1日甲子、陰陽寮が御暦を奏した。ならびに太政官において頒暦を奏した。通例のとおりである。(『日本三代実録』)

12月23日 陰陽寮が荷前について占う

元慶七年(883)12月23日乙卯、諸山陵墓において荷前の幣を奉った。公卿は勅を奉り、建礼門前において使者が出立した。この日は国忌であった。
陰陽寮が言ったことには「荷前の儀礼を行うのには避けるべきですが、今日のほかに吉日はもうありません。そこでこの日を用いました」という。(『日本三代実録』)

元慶八年(884)

9月29日 陰陽寮が天変を占う

元慶八年(884)9月29日丙戌、出羽国司が言ったことには「今年の六月二十九日、秋田城で雷雨があり、空が暗くなりました。石の鏃(やじり)が二十三枚、雨のように降ってきました。七月二日、飽海郡の海浜で石類の鏃が雨のように降ってきました。その切っ先はみな南に向かっていました」という。
陰陽寮が占って言ったことには「彼の国には、兵賊・疾疫の憂いがあります」という。(『日本三代実録』)

11月1日 御暦奏

元慶八年(884)11月1日戊午、光孝天皇が紫宸殿にお出ましになって行事を見た。中務省が陰陽寮を率いて内侍に就き、御暦を奏進した。(『日本三代実録』)

仁和元年(885)

1月8日 陰陽寮が犬の怪異を占う

仁和元年(885)1月8日甲子、紫宸殿の前版の上に犬の糞が残っていた。陰陽寮が占って言ったことには「兵火を慎むべきです」という。(『日本三代実録』)

4月1日 天文生春澤が捕縛される

仁和元年(885)4月1日乙卯、この夜、朝堂院近衛等を巡検して一人を捕らえた。松に油炭を加えたものを持って、たちまち火の中に入れた。その口を紙で縛った。その人は陰陽寮の陰陽師正六位上村国連業世の子で、春澤という天文生であった。尋問があり、春澤が言ったことには「母親のために小善を修めようと常住寺に向かいました。これは燃燈の道具で、奸心によって火の謀を行うものではありません」という。(『日本三代実録』)

4月27日 弓削是雄が陰陽頭に任じられる

仁和元年(885)4月27日辛巳、従五位下行陰陽権助弓削宿禰是雄が陰陽頭になった。(『日本三代実録』)

6月21日 陰陽寮が出羽国の天変を占う

仁和元年(885)6月21日甲戌、出羽国秋田城中及び飽海郡神宮寺西浜において石の鏃(やじり)の雨が降った。陰陽寮が言ったことには「凶狄・陰謀・兵乱のことがあります」という。神祇官が言ったことには「彼の国の飽海郡の大物忌神、月山神、田川郡由豆佐乃売神がこの怪異をなしています。その祟りは不敬に在ります」という。勅によって国宰に諸神を祀らせ、慎んで警固させた。(『日本三代実録』同年11月21日条)

8月1日 陰陽寮の言上によって太宰府等を警固させる

仁和元年(885)8月1日癸丑、北陸道の諸国及び長門国太宰府等に慎んで警固をさせた。陰陽寮が北境西垂に兵賊のことがあると言ったことによる。(『日本紀略』)

10月9日 陰陽寮が太宰府の怪異を占う

仁和元年(885)10月9日庚申、まず、太宰府が言上した。「肥前国では六月から雨が降っておりませんでした。七月十一日、国司が諸神へ幣を奉りました。延僧がお経を転読しました。十三日の夜、雲が陰って雨のような音が聞こえました。夜が明けて見ると粉土・屑砂が境内に落ちていました。水陸田苗稼、草木枝葉はみな尽く枯れていました。突然雨が降って塵砂を洗い去り、枯れてしまった苗が元に戻りました」という。薩摩国が言ったことには「同月十二日の夜、暗闇の中に星がまったく見えず、砂石が雨のように降ってきました。故実を調べたところ、頴娃郡正四位下開聞明神が怒ったときにこのようなことがありました。国宰が潔斎・奉幣を行うと、雨砂はたちまち止みました。八月十一日、雷のような音があり、炎がひどく燃え盛っていて、雨砂は地に満ちており、昼なのに夜のようでした。十二日、辰の刻から子の刻まで雷電があり、砂が降り止まず砂石が地に積み上がり、ある所では一尺以下、またある所では五、六寸以上ありました。田野は埋まり、人民が騒ぎ立てました」という。
その後、神祇官が占って言ったことには「粉土の怪異は、来年の春に彼の国が疫病の災いに見舞われる兆しです」という。陰陽寮が占って言ったことには「府の辺りの東南の神が隣国に移り、蚕麻穀稼にに損耗があります」という。そこで、府司に知らせてかの両国に部内の衆神に幣を奉らせ、祈願させた。(『日本三代実録』)

仁和二年(886)

4月17日 陰陽寮が出羽国の天変を占う

仁和二年(886)4月17日丙寅、出羽国に慎んで警固させた。去る二月に彼の国の飽海郡諸神社の辺りで石の鏃(やじり)の雨が降った。陰陽寮が占って言ったことには「兵賊の警鐘です。不慮の事態に備えるべきです」という。(『日本三代実録』)

5月26日 陰陽寮が石清水八幡大菩薩宮の怪異を占う

仁和二年(886)5月26日甲辰、この日、山城国石清水八幡大菩薩宮が自ら鳴動した。太鼓を叩くような音であった。南楼が鳴動し、風と波が相打つような音であった。数刻の間続いて止まなかった。神祇官が占って言ったことには「大菩薩の心に所願があります」という。陰陽寮が占って言ったことには「警兵のことがあります」という。(『日本三代実録』)

8月4日 陰陽寮が天変地異を占う

仁和二年(886)8月4日庚戌、安房国が言上した。去る五月二十四日の夕方、黒雲が南海から群起した。その中に電光が現れ雷鳴・地震があり、夜通し止まなかった。二十六日の明け方には雷電・風雨があり、巳の刻には晴れた。砂石・粉土が地上に満ちて、山野・田園で降らない所はなかった。厚さ二、三寸程であった。稼苗・草木はみな尽く枯れて、馬・牛の餌となる草も枯れてしまうことが甚だ多かった。陰陽寮が占って言ったことには「鬼気御霊が怒って祟りをなしています。かの国は疫病の患いを慎むべきです。また、東南の国に兵賊の乱があります。厳重に戒めるように」という。(『日本三代実録』)

9月17日 陰陽寮が神祇官とともに斎内親王の解除の吉日を占う

仁和二年(886)9月17日壬辰、内裏で犬が死んだ。斎内親王は今月十九日に解除を修する予定であった。しかし、穢によって停止した。公卿は左衛門陣において神祇官・陰陽寮を召して吉日を占い定め、二十四日になった。(『日本三代実録』)

10月9日 陰陽寮が邪気を払うための祭祀を修する

仁和二年(886)10月9日甲寅、陰陽寮に承明門の前において祭祀を修させた。邪気を払うためである。(『日本三代実録』)

11月1日 御暦奏

仁和二年(886)11月1日丙子、光孝天皇が紫宸殿にお出ましになり、中務省が陰陽寮の官人・暦博士を率いて、庭において御暦を奏進した。(『日本三代実録』)

仁和三年(887)

2月17日 山村曰佐得道が紀伊国権掾に任じられる

仁和三年(887)2月17日辛酉、外従五位下行陰陽博士山村曰佐得道が紀伊権掾になった。陰陽博士は元のとおりであった。(『日本三代実録』)

8月4日 陰陽寮が怪異について占う

仁和三年(887)8月4日乙巳、地震が五度あった。この日、達智門の上に気があった。煙のようで煙ではなく、虹のようで虹ではなく、天に飛んでいった。ある人が見て言ったことには「これは羽蟻である」という。時の人が言ったことには「今までこのような怪異は見たことがない」という。陰陽寮が占って言ったことには「大風・洪水・失火などの災いがあるでしょう」という。(『日本三代実録』)

8月12日 陰陽寮が鷺の怪異について占う

仁和三年(887)8月12日癸丑、鷺が朝堂院白虎楼豊楽院栖霞楼上に集まった。陰陽寮が占って言ったことには「失火のことを慎むべきです」という。(『日本三代実録』)

仁和四年(888)

12月25日 陰陽寮が官田を支給される

仁和四年(888)戊子、山城国・河内国・摂津国の三国の官田五十七町余を陰陽寮の官人以下諸生以上の月料として支給することになった。(『類聚三代格』)

仁和五年/寛平元年(889)

1月18日 壺切御剣と陰陽師

寛平元年(889)1月18日、大丞相が奏上して言ったことには「昔、臣の父に名剣がありました。世にこの剣を壺切と伝えています。ただし、二つの名があります。田邑天皇(文徳天皇)は件の剣を喚び出し、陰陽師に与えました。そして厭法を為し、土に埋めました。時に帝が崩御して、陰陽師は逃亡しました。これは鬼を見る者でした。しかし、剣の在る所は知りませんでした。かの陰陽師は神泉苑に居り、その場所を推し量り、掘り求めてこの剣を得ました」という。着する所の剣を抜いて見させたのは、これである。光彩は電耀で、目、霜刃に驚いた。再び室に納めた。件の事を別当洽子に仰せた。(『宇多天皇御記』)

5月28日 陰陽寮が石清水八幡宮の怪異を占う

寛平元年(889)5月28日戊午、石清水八幡宮が自然に震動した。神祇官と陰陽寮が占筮して言ったことには「大病の慎みがあります」という。(『扶桑略記』)

寛平三年(891)

7月20日 常陸国史生と停めて陰陽師を置く

寛平三年(891)7月20日丁卯、常陸国の史生一員を停めて陰陽師を配置した。(『類聚三代格』)

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醍醐天皇-朱雀天皇延長元年(922)-天慶九年(946)

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村上天皇天慶九年(946)4月20日-康保四年(967)5月25日

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冷泉天皇-花山天皇康保四年(967)5月25日-寛和二年(986)6月23日

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一条天皇寛和二年(986)6月23日-寛弘八年(1011)6月13日

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三条天皇寛弘八年(1011)6月13日-長和五年(1016)1月29日

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後一条天皇-後朱雀天皇長和五年(1016)-長暦三年(1039)

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『小右記』『権記』『御堂関白記』など多数の史料をもとに安倍晴明の陰陽師・天文博士としての活動をご紹介。説話や伝説に見られるような超人的な能力をもつ陰陽師ではなく、一人の官人陰陽師としての晴明の実像が浮 ...

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