陰陽道

【年表】平安時代の陰陽師たちの活動記録(後一条天皇~)

陰陽師たちの活動記録

後一条天皇時代

長和五年(1016)

1月29日 陰陽寮が神鏡を移す日時と伊勢奉幣の日時を勘申する

1月29日甲戌、陰陽寮は神鏡を移す日時と伊勢奉幣の日時を勘申した。(『小右記』)

2月6日 陰陽寮が翌日の行幸の吉時を勘申する

2月6日辛巳、陰陽寮は7日に行われる行幸の吉時を勘申した。(『小右記』)

2月19日 陰陽寮が斎王のことを伊勢に報告する日時を勘申する

2月19日甲午、陰陽寮は斎王のことを伊勢に報告する日時を勘申した。→2月25日となった。(『小右記』)

2月27日 安倍吉平が藤原道長の二条第移御と摂政大饗の吉日を勘申する

2月27日壬寅、安倍吉平は藤原道長が二条第へ移御を行う吉日を勘申し、3月23日となった。また、吉平は道長が摂政に任じられたことを祝う大饗を行う吉日を勘申した。4月9日となった。(『御堂関白記』)

3月1日 安倍吉平・安倍吉昌・惟宗文高・大中臣実光が藤原道長および源倫子の解除を行う

3月1日乙巳、藤原道長とその妻源倫子は鴨川において御燈を奉らないことに対する祓と七瀬祓を行った。安倍吉平・安倍吉昌・惟宗文高・大中臣実光が担当した。(『御堂関白記』)

3月21日 安倍吉平が藤原道長の忌日についての質問に回答する

3月21日乙丑、安倍吉平は藤原道長に「二条第に移る際は方違を行う必要がある」と伝えていたが、暦上では遠くへ行ってはならない日になっていた。
吉平は「桓武天皇の遷都もその日に行われていたので忌む必要はない」と言ったが、道長は「遷都から三百年も立っており、方違を行う場所もない」として、勘申しなおすように命じた。(『御堂関白記』)

3月23日 安倍吉平が三条院の枇杷殿寝殿移御に際して反閇を奉仕する

3月23日丁卯の酉の刻、安倍吉平は三条院の枇杷殿寝殿への移御に際して反閇を奉仕した。(『御堂関白記』)

4月5日 安倍吉平が内裏造営・立柱・後一条天皇の遷御の吉日を報告する

4月5日戊寅、安倍吉平は藤原道長に「賀茂守道のもとにあった来年の暦と草案を見たところ、一月と四月に内裏造営・立柱・遷御の吉日があった」と報告した。(『御堂関白記』)

6月2日 安倍吉平が後一条天皇の一条院遷御に際して反閇を奉仕する

6月2日甲戌、安倍吉平は後一条天皇の一条院遷御に際して反閇を奉仕した。(『御堂関白記』)

7月1日 安倍吉平が藤原道長の辞表奏聞の吉日を勘申する

7月1日癸卯、安倍吉平は藤原道長が摂政・左大臣・准三宮の辞表を奏聞する吉日を勘申した。15日となった。(『御堂関白記』)

7月25日 安倍吉平・惟宗文高が土御門第の造営始・立柱・上棟の吉日を勘申する

7月25日丁卯、安倍吉平と惟宗文高は土御門第の造営始・立柱・上棟の吉日を勘申した。(『御堂関白記』)

8月7日 安倍吉平・惟宗文高が法興院町造営の場所を勘申する

8月7日戊寅、安倍吉平と惟宗文高は藤原道長の法興院町造営の地を勘申した。法興院の南町になった。(『御堂関白記』)

8月25日 安倍吉平・陰陽師七人が藤原道長の解除を行う

8月25日丙申、陰陽師七人が鴨川において藤原道長のために解除を行った。川合瀬の祓は安倍吉平が担当した。(『御堂関白記』)

9月1日 安倍吉平が藤原道長から御禊を命じられるが、明日行うと申す

9月1日壬寅、安倍吉平は藤原道長から鴨川で御燈を奉らないことに対する御禊を行うよう命じられたが、今日は坎日の内の寅の日のため翌日に行うと話した。(『御堂関白記』)

9月2日 安倍吉平が藤原道長のために御禊を行う

9月2日癸卯、安倍吉平は鴨川において藤原道長のために御禊を行った。(『御堂関白記』)

9月9日 安倍吉平が初斎院の御禊を行う

9月9日庚戌、安倍吉平は神祇官の宮主とともに初斎院の御禊を奉仕した。(『御堂関白記』)

10月20日 安倍吉平が三条院の三条院遷御に際して反閇を行う

10月20日辛卯、安倍吉平は三条院の高倉第から三条院への遷御に際して反閇を奉仕した。(『御堂関白記』)

長和六年/寛仁元年(1017)

2月5日 惟宗文高と安倍吉平が石清水行幸の日時を勘申する

2月5日甲戌、陰陽頭惟宗文高と安倍吉平は後一条天皇の石清水行幸の日時を勘申した。吉平の勘文の方に道理があるということだった。藤原道長は藤原資平を介して勘文を送った。(『御堂関白記』)

2月11日 安倍吉平が石清水行幸の日時を勘申し直す

2月11日庚辰、石清水行幸は3月4日に予定されていたが、忌日にあたるので、安倍吉平が勘申し直した。
吉平が「同月の8日が吉日であったが、(道長の)衰日のため勘申しなかった」と申したところ、道長は自分の衰日は忌む必要はないと言って、8日に行幸を行うことになった。(『御堂関白記』)

2月19日 安倍吉平・陰陽師六人が三条院に七瀬祓を奉仕する

2月19日戊子、陰陽師六人が二条大路の末から川合瀬まで三条院に七瀬祓を奉仕した。最初と最後は安倍吉平が奉仕した。(『御堂関白記』)

3月27日 安倍吉平が藤原道長に法興院建立の際に方忌があることを伝える

3月27日丙寅、安倍吉平は藤原道長に「4月19日に法興院に御堂が建てられる予定ですが、方忌があるため、4月4日以前に他所へ移ってください」と申した。
道長は方角の良い源済政邸に移ると伝えた。→4月2日、道長は済政邸に移った。(『御堂関白記』)

5月12日 惟宗文高が故三条院の葬送の勘文を進上し、御陵所を検分する

5月12日己酉の朝、惟宗文高は故三条院の御葬送の勘文を進上した。
また、御陵所を定めた。船岡山の西北方ということになった。(『御堂関白記』)

6月1日 安倍吉平が藤原道長に七瀬祓を奉仕する①

6月1日戊辰、安倍吉平は藤原道長のために川合瀬において禊祓を行った。(『御堂関白記』)

6月2日 安倍吉平が藤原道長に七瀬祓を奉仕する②

6月2日己巳、安倍吉平は藤原道長のために鴨川において禊祓を行った。(『御堂関白記』)

6月3日 安倍吉平が藤原道長に七瀬祓を奉仕する③

6月3日庚午、安倍吉平は藤原道長のために鴨川において禊祓を行った。(『御堂関白記』)

6月4日 安倍吉平が藤原道長に七瀬祓を奉仕する④

6月4日辛未、安倍吉平は藤原道長のために鴨川において禊祓を行った。(『御堂関白記』)

6月5日 安倍吉平が藤原道長に七瀬祓を奉仕する⑤

6月5日壬申、安倍吉平は藤原道長のために鴨川において禊祓を行った。(『御堂関白記』)

6月7日 安倍吉平が藤原道長に七瀬祓を奉仕する⑥

6月7日甲戌、安倍吉平は藤原道長のために禊祓を行った。この日で七瀬祓が終わったので、道長は吉平に禄(褂一重と袴)を与えた。(『御堂関白記』)

8月7日 安倍吉平が敦良親王立太子の吉日を勘申する

8月7日壬申、安倍吉平は敦良親王(後の後朱雀天皇)立太子の吉日を勘申した。吉平は8月9日に早く行うべきだと申した。(『御堂関白記』)

8月9日 大中臣実光が服喪を明ける日時を勘申する/大中臣実光が藤原行成の解除を行う

8月9日甲戌、陰陽助大中臣実光は服喪を明けられる日時を勘申した。今日の巳の刻になった。
また、大中臣実光は藤原行成の解除を行った。(『権記』)

11月14日 「陰陽師たち」が吉田祭に奉幣を行う

11月14日戊申、藤原道長は「陰陽師たち(詳細不明)」に吉田祭の奉幣を行わせた。日がよろしくないことに依るものだった。(『御堂関白記』)

寛仁二年(1018)

2月2日 安倍吉平が藤原威子入内の吉日を勘申する

2月2日丙寅、安倍吉平は藤原道長に召されて藤原威子が入内する吉日を勘申した。(『御堂関白記』)

3月7日 藤原威子の入内に際して安倍吉平が反閇を行う

3月7日庚子、藤原威子の入内に際し、安倍吉平は藤原道長に召されて反閇を奉仕した。(『御堂関白記』)

4月10日 「陰陽師」が藤原道長の梅宮祭奉幣に際して禊祓を行う

4月10日癸酉、藤原道長の梅宮祭奉幣に際し、陰陽師(詳細不明)が鴨川の河原において道長の禊祓を行った。(『御堂関白記』)

4月13日 安倍吉平が後一条天皇の内裏遷御の吉日を勘申する

4月13日丙子、安倍吉平は藤原道長に召されて、後一条天皇が内裏遷御を行う吉日を勘申した。
吉平は「滅門の日は忌まないことになっている」と述べて、内裏遷御の先例を勘申した。(『御堂関白記』)

4月27日 安倍吉平が藤原道長の土御門第へ移徙を行う吉日を勘申する

4月27日庚寅、安倍吉平は藤原道長に召されて道長が土御門第に移徙を行う吉日を勘申した。
→6月27日になった。(『御堂関白記』)

4月28日 後一条天皇の新造内裏遷御に際して、安倍吉平が新宅作法を行う

4月28日辛卯、後一条天皇の新造内裏遷御に際して、安倍吉平は新宅作法を行った。
吉平は特に命じられていないにも関わらず、呪符を奉仕した。
また、事前に藤原道長から五菓について問われたところ、吉平は必要だと回答したので、五菓が行われた。(『御堂関白記』)

7月28日 安倍吉平が藤原威子立后の吉日を勘申する

7月28日戊子、安倍吉平は藤原道長に召されて藤原威子立后の吉日を勘申した。
→10月16日になった。(『御堂関白記』)

10月29日 安倍吉平が藤原道長の土御門第における法華八講の吉日を勘申する

10月29日戊午、安倍吉平は藤原道長に召されて土御門第における法華八講の吉日を勘申した。
→11月2日・6日・12日・14日となった。(『御堂関白記』)

11月6日 安倍吉平が藤原道長の禊祓を行う

11月6日甲子、安倍吉平は藤原道長の眼病をを祓うために禊祓を行った。(『御堂関白記』)

11月7日 安倍吉平が藤原道長の禊祓を行う

11月7日乙丑、安倍吉平は鴨川において藤原道長の禊祓を行った。(『御堂関白記』)

11月8日 安倍吉平が藤原道長の禊祓を行う

11月8日丙寅、安倍吉平は鴨川において藤原道長の禊祓を行った。(『御堂関白記』)

11月9日 安倍吉平が藤原道長の禊祓を行う

11月9日丁卯、安倍吉平は鴨川において藤原道長の禊祓を行った。(『御堂関白記』)

11月12日 安倍吉平が藤原道長の禊祓を行う

11月12日庚午、安倍吉平は藤原道長のために一日中禊祓を行った。この一連の禊祓は道長の眼病を祓うためのものだったが、禊祓を終えても道長の眼病は良くならなかった。(『御堂関白記』)

11月26日 安倍吉平が中宮藤原威子の諸社奉幣に際して禊祓を行う

11月26日甲申、安倍吉平は中宮藤原威子の諸社奉幣に際して禊祓を奉仕した。(『御堂関白記』)

12月9日 安倍吉平が儇子内親王誕生後の土御門第における法華八講について勘文を作成する

12月9日丁酉、安倍吉平は藤原道長の命で儇子内親王誕生後の土御門第における法華八講について勘文を作成した。(『御堂関白記』)

12月23日 「陰陽師」が藤原道長家の秋季御読経の吉日を勘申する

12月23日辛亥、陰陽師(詳細不明)の勘申によって、藤原道長は秋季御読経を開始した。
本来は良くない日だったが、他に日がなかったのでこの日に行われた。(『御堂関白記』)

寛仁三年(1019)

2月6日 「陰陽師」が藤原道長の眼病を治すために魚肉を勧める

2月6日甲午、藤原道長は目がよく見えず、手元にあるものが辛うじて見える状態だった。
ここ数ヵ月間、道長は魚肉を食していなかったので、陰陽師(詳細不明)は医家とともに魚肉を食すことを勧めた。(『御堂関白記』)

2月28日 安倍吉平が藤原嬉子の着裳の吉時を勘申する

2月28日丙辰、安倍吉平は藤原嬉子の着裳の吉時を勘申した。(『御堂関白記』)

治安三年(1023)

7月17日 惟宗文高が鬼気祭を行う

7月17日己卯の夜、惟宗文高が西門において鬼気祭を行った。(『小右記』)

12月2日 惟宗文高が鬼気祭を行う

12月2日辛酉、惟宗文高は北門において鬼気祭を行った。(『小右記』)

12月23日 惟宗文高が鬼気祭を行う

12月23日壬午の夜、惟宗文高は鬼気祭を行った。(『小右記』)

万寿元年(1024)

12月6日 惟宗文高が鬼気祭を行う

12月6日庚申、惟宗文高は北門において鬼気祭を行った。(『小右記』)

万寿四年(1027)

6月16日 中原恒盛が鬼気祭を行う

6月16日乙酉、中原恒盛は鬼気祭を行った。(『小右記』)

長元元年(1028)

12月22日 惟宗文高が鬼気祭を行う/中原恒盛が鬼気祭を行う

12月22日壬午、惟宗文高が鬼気祭を行った。また、中原恒盛が河原にて内供良円のために鬼気祭を行った。(『小右記』)

長元三年(1030)

6月9日 惟宗文高が鬼気祭を行う

6月9日辛卯、陰陽頭惟宗文高が羅城門と京極の四角において鬼気祭を行った。(『小右記』)

長元四年(1031)

2月29日 中原恒盛が鬼気祭を行う

2月29日丙午の夜、陰陽属中原恒盛は西門において鬼気祭を行った。(『小右記』)

長元五年(1032)

11月1日 御暦奏

11月1日、御暦奏が行われた。

長暦三年(1039)

10月5日 中原恒盛が鬼気祭を行う

10月5日壬戌、中原恒盛が鬼気祭を行った。(『春記』)

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