平安時代

【年表】平安時代の陰陽師たちの活動記録―後一条天皇時代その3(万寿~長元)

陰陽師たちの活動記録

後一条天皇時代

万寿元年(1024)

1月7日 賀茂守道が式部輔代を務める

万寿元年(1024)1月7日丙申、(前略)四位以下の位記は、式部輔代主計助(賀茂)守道がこれを読んだ。(『小右記』)

2月27日 賀茂守道が泰山府君祭を行う

万寿元年(1024)2月27日乙酉、(前略)今夜、(賀茂)守道朝臣が南庭において泰山府君祭を行った。藤原実資は祭場に出居し、拝礼した。(『小右記』)

7月10日 安倍吉平が行幸定に伺候する

万寿元年(1024)7月10日乙未、兼資朝臣が言ったことには「禅室において、関白・民部卿が共に高陽院行幸について定められました。(安倍)吉平が伺候しました。行幸のことを承りませんでした。ただし、九月に云々します。太后は来月十九日に高陽院に移られます」という。(『小右記』)

10月10日 安倍吉平が反閇を行う

万寿元年(1024)10月10日甲子、(前略)夜に入って、大外記頼隆が来て言ったことには「行幸の行事大納言能信・参議広業・右中弁章信・外記師任・大夫史貞行。日時を勘申しようとしましたが、(安倍)吉平・(惟宗)文高は参りませんでした。戌の刻、宰相が着座しました。官・外記に参りました。退出後、案内を見て来たことを師重に伝えてこれを遣わしました。中納言朝経が同時に着座しました。主計頭吉平が二人ながら反閇を行いました」という。(『小右記』)

10月14日 安倍吉平・賀茂守道が着裳の日を勘申する

万寿元年(1024)10月14日戊辰、(前略)小女の着裳の日について陰陽書を見たところ、十二月一日乙卯・十三日丁卯が吉日であった。まず師重に(安倍)吉平朝臣に問わせたところ、申して言ったことには「十二月一日の着裳が吉です。十三日丁卯は、加冠の吉日に入りません。ただし嫁娶には吉です」という。また、師重を差し遣わして(賀茂)守道朝臣に問うたところ、申して言ったことには「十二月一日・十三日の着裳は共に吉です。冠・帯の着用に吉です」という。「件の日を着裳に用いるべきです」という。宰相・大膳大夫敦頼が着裳のことを相定めた。雑事を人々の許に仰せ遣わした。まず十二月一日を定めるため、守道に召し遣わして覆問する。(『小右記』)

10月27日 安倍吉平・惟宗文高が天一神の方角を勘申する

万寿元年(1024)10月27日辛巳、(前略)宰相・右中弁章信が来た。宰相が言ったことには「昨日、中宮の行啓を突然中止しました。天一神が西に在ることによります。(安倍)吉平・(惟宗)文高が申して言ったことには『天一神の方角には当たりません』ということです。けれども、やはり思い悩むため、申したことを用いられなかった。これは関白が定めたことです」ということでした。日来、中宮は上東門院に御坐しています。あるいは、言ったことには「去る二十五日に入られるべきです。ところが、太白神が西に在ることによって、入られませんでした。昨日、天一神が西の方に在ることを勘申しました。吉平は勘申を思失しました。ところが、問われたところ、塞がらないと申しました。文高も同じくその旨を申しました。申したところは、当たっておりませんでした」という。(『小右記』)

10月29日 群盗が中原恒盛の邸宅に侵入する

万寿元年(1024)10月29日癸未、去る夜、群盗が陰陽師(中原)恒盛の邸宅に侵入した。悉く妻子・雑人の衣裳を捜し取った。また、大刀で従者の頬を打ち切った。恒盛は外出していた。〈「公家の御祓により、(賀茂)守道朝臣が難波に向かいました。恒盛が相従いました」という。日頃の夜、群盗が人の邸宅に侵入していた。仁王経の所説のようであった。〉(『小右記』)

12月3日 賀茂守道が行幸の方角について述べる

万寿元年(1024)12月3日丁巳、資高が言ったことには「昨日、頼隆真人が言ったことには『二十六日の行幸の日、(賀茂)守道が難を発した』ということです」という。驚きながら問い遣わすと、申して言ったことには「二十六日は、太白神が戌亥(の方角)に在ります。御在所から件の方角に相当たるでしょうか。ただし、歩数で方角を定められるでしょうか。また、庚辰の日は神吉に入りません。このような説に就いて、云々する所でしょうか。けれども、上吉、ならびにこれを用いられることに妨げはありません。なお乾の方角に当たるならば、もっとも忌まれるべきです」という。愚案を巡らせたところ、乾には当たらないか。西に短く、北に長いか。推量するだけである。(『小右記』)

12月6日 惟宗文高が鬼気祭を行う

12月6日庚申、惟宗文高は北門において鬼気祭を行った。(『小右記』)

12月26日 安倍吉平が反閇を奉仕する

万寿元年(1024)12月26日庚辰、今日、北野への行幸が行われた。(中略)まず、反閇を奉仕した。〈(安倍)吉平。〉(『小右記』)

万寿二年(1025)

3月3日 安倍吉平が河臨祓を行う

万寿二年(1025)3月3日乙酉、申の刻、(藤原実資は)一条末に出て河臨祓を行った。〈主計頭(安倍)吉平。大褂を下給した。〉(『小右記』)

7月3日 賀茂守道が反閇を奉仕する

万寿二年(1025)7月3日癸未、この間、ようやく子二刻に及ぶことを(賀茂)守道朝臣が申させた。そこで御車を中門の西廊の西戸に寄せ、筵道を敷いた。守道は同廊において反閇を奉仕した。(『小右記』)

7月22日 安倍吉平らが怪異について占う

万寿二年(1025)7月22日壬寅、(前略)内府が造営した二条の家に、昨日、蓮四茎が生じた。〈新しい築垣の堀の場所である。また、言ったことには「壁土を取った所に水湿の気はなかった」という。〉怪異とした。(安倍)吉平・(賀茂)守道・(中原)恒盛が占ったところ、皆不吉であった。これは恒盛の申したことである。吉平・守道が占って言ったことには「病事があります」という。恒盛の占いも同様であった。ただし、加えて占ったところ「火事があります」という。「用・伝が共に凶です」という。〈「怪異を見たのは、昨日の未の刻」という。〉(『小右記』)

8月3日 安倍吉平らが出産の時刻を占う

万寿二年(1025)8月3日壬子、(前略)民部卿が言ったことには「(安倍)吉平・(賀茂)守道が出産の時刻を占った。吉平が占って言ったことには『午の刻』という。守道が占って言ったことには『辰の刻』という。女房が陰陽師(中原)恒盛を召して占い勘申して言ったことには『酉の刻』という。酉の始刻に出産された。恒盛の占いは、二人に勝った。そこで、禄を下給した」という。(『小右記』)

8月4日 中原恒盛が出産の時刻・赤子の性別を占う/安倍吉平・賀茂守道が出産に伺候する/中原恒盛が河臨祓を奉仕する

万寿二年(1025)8月4日癸丑、(前略)「昨日の尚侍の出産の時刻について(中原)恒盛に問うた。申して言ったことには『卯・辰の刻もしくは申・酉の刻、平安に遂げられるでしょうか』という。まだ、男女を問われると、男だと占い申した。御祓に奉仕する間、遂げられた」という。「疋絹を下賜した。昨日から(安倍)吉平・(賀茂)守道が伺候している。今日、恒盛が河臨祓を奉仕した。召しによって参入した」という。「吉平の禄は三疋。守道は二疋」という。(『小右記』)

8月5日 安倍吉平・賀茂守道が加持祈祷の日時を勘申する

万寿二年(1025)8月5日甲寅、(前略)「尚侍が赤斑瘡を患っている間に産気がありました。加持を行うべきか否か、疑いがあります」という。「そこで、占われました。(安倍)吉平が言ったことには『よろしくない』ということでした。後で聞いたことには『吉平は加持が行われるべきだと申した』という。(賀茂)守道が言ったことには『吉です』という。禅閤には加持すべき心があり、吉平を勘当された。しかしながら、諸僧は加持することができなかった。『邪気を怖れたことによる』という。禅閤はまず加持を行い、その後諸僧が加持を行って邪気を調伏した。禅閤は詞を放った」という。加持はよろしくないことである。偏に神明に祈って、平産を期すべきであろうか。(『小右記』)

8月8日 安倍吉平・賀茂守道が加持祈祷の日時を勘申する

万寿二年(1025)8月8日丁巳、(前略)夜、宰相が言ったことには「源中納言が言ったことには「一日、禅閤が言ったことには『(安倍)吉平の言ったことに従って加持させたところである』ということです」という。前日、宰相が言ったことには「(賀茂)守道が占って言ったことには『加持に吉です』という。吉平はよろしくないと述べた」という。先日の説は、源中納言の説と相違している。「前日の説は、ある説である」という。(『小右記』)

9月22日 安倍吉平が図絵の日時を勘申する

万寿二年(1025)9月22日辛丑、(前略)「また、仏師入円が大元帥の図絵の支度を進上した。〈三体ならびに侍者天。〉料物の米は二百二十石。御衣は広絹を用いる。図絵し奉る日時は、(安倍)吉平が勘申した。〈二十四日、癸卯。時刻は(欠字)。二十八日、丁未。時刻は(欠字)。〉件の勘文ならびに支度は未だ奏上していない」という。内覧を経て奏上すべきことを示した。(『小右記』)

9月24日 惟宗文高が大不吉の日について述べる

万寿二年(1025)9月24日癸卯、(前略)「今日、故皇后宮を改葬しました」という。永信朝臣が言ったことには「大蔵卿通任が勘申させたことです。ところが、この日は大不吉だと人々は言いました。そこで、永信を以て(惟宗)文高宿禰に問われたところ、申して言ったことには『もっとも忌まれるべき日です』ということです。そこで停止しました」という。「件の日は、(安倍)吉平が勘申しました」という。凶事の改定は世間の忌むところである。これを以て験と為すべきだ。(『小右記』)

10月3日 安倍吉平・惟宗文高が御読経の日時を勘申する

万寿二年(1025)10月3日辛亥、早朝、左少弁為善が来て言ったことには「今日、参るべきか否か」という。資高に参入すべき旨を伝えさせる。
御読経の日時勘文を問わせたところ、言ったことには「(安倍)吉平・(惟宗)文高を召し遣わした。ただ今内裏に参って問い宣すように」という。(中略)また、日時勘文を問うた。申して言ったことには「陰陽頭文高が参入し、十九日のみを勘申した。そこで、両日を勘申するように命じた」という。(『小右記』)

12月1日 安倍吉平が式曹司の築垣について述べる

万寿二年(1025)12月1日己酉、(前略)夜になって(源)経頼が来て言ったことには「(安倍)吉平朝臣に問い遣わしました。申して言ったことには『絶命・禍害の方角は重く犯土を忌みます。損壊した築垣とはいえ、犯土は軽くありません。さらに犯されてはいけません』ということでした」という。(『小右記』)

晴れた。結政所に参った。次に右府に参り、垣のことを申した。命じて言ったことには「東方は御絶命方に当たる。この方角は、もっとも犯土を忌むべきだと伝え聞いたことがある。陰陽寮を召して問い、勘申に従って宣旨を下賜するべきか」という。このことを関白殿に申した。「早く(安倍)吉平朝臣を召して問うように」という。吉平を召して問うたところ、申して言ったことには「重く忌まれなければならないことです」という。このことを右府に申した。次に殿に申した。仰って言ったことには「申したことに依り、停止するように」という。夜に入って帰宅した。(『左経記』)

12月2日 安倍吉平が式曹司の築垣について述べる

万寿二年(1025)12月2日庚戌、左中弁が来た。資高に伝えさせて言ったことには「式曹司の築垣ついて、昨夜関白に申しました。(安倍)吉平の申したことに従って、明年の春節を過ぎて築きます」という。(『小右記』)

万寿三年(1026)

1月28日 安倍吉平らが内裏御厨子所の怪異を占う

万寿三年(1026)1月28日丙午、天が晴れた。晩に及び、関白殿に参った。
(安倍)吉平・(惟宗)文高・(賀茂)守道を召し、御卜があった。〈「内裏御厨子所に光があった。照り輝くことが数回あった」という。〉吉平・文高は「咎はありません」という。守道は「後一条天皇のご病気があります」という。舌談の議論は数刻に及んだ。終わって退出した。関白殿の御使として御堂に参った。吉平らが申した旨を申した。仰って言ったことには「御卜の結果のように、重大なことではない。ただし、怖体は例にはない。内外に触れ、御祈願があるべきである」という。すぐに帰参し、御消息の旨を申した。深夜に及び、帰宅した。(『左経記』)

2月11日 惟宗文高が祈穀奉幣使の吉日吉時を勘申する

万寿三年(1026)2月11日戊午、天が晴れた。列見により官に参る間、内府から召しがあった。そこで、まず参入した。命じて言ったことには「今日、祈穀奉幣使を定め申すように。まず内裏に参り、陰陽寮を召し儲けるように」という。そこで内裏に参り、陰陽寮を召させた。すぐに(陰陽)頭文高、これを率いて参入した。次に内府が参られた。左仗において使者を定めた。〈右兵衛督が執筆した。〉日時勘文を副えて、私(源経頼)に奏上させた。私(経頼)が奏下して、上卿に下し奉った。上卿が外記に下賜した。(『左経記』)

3月17日 安倍吉平・賀茂守道が子犬の死穢を占う

万寿三年(1026)3月17日甲午、天が陰り、終日雨が降った。昨日、宮に参ったとき、女房が仰って言ったことには「今朝、御帳の中で子犬が死んでいました。すぐに侍者に命じて、取って棄てさせました。ただし、密々に御卜があるべきです」という。そこで、(安倍)吉平・(賀茂)守道を召し卜筮させたところ、各々が申したことには「(目撃したのが)巳の刻であれば咎はなく、辰の刻であれば御薬のことがあるでしょう」という。件の時刻を尋ね問うたところ「巳の刻の始めにこれを見た」という。(『左経記』)

4月5日 安倍吉平・賀茂守道が輦車を造る日時を勘申する

万寿三年(1026)4月5日、(安倍)吉平・(賀茂)守道の朝臣が輦車を造る日時を勘申した。(『小右記』)

4月27日 安倍吉平が月曜御祭を奉仕する

万寿三年(1026)4月27日癸酉、(前略)今日から始めて仁海僧都を請じ、宮の御在所において御修法を行われた。去る十五日の夜の月蝕により、御座を慎まなければならないと勘申したのである。また、(安倍)吉平に月曜御祭を奉仕させた。(『左経記』)

5月9日 安倍吉平・惟宗文高が軒廊御卜を行う

万寿三年(1026)5月9日甲申、内裏に参った。右府が左仗座に大外記頼隆真人を召し、神祇官・陰陽寮を召すようにと仰られた。次に私(源経頼)を召した。軒廊に座を敷かせるようにと仰られた。しばらくして、頼隆が神祇官・陰陽寮が伺候したと申した。すぐに掃部が坐を軒廊に敷いた。〈東西に行った。畳を敷いた。中に道を開けた。〉
右府が外記を召し、神祇官・陰陽寮を召させた。神祇大副守隆・祐・少史為賢・主計頭(安倍)吉平・陰陽頭(惟宗)文高・允が日華門から入って着座した。〈神祇官は西上北面。陰陽寮は東上北面である。〉主殿が火を神前に置いた。主水が水を盛り、同様に神前に置いた。右府が守隆・吉平を召し、太宰所の言上した解文を下賜し、占わせた。〈解状によると「宇佐宮の御殿の前に生えている柞木が枯れ、南楼の上に鴨が集まった」という。〉
神祇官の占いに言ったことには「木が枯れたのは、社司の神事違例の咎によって起こったのでしょうか」という。「鴨が集まったのは、未申・西の方角から兵乱を奏上する者がいるのでしょうか。兼ねて、疫癘があるでしょうか」という。
陰陽寮の占いに言ったことには「木が枯れたのは、社司に相論があるでしょうか。鴨のことは、未申・巽の方角から兵乱を奏上する者がいるのでしょうか」という。〈皆、宿紙に書いた。〉
右府が左頭中将にこれを奏上させた。仰ったことには「このような卜筮の咎を謝して退けられた前例を調べるように」という。「すぐに大外記頼隆を召して仰られた」という。
今日、関白殿は御宿所において吉平・文高を召し、大原野社の木が倒れたことを問うた。両人が申して言ったことには「さらに咎はありません」という。(『左経記』)

6月17日 安倍吉平が御卜を奉仕する

万寿三年(1026)6月17日辛卯、(前略)御卜があった。〈主計頭(安倍)吉平が御卜を奉仕した。〉一所〈「左衛門解督の家。東洞院よりは東、大炊御門よりは南角にある所です。これを推すに、吉です」という。〉二所〈「藤中納言の家。二条よりは南、東洞院とりは西角にある所です。これを推すに、よろしくありません」という。〉すぐに左衛門督を召し、供奉するようにと仰られた。次に御出の日を問われた。吉平が申して言ったことには「九月二日がよろしいでしょう。このほかに吉日は見えません」という。追って勘文を奉るようにとの仰せがあった。(『左経記』)

6月24日 惟宗文高が御衰日を占う

万寿三年(1026)6月24日戊戌、(前略)「今日は母親の衰日に当たるが、陰陽頭(惟宗)文高が忌む必要はないと示しました」という。(『左経記』)

7月9日 賀茂守道が藤原実資の輦車の時刻を勘申する

万寿三年(1026)7月9日壬子、(前略)今日、巳の刻に輦に乗った。これは(賀茂)守道朝臣が勘申したことである。そこで、輦車を待賢門に遣わした。(『小右記』)

8月26日 賀茂守道が秋季御読経の日時を勘申する

万寿三年(1026)8月26日己亥、(前略)次に、秋季御読経の僧名を定めた。日時の文を加えた。また、源経頼にこれを奏上させた。〈これより先、(賀茂)守道が申して言ったことには「来月十五日のほかに、御読経を行われるべき日はありません。ただし、件の十五日は月蝕の日です。暦家は月蝕の日を凶会に准えます。これを如何しましょう。仰せによって勘申すべきです」という。上が宣したことには「御読経は恒例行事である。申し告げなかったといっても、量り勘申するように。月蝕の日においては、指し示す忌みがあるのならば、避けるべきである」という。そこで、十月十日を勘申した。「このほかに、よろしい日はありません」という。〉
すぐに申されて言ったことには「守道の申したことは、このようであった。ただし、十月十日は維摩会始の日である。興福寺は敢えて参入すべきではない。これを如何しよう。ただし、期日は遠い。またまた、後日に申し定めるように」という。(『左経記』)

8月28日 賀茂守道らが賀茂上社の怪異について占う

万寿三年(1026)8月28日辛丑、(前略)源中納言が左仗座において神祇官・陰陽寮を召し、軒廊において賀茂上社の前の木が突然枯れたことについて卜筮を行わせた。〈主計頭(賀茂)守道・陰陽頭(惟宗)文高が参入した。座に召したとき、文高は急に本病が再発した旨を申し、着座しなかった。頻りに召したが、参入しなかった。これは、守道が下臈であることによって座次の愁いがあり、参らなかった。〉そこで、上卿、関白殿に申させた。仰って言ったことには「且つ(安倍)吉平朝臣を召し、兼ねて文高の故障を申させるべきではない」という。しばらくして、吉平が参入した。次に文高が再び参入した。座次は吉平・守道・文高、「御卜の意味は兵革・火事があります」という。「神・陰、まずこのことを申した」という。(『左経記』)

8月30日 賀茂守道が土公祭を行う

万寿三年(1026)8月30日癸卯、天が陰り、雨が降った。(賀茂)守道朝臣に左金吾の家において土公祭を行わせた。これは行啓により、諸所に修理を加え、自然に犯土した。そこで行わせたものである。(『左経記』)

9月2日 賀茂守道が散供を行う/安倍吉平が護符を作る

万寿三年(1026)9月2日乙巳、(前略)行啓の前、(賀茂)守道朝臣に散供を行わせた。
また、(安倍)吉平朝臣に命じて御護符を作り、御在所に四隅の柱に打ち付けた。(『左経記』)

12月3日 安倍吉平・賀茂守道が反支について述べる

万寿三年(1026)12月3日乙亥、天が陰り、雨が降った。入道殿が仰って言ったことには「御産の予定時期はすでに到った。(安倍)吉平・(賀茂)守道を召し、反支の当否を問うように。兼ねてまた、土用の間、御産に触れられることについて問うように。事を行われるべきか否かのことがある」という。
吉平が勘申して言ったことには「御年は亥が立ちます。反支は未だ在りません。六月は、出産を忌みます。御年は二十八歳。反支は四月・十月、これを忌みます。亥年に生まれた人の反支は二月です。当月の朔日が在る所、二日が反支です。ならば今月は、反支の御忌みはありません」という。
守道が勘申して言ったことには「およそ反支には七種あります。天反支・地反支・年及行事反支・立行反支・遊反支・胎反支・朔反支です。亥の御年は、御行年が巳にあります。反支は丑に在るのを忌みます。御年二十八歳、反支は丑に在ります。十二月を忌みます。件の反支は、その説が多くあります。この文に就き、これを忌まれるべきです。そもそも土用の間、御産に触れられるのは忌むべきということを見たことがないので、共に申させました」という。件の事を殿に申した。仰って言ったことには「両人の勘文は共に同じではない。一説より会尺して申すように。すでに大事である。しっかり量り申すように。〈ただし吉平には所労があり、私宅において勘文を献じた。そこで守道一人が参入した。すぐに申して言ったことには「退出し、文書を調べ見て申したことには内意がありました」という。〉(『左経記』)

12月5日 賀茂守道が反支について述べる

万寿三年(1026)丁丑、天が晴れた。早朝、(賀茂)守道が来て向かい、申して言ったことには「滋岳川人の反支の勘文を見たところ、反支の忌みは多くとも、年数を付せる反支は重く忌むべきことはすでに明らかです。ところが今年、御年二十八歳です。四月・十月は忌まれるべきです。(安倍)吉平が勘申したことは、すでに川人の説と符合しています。かの説により、忌まれないことに何事があるでしょうか」という。(『左経記』)

12月9日 賀茂守道らが坎日について述べる

万寿三年(1026)12月9日辛巳、(前略)(賀茂)守道・文隆を召し、仰られて言ったことには「勘文を成させようと思う。今日は坎日である。これを如何しよう」という。守道が申して言ったことには「まず今日は御臍の緒を切り、ならびに御乳付があります。明日、勘文を成されるのに何事があるでしょうか」という。(『左経記』)

12月10日 賀茂守道らが御産の勘文を奉る

万寿三年(1026)12月10日壬午、天が晴れた。(賀茂)守道・文隆・(大中臣)実光が御産の勘文を奉った。(『左経記』)

12月18日 安倍吉平 卒去

万寿三年(1026)12月18日、主計頭(安倍)吉平が卒去した。(『小記目録』)

万寿四年(1027)

1月1日 賀茂守道が時刻・出御の門について述べる

万寿四年(1027)1月1日癸卯、(前略)頭中将が言ったことには「時刻・出御の門について(賀茂)守道を召し遣わし、彼の申したことに従って仰られるように」という。(『小右記』)

1月10日 賀茂守道が藤原実資女の吉日を勘申する

万寿四年(1027)1月10日壬子、(前略)(賀茂)守道朝臣に、娘のことの吉日を勘申させた。
来月二十三日甲午、時刻は亥の刻を勘申した。件の案内を定僧都に示し遣わした。(『小右記』)

1月27日 賀茂守道が主計頭に任じられる

万寿四年(1027)1月27日己巳、(前略)また、主計頭について小議があった。大外記頼隆と主計助(賀茂)守道との間のことである。守道に理があることについて、議論があった。そこで、主計頭に任じた。(『小右記』)

2月11日 賀茂守道が泰山府君祭を行う

万寿四年(1027)2月11日壬午、(前略)今夜、泰山府君祭を行った。〈(賀茂)守道朝臣。〉祭場に出なかった。
衣冠を着用して板敷に下り、笏を端して祈念した。(『小右記』)

3月5日 中原恒盛が散供を行う/賀茂守道が藤原実資の病を占う

万寿四年(1027)3月5日丙午、(前略)体調が非常によろしくなかった。立ち上がったり座ったりすることは少なく、臥せっている時が多かった。(中原)恒盛に散供させた。(賀茂)守道朝臣が占って言ったことには「竈神の祟りです」という。そこで、解除させた。慶真師を招き、枕上において孔雀経を転読し祈祷させた。(『小右記』)

3月15日 賀茂守道の月蝕の予測が符合する

万寿四年(1027)3月15日丙辰、(前略)経任が言ったことには「月蝕が符合しました。(賀茂)守道を召して禄を下給すべきことについて、仰せ事がありました」という。(『小右記』)

5月10日 賀茂守道が招魂祭を行う

万寿四年(1027)5月10日己酉、(前略)一日、蛭喰の間、体調がよくなかった。そこで今夜、(賀茂)守道朝臣に招魂祭を行わせた。(『小右記』)

6月16日 中原恒盛が鬼気祭を行う

万寿四年(1027)6月16日乙酉、中原恒盛は鬼気祭を行った。(『小右記』)

6月29日 賀茂守道・惟宗文高が怪異について占う

万寿四年(1027)6月29日戊戌、(前略)大外記頼隆が言ったことには「今日、陣頭において陰陽寮〈(賀茂)守道・(惟宗)文高〉が今月十日辰の刻に起こった東大寺の塔の小虫の怪異について勘申した。占って言ったことには『御薬のことを慎むのではありません。天下に疾疫があるでしょうか。怪異の日から三十五日及び来たる八月・十月の節中の甲・乙の日です』という。按察使大納言(藤原)行成がこれを行った。(『小右記』)

7月19日 惟宗文高が相撲内取を始める吉日吉時を勘申する

万寿四年(1027)7月19日丁巳、(前略)また、(相撲)内取を始める日時を(惟宗)文高に問い遣わした。今日の申・酉時を勘申した。ところが、未だ召し仰せを奉らない。そこで、そのことを命じた。改めて勘申して言ったことには「明日の未・申時です」という。召し仰せが終わったら、明日の時刻に行経朝臣を催し着けて始めるように命じた。(『小右記』)

7月21日 惟宗文高が時刻を勘申する

万寿四年(1027)7月21日己未、大宰の相撲使番長貞安が参り来て言ったことには「相撲人が河尻に来て着しました。今日の夕方、参上しましょうか。重頼が死去しました」という。陰陽頭(惟宗)文高の申したことは意を得ない。(中略)ただし、宿す方及び時刻を勘申するように」という。「文高、八十有余」という。(『小右記』)

陰陽頭文高が、相撲の勝負の間の術を申した。(『小記目録』)

7月22日 惟宗文高の弟子が産穢に触れる

万寿四年(1027)7月22日庚申、権大納言が扶宣に報告させて言ったことには「行経の所労の痢病は、未だよくなりません。出居に伺候し難い状況です」という。(中略)(惟宗)文高宿禰が正方に申させて言ったことには「弟子信理に産穢があり、伺候することができません。やはり(陰陽)允孝秀を召し伝えられますように」という。認めなかった。ただし、召し遣わした。(中略)陰陽允孝秀が参り来た。相撲の念人を奉仕するようにと命じたが、故障を申した。けれども、再度召して命じた。奉るようにと申した。昨日・今日召し遣わしたが、痢病を患って清閑寺に籠もっていると申して来なかった。孝秀は、転任の間に用意を加えた者である。そこで出てきたのだろうか。(『小右記』)

7月23日 惟宗文高が責められる

万寿四年(1027)7月23日辛酉、(前略)報じて言ったことには「日頃、痢病を患っている。昨日・今日は大変よろしい。今日・明日に相試して参入することになった」という。(惟宗)文高の申したことは非常に道理に背いている。そこで、正方に責め伝えさせた。その状の避り所がないようであった。「明日、祭物を送るように」という。夜、孝秀を召して命じた。祭物に至っては孝秀の申したことに従うことになった。文高宿禰に下賜しないよう正方に命じた。(『小右記』)

9月7日 賀茂守道・惟宗文高が怪異について占う

万寿四年(1027)9月7日甲辰、(前略)また、言ったことには「内裏の夜御殿の戸が、人がいないのに猛々しく閉まった。女房が言ったことには『人の足音がしました。夜御殿に入って戸を引き立てました。驚いて見ましたが、人はいませんでした』という。(賀茂)守道・(惟宗)文高に占わせた。御薬・火事を勘申した。『厳重に慎まれますように』という。御物忌は十一日に当たる。そこで、行幸を停止した。当時、未だ十一日の神事に臨御しなかった。また、神今食は、未だ神嘉殿にお出ましになっていない」という。(『小右記』)

9月14日 賀茂守道が勘申する

万寿四年(1027)9月14日辛亥、(前略)陰陽寮のことを同様に伝えた。(賀茂)守道朝臣に戒め伝えた。(『小右記』)

9月24日 賀茂守道・惟宗文高が吉凶を占う

万寿四年(1027)9月24日辛酉、(前略)(賀茂)守道・(惟宗)文高に吉凶の状を占わせた。「怪異もしくは慶事があるでしょうか」という。官職をすでに極めた人に、何の慶賀があるのか。思慮があるべきか。また「東宮の御帳に御物忌がありました」という。不吉の御卜があるのだろうか。このことについて、面々が談じた。かの一家のことについては、妖言が多い。(『小右記』)

11月30日 賀茂守道が招魂祭を奉仕する

万寿四年(1027)11月30日丙寅、あるいは、言ったことには「禅室の招魂祭は、去る夕方、(賀茂)守道朝臣が奉仕した。人魂が飛んできた。そこで禄〈桑糸〉を下給した」という。(『小右記』)

12月7日 賀茂守道が鎮謝する

万寿四年(1027)12月7日癸酉、(前略)、前太政大臣禅閤を鳥戸野において葬送した。主計頭(賀茂)守道が鎮謝した。(『小右記』)

長元元年(1028)

2月28日 賀茂守道が仁王会・季御読経の日時を勘申する

長元元年(1028)2月28日癸巳、(前略)次いで源経頼を召し、仰られて言ったことには「陰陽寮に仁王会・季御読経の日時勘文を進上させよ」という。経頼は大夫史貞行に伝えて、勘文を召した。〈兼ねて(賀茂)守道朝臣を召し儲けた。〉勘文を取って上卿に奉った。(『左経記』)

4月5日 惟宗文高が故滋岳川人の太一式盤を預かる

長元元年(1028)4月5日庚午、天が陰った。終日、雨が降っていた。関白殿に参り、故滋岳川人が持ち奉った太一式盤二枚〈陰一枚、陽一枚。〉を御覧になられた。この式盤は、前年に陰陽頭(惟宗)文高が語ったついでに言ったことには「故(滋岳)川人の太一式盤は故(文)道光宿禰に伝領し、常に家の中に安置し奉っておりました。これは霊験のあるものです。『なお、ある法師の許に在ったこと』という。その場所は、はっきりとは聞いておりません。公家が調べ取り、持ってきたものです」という。事のついでがあり、前日にこのことを関白殿に申した。仰って言ったことには「早く尋ねて召させなければならない者である」という。そこで月来、尋ねて問わせたところ、ある者が伝えて言ったことには「二条と猪熊との辺りの小宅にこの式盤が在りました」という。そこで、その家主を尋ねた。「故文道光の孫の内舎人明任が預かって置いていたものです」という。そこで明任を召し、公家が尋ねられていることを伝えた。申して言ったことには「預かり置いていたのは事実です。召しに従って進上させます」という。そこで今日、御覧にならせた。すぐに文高を召して、仰られて言ったことには「この式盤は文高の宅に安置し奉るように。もし損失があれば、形に従って作り加え奉るべきであろうか。この上なく貴重な霊物である。相定めて、追ってあれこれするように」という。また「時々、供し奉るべきでしょうか」という。文高に預けられ、退出した。(『左経記』)

4月15日 賀茂守道らが諸々の祭祀を行う

長元元年(1028)4月15日庚辰、天が晴れた。宮のご病気はよくなった。そこで、未の刻頃に退出した。
「四堺御祭があった」という。今日、宮の御祭があった。鬼気祭が三人〈(賀茂)守道・(惟宗)文高・(大中臣)実光。〉代厄祭〈守道。〉土公祭〈文高。〉代厄の御祭料の馬は、関白殿の仰せにより、蔵人に触れ、右馬寮を召し、守道朝臣に下賜した。(『左経記』)

7月10日 惟宗文高・賀茂守道が烏の怪異について占う/賀茂守道が追討使発遣の日を勘申する

長元元年(1028)7月10日癸卯、(前略)早朝、大外記頼隆が来て言ったことには「今日、外記庁において十二口の僧に仁王経を転読させました。去る七日の怪異を祓うためです」という。〈七日の午の刻、烏が庁内に侵入し、納言の倚子の上の敷物を喰らい損じた。詞に言ったことには「内大臣以下の敷物」という。「ただし、中納言道方の敷物ならびに参議の敷物は損じなかった」という。〉
占って言ったことには「怪異があった場所の辰・戌・寅・申・丑年の人は病事ならびに口舌のことがあるでしょうか。怪異の日から二十五日以内及び今月・明年四月節中の丙・丁の日です」という。(惟宗)文高が占った。(賀茂)守道は丑年を取らなかった。

早朝、維時朝臣が追討使の申請する申文〈九ヶ条。〉を持ってきた。
藤原実資が言ったことには「九ヶ条は非常に多い。また、申請すべきではない項目がある。三ヶ条程がよろしいだろうか。第二条のことは、条の右状の中に入れるように」という。(中略)ところが進発の日を問うたところ、申して言ったことには「二十三日」という。件の日は公損である。また、血忌日・下弦の日である。(中略)また、血忌日は暦序によると「刑戮を行ってはならない」という。(中略)後日、日時を勘申した人を問うた。「守道朝臣が勘申しました」という。また、頼隆が調べて言ったことには「『損卦林』によると『これは、己の身を剋損し、他の人に利益を与える卦である。また、費損することがある』ということです。また『出軍によくない』ということです。また『攻伐は成功しない』ということです。また『追亡は相克があって成功しない』ということです。また『凶咎である』ということです」という。今、案じたところ、損卦の用事の日である。すでに「出軍によろしくない。攻伐は成功しない。追亡は成功しない」という。追討使は、この日を用いるべきではない。たとえば土の用事の日に犯土をしてはならないのと同じである。損卦の用事の日は、征討を行うべきではない。(『小右記』)

7月15日 賀茂守道が師光追討の日を勘申する

長元元年(1028)7月15日戊申、中将が来た。すぐに法成寺に参った。大外記頼隆が三儒の年号勘文を持ってきた。今日はよろしくないため、十九日に進上することを伝えた。頼隆が言ったことには「一昨日、暑さを避けるため、外記一両が相共に侍従所にいた時、戸内の南戸が数回、人が引いたかのように揺れ動きました。驚いて怪しんでいると、しばらく止みました。また、さらに揺れ動いたのは最初と同様でした。怪異です。まだ占方を見ていません」という。占ったところ「口舌のことがあります」という。
日が暮れて、直方朝臣が師光に追討の雑事を申させた。前に呼び、述べた旨を聞いた。「二十三日、種々の忌みがあることを伝え承りました。すぐに驚きながら(賀茂)守道朝臣の許へ罷り向かいました。この件について触れたところ、特に申したことはありませんでした。また、申して言ったことには『その日がよろしくなければ、二十六日が吉日です。ところが、主上(天皇)の御衰日です。二十五日がよろしい日です。その二十五日の夜半、出発するのがよろしいでしょう』ということです。(中略)夜更けに、陰陽頭(惟宗)文高が門の外に師重を招き出し、逢って言ったことには「二十三日に忠常を追討する使者を発遣することを伝え承りました。必ず件の日は、陰陽寮が勘申すべきです。ところが、仰せが下されませんでした。『守道朝臣が勘申した』ということでした。二十三日は最悪の日です。このことを公家に申すべきです。しかしながら、思うところがあって奏上させませんでした。ただ、下官に触れるため参ったのです。よくよく撰び申すべき日です。天下の大事がただ、このように在ります」という。返事を聞かず逐電、退去した。(『小右記』)

7月19日 賀茂守道・惟宗文高が当梁年について述べる

長元元年(1028)7月19日壬子、(前略)後に主計頭(賀茂)守道・陰陽頭(惟宗)文高を召し、この旨を問われた。共に申して言ったことには「梁年に当たり、寝屋を立てるべきではないことについて、暦林に出ていましたが、陰陽家は忌みを伝えませんでした。多くの寝屋を立てました」という。仰って言ったことには「忌まなかった例を申すように」という。すぐに申して言ったことには「元慶二年戊戌の年、大極殿を立てました」という。仰って言ったことには「大極殿について、頼隆の申したとおりであれば寝殿ではない。臣下の寝屋を作った例を申すように」という。「追って勘申することを申させよ」という。頼隆がまた申して言ったことには「今年は鎮星・直月が六月です。ところが『紫宸殿・寝殿を六月に造立した』ということです。鎮星直星、これを犯して作造すれば、雷のため宛てられました」という。「これはまた、重ねて忌むことだ」という。後日、決定があった。「小南殿ならびに高陽院殿の寝殿の作事を停められた」という。(『左経記』)

7月20日 賀茂守道が寝殿を取り壊す日時を勘申する

長元元年(1028)7月20日癸丑、(前略)昨日、頼隆が言ったことには「今年は当梁年に当たります。『寝屋を立ててはいけない。すでに家長に凶である』ということです。関白の寝殿の東二間を新たに継ぐべきです。今、頼隆の申したことにより、猶予があります」という。また、「尊堂の今南家の寝殿を立てました。ところが、取り壊すようにと関白が命じられました。(賀茂)守道が日時を撰びました」という。(『小右記』)

7月21日 賀茂守道・惟宗文高が当梁年について述べる

長元元年(1028)7月21日甲寅、(前略)(賀茂)守道が言ったことには「当梁年は寝屋を立てるべきではないという勘文について、頼隆が関白に献じました。そこで今日、(惟宗)文高・守道を召し、そのことについて問われました。両人が申して言ったことには『頼隆が申したことは、偏に当然です。ただし、元慶元年戊戌四月二十五日丙寅、この日は五星月ならびに当梁年でした。ところが、大極殿を立てられました。このことを証とします』ということです。ところがまた、命じられて言ったことには『すでに臣下の家の例はない。注進すべきである』ということでした。小一条殿・小野宮の寝殿が立てられた年は注し置かせられるでしょうか」という。尋ね見て伝えることを命じた。「関白の尊堂の寝殿はかの難により損壊した。よからぬ気があった。ただ、解謝されるべきことを申させた」という。大極殿と臣下の寝屋は、相准えるべきではないだろうか。愚案である。宰相中将が言ったことには「国史を引いて調べたところ『元慶元年丁酉四月九日庚辰の巳の刻、大極殿を構え造り始めた』という」ということだ。ところが、守道が言ったことには「元慶元年戊戌」だという。国史と相違している。また、梵暦と国史は相合っていた。調べるべきである。中将が帰宅して示し送って言ったことには「確かに国司にはそう見えた。『元慶元年丁酉四月九日庚辰、巳四刻、大極殿を構え造り始めた。同二年戊戌四月二十五日庚寅、この日、大極殿の柱を立て始めた』という」ということだ。件の国史のようであれば、当梁年に大極殿の柱を立てたのはもっとも明らかである。守道の申したとおりである。(『小右記』)

7月24日 賀茂守道が御帯を着用させる日時を勘申する

長元元年(1028)7月24日丁巳、天が晴れた。今晩、密かに忠元師の房に向かい、宮のご懐妊のことについて勘申させた。巳の刻に及ぶ前に帰宅した。晩になって、関白殿の許に参った。仰って言ったことには「宮の御帯について、今月中に行われるべきだと前日に相示すことがあった。(賀茂)守道朝臣に召し問うて、日時を勘申させるように」という。すぐに守道に召し伝えた。守道が申して言ったことには「明日が吉日です。明朝、勘文を奉ります」という。すぐに太閤に申した。(『左経記』)

7月25日 賀茂守道が御帯を着用させる日時を勘申する

長元元年(1028)7月25日戊午、天が晴れた。早朝、宮進頼経を呼び、(賀茂)守道に御帯を着用させる日時を勘申させた。(『左経記』)

8月4日 賀茂守道が母の忌日を称して反閇を奉仕しない

長元元年(1028)8月4日丙寅、関白殿に参り、事を申し承る間、右衛門尉直方朝臣が為祐朝臣に申させて言ったことには「明日の寅の刻、進発しようと思う。主税頭(賀茂)守道は母の忌日を称して反閇しない。これを如何しよう」という。仰って言ったことには「忌日を称したのならば、強いて行わせるべきではない。(惟宗)文高に行わせるように」という。午の刻に及び、直方は文高に約束があることを申させた。(『左経記』)

8月5日 惟宗文高が平忠常追討使進発に際して反閇を行う

長元元年(1028)8月5日丁卯、(前略)「戌の刻、平忠常の追捕使右衛門尉平朝臣直方・志成通が進発した」という。「陰陽頭(惟宗)文高が反閇を行った」という。(『左経記』)

『小右記』同日条:(前略)「亥時、(平)忠常を追討する使者が出発しました。反閇は陰陽頭(惟宗)文高朝臣が行いました」という。これは随身信武が申したことである。「かの出立所に罷ってこれを見ました」という。

8月16日 賀茂守道が勘申する

長元元年(1028)8月16日、(前略)召しにより、(賀茂)守道が御前に伺候した。
各々が申されて言ったことには「吉方について、適当な場所がない。左衛門督の家は吉方ではないが、御忌方に当たらない。特に、先度は非常に平安である。重ねて出御することに何事があるだろうか」という。関白殿が仰ったことには「定め申された旨は、もっとも当然のことである」という。守道が仰せを承って日時を勘申した。九月二十七日戊午、時は二点。夜明けまで及び、事が終わった。(『左経記』)

9月7日 賀茂守道が御竈神の屋を立てる日時を勘申する

長元元年(1028)9月7日戊戌、天が晴れた。宮属為信を召した。大夫に申させて言ったことには「行啓は二十七日である。その日より前に内膳の屋を立てるべきである。ところが、二十三日は土用である。そこで早く日時を撰び、修理職を召して伝えようと思う。如何であろう」という。返報に言ったことには「早く日時を撰ばせよ。事情を関白に申し、仰せ下されるべきである」という。主計頭(賀茂)守道を召し仰せ、御竈神の屋を立てる日時を勘申させた。守道が勘申して言ったことには「二十一日、巳・午の刻」という。
また、毎日の御手祓を明日もしくは二十一日から行われ始めるべきことについて勘文を奉った。ほかに御祓を奉仕すべき陰陽師の交名を進上した。すぐにこのことを関白殿に申した。仰って言ったことには「明日は御物忌である。二十一日から行うことを陰陽師に命じるように。また、内膳の舎屋を立てさせることを修理職に命じるように」という。(『左経記』)

9月18日 惟宗文高・賀茂守道が四不出日について述べる

長元元年(1028)9月18日己酉、天が晴れた。陰陽頭(惟宗)文高が来て向かった。語るついでに言ったことには「二十七日の行啓の日、出行はよろしくありません。いわゆる四不出日です」という。この趣旨を(賀茂)守道に問うた。申して言ったことには「万寿三年九月二日も同じく四不出日でした。(安倍)吉平朝臣が勘申したことには『件の日は吉慶。御産は無事に遂げられるでしょう』ということです。また、これは移徙というべきです。不出行というのは、三日以上の道あるいは超えるのを聞く夕です。もっぱら御産を忌むべきではありません」という。経頼は先例を調べた。四不出日には多くの行幸・行啓があった。「そこで、改めて問いただすことはなかった」という。(『左経記』)

9月22日 賀茂守道が土公御祭・大散供・月曜御祭について述べる

長元元年(1028)9月22日癸巳、天が晴れた。二十七日の行啓の前、左衛門督の家において土公の御祭ならびに大散供を行うことを(賀茂)守道朝臣に召し伝えた。また、月曜御祭を行うことを伝えた。申して言ったことには「月曜御祭は二十四日に行うべきです。土公ならびに大散供は、二十七日の行啓の前に行うべきです」という。すぐに給物を分けた。兼ねてまた、護符を作り、御在所に打つことを守道に命じた。(『左経記』)

9月29日 賀茂守道・惟宗文高が占う

長元元年(1028)9月29日庚申、明け方、資房が来て言ったことには「中将の病気は未だ快復しません。起居がよろしくありません。飲食を受けません。資房は三井寺に向かい、誉僧都を迎えようと思います」という。早く迎えるように答えた。また、言ったことには「資房の母尼は調子が悪い所があり、日頃三井寺に住んでおります。同じく迎え取り、明日の朝帰ります」という。
(賀茂)守道朝臣を呼び、占わせた。申して言ったことには「占いの体は軽いものでした。特に変わったところはありません」という。(惟宗)文高も同じくこの趣旨を占った。
明日、河臨祓を行わせる。(『小右記』)

10月4日 賀茂守道が鶏の怪異について占う

長元元年(1028)10月4日乙巳、源経頼は昨日の鶏について申した。仰ったことには「下人に追い入れられたといえども、非常によからぬことだ。御卜を行わせるように」という。宮に参り、(賀茂)守道朝臣を召して占わせた。占って言ったことには「御火事を慎みますように」という。すぐに参り啓上した。殿が仰って言ったことには「御物忌。日々、よくよく火事に気をつけるように。兼ねてまた、陰陽師三人に火災御祭を行わせるように」という。(『左経記』)

11月2日 賀茂守道・惟宗文高が石清水八幡宮の御体の移動について占う

長元元年(1028)11月2日壬辰、天が晴れた。(賀茂)守道・(惟宗)文高を蔵人所に召し、石清水の御殿を修造している間に御体を他の場所に遷し奉るべきか否かについて問われた。その占いに言ったことには「御体を遷し奉るのは、大変よろしくありません」という。頭中将〈顕基。〉が占方を私(源経頼)に授けて言ったことには「関白殿に覽せて、ならびに事情を奏上しました」という。仰って言ったことには「御体を動かし奉らない。工夫を潔斎させて、御殿を修造させるように」という。(『左経記』)

11月3日 八幡正殿の御体についての御卜

長元元年(1028)11月3日癸巳、(前略)早朝、左中弁が(賀茂)守道・(惟宗)文高の占文を伝えられた。これは、八幡の正殿を改めて造る間、御体を移し奉るべきか否かの御卜である。勘申して言ったことには「移し奉るのは、よろしくありません」という。これを奏上させた。応和の例では、正座を動かさなかった。前例があるのだ。何事があるだろうか。特に、御卜の告げたことをどうして疑うことがあろうか。ただし、応和の例では、修造している間は御体を厳重に奉らなかった。今回は、とくに宮寺の司に仰られ、厳重の儀があるべき(欠字)を仰られるべきであろうか。(中略)弁が言ったことには「文高の邸宅の門を通り過ぎたとき、明日の御読経のことを問わせた。申させて言ったことには『明日は優なる吉日です』という。勘文を奉ることを伝えさせる」という。(『小右記』)

11月26日 賀茂守道が出産の雑具を調える日を勘申する

長元元年(1028)11月26日、「午の刻に宮の出産の雑具を調え始められました」という。
昨日、(賀茂)守道が撰び申したことである。(『左経記』)

12月22日 惟宗文高が鬼気祭を行う/中原恒盛が鬼気祭を行う

12月22日壬午、惟宗文高が鬼気祭を行った。左兵衛督が語ったことには「今夕、(中原)恒盛に河原において内供良円のために鬼気祭を行わせた」という。(『小右記』)

12月24日 賀茂守道が荷前日を勘申する

長元元年(1028)12月24日甲申、天が晴れた。宮の御荷前を立てられる日を勘申させたことを関白殿に申した。
(賀茂)守道に命じて勘申させた。三十日に立てられるべきだという勘文を奉った。去る二十日、藤原実資が殿に申して言ったことには「故殿の御料の荷前を今年から献じさせられるべきです。延長八年、故重明親王が先例を調べて荷前を奉ったことが彼の日記に見えます。その例に准えるならば、今年から献じさせられるべきです」という。
関白殿が仰って言ったことには「もっとも調べて行うべきことである」という。「後日、献じさせられるべきことを定める」という。そこで、このことを申した。(『小右記』)

長元二年(1029)

9月20日 嫁娶日の優劣について

長元二年(1029)9月20日乙亥、(前略)(賀茂)守道朝臣を呼び、十一月一日乙卯・二十六日庚辰の嫁娶の優劣について改めて問うた。(守道が)言ったことには「庚辰が勝っています」という。その日は月殺である。忌むべきであろうか。(守道が)言ったことには「上吉に併せてこれを用いることに妨げはありません。すでに大歳前・天恩があります。最も優となすべきです。また、義日。また、陰陽不将日。この日を嫁娶の吉日とします」という。後日、月殺の例を尋ねてみたところ、永延元年十二月十六日、火平・甲辰・大歳対・月殺〈納財に吉。〉左京大夫(藤原)道長が左府(源雅信)の娘(源倫子)に通婚した。件の嫁娶日は、すでに月殺である。忌避すべきではないだろうか。大幸、かの家より開いた。今年十一月二十六日庚辰、大歳前・天恩・月殺〈嫁娶・納婦に吉〉かの日に勝るか。(『小右記』)

9月21日 賀茂守道が諸社へ御馬を奉納する吉日を勘申する/嫁娶日の優劣について

長元二年(1029)9月21日丙子、早朝、(賀茂)守道を呼び、改めて両日のことを問うた。述べたことは、昨日と同じ内容であった。
守道が言ったことには「丑の刻頃、召しによって関白殿の許に参りました。御馬を春日社・大原野社・松尾社に奉納する日を問われました。すぐに今日、奉納されるべきだと申しました」という。また、言ったことには「禅林寺僧正が参られました」という。中納言が来て着座した。守道は地面に座っていた。犬の死穢は今日だけである。霜月朔日・二十六日の優劣を大外記頼隆真人に問うた。申して言ったことには「朔日は日月が相合います。月がすでに減じた時刻は、やはり忌避すべきです。二十六日の方がよろしいでしょう」という。大まかな内容は、守道の申したことと同じであった。守道は日月が相合うことを申した。(『小右記』)

長元三年(1030)

3月22日 賀茂守道の卒去

長元三年(1030)3月22日乙亥、(前略)最近、(賀茂)守道が卒去した。陰陽道はすでに断尽した中、暦道においては、全くその人がいない。方々、この災いがあった。嘆かわしく、恐ろしいことが。(『左経記』)

6月9日 惟宗文高が鬼気祭を行う

長元三年(1030)6月9日辛卯、今夜、公家が五ヶ所において鬼気祭を行われた。〈「羅城門・京極の四角」ということだ。〉「陰陽頭(惟宗)文高朝臣が申し行った」という。(『小右記』)

9月17日 惟宗文高の説

長元三年(1030)9月17日丁卯、関白が言ったことには「(惟宗)文高が言ったことには『さらに道虚日を忌む必要はありません。特に、二十九日は道空ではありません』という」ということだ。藤原実資は、(安倍)晴明一家の申したことを忘れていた。(中略)権弁経任が言ったことには「今日の巳の刻、蔵人所において文高が一昨日の怪異を占い申して言ったことには『咎はありません』という。一昨日の未の刻の怪異である。ところが今日、巳の刻を持って伝を用いた。占い申したことは適当ではない」という。権弁朝臣の述べたことは、もっとも道理である。(『小右記』)

長元四年(1031)

2月29日 中原恒盛が鬼気祭を行う

2月29日丙午の夜、陰陽属中原恒盛は西門において鬼気祭を行った。(『小右記』)

長元五年(1032)

11月1日 御暦奏

11月1日、御暦奏が行われた。

陰陽師たちの活動年表

天皇時期リンク
継体天皇-嵯峨天皇継体天皇七年(513)-弘仁十一年(820)

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淳和天皇-醍醐天皇天長三年(826)-延喜二十年(920)

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醍醐天皇-朱雀天皇延長元年(922)-天慶九年(946)

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村上天皇天慶九年(946)4月20日-康保四年(967)5月25日

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冷泉天皇-花山天皇康保四年(967)5月25日-寛和二年(986)6月23日

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一条天皇寛和二年(986)6月23日-寛弘八年(1011)6月13日

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三条天皇寛弘八年(1011)6月13日-長和五年(1016)1月29日

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後一条天皇-後朱雀天皇長和五年(1016)-長暦三年(1039)

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安倍晴明の年表

参考【完全版】安倍晴明関係の年表についてわかりやすく解説

『小右記』『権記』『御堂関白記』など多数の史料をもとに安倍晴明の陰陽師・天文博士としての活動をご紹介。説話や伝説に見られるような超人的な能力をもつ陰陽師ではなく、一人の官人陰陽師としての晴明の実像が浮 ...

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