陰陽道

【年表】平安時代の陰陽師たちの活動記録―後一条天皇時代その1(長和~寛仁)

陰陽師たちの活動記録

後一条天皇時代

長和五年(1016)

1月29日 陰陽寮が神鏡を移す日時と伊勢奉幣の日時を勘申する

長和五年(1016)1月29日甲戌、陰陽寮は神鏡を移す日時と伊勢奉幣の日時を勘申した。(『小右記』)

2月1日 陰陽寮が時刻を問われる

長和五年(1016)2月1日丙子、(前略)一、二度、時刻を陰陽寮に問わせた。刻限に到った。〈申二刻。〉(『小右記』)

2月6日 陰陽寮が翌日の行幸の吉時を勘申する

長和五年(1016)2月6日辛巳、(前略)摂政(藤原道長)が内大臣(藤原公季)に示して言ったことには「明日の行幸の時刻について、陰陽寮に勘申させるように」という。御即位のことは、先日内大臣が行われた。そこで、右大臣(藤原顕光)を差し置いて命じられたのであろうか。摂政の命により、内大臣は(源)経頼朝臣を召し、陰陽寮に伝え命じさせた。しばらくして、勘文を進上した。(『小右記』)

2月7日 安倍吉平が後一条天皇の即位式に際して御出の時刻について述べる/吉平が反閇を奉仕する

長和五年(1016)2月7日壬午、未明、諷誦を修した。〈清水寺・広隆寺・祇園社。〉今日、御即位が行われた。(中略)御出の時刻は辰二刻である。ところが、三刻に及んだ。事情を申そうとしたが、(藤原)資平が言ったことには「(安倍)吉平朝臣が申して言ったことには『巳時はほとんど辰時に勝っています』ということです」という。そこで、案内を申させなかった。「摂政(藤原道長)が御所に参上し、御装束を着用されているところです」という。巳二刻、後一条天皇が神殿に出御しました。内侍二人が御釼・璽筥を執った。吉平朝臣が反閇を奉仕した。(『小右記』)

2月19日 陰陽寮が斎王のことを伊勢に報告する日時を勘申する

2月19日甲午、陰陽寮は斎王のことを伊勢に報告する日時を勘申した。→2月25日となった。(『小右記』)

(前略)次に陰陽寮を召し、斎王を卜定したことを大神宮〈「便りに遣わす」という。〉に告げる日時を勘申させた。すぐに奏上され、私(源経頼)に下した。(『左経記』)

2月26日 安倍吉平・惟宗文高が諸社奉幣の吉日吉時を勘申する

長和五年(1016)2月26日辛丑、(前略)藤原実資は蔵人頭(藤原)資平を介して五畿内・七道諸国の諸神の奉幣の日時を勘申させるべきことを申させた。昨日、資平を介して案内を仰られた。けれども、内裏に参り、重ねて申させた所である。摂政(藤原道長)が命じて言ったことには「早く勘申させるように」という。また、命じて言ったことには「ただ今、宮の御方に参り相逢うことになった。(安倍)吉平は病の旨を申した。重ねて召し遣わした。しばらくして、参入した。藤原実資は南座に着した。右少弁(藤原)資業を召し、陰陽寮に五畿七道の諸神に奉幣する日時を勘申させるように命じた。すぐに、来月八日、壬子、時刻〈巳・午〉を勘申した。〈吉平朝臣・(惟宗)文高宿禰が署した。〉外記の筥を召し、この勘文を納めた。資業を介して摂政に奉った。摂政は宮の御方に伺候されていた。返給されて言ったことには「見終わった。この日は、廃務があるか」という。申させて言ったことには「伊勢奉幣使が出立する時は、廃務があるのではないでしょうか」という。ただし、外記に勘申させるようにと申させた。陰陽寮の勘文を資業に下給した。(『小右記』)

(前略)「右大将が陣座において陰陽寮を召し、御即位のことを勘申させた。諸社に告げる奉幣使を立てる日時を奏上された」という。(『左経記』)

2月27日 安倍吉平が藤原道長の二条第移御と摂政大饗の吉日を勘申する

2月27日壬寅、安倍吉平は藤原道長が二条第へ移御を行う吉日を勘申し、3月23日となった。また、吉平は道長が摂政に任じられたことを祝う大饗を行う吉日を勘申した。4月9日となった。(『御堂関白記』)

(前略)行幸の日のことを問うた。言ったことには「(安倍)吉平が申して言ったことには『御忌月は便宜がないでしょう。移徙は慶賀のことです。どうして、まして帝王の行幸であればなおさらでしょう。十月十九日が吉日です。二十三日の御禊も吉日です。大宮院(一条院)から御禊が行われるためです』という。摂政(藤原道長)が命じて言ったことには『期日は非常に遠い。後日、定めるように。勘申してはならない。後の仰せに従うように』という。御忌月に行幸が行われた例を調べるように。もし前例があれば、移幸するべきである」という。(『小右記』)

3月1日 安倍吉平・安倍吉昌・惟宗文高・大中臣実光が藤原道長および源倫子の解除を行う

3月1日乙巳、藤原道長とその妻源倫子は鴨川において御燈を奉らないことに対する祓と七瀬祓を行った。安倍吉平・安倍吉昌・惟宗文高・大中臣実光が担当した。(『御堂関白記』)

3月21日 安倍吉平が藤原道長の忌日についての質問に回答する

3月21日乙丑、安倍吉平は藤原道長に「二条第に移る際は方違を行う必要がある」と伝えていたが、暦上では遠くへ行ってはならない日になっていた。
吉平は「桓武天皇の遷都もその日に行われていたので忌む必要はない」と言ったが、道長は「遷都から三百年も立っており、方違を行う場所もない」として、勘申しなおすように命じた。(『御堂関白記』)

3月22日 安倍吉平が藤原道長に勘当される

長和五年(1016)3月22日丙寅、(前略)また、言ったことには「摂政(藤原道長)が二条第に移られることは、すでに停止しました。方々の忌みがありました。また、不吉の日であるためです。今、この事によって(安倍)吉平朝臣を勘当しました。御詞は、大変猛々しいものでした」という。(『小右記』)

3月23日 安倍吉平が三条院の枇杷殿寝殿移御に際して反閇を奉仕する

3月23日丁卯の酉の刻、安倍吉平は三条院の枇杷殿寝殿への移御に際して反閇を奉仕した。(『御堂関白記』)

4月5日 安倍吉平が内裏造営・立柱・後一条天皇の遷御の吉日を報告する

長和五年(1016)4月5日戊寅、(前略)(安倍)吉平が来て、申して言ったことには「(賀茂)守道の許より、明年の暦及び草案がありました。付して見たところ、内裏造営・立柱・遷御の日について、正月・四月によろしい日がありました。またまた、よく見て申します」という。(『御堂関白記』)

4月6日 安倍吉平が内裏の殿舎・門廊の立柱・上棟及び遷御の吉日を勘申する

長和五年(1016)4月6日己卯、(前略)「今日、摂政(藤原道長)が(安倍)吉平朝臣を召し、おおよそ内裏の殿舎・門廊の立柱・上棟ならびに遷御の日を定められました。〈明年正月十九日、立柱・上棟。四月二十二日、遷御。〉(『小右記』)

4月15日 安倍吉平が大嘗会の行事所始の吉日吉時を勘申する

長和五年(1016)4月15日戊子、早朝、内裏に参った。次に按察大納言・左衛門督・左大弁が左仗に着した。右少弁に陰陽寮を召させた。すぐに主計頭(安倍)吉平・陰陽允が参入した。右少弁がその旨を天皇に申した。天皇がすぐに弁に仰せを伝えさせて言ったことには「大嘗会の行事所を始める日時を勘申するように」という。弁は史致孝に命じ、仰せを伝えさせた。すぐに勘文を奉った。〈今月二十八日。時刻は午二刻もしくは申二刻。〉右少弁がこれを取って上卿に奉った。(『左経記』)

4月26日 陰陽寮が御読経の吉日吉時を勘申する

長和五年(1016)4月26日己亥、摂政殿が仰られて言ったことには「四条大納言が参った。御読経の僧名を定め申すようにと示し送るように」という。すぐに仰せの旨を書き、小舎人清武を指名し、これを奉った。しばらくして参入された。左仗において僧名を定められ、及び陰陽寮を召して日時を勘申させた。僧名を加えた〈筥に入れた。〉権弁にこれを奉らせた。〈左大弁が執筆した。〉事が終わって退出された。(『左経記』)

5月5日 陰陽寮が山陵使出立の吉日を勘申する

長和五年(1016)5月5日、後一条天皇の御物忌であった。私(源経頼)は籠もり伺候した。左大将が陣に参られた。陰陽寮を召して仰られた。「山陵使を出立される日を勘申させるように」という。仰せを奉って勘申させた。すぐに私(経頼)に奏上させた。将軍に下し奉った。〈十七日。〉(『左経記』)

5月11日 陰陽寮が諸々の吉日吉時を勘申する

長和五年(1016)5月11日、(前略)これより前、両所の行事の史、陰陽寮及び民部・式部録を召して伺候させた。私(源経頼)は史に命じ、陰陽寮に勘文を進上させた。〈印を作る日時及び始めて用いる日時、行事所に遷る日時。以上、一枚。大祓を行う日時、一枚。〉(中略)陰陽寮が従って勘文を進上した。(中略)五位以上の預の文及び陰陽寮の勘文を以て、すぐに私(経頼)に奏上させた。(『左経記』)

5月13日 陰陽寮が祈年穀奉幣の吉日を勘申する

長和五年(1016)5月13日丙辰、内裏に参った。「右府が左仗において所宛文を申させられた」という。摂政殿が仰られて言ったことには「祈年穀奉幣を定められることを右府に示すように」という。そこで陣に出て、仰せの旨を申した。すぐに命を蒙り、陰陽寮に問い、日時勘文を進上させた。夜に入って、定められた。私(源経頼)にこれを奏上させた。奏上し終わってすぐに下し奉った。〈「二十一日に命じるように」という。〉(『左経記』)

5月16日 安倍吉平が物忌の覆推を行う

長和五年(1016)5月16日己未、召使が言ったことには「右大臣(藤原顕光)が定め申されることがあります。参入されますように」という。外記の物忌のため、参入しなかった。覆推して〈(安倍)吉平。〉言ったことには「外出するのはよろしくありません」という。(『小右記』)

6月2日 安倍吉平が後一条天皇の一条院遷御に際して反閇を奉仕する/吉平が御竈神を移すことについて述べる

長和五年(1016)6月2日甲戌、安倍吉平は後一条天皇の一条院遷御に際して反閇を奉仕した。(『御堂関白記』)
(前略)天が晴れた。戌の刻、一条院への遷御が行われた。摂政殿から貢馬及び御送物があった。〈馬十疋・琴・琵琶である。〉また、公卿・侍臣及び諸陣・諸所・女房・女官に禄を下賜したのは、皆、差があった。土御門院の西門を出御し、一条院の東門にお入りになった。水火童及び黄牛・五果のことは皆、陰陽寮の勘文によって行われた。内蔵寮が饗饌を儲けた。殿上・女房・蔵人所に下給した。また、碁手の料紙を献じた。事が終わって、公卿・侍臣に禄を下給したのには、差があった。次に、各々退出した。「ただし職事は、陰陽寮の勘文に任させて三日間退出してはならない」という。(『左経記』)

(前略)また、言ったことには「今日、賢所ならびに御竈神を移し奉ってはなりません。日を改めて遷し奉る例がありました。また、(安倍)吉平が申して言ったことには『戌の日に神事を行うのは、忌みがあります』ということでした。このため、今日は移し奉ってはなりません」という。藤原実資が言ったことには「移し奉ることは、必ずしも忌避しなければならないわけではないのではないか。祭ではないのだ。ならば今日、御殿祭が行われてはならないのではないか。如何であろう」という。(藤原)資平が言ったことには「もっとも当然の非難です。密々に摂政(藤原頼通)に伝えます」という。内裏より示し送って言ったことには「やはり十日に神鏡・御竈神を移し奉ることになりました」という。(『小右記』)

6月19日 安倍吉平が藤原実資の病を占う

長和五年(1016)6月19日辛卯、大納言(藤原斉信)が示して言ったことには「物の骨を見つけた。人間の骨のようであった。また、湿気があった。このようなことがあった時、その決定は一つではない。(中略)返報して言ったことには「今日の夕方、陰陽師に卜筮させることにした。昨日から心神がいつも通りではない。(安倍)吉平が占って言ったことには『疫病です。軽いものです』という。今年は重く慎まなければならない。金峯山に参り、その厄を免れるよう、ある者が夢想を見た。そこで、この精進を始めた」という。(『小右記』)

6月20日 安倍吉平が般若寺の大仏を禅林寺に移すことについて勘申する

長和五年(1016)6月20日壬辰、(前略)般若寺の大仏を禅林寺へ移し奉ろうとしたが、二つの疑いがある。そこで、(安倍)吉平朝臣に問うた。勘申して言ったことには「土用の間は、土に触れることを忌まなければなりません。板敷の上に安置する仏像を渡し奉られることについては、何事かあるでしょうか。ただし、王相のいる方角へ動かして渡し奉ることを憚らなければなりません。そこで冬節に到った後は、あれこれ、妨げはありません」という。(『小右記』)

(前略)今日、女官が内侍所の印を御在所の南廂の西第一間に立てた。私(源経頼)が女官に命じて言ったことには「当時は、未だこの印を用いられていない。吉日を撰んで始めて用いなければならない。しばらく待つように。様子を伺って、決まったことを伝える」という。すぐに摂政殿に申した。仰られて言ったことには「吉日を撰ばせて、始めて用いるように」という。そこで(安倍)吉平に命じ、日時勘文を進上させた。(『左経記』)

王相:陰陽道の方位神。

6月21日 安倍吉平の勘文が禅林寺に送られる

長和五年(1016)6月21日癸巳、(藤原)資平が来て雑事を言った。「大納言(藤原斉信)が病を患っている所は、昨日・今日はよろしいという報せがありました。ただし、飲食を受けません」という。
昨日の(安倍)吉平の勘文を禅林寺の御房に遣わし奉った。冬節の後に移し渡し奉ることに決定した。(『小右記』)

(安倍)吉平が内侍所の印を用いる日時勘文を奉った。すぐに摂政殿に覽せた。仰られて言ったことには「衰日から撰び改めるように」という。重ねて改めて文を勘申させるよう伝えた。摂政殿に覽せた。〈七月五日。時刻は巳・午の間。〉(『左経記』)

6月30日 陰陽寮が請雨祈願の奉幣使出立の吉日を勘申する

長和五年(1016)6月30日壬寅、(前略)史致孝が言ったことには「昨日、左大将が陰陽寮に両社に請雨を祈願する幣使の日を勘申させました。〈昨日及び来月五日。〉来月五日に出立されることになったと定められました」という。「蔵人を遣わされることになりました」という。解除は通例どおりであった。(『小右記』)

7月1日 安倍吉平が藤原道長の辞表奏聞の吉日を勘申する

7月1日癸卯、安倍吉平は藤原道長が摂政・左大臣・准三宮の辞表を奏聞する吉日を勘申した。15日となった。(『御堂関白記』)

7月25日 安倍吉平・惟宗文高が土御門第の造営始・立柱・上棟の吉日を勘申する

7月25日丁卯、安倍吉平と惟宗文高は土御門第の造営始・立柱・上棟の吉日を勘申した。(『御堂関白記』)

8月7日 安倍吉平・惟宗文高が法興院町造営の場所を勘申する

8月7日戊寅、安倍吉平と惟宗文高は藤原道長の法興院町造営の地を勘申した。法興院の南町になった。(『御堂関白記』)

8月25日 安倍吉平・陰陽師七人が藤原道長の解除を行う

8月25日丙申、陰陽師七人が鴨川において藤原道長のために解除を行った。川合瀬の祓は安倍吉平が担当した。(『御堂関白記』)

9月1日 安倍吉平が藤原道長から御禊を命じられるが、明日行うと申す

9月1日壬寅、安倍吉平は藤原道長から鴨川で御燈を奉らないことに対する御禊を行うよう命じられたが、今日は坎日の内の寅の日のため翌日に行うと話した。(『御堂関白記』)

9月2日 安倍吉平が藤原道長のために御禊を行う

9月2日癸卯、安倍吉平は鴨川において藤原道長のために御禊を行った。(『御堂関白記』)

9月9日 安倍吉平が初斎院の御禊を行う

9月9日庚戌、安倍吉平は神祇官の宮主とともに初斎院の御禊を奉仕した。(『御堂関白記』)

10月20日 安倍吉平が三条院の三条院遷御に際して反閇を行う

10月20日辛卯、安倍吉平は三条院の高倉第から三条院への遷御に際して反閇を奉仕した。(『御堂関白記』)

長和六年/寛仁元年(1017)

2月5日 惟宗文高と安倍吉平が石清水行幸の日時を勘申する

2月5日甲戌、陰陽頭惟宗文高と安倍吉平は後一条天皇の石清水行幸の日時を勘申した。吉平の勘文の方に道理があるということだった。藤原道長は藤原資平を介して勘文を送った。(『御堂関白記』)

2月11日 安倍吉平が石清水行幸の日時を勘申し直す

2月11日庚辰、石清水行幸は3月4日に予定されていたが、忌日にあたるので、安倍吉平が勘申し直した。
吉平が「同月の8日が吉日であったが、(道長の)衰日のため勘申しなかった」と申したところ、道長は自分の衰日は忌む必要はないと言って、8日に行幸を行うことになった。(『御堂関白記』)

2月19日 安倍吉平・陰陽師六人が三条院に七瀬祓を奉仕する

2月19日戊子、陰陽師六人が二条大路の末から川合瀬まで三条院に七瀬祓を奉仕した。最初と最後は安倍吉平が奉仕した。(『御堂関白記』)

3月27日 安倍吉平が藤原道長に法興院建立の際に方忌があることを伝える

3月27日丙寅、安倍吉平は藤原道長に「4月19日に法興院に御堂が建てられる予定ですが、方忌があるため、4月4日以前に他所へ移ってください」と申した。
道長は方角の良い源済政邸に移ると伝えた。→4月2日、道長は済政邸に移った。(『御堂関白記』)

4月23日 惟宗文高が四堺御祭を行う

寛仁元年(1017)4月23日、(前略)また、頭右中弁が仰って言ったことには「陰陽頭(惟宗)文高が四堺御祭について、今日を過ぎて行うことを申しました。改元の詔を下した後にこの祭を祀られますが、よろしいでしょうか」という。すぐに日時を改めて撰び、奉仕させるようにと命じた。(『権記』)

5月12日 惟宗文高が故三条院の葬送の勘文を進上し、御陵所を検分する

5月12日己酉の朝、惟宗文高は故三条院の御葬送の勘文を進上した。
また、御陵所を定めた。船岡山の西北方ということになった。(『御堂関白記』)

6月1日 安倍吉平が藤原道長に七瀬祓を奉仕する①

6月1日戊辰、安倍吉平は藤原道長のために川合瀬において禊祓を行った。(『御堂関白記』)

6月2日 安倍吉平が藤原道長に七瀬祓を奉仕する②

6月2日己巳、安倍吉平は藤原道長のために鴨川において禊祓を行った。(『御堂関白記』)

6月3日 安倍吉平が藤原道長に七瀬祓を奉仕する③

6月3日庚午、安倍吉平は藤原道長のために鴨川において禊祓を行った。(『御堂関白記』)

6月4日 安倍吉平が藤原道長に七瀬祓を奉仕する④

6月4日辛未、安倍吉平は藤原道長のために鴨川において禊祓を行った。(『御堂関白記』)

6月5日 安倍吉平が藤原道長に七瀬祓を奉仕する⑤

6月5日壬申、安倍吉平は藤原道長のために鴨川において禊祓を行った。(『御堂関白記』)

6月7日 安倍吉平が藤原道長に七瀬祓を奉仕する⑥

6月7日甲戌、安倍吉平は藤原道長のために禊祓を行った。この日で七瀬祓が終わったので、道長は吉平に禄(褂一重と袴)を与えた。(『御堂関白記』)

7月1日 安倍吉平・惟宗文高が霖雨の祟りを占う

寛仁元年(1017)7月1日丁酉、雨が降った。召しがあって摂政殿に参った。仰られて言ったことには「『天下に霖雨の愁いがある』という。早く上卿に命じて神祇官・陰陽寮を召し、霖雨の祟りを占わせて、その趣旨に従って謝し行うように」という。(中略)しばらくして(欠字)神祇官・陰陽寮が参ったと申した。次に掃部が軒廊に畳二枚を敷いた。〈一枚は神祇官の分、一枚は陰陽寮の分。西。〉主殿史が東座前に(欠字)主水、水を土器に盛り、その傍らに居た。次に、召しがあった。神祇官が座に着した。〈少副守隆朝臣が卜部・亀卜を率いてこれに着した。東上北面した。「小辛櫃を随身し、占いの道具を入れられた」という。〉次に陰陽寮が着した。〈(安倍)吉平・(惟宗)文高である。西上北面した。硯筥を携えていた。〉各々、座が定まり、大納言が召して言ったことには「守隆朝臣」という。守隆は称唯して進み、膝突に着した。上卿が仰って言ったことには「霖雨の祟りを占い申すように」という。称唯して座に帰った。(欠字)吉平朝臣が称唯して膝突に進んだ。仰せを奉り、座に帰った。(欠字)祟畢り、神祇少副守隆が卜文を櫃の蓋に入れて、進んで上卿に奉った。筥を取って座に帰った。次に上卿がこれに目配せした。神祇官・陰陽寮は順番に退出した。〈「神祇官・陰陽寮の櫃及び硯は神祇官・陰陽寮の下労の官人がこれを取って進退した」という。官人が取ってこれを置かせた。〉次に上卿が私(源経頼)を召した。私は進んで膝突に伺候した。仰って言ったことには「御卜の趣旨に従って、近京の諸社に検非違使を差し遣わして実検させるように」という。〈神祇官の占いに言ったことには「艮・巽の方角の神が祟っているのでしょうか。まず賀茂上下及び伊勢大神宮」という。陰陽寮の占いに言ったことには「理運の上、巽・坤の方角の神社の神事違例の祟りです。及び西北の方角の神社の辺りに死骸を置いていた祟りです」という。〉すぐに使の官人を方角に合致した諸社の近辺を実検させるようにと、史明義に命じた。(『左経記』)

7月3日 安倍吉平が祈年穀奉幣の吉日を勘申する

寛仁元年(1017)7月3日己亥、(前略)また、申して言ったことには「七日は宮の檜皮を造り、葺き始める日である。ところがその日は、祈年穀奉幣使を立てることになっている。よって、廃務である。そうであればどうして他の公事があるだろうか」という。仰られて言ったことには「もっとも当然なことだ。早く上卿に命じ、他の日に奉幣を行わせるように」という。すぐに官掌に(安倍)吉平朝臣の許に問わせた。勘申して言ったことには「十一日」という。(『左経記』)

7月11日 惟宗文高が藤原実資の許を訪れる

寛仁元年(1017)7月11日丁未、(前略)陰陽頭(惟宗)文高が来た。左府(藤原顕光)の室家の消息を伝えて言ったことには「世間は無常です。旦暮は期し難いものです。一人の女子がおります。思うところは万端です。〈この女子は、故右大臣(藤原)道兼の息女である。〉。汝(藤原実資)に与えようと思います」という。(『小右記』)

7月13日 惟宗文高が着服の吉日を勘申する

寛仁元年(1017)7月13日己酉、二十三日に着用することを(惟宗)文高朝臣が勘申して送った。ところが、右少弁の報せによると「昨日、摂政は中将の服に着用させられました。さらに葬送以後を待ってはならない、早く着用して内裏に入るようにというご様子でした」という。そうであっても、勘文を作らせた後に日を改めるのは非常に(欠字)。そこでやはり、二十三日に着用することになったという。(『左経記』)

8月4日 安倍吉平が奉幣及び御読経の吉日を勘申する

寛仁元年(1017)8月4日己巳、(安倍)吉平朝臣を呼び、内々に奉幣ならびに御読経の日を問うたところ、言ったことには「十四日に奉幣。十五日に御読経」という。十五日は斎の内である。けれども、その日より前に僧名を定めて宣旨を下給すれば忌みはないであろう。(『小右記』)

8月6日 陰陽寮が吉日吉時を勘申する

寛仁元年(1017)8月6日辛未、(前略)権左中弁(藤原)重尹を介して、行幸の奉幣使〈七社。伊勢・賀茂は参議兼隆・大監物惟忠。松尾は参議公信・玄蕃頭恒規。平野が参議朝経・散位済成。石清水は散位成方。稲荷は散位忠道。春日は散位藤原義忠。〉陰陽寮が勘申した日時の文〈今月十四日、己卯。時刻は未もしくは申。〉を書かせた。(『小右記』)

8月7日 安倍吉平が敦良親王立太子の吉日を勘申する

寛仁元年(1017)8月7日壬申、今日、(藤原行成は)大殿に参った。儲宮は三宮(敦良親王)に決まった。その間のことを定められた。(安倍)吉平朝臣が冊命の日を選び申した。「来たる九日、時は申・戌の刻」という。(『権記』)

8月7日壬申、安倍吉平は敦良親王(後の後朱雀天皇)立太子の吉日を勘申した。吉平は8月9日に早く行うべきだと申した。(『御堂関白記』)

同年8月9日、藤原彰子の御座所が敦良親王の御座に改められた。(『権記』)

8月9日 大中臣実光が服喪を明ける日時を勘申する/大中臣実光が藤原行成の解除を行う

8月9日甲戌、陰陽助大中臣実光は服喪を明けられる日時を勘申した。今日の巳の刻になった。
また、大中臣実光は藤原行成の解除を行った。(『権記』)

(前略)「十九日は(後一条天皇の)御物忌に当たります。行幸が行われるべきではありません。今日、決定されますように」という。今日は皇太弟(敦良親王)が立たれる日である。ところが、外記の告げはなかった。時刻を(安倍)吉平朝臣に問い遣わしたところ、記し送って言ったことには「申二刻」という。そこで未の刻頃、内裏に参入した。(『小右記』)

8月10日 安倍吉平が賀茂行幸の吉日を勘申する

寛仁元年(1017)8月10日乙亥、行幸の日を改めて定めることについて、今朝、まず(安倍)吉平に問うべきことを、昨日摂政(藤原頼通)が命じられた。その後、藤原実資が参入して勘申させたのである。まず、権左中弁(藤原重尹)の許に問い遣わした。報状に言ったことには「今日は重日のため、勘申させることができません」という。ただしそのことを問うたところ「十一月二十五日の他に、また吉日はありません」という。「夕方参入するようにと、摂政の仰せがあります」という。雨を冒し、申の刻頃に前摂政に参謁した。〈内裏に伺候されていた。〉命じて言ったことには「今日、行幸の日について吉平に問うた。暦を開いて日の善悪を問うた。九月二十六日は吉日である。ところが、母后(藤原彰子)の御衰日に当たる。忌避すべきであろうか。十一月二十五日は、忌みはない。吉日である」という。その日に決定したのだろうか。事の案内を権左中弁に示し仰せた。(『小右記』)

8月15日 安倍吉平が大神宝使出立の日と仁王会の日を勘申する

寛仁元年(1017)8月15日庚辰、(前略)また、言ったことには「大神宝使が十月二日に出立することになりました。仁王会は十月八日に行われることになりました。内々に(安倍)吉平が申したことです」という。(『小右記』)

(前略)「今日、始めて官奏が行われることを(安倍)吉平朝臣が勘申した。ところが右大弁が急に触穢の障りを申して参入しなかった。そこで今日に延期された」という。(『左経記』)

・『小右記』同年10月2日丁卯条:大神宝使が発遣された。
・『小右記』同年10月8日癸酉条:一代一度仁王会が行われた。

8月25日 陰陽寮が一代一度仁王会の吉日を勘申する/陰陽寮が行事所始の吉日吉時を勘申する

寛仁元年(1017)8月25日庚寅、余(藤原実資)が大臣に修される日時を問うたところ、答えられて言ったことには「行事の人が撰び申させられるべきであろうか」という。まず日時を勘申させ、行事を定め申されると申した。陰陽寮が日時を勘申した文、行事の定書を加えて奏上されるものである。大臣は驚かれた様子であった。一人、二人の卿相及び資業は首を傾げて奇しんだ。この定文を、摂政が見終わって定められたついでに、陰陽寮が日時を勘申した文を加えられなかったことを命じられた。そこで、もう一度勘申させて摂政に覽せられた。〈来たる十月八日、癸酉。〉すぐに返給されたものである。
(中略)行事所を始める日時について、資業朝臣を介して陰陽寮に伝え命じさせた。すぐに今月二十七日壬辰、時刻は未二刻を勘申した。(『小右記』)

8月26日 陰陽寮に仁王会の行事所を置く

寛仁元年(1017)8月26日辛卯、仁王会の行事所について、天慶の例を陰陽寮に問い遣わした。資業朝臣が報じて言ったことには「陰陽寮に点定しました」という。(『小右記』)

9月10日 安倍吉平が鼠の怪異を占う

寛仁元年(1017)9月10日乙巳、(前略)昨日から三日間を限り、新写の仁王経三部を講演した。〈毎季の恒例の善。当季の料である。〉今日の卯の刻〈見つけた時刻。〉、鼠が喰らって一巻を損なった。〈下の堺の下の紙。文字には及ばなかった。〉(安倍)吉平が占って言ったことには「今日は乙巳である。時刻には卯を加えます。〈怪異を目撃した時刻。〉天岡は乙に臨んで、用とします。将は勾陳。中は大吉、騰虵。終は河魁・大陰。終伝は御行年は寅の上にあります。功曹・朱雀。卦遇は、伏吟・五墳・四殺・飛禍。推して言ったことには『すでに怪異があった場所にいた人の中で卯・午・酉年の人は病事を慎むように。口舌のことでしょうか。時期は今日から二十五日以内及び明年三月・八月中の庚・辛の日です』ということです」という。(『小右記』)

9月15日 安倍吉平が覆推を行う

寛仁元年(1017)9月15日庚戌、今日・明日は物忌である。〈先日の鼠の怪異によるものである。〉
(安倍)吉平が覆推して言ったことには「卯・午の年の人は、病事を慎むように。その他は用心するように。口舌の事を慎むように」という。そこで西門だけを開き、近い門を開かなかった。(『小右記』)

10月11日 安倍吉平が行幸の御祈祷・御読経の日を勘申する

寛仁元年(1017)10月11日丙子、(前略)今朝、(安倍)吉平朝臣を呼び、内々に行幸の御祈祷の奉幣・御読経の日について問うた。「来月三日、奉幣。九日、御読経。二十日に勘申させるのがよろしいでしょう」という。このほかに、吉日はない。あるいは、祭日に当たる。そもそも、奉幣の日が祭日に相当たることに何の妨げがあるのだろう。ただし、前例を勘申させることを大外記文義に命じるよう、権左中弁(藤原重尹)に伝えた。文義朝臣はすでに行事である。そこで、弁に伝えさせたのである。(『小右記』)

10月13日 陰陽寮が賀茂行幸の吉日を勘申することになる

寛仁元年(1017)10月13日戊寅、来たる二十日、賀茂行幸の日を勘申させることを、昨日大殿及び摂政に申した。皆、許諾があった。(中略)宰相が来て言ったことには「左少弁(源)経頼が言ったことには『八十島祭の日時は、蔵人方が勘申させるのでしょうか。如何でしょう』という。答えて言ったことには「天暦の例を引いて見ると、上卿が仰せを奉り陰陽寮に命じて勘申させたことが外記日記に見える。また、故殿(藤原実頼)の御記にある」という。宰相が言ったことには「このことを示し遣わすように」という。大外記文義が式日の神事の日に臨時奉幣使が出立した例を持ってきた。〈暦の裏にあった。〉(『小右記』)

10月18日 陰陽寮が八十島祭を行う吉日吉時を勘申する/陰陽寮が行幸・奉幣の吉日吉時を勘申することになる

寛仁元年(1017)10月18日癸未、早朝、源大納言の御許に参った。
八十島祭を行われる日時を勘申させ、及びそのことを行わなければならないことを伝えた。すぐにこれを命じられた。「内々に陰陽寮に勘申させ、奏上するように」という。すぐに今月二十六日を勘申した。内々に中務典侍の許に告げた。この日に八十島祭を行うため、下向しなければならない。典侍が申して言ったことには「突然のことで為すすべがありません。事情を奏上して、改めて勘申させるのは如何でしょう」という。(『左経記』)

(前略)史雅信を召し、明後日陰陽寮を召して伺候させること及び先日定め申した御幣使の文を陣頭に準備することを命じた。賀茂行幸は延期となった。そこで、奉幣使を定め奏上していたが、発遣しなかったのである。明後日、行幸の日及び奉幣の日時を勘申させなければならない。(『小右記』)

10月20日 安倍吉平が賀茂社行幸の日時を勘申する/陰陽寮が八十島祭を行う吉日吉時を勘申する

寛仁元年(1017)10月20日乙酉、(前略)未の刻頃、(藤原実資は)内裏に参った。権左中弁(藤原重尹)に行幸の日時を勘申させたことを、摂政(藤原頼通)に申させた。申請に依るようにとの報せがあった。これより前、陰陽寮を戒めて伺候させていた。〈陰陽頭(惟宗)文高・(安倍)吉平が加署した。〉実資は南の座に移って着した。陰陽寮が勘申した。〈十一月二十五日、己未。時刻は巳二刻もしくは未二刻。坤の門から出発される。太白星は西方に在る。そこで、西方を注申しなかった。西門は御在所から見て坤の方角に当たる。〉
筥を召した。史が筥を取って、これを進上した。日時勘文を納めた。権左中弁に摂政へ奉らせた。
行幸の御祈祷の奉幣ならびに読経の日について〈十社ならびに七大寺・延暦寺。〉よろしい日時を問うた。申して言ったことには「来月九日、奉幣。十日、御読経。このほかに吉日はありません」という。九日に伊勢奉幣使が出立する。そこで、前後の斎があるだろう。ただし、後斎日は召しによって、軽服の人が内裏に参る。どうして、まして別所の御読経はなおさらであろう。特に、これは同じ御祈祷である。〈今朝、大外記文義を召して前例を問うた。申して言ったことには「承和三年十二月、伊勢奉幣と御読経を行われました」という。〉この事について、日時勘文を覧せ奉るついでに摂政に申させた。命を報告して言ったことは「行幸の勘文を見た。斎内の御読経は、何事があるだろう。後斎日は、召しに依り僧が内裏に参る。そもそも前例を尋ね問わせるように」という。行幸日時の文を弁に下した。また、文義朝臣を召し、前例を問うた。申したことは、今朝と同じであった。
陰陽寮が奉幣の日時を勘申した。〈十一月九日、癸卯。時刻は巳二刻もしくは申一刻。〉筥に納め、権左中弁を介して摂政に覽せた。(『小右記』)

(前略)これより前、源大納言が陰陽寮を召し、八十島祭を行われる日時を勘申させた。余(源経頼)に奏上させた。「次に、神祇官に祭物の請奏を進上させた。上卿が覽た後、宣旨を成させて諸司に下賜した。稲は本国の正税を用いた。〈内印官符。〉また、陰陽寮・神祇官の官人、皇太后宮・春宮の属以下、宮主・御巫が下向しなければならないことを催した。また、内侍以下がこれらの諸司の乗る船及び供給、儲ける宣旨を山城に給わることになった。また、同じく津国の下賜するように」という。(『左経記』)

10月25日 陰陽寮が御読経の吉日吉時を勘申する

寛仁元年(1017)10月25日庚寅、今日、賀茂行幸の御祈十社御読経について定め申すようにと、権弁朝臣を介して摂政に申させた。許すとの御報があった。そこで、陰陽寮を召して伺候させるように同弁に命じた。(中略)まず陰陽寮が参っているか否かを問うた。「召し遣わしましたが、未だ参りません」という。(中略)余(藤原実資)は見終わって、日時勘文のことを命じた。座を起って、陰陽寮の勘文を取った。〈御読経の日時は十一月十日甲辰。時刻は巳二刻、もしくは未二刻。〉膝突に着し、これを進上した。定文及び陰陽寮の日時勘文を筥に納め、権弁を介して摂政に奉った。(『小右記』)

11月14日 「陰陽師たち」が吉田祭に奉幣を行う

寛仁元年(1017)11月14日戊申、藤原道長は「陰陽師たち(詳細不明)」に吉田祭の奉幣を行わせた。日がよろしくないことに依るものだった。(『御堂関白記』)

11月19日 陰陽寮が時杭の紛失について吉凶を占う

寛仁元年(1017)11月19日癸丑、(前略)また、言ったことには「二十二日を勘申しました。節会の日は如何でしょう。二十三日がよろしいでしょうか。重日・復日と言っても、強いて忌む必要はないでしょうか」という。そもそも陰陽寮に問うべきである。二十四日は御衰日である。行ってはならないからである。二十三日に神宝を御覧になられるようにと弁に示した。二十四日は御衰日である。便宜がないであろうか。(『小右記』)

内裏に伺候した。卯の刻頃、奏時に有福が申して言ったことには「時杭二枚がすでに紛失しました」という。すぐに摂政殿の御宿所に参り、そのことを申した。仰られて言ったことには「先例では、烏や狐がくわえて抜いた時は御卜が行われる。この度においては、理由なく紛失した。これを如何しよう。早く大殿に参り、このことを申すように。仰せに従って量り行おう」という。すぐに参入し、云々の仰せの旨を申した。仰って言ったことには「またまた探し求めさせ、とうとう出てこなかったのならば、早く占い申させるように」という。帰り参って、仰せの旨を申した。仰って言ったことには「陰陽寮を召して占い申すように」という。すぐに主計頭(安倍)吉平を蔵人所に召して申させたところ「これを推すに、咎はありません」という。すぐに占方を奏上した。(『左経記』)

11月22日 陰陽寮が時杭を作る吉日吉時を勘申する

寛仁元年(1017)11月22日丙辰、(前略)「時杭を作らせる日時を上卿に命じ、勘申させよ」という。すぐに中宮権大夫に下した。すぐにこれを奉った。陰陽寮に命じ、これを勘申させた。(『左経記』)

11月25日 安倍吉平が賀茂社行幸において反閇を奉仕する

寛仁元年(1017)11月25日己未、今日、賀茂社へ行幸が行われた。(中略)(安倍)吉平が反閇を奉仕した。(中略)また、先日の勘文は坤の方角の門を記した。吉平・(惟宗)文高が勘申したものである。(『小右記』)

12月10日 安倍吉平らが元服の日時を勘申する

寛仁元年(1017)12月10日甲戌、今日、頭右中弁、仰せを蒙って(安倍)吉平・(惟宗)文高・(安倍)吉昌を召した。蔵人所において明年の御元服の日時を勘申させて奏聞した。「正月三日。時は、申二刻」ということだ。(『左経記』)

12月12日 八十島祭における陰陽寮の下向について

寛仁元年(1017)12月12日丙子、(前略)今日、典侍美子・蔵人章任が八十島祭勅使となって御衣を持たさせ、摂津国に下向した。内蔵属・舎人が同じく下向した。また、神祇官及び宮主が御巫を率いて下向した。皇太后宮及び東宮属・舎人及び宮主が同じく御巫を率いて下向した。「古例では、陰陽寮の助以下が下向しなければならない。ところが、近代は下っていない」という。「そこで供給宣旨に載せるといっても、下らない」という。(『左経記』)

12月23日 安倍吉平が明年の疫死者を勘申する

寛仁元年(1017)12月23日丁亥、頭(藤原)経通が宣旨ならびに先日の覆奏文を持ってきた。次に言ったことには「(安倍)吉平が、明年の疫病による死者が大半であるという勘文を進上しました。攘災料として、諸国の米を召すとという宣旨を下されました」という。(『小右記』)

12月27日 安倍吉平が明年から三箇年の勘文を送る

寛仁元年(1017)12月27日辛卯、(前略)また、(安倍)吉平が勘申した明年から三箇年の勘文を見て送られた。不吉な事が多いい。(『小右記』)

寛仁二年(1018)

2月2日 安倍吉平が藤原威子入内の吉日を勘申する

2月2日丙寅、安倍吉平は藤原道長に召されて藤原威子が入内する吉日を勘申した。(『御堂関白記』)

2月3日 陰陽寮が還宮の吉日を勘申する

寛仁二年(1018)2月3日丁卯、内裏に参った。「按察大納言が左仗において陰陽寮を召し、還宮の日を奏上させた」という。〈四月二十日、六月(欠字)〉(『小右記』)

2月4日 惟宗文高が代官を務める

寛仁二年(1018)2月4日戊辰、大殿に参った。次に祈年祭の場所に着した。上、新中納言。雑事は通例のとおりであった。〈今日、王は参らなかった。そこで、陰陽頭(惟宗)文高を代官とした。〉(『左経記』)

2月20日 安倍吉平が三合について述べる

寛仁二年(1018)2月20日甲申、(前略)後日、四条大納言(藤原公任)が示し送って言ったことには「宣命の中に、三合の災いを祓うべきだとあった。『摂政(藤原頼通)が問われて言ったことには「今年は三合に当たらないか、如何であろう」という。上卿は同じく当たることを申し、改めなかった』という。そこで勘文を見ると『今年・明年は太一天旧に当たる。申年は三合に当たる』という。このことは大きな誤りである」という。(安倍)吉平の勘文を見ると、大納言の示したとおりであった。(『小右記』)

3月7日 藤原威子の入内に際して安倍吉平が反閇を行う

3月7日庚子、主計頭(安倍)吉平が来た。東西の渡殿を立てるべき事を問うた。〈「十九日」という。〉また、言ったことには「今日、尚侍(藤原威子)が入内しました〈『酉の刻』という。〉」という。(『小右記』)

藤原威子の入内に際し、安倍吉平は藤原道長に召されて反閇を奉仕した。(『御堂関白記』)

4月10日 「陰陽師」が藤原道長の梅宮祭奉幣に際して禊祓を行う

4月10日癸酉、藤原道長の梅宮祭奉幣に際し、陰陽師(詳細不明)が鴨川の河原において道長の禊祓を行った。(『御堂関白記』)

4月13日 安倍吉平が後一条天皇の内裏遷御の吉日を勘申する

4月13日丙子、安倍吉平は藤原道長に召されて、後一条天皇が内裏遷御を行う吉日を勘申した。
吉平は「滅門の日は忌まないことになっている」と述べて、内裏遷御の先例を勘申した。(『御堂関白記』)

4月15日 安倍吉平が滅門日について述べる

寛仁二年(1018)4月15日戊寅、(前略)また、(安倍)吉平が申したことには『今年、公家(後一条天皇)は火事を慎まれるべきです。去年、鹿が新造内裏に侵入しました。これは火事(の兆し)です。慎まれるべき時期は、今年の四月・五月・六月です。またまた、よく定めて行われるべきです』という。昨日、召しにより参入し、このことを定められた。吉平が勘文を奉った。『滅門日は忌むべきではないこと、宅に入るのを忌むべきことが本条に見えましたが、これは庶人のことです。また、大禍日・滅門日は先々忌まれないことです。六月を過ぎて遷御されるのは、大変よいことです。けれども、この日以後に日はありません。明年の酉・坤は御忌方に当たります。そこで御祈祷を行い、やはり御すべきです。ただし、滅門日に王者・庶人の区別はありません。二十八日の遷御に忌みはないでしょう』という。(『小右記』)

4月27日 安倍吉平が藤原道長の土御門第へ移徙を行う吉日を勘申する

4月27日庚寅、安倍吉平は藤原道長に召されて道長が土御門第に移徙を行う吉日を勘申した。
→6月27日になった。(『御堂関白記』)

4月28日 後一条天皇の新造内裏遷御に際して、安倍吉平が新宅作法を行う

4月28日辛卯、後一条天皇の新造内裏遷御に際して、安倍吉平は新宅作法を行った。
吉平は特に命じられていないにも関わらず、呪符を奉仕した。
また、事前に藤原道長から五菓について問われたところ、吉平は必要だと回答したので、五菓が行われた。(『御堂関白記』)

(前略)後日、源大納言が言ったことには「御輿を中門の内側に持って立てた。次に右大臣以下が進み出る間、申の終刻に及んだ。新造内裏に著されるのは酉の刻に及ぶことを(安倍)吉平が申した。そこで、御輿を退けた。右大臣以下が還り入った。未だ見聞きしたことがない」という。(『小右記』)

閏4月9日 安倍吉平が帰忌日について述べる

寛仁二年(1018)閏4月9日辛丑、(前略)「すぐに新造内裏に参ることのできる日はありません。帰忌日を忌避すべきことは、(安倍)吉平が述べたことです。そこで今日は、ただ大殿に参るだけです」という。(『小右記』)

閏4月27日 安倍吉平が藤原実資の新造内裏参入の吉日を勘申する

寛仁二年(1018)閏4月27日己未、今日、初めて新造内裏に参った。〈軽服。(安倍)吉平が日を撰んだ。〉(『小右記』)

5月25日 安倍吉平が火事について占う

寛仁二年(1018)5月25日丙戌、昨夜の火事について、思慮を廻らし難い。そこで、(安倍)吉平朝臣に占わせた。占って言ったことには「奸心の者が為したものです」という。(『小右記』)

5月26日 藤原実資が惟宗文高の寺を訪れる

寛仁二年(1018)5月26日丁亥、(前略)行願寺から帰るついでに、陰陽頭(惟宗)文高宿禰の寺〈中御門の末。〉を見た。随分の勤めは、もっとも感じなければならない。(『小右記』)

6月4日 安倍吉平が五龍祭を奉仕する

寛仁二年(1018)6月4日乙未、(前略)阿闍梨仁海が請雨経法を行った。(安倍)吉平朝臣が五龍祭を奉仕した。皆、神泉苑において今日からこの事を行う。申の刻頃、西北の方から陰雲が起こり、時々、雷が鳴った。ところが、雨は降らなかった。疑うに、丹波国ではもしや雨が降っているのだろうか。(『小右記』)

6月12日 陰陽寮が吉日吉時を勘申する

寛仁二年(1018)6月12日癸卯、(前略)午後、中納言が参られて、左仗において陰陽寮を召し、日時を勘申させた。兼ねて執筆を定められた。すぐに使者の日時を加え、筥に入れて奏上された。〈里第に持ち参った。〉(『左経記』)

6月23日 天変

寛仁二年(1018)6月23日甲寅、去る十八日から、戌亥の方角に彗星が現れた。〈七星の上第四星から下に二坐に当たる。長さは一丈程である。〉伝え聞いたことには「(安倍)吉昌の説」という。
「このような異星について、先例では勘文を奉った後、幾くも経ず滅蔵する」という。「しかし、勘文を奉った後、数日に及んだが滅蔵していない」という。(『小右記』)

7月28日 安倍吉平が藤原威子立后の吉日を勘申する

7月28日戊子、安倍吉平は藤原道長に召されて藤原威子立后の吉日を勘申した。
→10月16日になった。(『御堂関白記』)

10月16日 藤原威子立后

寛仁二年(1018)10月16日乙巳、今日、女御藤原威子を皇后に立てる日である。〈前太政大臣の第三娘。一家が三后を立てるのは前代未聞のことである。〉小衰日のため、諷誦を清水寺に修した。(中略)諸卿が標に就いた。刀禰が三人だけ列に立った。〈四位、(安倍)吉平。五位、(安倍)吉昌・(惟宗)文高。皆、陰陽家である。〉(『小右記』)

10月29日 安倍吉平が藤原道長の土御門第における法華八講の吉日を勘申する

10月29日戊午、安倍吉平は藤原道長に召されて土御門第における法華八講の吉日を勘申した。
→11月2日・6日・12日・14日となった。(『御堂関白記』)

11月6日 安倍吉平が藤原道長の禊祓を行う

11月6日甲子、安倍吉平は藤原道長の眼病をを祓うために禊祓を行った。(『御堂関白記』)

11月7日 安倍吉平が藤原道長の禊祓を行う

11月7日乙丑、安倍吉平は鴨川において藤原道長の禊祓を行った。(『御堂関白記』)

11月8日 安倍吉平が藤原道長の禊祓を行う

11月8日丙寅、安倍吉平は鴨川において藤原道長の禊祓を行った。(『御堂関白記』)

11月9日 安倍吉平が藤原道長の禊祓を行う

11月9日丁卯、安倍吉平は鴨川において藤原道長の禊祓を行った。(『御堂関白記』)

11月12日 安倍吉平が藤原道長の禊祓を行う

11月12日庚午、安倍吉平は藤原道長のために一日中禊祓を行った。この一連の禊祓は道長の眼病を祓うためのものだったが、禊祓を終えても道長の眼病は良くならなかった。(『御堂関白記』)

11月26日 安倍吉平が中宮藤原威子の諸社奉幣に際して禊祓を行う

11月26日甲申、安倍吉平は中宮藤原威子の諸社奉幣に際して禊祓を奉仕した。(『御堂関白記』)

12月4日 安倍吉平が藤原実資の病を占う

寛仁二年(1018)12月4日壬辰、(前略)去る二日から、心神がよろしくない。夜、寝ていない。(安倍)吉平が占って言ったことには「咳病の余気の上、風病が発動しました」という。(『小右記』)

12月9日 安倍吉平が儇子内親王誕生後の土御門第における法華八講について勘文を作成する

12月9日丁酉、安倍吉平は藤原道長の命で儇子内親王誕生後の土御門第における法華八講について勘文を作成した。(『御堂関白記』)

12月23日 「陰陽師」が藤原道長家の秋季御読経の吉日を勘申する

12月23日辛亥、陰陽師(詳細不明)の勘申によって、藤原道長は秋季御読経を開始した。
本来は良くない日だったが、他に日がなかったのでこの日に行われた。(『御堂関白記』)

12月27日 安倍吉平が御錫紵を除く日について述べる

寛仁二年(1018)12月27日乙卯、(前略)また、言ったことには「今夜、(後一条天皇が)御錫紵を着用することになっています。(御錫紵を)除かれる日がありません。二十九日は重日です。明日は坎日です。(安倍)吉平が申して言ったことには『重日(に御錫紵を除いた)の前例はあります。〈康保三年。〉坎日は、やはり忌避されるべきです。ただし、今日着用してその日のうちに除かれるのがよろしいでしょう』ということでした。この間、定め煩われていることを承りました」という。(『小右記』)

寛仁三年(1019)

2月5日 安倍吉昌が天文密奏を行う

寛仁三年(1019)2月5日癸巳、天文博士(安倍)吉昌が天文奏の案を持ってきた。〈月が太白星を犯した。〉家人によって密々に見させた。(『小右記』)

『小記目録』:(安倍)吉昌が天文奏を持ってきた。

2月6日 「陰陽師」が藤原道長の眼病を治すために魚肉を勧める

2月6日甲午、藤原道長は目がよく見えず、手元にあるものが辛うじて見える状態だった。
ここ数ヵ月間、道長は魚肉を食していなかったので、陰陽師(詳細不明)は医家とともに魚肉を食すことを勧めた。(『御堂関白記』)

2月19日 陰陽寮が東宮御元服の吉日吉時を勘申する

寛仁三年(1019)2月19日丁未、内裏に参った。右大臣と参会した。陰陽寮を召し、東宮御元服の日時を勘申した。(『御堂関白記』)

2月23日 安倍吉平・惟宗文高が日華門を立てることについて述べる

寛仁三年(1019)2月23日辛亥、(前略)日華門が風に吹かれて顛倒した。立てるべきだということを、摂政(藤原頼通)が殿上においてあれこれの卿相に問うた。申して言ったことには「今日のうちに立てられば、忌みはないだろうか。もし立てられなければ、東宮の御元服の時にこの門がないのは如何であろう」という。
摂政はこれより前に(安倍)吉平・(惟宗)文高を召し遣わした。文高が参入し、申して言ったことには「日華門は御在所より巽の方角に当たります。今日のうちに立てることについて、忌みがないという文は見えません。ただ、民間の称する所です」という。(『小右記』)

2月28日 安倍吉平が藤原嬉子の着裳の吉時を勘申する

寛仁三年(1019)2月28日丙辰、安倍吉平は藤原嬉子の着裳の吉時を勘申した。(『御堂関白記』)

4月17日 陰陽寮が禊祭の吉日吉時を勘申する

寛仁三年(1019)4月17日甲辰、左中弁が陰陽寮の勘申した禊祭の文を持ってきた。〈点地の文一枚・御祭両日の御出の日時の文、各一枚。〉見終わって、奏上するように示した。(『小右記』)

4月28日 安倍吉昌 卒去

寛仁三年(1019)4月28日乙卯、「天文博士安倍吉昌朝臣が卒去した」という。(『小右記』)

『小記目録』:天文博士(安倍)吉昌が卒去した。

5月19日 陰陽寮が仁王会の吉日吉時を勘申することになる

寛仁三年(1019)5月19日乙亥、(前略)明日、陰陽寮を召して候ずること・例文を候ずることを経通に命じた。(『小右記』)

5月20日 陰陽寮が仁王会の吉日吉時を勘申する

寛仁三年(1019)5月20日丙子、内裏に参った。〈宰相が車尻に乗った。〉
これより前、左大弁道方が参入した。左中弁経通を介して陰陽寮に伝え命じ、仁王会の日時を勘申させた。(『小右記』)

6月4日 天文密奏の人員不足

寛仁三年(1019)6月4日己丑、午の刻、月・星がともに見えた。月がすでに在った。星が月の坤の方角に相去ること七・八尺の場所に在った。三つの光が一時に変異した。希有の怪異であった。もしくは太白星か。源大納言・四条大納言のもとから消息があった。源大納言は、旧い奏案を送ることを乞うた。(藤原実資は)使者に託して送った。
ちょうど今、天文奏を上る人がいない。「(天文)博士吉昌は卒去し、権博士久邦は伊予国に住んでいる」という。公家が咎められることはなかった。司天台はその名号があるだけだ。何の益があるのか。当時、公事はなかった。(『小右記』)

6月10日 安倍吉平が天文奏の宣旨を下される

寛仁三年(1019)6月10日乙未、(前略)「主計頭(安倍)吉平朝臣が天文奏を上るべき宣旨を下された」という。昨日・今日の間の宣旨であろうか。権天文博士久邦はその道を知らない。また、伊予国に住んでいる。習学宣旨の者は二人いる。孝親朝臣・師任である。「皆、不覚の者である」という。そこで、下されたのだろうか。(『小右記』)

7月11日 安倍吉平が天文密奏を行う

寛仁三年(1019)7月11日丙寅、(前略)「去る九日、天変があった」という。(安倍)吉平朝臣に問い遣わしたところ、月が箕の第二星を犯したことを注し送った。古い勘文を引見すると、種々のことがあった。(『小右記』)

7月19日 惟宗文高が相撲内取の吉日吉時を勘申する

寛仁三年(1019)7月19日甲戌、(前略)府生保重が申して言ったことには「陰陽頭(惟宗)文高が申して言ったことには『明日・明後日の間に(相撲)内取を始めるように、蔵人所の召しによって参る間、勘文を進上することができません。明後日に進上することにしました』ということでした」という。(『小右記』)

8月5日 安倍吉平が御厄月・御厄日について述べる

寛仁三年(1019)8月5日己丑、(前略)また、言ったことには「摂政が言ったことには『春日行幸は来月伊勢宮に遷御した後、もしくは十月に遂げ行われる。十月は御厄月である。もしくは忌ませられるべきか』ということです。(安倍)吉平が申して言ったことには『厄日は慎まれるべきです。厄月を忌まれる必要はありません』ということです。前例を尋ねるべきだと仰られました」という。(『小右記』)

8月8日 安倍吉平が御忌月について述べる

寛仁三年(1019)8月8日壬辰、(前略)弁が言ったことには「春日行幸は、おおよそ十月に定まった。ところが、御厄月に当たる。もしくは、忌みが有るか否か前例を尋ねること、十五日以前に参入し、定め申されることを左大臣に申された。故障を申された。『右大臣に申すように』という。内々に(安倍)吉平が申して言ったことには『出行すべきではないのは、忌日だけです。忌月の文はありません』という。(『小右記』)

8月11日 安倍吉平が春日行幸の御厄月について述べる

寛仁三年(1019)8月11日乙未、早朝、(安倍)吉平朝臣が天文の古昔の奏案を請い取った。「書き写して返します」という。「(天文)密奏を上るため、上代の奏文を見るためです」という。(中略)事のついでに、春日行幸について問い申すと、明後日に決定がある。参る様子であった。「十月は御厄月である。もしくは有るべきか否かのことを内々に吉平に問うたところ、申して言ったことには『厄日のとき、南方に行ってはならないのは明らかです。件の日、大厄月のその日に南方へ向かってはいけません』という。『厄月はありません。ただ、厄日を慎まれますように。十月二十日は御厄日ではありません』ということだ」という。藤原実資が申して言ったことには「年厄・月厄・日厄・時厄、もしくは侍るべきだろうか。ただし、大厄月とはいえ、月中にその方へ向かわないことはない。ただ、その日を忌む者である」という。摂政が命じて言ったことには「当然のことである。そもそも、御厄月に遠くへ出かけるのは如何であろう。前例を尋ね調べたところ、小衰月に遠所へ行幸した例があった。これは吉平が勘申したことである」という。(『小右記』)

8月13日 安倍吉平が春日行幸の御厄月について述べる

寛仁三年(1019)8月13日丁酉、(前略)深夜、宰相が示し送って言ったことには「左大臣、侍従中納言(藤原)行成、中宮権大夫能信、左大弁道方、右大弁朝経が陣に参った。頭弁経通を以て、左大臣に仰られて言ったことには『十月に春日行幸を行われるべきである。ところが、その月は御厄月に当たる。忌みが有るか否か、宜しく定め申すように』という。定め申して言ったことには『(安倍)吉平の申したとおり、その忌みはないだろうか。厄月、厄日は厄日を忌み、月を忌まない。また、申して言ったことには「御厄月の行幸は、その例があります」ということだ』という。仰って言ったことには『定め申したことに従って、その月に行幸を行う』という。(『小右記』)

8月21日 安倍吉平らが座主の病を占う

寛仁三年(1019)8月21日乙巳、(前略)叡覚が言ったことには「内供の消息に言ったことには『座主のご病気は日を追うごとに重くなっている。無気力であることは、特に甚だしい。特に、昨日・今日は下痢が止まらなかった。またまた陰陽師に問わせて、子細を示し送るように』ということです。」という。占方を書き、師重に詳細な趣を含めて三人の陰陽師の所〈(安倍)吉平・(惟宗)文高・(賀茂)守道。〉に遣わした。各々が占って言ったことには「やはりよろしくないことです」という。占方を叡覚に託してこれを送った。(『小右記』)

9月5日 安倍吉平が御厄日について述べる

寛仁三年(1019)9月5日戊午、(安倍)吉平朝臣が言ったことには「二十九日は御受戒です。来月二十日は、先日、おおよそ春日行幸の日を定めました。ところが、御厄日であったため停止しました。『十一月は吉日がない』ということです。来月二十日、月建よりこれを計ると御厄日に当たります。節分より計ると、二十一日に当たります。ただし、来月の御厄月は南方に行くべきではありません。そこで、停止するでしょうか」という。(『小右記』)

9月7日 陰陽寮が修補の吉日吉時を勘申する

寛仁三年(1019)9月7日庚申、(前略)権弁が陰陽寮の勘申した郁芳門より南・談天門より南及び皇嘉門・南面の大垣を修補する日時の文〈十月十四日丁酉。時刻は巳、もしくは午。十七日庚子。時刻は卯、もしくは辰。ただし二十一日の甲辰を犯土してはならない。〉を持ってきた。余(藤原実資)が問うて言ったことには「二十一日甲辰は修補の日として勘申していない。個別に犯土してはならないことを記すのは、その意を得ないことである。事情を伝えて削り棄てたのだろうか」という。すぐに返給した。(『小右記』)

9月8日 安倍吉平が犯土について述べる/吉平が春日行幸の日を勘申する

寛仁三年(1019)9月8日辛酉、(安倍)吉平朝臣が言ったことには「十月二十一日は御厄日です。犯土を行ってはいけません。そこで今日、犯土を行ってはいけない旨を取り急ぎ申し上げました」という。また、言ったことには「談天門より南の一町は御忌方に当たります。今年は、犯土を行ってはいけません」という。「このことは、今朝、権弁朝臣の所に示し遣わしました」という。また、言ったことには「今日、召しにより、入道殿に参りました。春日行幸の日を定められました。十二月はすでに歳暮です。十一月二十八日に改定しました。これは内々のことです。けれども、決定したでしょうか」という。(『小右記』)

9月9日 安倍吉平が談天門の御忌方について述べる

寛仁三年(1019)9月9日壬戌、権弁が陰陽寮の勘申した大垣・皇嘉門の修補の勘文を持ってきた。これは先日、持ってきたものである。(安倍)吉平の申したことがあった。それは、昨日申したことと同じであった。摂政に申すべきことを示した。「ただし、談天門より南の一町は今年の御忌方に当たります。修造してはいけません」という。長門国が修補すべき一町である。年中に修し終わるべき官符を遣わし、修補の時に臨んで明年から修すべきことを伝える。懈怠を致させないためである。修補の日時の宣旨については、副え遣わすべきではない。弁が再び来て言ったことには「勘文を摂政に覽せました。命じて言ったことには『件の勘文は、例の文のようではない。けれども、申したところは「十月二十一日は犯土させてはいけない」ということだ。来月十四日、始めて修すように』ということでした。『長門国のことは、請いに依れ』ということでした」という。(『小右記』)

9月25日 安倍吉平が春日行幸の日時について述べる

寛仁三年(1019)9月25日戊寅、春日行幸の案内を(安倍)吉平朝臣に問い遣わして言ったことには「十一月二十八日はよろしくありません。十二月二十一日について、十二月は御厄月です。そこで、停止しました。明年は御忌方です。また、あってはいけません」という。(『小右記』)

12月4日 安倍吉平が大将軍の方角について述べる

寛仁三年(1019)12月4日丙戌、(前略)(安倍)吉平が来て、雑事を談じた。「行願寺において小塔を造らせた。その功は未だ終わっていない。明年、念誦堂に迎え奉る。行願寺から南方に当たる。明年の春から南方は大将軍の方角である。もし安置し奉れば忌むべきか否か」という。吉平が言ったことには「私の住処から大将軍の方角を忌むべきです」という。(『小右記』)

12月16日 安倍吉平・惟宗文高が土用の移徙について述べる

寛仁三年(1019)12月16日戊戌、(前略)貴重朝臣が言ったことには「一日、助教頼隆が言ったことには『土用の間の移徙は如何であろう』ということでした」という。驚きながら(安倍)吉平朝臣に問い遣わした。報書に言ったことには「土用の時に移徙を忌む勘文は未だ見たことがありません。ただし、季終には移徙を注しませんでした。ただし上・次吉ならびに用の妨げはありません。そこで入道殿下は去年六月に土御門殿に移徙しました。旧居でしたが、皆移徙の法を行われました。新所に同じです。そこで勘申しました」という。土用の時に移徙しないとは、往古にも聞いたことがない。また、仁統師に問うた。「やはり聞いたことがありません」という。左右にこれを問うと、同じことを述べた。四条大納言に申し達した。「未だかつて聞いたことがない。かの難者に問うように」という。頼隆朝臣を召し遣わし、このことを問うた。「見える所はありません。ただ、他のことに准え思い申した所です」という。陰陽頭(惟宗)文高宿禰に問い遣わした。外出していると言って、左右を申さなかった。翌日、文高が勘申して言ったことには「移徙の事について、土用の間の禁忌を見ませんでした。ただし、およそ四季月の善悪を注していません。これを以て案ずると、もしくは忌避すべきでしょうか。指し示す本文は未だ詳らかではありません」という。(『小右記』)

12月21日 安倍吉平が新宅作法を行う

寛仁三年(1019)12月21日癸卯、(前略)(安倍)吉平朝臣が七十二星鎮を送った。梁上に置かせた。今夜の子時、寝殿に移ることによる。(中略)次に主計頭吉平が呪を読み、反閇を行った。次に黄牛を牽いた。〈随身番長が褐衣を着用し、これを牽いた。〉五位二人が続松を秉り、南階の下に到った。また、呪を読み、退いた。藤原実資は直ちに昇り、廂の座に着した。この間、物を吉平に被けた。〈合の細長一重・袴一具。師通朝臣が禄を取った。〉五果〈生栗・搗栗・柏・干棗・橘。当時の美名の物である。〉を嘗めた。宰相が手長。実資が嘗めた。次に女房が夕食を勧めた。今夜の鎮法は水火童の法を用いなかった。すでにこれは旧舎である。また、この家に住んだ。移徙の処は咫尺。そこで省略した。ただ、黄牛だけを用いた。女房の衝重、侍女・随身所のもてなしは所々の屯食であった。吉平が言ったことには「三日三晩、燈燭の火を消してはなりません」という。(『小右記』)

寛仁四年(1020)

2月23日 安倍吉平が源経頼の渡御に際して反閇を行う

寛仁四年(1020)2月23日乙巳、天が陰り、雪が降った。早朝、頼方の宅〈中御門より南、堀川より西に宅がある。門は少ない。〉に渡った。未の刻になって、天気は晴れた。酉二刻、主計頭(安倍)吉平が来て向かって反閇を行った。〈吉平に薄色の織物褂一重を被けた。〉(『左経記』)

6月16日 安倍吉平が故一条院の御骨を置く場所を占う

寛仁四年(1020)6月16日丙申、天が陰った。時々、細雨が降った。午後になって、召しがあって内裏に参った。御簾を下ろした。音楽はなかった。故一条院の御骨について、方忌を避けるために年来、円成寺に置き奉っていた。ところが方忌が開けたので、主計頭(安倍)吉平朝臣が仰せを奉り、御骨を置き奉る場所を円融寺の辺りと占い鎮めた。今日、私奉った。(『左経記』)

6月17日 陰陽寮が四角四堺祭の吉日吉時を勘申する

寛仁四年(1020)6月17日丁酉、皇太后宮の春季御読経が結願した。
皇太后宮権大夫が左仗において陰陽寮を召し、四角四堺御祭の日時を勘申させた。
頭中将にこれを奏上させた。次に余(源経頼)がこれを給わり、史に下し、奉り行わせた。(『左経記』)

6月19日 陰陽寮が四角四堺祭の請奏を奉る

寛仁四年(1020)6月19日己亥、天が晴れた。終日、内裏に伺候していた。晩に及び、関白殿の許に参った。
四角四堺御祭料の請奏を御覧にならせた。陰陽寮が請奏を奉った。(『左経記』)

6月22日 陰陽寮が円教寺を造る吉日吉時を勘申する

寛仁四年(1020)6月22日壬寅、(前略)「中宮大史が仰せを蒙り、陰陽寮を召して命じた。円教寺を造る日時を勘申させた。すぐに奏上された」という。(『左経記』)

7月18日 陰陽寮が丹生・貴船の両社の使者が出立する吉日を勘申する

寛仁四年(1020)7月18日丁卯、午後に及び、内裏に参った。左大将が左仗に参られた。
「陰陽寮を召し、祈雨のために丹生・貴船社への使者を立てられる日時を勘申させるように」という。すぐに十九日・二十二日を勘申した。蔵人範国に奏上させた。「十九日に出立するように」という。(『左経記』)

8月7日 陰陽寮が諸社奉幣の吉日を勘申する

寛仁四年(1020)8月7日丙戌、(前略)四条大納言が左仗において二十一社への奉幣使を定められ、兼ねてまた、陰陽寮を召し、日時を勘申された。〈十三日・十七日。〉(『左経記』)

9月14日 安倍吉平が病を占う

寛仁四年(1020)9月14日壬戌、(前略)この間、ご病気がさらに起こり、重く患われていた。あるいは言ったことには「(安倍)吉平がご邪気があると占った。そこで、僧が加持を奉仕した」という。(『小右記』)

9月16日 安倍吉平が賀茂下社の造立の日時を勘申する

寛仁四年(1020)9月16日甲子、(前略)権左中弁重尹が賀茂下御社の寝殿を修する日時勘文を持ってきた。束帯の間、相逢うことができなかった。奏上すべき旨を示した。〈勘申を暦裏に注した。〉
陰陽寮、賀茂下御社の宝殿を造立される雑事の日時を撰び申した。
一、作事を始められる日時 九月二十八日、丙子。時刻は午・申。十月五日、壬午。時刻は巳・午。
一、仮殿に移し奉る日時 十月十四日、辛卯。時刻は卯。
一、神殿の柱を立て、梁を上げる日時 同日。時刻は午・申。
一、還り移し奉る日時 十月十七日、甲午。時刻は巳・申・戌。二十三日、庚子。時刻は申・酉。
寛仁四年九月十四日 陰陽師清科行国、権助大中臣義光、主計頭安倍朝臣吉平(『小右記』)

9月23日 陰陽寮の勘文

寛仁四年(1020)9月23日、諸門の事始の陰陽寮の勘文のこと。(『小記目録』)

10月7日 七瀬祓/陰陽師が雉の怪異を占う

寛仁四年(1020)10月20日甲申、(前略)今日、七瀬の御祓を行われた。人々が言ったことには「校書殿の東砌の上に雉がいた」という。陰陽師を蔵人所に召し、御卜があった。〈火事・兵乱。〉(『左経記』)

10月8日 安倍吉平が雉の怪異を占う

寛仁四年(1020)10月8日乙酉、(前略)左近将曹重種が言ったことには「昨日、雉が安福殿に侵入し、(欠字)飛び去りました。(安倍)吉平が占い申して言ったことには『火事があるわけではありません。艮・坤の方角より兵革のことを奏上するでしょうか』ということです」という。(『小右記』)

10月22日 惟宗文高・安倍吉平が土公の出入りについて述べる

寛仁四年(1020)10月22日己亥、陰陽頭(惟宗)文高が言ったことには「土公が出入りする時刻について、ある書によると『出入りは寅・申時』ということです」という。〈「出る時刻は、寅時。入る時は、申時・そこで日は犯土に入る」という。〉昨日、(安倍)吉平に問うた。答えて言ったことには「理は(欠字)ですが、長らく用いて来ました。従ってまた、今回もこれを用います。陰陽書によると『世の用いないことは、用いるべきではない』ということです。このような事でしょうか」という。昨日、吉平が注し送ったのはこのようなことであった。今日、文高が述べたことも同様であった。「本文を注し送るように」という。後のために注した。(『小右記』)

10月23日 惟宗文高が方位神の遊行について述べる

寛仁四年(1020)10月23日庚午、(前略)今日、賀茂下社の御正体を宝殿に還り渡し奉った。弁・史が伺候した。(惟宗)文高宿禰が勘申して言ったことには「『新撰(陰陽書)』によると『大将軍・方伯神は四孟(四季のそれぞれの初め)に居ない。四仲(四季のそれぞれの中頃)に常行する。それを以て四方を正し、三年で一巡する。百事に渡って犯してはならない』ということです。『周礼』によると『大将軍が東方にいる時は、寅・辰の方角を避けなければならない』ということです。『雑暦』によると『土公物を見た時、甲・乙の日〈辰。〉、丙・丁の日〈未の日。〉、戊・己の日。〈午。〉、庚・辛の日〈亥。〉、壬・癸の日〈申。〉。この時の犯土は大凶であり、人を害する。土公神が遊行する方角は、甲子〈北方に遊行する。〉、庚午〈還る。〉、戊寅日〈東方に遊行する。〉、甲申〈還る。〉、甲午〈南方に遊行する。〉、庚子〈還る。〉、戊申日〈西方に遊行する。〉、甲寅〈還る。〉。寅・申を出入りの時とする』ということです」という。(『小右記』)

11月1日 安倍吉平・惟宗文高が勘申する

寛仁四年(1020)11月1日戊申、(前略)今夜、西中門の北廊に泊まった。(安倍)吉平・(惟宗)文高の申したことによる。(『小右記』)

11月2日 惟宗文高が念誦堂の壇について述べる

寛仁四年(1020)11月2日己酉、今日、石塔を造り奉った。昨日、春日祭があったためである。
念誦堂の壇〈塔を安置し奉る場所に、壇を築いた。陰陽頭(惟宗)文高の申したことによる。〉(『小右記』)

11月21日 安倍吉平が雷鳴を占う

寛仁四年(1020)11月21日戊辰、(前略)この間、雷電があった。家に帰った後、雷鳴は特にひどかった。
翌日、(安倍)吉平朝臣に問い遣わした。報告して言ったことには「雷鳴のことなることを上奏しました」という。奏案を密々に書いて送った。「主上は慎みますように。また、明年五月に疫癘があります。また、地震があります」という。地震については、月を指定しなかった。旧い奏案を見合わせると、特に相違なかった。ただし、古い奏案には「徳化を施し、災いを消すように」という文があった。(『小右記』)

12月6日 安倍吉平らが釜の怪異を占う

寛仁四年(1020)12月6日壬午、(前略)午の刻、釜が鳴動した。(安倍)吉平・(惟宗)文高・(賀茂)守道が占って言ったことには「卦遇は九醜でした。厳重に慎むべきです。また、卯・酉年、慎むべきのようです」という。(安倍)吉平が言ったことには「怪異の日から三十五日以内の戊・己の日に慎むべきです」という。文高が言ったことには「九醜の怪異の期日は、三年以内に忌み慎むべきです」という。守道が占って言ったことには「怪異の日から三十五日以内、明年五・六・十月の戊・己の日です」という。(『小右記』)

12月11日 安倍吉平が釜の怪異を占う

寛仁四年(1020)12月11日丁亥、(安倍)吉平朝臣を呼び、釜が鳴動した怪異の占いについて問うた。言ったことには「九醜の卦がもっとも重いです。ところが用・伝は吉神を帯びております。多く用・伝により、これを推します。ひとえに卦による者は用・伝を取るべきではありません。用・伝・卦を相合わせて推条があります。用・伝に吉神があれば、遠い期日を取りません。そこで、近い期日を取ったのです。(惟宗)文高・(賀茂)守道に至っては、ただ九醜の卦を守って遠い期日を取りました。そうではありません。やはり件の占いを推せば、咎はないと申すべきです。もしくはよくよく慎まれれば、かえって慶事があるだろうとも申すべきです。ただし、重きによって慎ませられたならば、また、何事かあるでしょうか」という。(『小右記』)

12月25日 安倍吉平が職事に従う日を勘申する

寛仁四年(1020)12月25日辛丑、(前略)黄昏、修理大夫が来て言ったことには「今日、職事に従う日を(安倍)吉平に勘申させた。勘申して言ったことには『二十七日、癸卯』ということでした」という。(『小右記』)

閏12月30日 追儺

寛仁四年(1020)閏12月30日丙子、(前略)次に大納言が弓場に進み、蔵人良任に御馬の解文を奏上させた。仰って言ったことには「左右馬寮に分けて取らせよ」という。大納言は本座に帰り、外記に分け取るように両寮に命じさせた。次に大納言及び修理大夫が敷政門から出た。中重を経て、追儺所に着した。〈余(源経頼)も同じく従って座に着した。〉外記が代官を申した。〈中務丞は参らなかった。陰陽允忠孝に代わった。〉という。「終わって、上卿が弁・史・外記を率いて承明門の外に立ち、雑事を催した。
陰陽寮が桃弓・葦矢を上卿以下に分け奉った。上は笏を腰に挿し、弓矢を取った。〈宰相及び余(経頼)もまた同様であった。〉次に門を開いた。闈司(いし)が座に着した」という。「上と宰相は御前を渡る間に弓矢を撤収し、笏をとった」という。(『左経記』)

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