後一条天皇時代
治安元年(1021)
2月2日 賀茂守道・安倍吉平が辛酉革命について勘文を提出する
治安元年(1021)2月2日丁未、召使弘光が来て言ったことには「大外記(小野)文義朝臣が申させて言ったことには『左大臣(藤原顕光)が陣座において改元のことを定め申される。参入するように』」という。すぐに参入した。
夜に入って、(藤原)章信朝臣が左大臣に奉った諸道の勘申した、今年は辛酉革命に当たるか否かの文〈明経(中原)貞清・助教(大江)有道の一枚、助教(清原)頼隆の一枚、暦博士(賀茂)守道の一枚、文章博士(慶滋)為政朝臣の一枚、(藤原)義忠の一枚、主計頭(安倍)吉平朝臣の一枚。〉ならびに年号の勘文二枚〈参議広業朝臣の一枚、文章博士の一枚。〉を下した。仰って言ったことには「今年は辛酉革命に当たるか否かについて、諸道が勘申した内容は同じではなかった。定め申すように。ただし改元はともに元号を改めるので、仁政を施すべきだと申している。そこで、改元を行う。その字を定め申すように。また、詔書に革命に当たることを記載するのは難しいだろうか。同じく定め申すように」という。定め申して言ったことには「今年が(辛酉)革命に当たることについて、各々が勘申した内容は同じではない。ただし、暦博士守道が申したことは、最も納得のいくものであった。指して革命に当たるということは非常に難しい。そもそも、(革命に)該当しない年を該当するとして詔文に記載するのは便宜がない。ただ、辛酉は凶年であるとして改元することを記載すべきだろうか。また、年号の字を勘申したところ『治安』が大変よろしい。ただし、古い勘文の中に喜祥・乾綱の字があった(先例により、古く勘申したものを用いるべきかということを、また、別に仰せがあった。)乾綱の字はよろしいといっても、俗人にもこれがあるだろう。喜祥もまた『村上御記』にある」という。〈その分には、もしくは荒涼としたところがあるだろうか。一本、嘉保という字があった。もしくは、書写を誤ったのだろうか。事が定まらないことによる。〉下された勘文の中で『治安』が大変よろしいということで、この字を用いることを各々申させた。すぐに仰って言ったことには「改元して(元号を)『治安』とする。免物は応和の例に倣うように」という。
すぐに大内記(菅原)忠貞朝臣を召して伝えた。草・清書を奏上した後、中務少輔(平)親国朝臣を召され、下された。その時、多くの諸卿が退出した。大臣が命じて言ったことには「筥に入ったまま給うのか」という。そうだと申した。けれども、ただ、詔を給うだけで退出された。(『権記』―『改元部類記』による)
2月14日 安倍吉平が行幸の往亡日について述べる
治安元年(1021)2月14日己未、(前略)「入道殿に参りました。命じて言ったことには『行幸の帰りの日は往亡である。往亡の日は帰宅しない』ということです。暦序を見ると、(安倍)吉平の述べたことには当たらないので、行幸の延引について吉平朝臣に問い遣わしました。注し送って言ったことには『昨日定めて言ったことには「近頃、不浄の気が天下に広く満ちています。少しも清いところはありません。この時に当たって神社の行幸は非常に恐れがあります。やはり、まず諸社に災疫の旨を祈り謝られます。その次に、件の行幸があるべきです」という。(中略)吉平が自ら参り啓上するように。(『小右記』)
2月21日 賀茂守道が辛酉革命について述べる
治安元年(1021)2月21日丙寅、(前略)仁統ならびに(賀茂)守道朝臣を呼び、革命について問うた。また、善相公の勘文を見せた。家集に記載されている勘文である。大変革命二百四十年のうち、小変は三度〈「六十年の辛酉、三度」という。〉小変の辛酉の三度は革命か、如何であろう。非常に疑わしい。そこで、このことを決するために呼んだのである。各々が述べたことははっきりしなかった。「件の小変の辛酉は、皆不吉です。ただし、小変の文は未だ見ていません。革命ではないのでしょうか。ただ『辛酉の今年は不吉である』ということでした。計って今、案ずるでしょうか」という。疑関は開き難いだけであった。守道は件の勘文を借り取って退出した。(『小右記』)
2月27日 安倍吉平が春日行幸の日を勘申する
治安元年(1021)2月27日壬申、(前略)「昨日、大納言(藤原)斉信卿が(安倍)吉平に春日行幸の日を勘申させました。〈八月二十八日辛未・十月一日癸卯。〉八月二十八日は伊勢豊受宮の遷宮と近いです。追って決定があるでしょう。十月一日は御衰日です」という。(『小右記』)
2月29日 賀茂守道が大変革命について述べる
治安元年(1021)2月29日甲戌、(前略)李部宰相〈広業〉が来て言ったことには「先日送った善相公の革命勘文を案ずると、今年はすでに大変革命に当たります。応和元年辛酉は小変革命に当たります。仁統法師・(賀茂)守道を招き、詳しくこのことを含めて、ならびに置き数えさせたところ、善相公の勘状と相違ありませんでした。仁統は拠り所がなく、帰伏しました。」(『小右記』)
3月7日 安倍吉平が反閇を行う
治安元年(1021)3月7日壬午、今日、午時、伯耆守資頼が任国に赴いた。主計頭(安倍)吉平が反閇を行った。〈「織物の褂・袴を被けた」という。〉(『小右記』)
7月1日 賀茂守道の勘文と実際の日蝕が符合し、禄を賜る
治安元年(1021)7月1日甲戌、天気は、晴れか曇りか一定しなかった。
「日蝕は勘申した内容と同じであった。暦博士(賀茂)守道を蔵人所に召し、禄を下給した」という。
「また、仁縁を御堂に召し、同じく禄を下給した」という。これは、二人が共に符合したことによる。
件の勘文に言ったことには「日蝕十五分の十三、虧け初めは巳四刻一分、加える時は午二刻二分、復末、四刻三分」という。(『左経記』)
7月9日 安倍吉平が藤原実資参内の吉時を勘申する
治安元年(1021)7月9日壬午、(前略)午時〈吉時である。(安倍)吉平が勘申した。〉、内裏に参った。(『小右記』)
8月1日 安倍吉平が諸々の日時を勘申する
治安元年(1021)8月1日甲辰、(前略)(安倍)吉平朝臣を呼び、初参の日を勘申させた。その勘文の裏に注した。倚子を造ることについて右中弁章信に命じた。官・外記の倚子、侍従所の前机である。関白の倚子は、もしくは後日立てられるべきか。吉平が言ったことには「昨日、ただ初参される日を勘申されました。二十一日。倚子を立てる日のことを仰られませんでした。二十一日のほかに吉日はありません」という。その二十一日に同じく参入すべきです。参らせる時刻を承って参入すべきです。(中略)
宜陽殿・陣座に着す日時を撰び申した。今月二十一日甲子。時刻は未・申。
御倚子を造る日時を撰び申した。今月十三日丙辰。時刻は午・申。十六日己未。時刻は巳・未・申。
官・外記の倚子を立てる日時を撰び申した。〈侍従所の前机を同時に立てる。〉今月二十一日甲子。時刻は未・申。
勧学院の歩の日時を撰び申した。今月十三日丙辰。時刻は午・申。十六日己未。時刻は未・申。
山階寺、慶賀を申す日時を撰び申した。今月十六日己未。時刻は巳・午・未・申。今考えると、勧学院の歩・山階寺の慶賀は、もっとも吉日を勘申すべきではない。また、時刻を勘申すべきではない。ただ、坎日・衰日を除いた他の日がよろしいだろうか。これはただ、初参の日を勘申したついでに勘申させた所である。
本陣に着す日時を撰び申した。九月二十八日庚子。時刻は午・申。十月二日甲子。時刻は未・申。
請印を行われる日時を撰び申した。八月十六日己未。時刻は午・未。二十一日甲子。時刻は巳。十月二日甲辰。時刻は巳・未。二十二日甲午。時刻は巳・未。
9月14日 安倍吉平が行幸の日時を勘申する
治安元年(1021)9月14日、四条大納言(藤原公任)・春宮大夫(藤原頼宗)以下、侍従宰相(藤原資平)に至る上達部八人が定め申して言ったことには「維摩会は寺家の重要な行事である。その間は、行幸を行うべきではない。ただし、年内にほかの吉日がなければ(後一条天皇の)御願を止めることはできない。遂げられるべきだろうか。陰陽師(安倍)吉平に問われたところ、ほかの吉日がないことを勘申したので、十月十四日に行幸を行うべきである」という。(『権記』―『中右記』による)
10月20日 安倍吉平が五墓日について述べる
治安元年(1021)10月20日壬戌、(前略)重ねて(安倍)吉平朝臣に問うた。勘申したところ「来月九日は五墓ではありません。戊辰・壬辰が五墓日(欠字)」という。(『小右記』)
11月4日 安倍吉平が行幸の褒賞を授かる
治安元年(1021)11月4日乙亥、昨日、行幸の行事の褒賞を行われた。(中略)従四位上安倍吉平。〈行事ではない。吉平が言ったことには「行幸所に寄せられました」という。〉(『小右記』)
11月7日 安倍吉平が官奏の日時を勘申する
治安元年(1021)11月7日戊寅、左頭中将朝任が来た。関白の命を伝えて言ったことには「九日に官奏がある。ただし、主上が始めてご覧になる。もしくは上卿が仰せを奉って勘申させるか。また、御所からその日を仰られるべきか。定めて前例を尋ねるか、如何であろう」という。報告して言ったことには「天慶四年の例では、貞信公の邸宅において陰陽寮に命じ、日時を勘申させ、奏者に仰られたのでしょうか。はっきりとは分かりませんが、少し見える所がありました。その時の大臣は(藤原)仲平、また、官奏に伺候しませんでした。そこで大納言が伺候しました。大まかな内容が見えるところです。今、その例によって御所から仰られるべきでしょうか。日時については、関白の邸宅もしくは蔵人所に陰陽師を召し、勘申されるべきか。前日に日を申させた所は、内々に勘申させたものである」という。ところが、(安倍)吉平が申して言ったことには「九日のほかに吉日はありません」という。頭中将が言ったことには「大略は九日にある。先日仰られたものである。もしくはまた勘申させ、仰られるべきか否か」という。(中略)「(安倍)吉平朝臣を蔵人所に召し、日時を勘申させました。〈九日、申の刻。〉
御前において始めて官奏があるので、(安倍)吉平を蔵人所に召し、日時を勘申させた。蔵人頭朝任朝臣がこれを奉り行った。〈天慶の前例では「兼日、蔵人所においてこの日時を勘申された後、奏上に伺候する上卿に仰られた。そこで詞でこれを伝えた」という。〉(『左経記』)
11月17日 安倍吉平が奉幣について占う
治安元年(1021)11月17日戊子、今日は大原野祭である。転展の穢の疑いがあるため、奉幣について占わせた。(安倍)吉平が勘申して言ったことには「よろしくありません」という。そこで沐浴した。河原において解除を行った。(『小右記』)
12月12日 安倍吉平が御読経の日時を勘申する
治安元年(1021)12月12日壬子、関白が言ったことには「(安倍)吉平朝臣が言ったことには『十八日のほかに吉日はありません』ということだ」という。一日、二十六日を勘申したことを章信朝臣が申した。今、この旨があった。驚き奇しんだことは少なくなかった。(中略)先日の日時勘文について問うて、言ったことには「吉平朝臣が勘申しました。勘文はすでにあります。ところが知らないと申したのは、極めて奇しいことです。案内を関白に申すように」という。後日、章信朝臣が言ったことには「(惟宗)文高宿禰が勘申しました。ところが思失し、申しました」という。(『小右記』)
治安二年(1022)
2月2日 安倍吉平が火災を占う
治安二年(1022)2月2日、(前略)次に(安倍)吉平が勘文を進上した。勘申して言ったことには「神事の違例ならびに神社の不浄が祟りをなしています。天下の疾病を慎みますように」という。諸卿が言ったことには「神祇官の勘申した兵革のことについて、その方を指し示さないのは如何であろう」という。(『小右記』)
4月3日 安倍吉平が八卦御忌について述べる
治安二年(1022)4月3日壬寅、(前略)大垣の方忌について、関白、左中弁重尹を以て示されて言ったことには「八卦御忌の方角、もしくはその程にあるべきだろうか。(安倍)吉平朝臣に問うように」という。召し遣わすように命じた。しばらくして、参入した。申して言ったことには「八卦御忌は、六町の内、忌避させられるべきです。御所の大垣に至るのは、四町余りです」という。すぐにそのことを申させた。報告して言ったことには「吉平の申したことに従って、御忌方を除き(欠字)させるように」という。(『小右記』)
4月28日 藤原妍子の行啓に際して安倍吉平が反閇を奉仕する
治安二年(1022)4月28日丁卯、子の刻、皇太后宮(藤原妍子)が行啓された。一条殿から枇杷殿へお移りになった。〈新造。新宅の儀を用いた。〉天牛を奉らせた。
先日、入道殿(藤原道長)からこのことについて仰せがあった。
また、先日、大納言時信宿禰が来て告げた。自分の牛はすでに痩せている。そこで、良経に奉らせた。また、出車を奉った。昨日、属(磯部)広信が告げた。
子の刻に行啓があった。内大臣(藤原教通)が騎馬に乗って供奉された。関白(藤原頼通)は東対の上達部の座に参られた。また、殿上人の座・諸衛の佐の座がこの中にあった。饗宴の後、さらに渡殿に着座した。碁手の紙、投賽の遊びがあった。戌の刻、小一条院(敦明親王)が山井殿にお帰りになった。〈また、新宅の儀を用いた。〉共に(安倍)吉平朝臣が反閇を奉仕した。(『権記』―『治安御賀部類記』による)
6月4日 安倍吉平・惟宗文高が病を占う
治安二年(1022)6月4日壬寅、(前略)右兵衛得が来て、語るついでに言ったことには「御薬、熱気のようだ」という。また、宰相が言ったことには「(安倍)吉平・(惟宗)文高が占って言ったことには『ご病気の身体は、非常に熱気があります』ということでした」という。
7月14日 安倍吉平の反閇について
治安二年(1022)7月14日壬午、(安倍)吉平が内裏の反閇を奉仕すべきである。すぐに彼を召し、奉仕させるのがよいだろうか。(『小右記』)
9月28日 安倍吉平が平野行幸の禁忌を占う
治安二年(1022)9月28日乙未、天が晴れた。大外記頼隆が、前日に平野行幸の日に禁忌があるという勘文を奉った。主計頭(安倍)吉平を召して問われた。すぐに禁忌はないという勘文を奉った。「そこで右府が勅を奉り、今日、右仗において定められた」という。(『左経記』)
10月11日 安倍吉平が御祈奉幣使を立てる吉日を勘申する
治安二年(1022)10月11日丁未、天が晴れた。春宮大夫が左仗において主計頭(安倍)吉平を召し、行幸の御祈奉幣使を立てる日時を勘申させた。吉平は、おおよそ、明日使者を立てることを申させた。関白殿が仰られて言ったことには「十三日、大宮の御堂供養によって御誦経がある。特に、不断御読経の僧が内裏に伺候する。どうして前斎なく伊勢使を立てられるのか」という。吉平が申して言ったことには「仰せの旨はもっとも当然なことです。ただし明日・明後日のほかに勘申する日はありません」という。関白殿が仰られて言ったことには「御祈がないのならば、行幸があってはならない。行幸の日を改めて勘申するように」という。吉平が申して言ったことには「二十五日〈辛酉。〉が吉日です。ただし、十死一生です。これは、先例では忌まれません。近い時期では、桓武天皇が今月辛酉に奈良から遷都しました。その後、往々にしてこの例があります。また、御物忌に当たるといっても、これは失物の御物忌です。先例では忌まれません。仰せに従ってあれこれすべきです」という。仰って言ったことには「失物の御物忌は更に忌まれてはならない。十死一生を忌まれない証があるといっても、上古の事、もしくは故実があるか。近代の前例を勘申させるように」という。上卿が外記に命じて勘申させた。大外記頼隆が勘申して言ったことには「延喜十七年三月十六日〈乙丑。〉、東六条院に行幸しました。同十八年二月二十六日、川原院に行幸しました。天暦三年正月五日〈己酉。〉、東二条院に行幸しました。長徳元年正月二日、東三条院に行幸しました」という。(『左経記』)
治安三年(1023)
5月2日 惟宗文高が参入する
治安三年(1023)5月2日甲子、(前略)陰陽寮が伺候するか否かを左中弁重尹に問うたところ「陰陽頭(惟宗)文高が参入します」という。行事の順番を問うたところ「右中弁章信がその順番に当たります」という。そこで日時を勘申させるようにと章信朝臣に命じた。(『小右記』)
6月8日 安倍吉平が談天門の方角について述べる
治安三年(1023)6月8日庚子、(前略)左中弁重尹が、去年(安倍)吉平が勘申した大垣の方角の勘文を持ってきた。すぐに関白に見せ奉るように示した。件の勘文によれば、安芸国が築垣する方角は御忌方に当たる。ただし、談天門より南の三段の南は築くべきである。(中略)左中弁が関白の知らせを伝えて言ったことには「去年の勘文によると『今年は西方に大将軍が在る。ただし、談天門より南の三段の外は大将軍の方角には当たらない』という。その三段以南に安芸国は築くように。民部卿が言ったことには『談天門は伊予国が造るべきです』という。そこで吉平に問うたところ、申して言ったことには『大将軍の方角には当たりません』という。吉平が勘申して言ったことには『談天門より南の三段は大将軍の方角に当たります』という。事の疑いはもっとも多い。吉平に問うように」という。問うべきだと伝えた。(『小右記』)
6月10日 安倍吉平が犯土の方角を勘申する
治安三年(1023)6月10日壬寅、(前略)左中弁が、(安倍)吉平の勘申した西の大垣の犯土の方角の勘文を持ってきた。大まかな内容は、去年の勘文と同じであった。また「上西門の北・南が御忌方に当たります」という。絶命は乾に方角、鬼吏は子の方角であろうか。関白に見せ奉ることを示した。(『小右記』)
7月5日 安倍吉平が着裳の日を勘申する
治安三年(1023)7月5日丁卯、(前略)小女の着裳の日について、(安倍)吉平に(欠字)勘申させたところ、言ったことには「十月四日甲子、時刻は亥。十一月二十五日乙卯、時刻は亥。八月・十二月に吉日はありません」という。また、十月四日・十一月二十五日の優劣を問うて言ったことには「十一月二十五日の方が勝っています。十月四日は除日です。また、閭巷が言ったことには『四日は避けるべきだろうか』ということです。十一月二十五日が満日、もっともよろしいです。行うのは優吉と言うべきです」という。(『小右記』)
7月9日 賀茂守道が脚の病・着裳の日を占う
治安三年(1023)7月9日辛未、内供が去る五日から病を患っていることについて、永源師の許から言い送った。驚きながら使者を発遣して問い遣わしたところ、報告して言ったことには「去る五日より、脚の病を発病しました。昨日、重く患いました。丑の刻頃、すこぶる平復しました。今日は通常に戻りました」という。度々、資房を訪ねた。「日頃と同じである」という。(賀茂)守道が占って言ったことには「明日・明後日に平復するでしょうか。そうでなければ、甲・乙の日でしょうか」という。宰相が言ったことには「明日・明後日は固い物忌である。また、資房も物忌である。そこで、籠もり侍るように」という。
小女の着裳の日について守道朝臣に問うて、言ったことには「十月四日・十一月二十五日、みな吉日です。ただし、十月四日は除日です。『除日・危日、凶会に准えます。上吉と併せてこれを用いるのに妨げはありません』ということです。けれども、最吉ではありません。十一月二十五日が満日です。共に吉です。勝と為します」という。(『小右記』)
7月14日 安倍吉平が談天門の方角を勘申する
治安三年(1023)7月14日丙子、(前略)左中弁重尹が言ったことには「伊予国が談天門を造るときに、今年から大将軍の方角に当たることを聞いて、(安倍)吉平が勘申しました。そこで、去年造りました。去年十二月、吉平に問うと、吉平が勘申して言ったことには『今年・明年は御忌方に当たりません』という。そこで、今年から始めて造ります」という。(『小右記』)
7月17日 惟宗文高が鬼気祭を行う
治安三年(1023)7月17日己卯の夜、惟宗文高が西門において鬼気祭を行った。(『小右記』)
7月19日 惟宗文高が相撲内取を始める吉日吉時を勘申する
治安三年(1023)7月19日辛巳、(前略)府生保重が相撲の内取を始める日時の勘文〈陰陽頭(惟宗)文高朝臣が勘申した。二十日壬午、時刻は午・申。〉を進上した。(『小右記』)
8月14日 賀茂守道が嫁娶日を勘申する
治安三年(1023)8月14日乙巳、新宰相が来て言ったことには「太娘、嫁娶日を(賀茂)守道朝臣が勘申して言ったことには『十二月七日丙寅・明年四月七日壬午です。丙寅は除日です。壬午の日は危日です。けれども、上吉であり、ならびに用いることに咎はありません』ということです」という。藤原実資が案じるのは「除・危日は嫁を娶ってはならない。凶である」という。やはり不吉というべきか。すでにその事を指し示し、凶だという。大変よろしくないだけだ。広く問うべきではないことを伝えた。(『小右記』)
8月28日 安倍吉平が嫁娶日について述べる
治安三年(1023)8月28日己未、(前略)(安倍)吉平朝臣を呼び、嫁娶日について問うた。「今年は日がありません。明年は正月から三月に至るまで、また、吉日はありません。四月七日甲子が吉日です。ただし危日です。四条宮が初めて内裏に入ったのは四月甲子。内府が按察の女に通婚したのもまた、四月甲子。皆、危日です。上吉ならびにこれを用います。いわゆる是彼、両所の日は大小歳後天恩。明年四月甲子は大歳後歳解・天恩。歳徳があるため、かの両所の嫁娶日に勝ります」という。そこで、勘申しました。(中略)八省の東廊を造立することについて、もしくは御遊年の方角に当たるだろうか。案内を権弁(源)経頼に問うて、言ったことには「吉平に問うて、申して言ったことには『南方の当たります。ただし、遊年は坤の方角に在ります。その方角を忌みます。その他の方角は忌みません』ということです。このことを関白に申したところ、命じて言ったことには『彼の申したことに従うように』ということです」という。藤原実資が言ったことには「八卦の文によると『遊年の方角を触犯してはならない』という。このことは、如何であろう」という。ただし、その前に、もしくは問われるべきだろうか。先日、内々に犯土について吉平に問うたことによる。(惟宗)文高は、吉平の申した内容と同じであった。けれども、未だ是非を決めていない。同じく遊年の方角を忌避するだけだ。(『小右記』)
9月1日 安倍吉平・賀茂守道が御遊年について述べる
治安三年(1023)9月1日壬戌、(前略)同じくまた、(安倍)吉平の勘文二枚があった。「御遊年は、離の方角に在ります。犯土・造作を忌む必要はありません。坤の方角に在る時に忌むべきことは『新撰陰陽書』を引いて勘申しました。前例は、尋ねて勘申することができませんでした」という。坤の方角に在る時は忌むべきだということは、見える所がない。弁が言ったことには「件の勘文を禅室ならびに関白に覽せました。命じて言ったことには『勘申に依るように』ということでした」という。藤原実資が答えて言ったことには「『八卦』第一によると『遊年は離の方角に在る。〈一名の御年は触犯してはならない。〉また、次に遊年、忌む』という。同じくまた、言ったことには『およそ行年、所在する場所は病を候ずる地である。件の勘文を案ずるに、やはり忌避すべきか。承り行う所、事は難を尋ね探さずとも、必ず謗難する人がいるか。そこで、重ねて疑ったのだ。この趣旨を今一度問われるのはどうだろう。奉公のために申したのである。ただし、まずは禅室に知らせるのがよろしいだろうか」という。件の勘文に少し注し付け、尚書に授けた。尚書は甘心した。事は鬱々としていたので、吉平の勘文の趣旨を注し、(賀茂)守道に問い遣わした。勘申して言ったことには「遊年の方角は犯土を忌まれるべきだということは、陰陽書によると『遊年の方角は土を起こしてはならない』ということです。八卦の注によると『この方角は起功〈犯土の類である。〉してはならない』ということです。『三公地基経』によると『本命の遊年の地で犯土・起功を行うのは大凶である』ということです。〈その説の文は、非常に悪い。重ねて忌みを避けるべきである。〉これを以てこの件を言うと、諸方を指さず、みな重ねて忌みを避けるべきです。もし坤の方角に在る時、これを忌むならば、他方を忌みません」という。
天禄四年、御遊年が巽に在る時、件の犯土を停止された。また、天延二年の勘文によると「宮の御遊年は子の方角に在る。件の方角の犯土・造作を停止された」という。実資の方の文と同じである。その勘文によると「内裏から宮の庁を指すと、子の方角に当たる」という。(『小右記』)
9月2日 安倍吉平・賀茂守道が御遊年の犯土について述べる
治安三年(1023)9月2日癸亥、権左中弁経頼が堂に来て言ったことには「御遊年の方角の犯土について、両殿に申しました。また、言ったことには『(安倍)吉平に問うように』ということです。そこで召し問うたところ、申して言ったことには『下官(吉平)が疑うところは、もっとも興があります。ただし行年の相違を謂います。十五御行年の辰巳、巳の方を謂うべきです』ということです。また、問うて言ったことには『八卦遊年の方角は触犯すべきではないと謂います。もしくは何事でしょうか』ということです。吉平が言ったことには『犯土・造作のことです。けれども、ただ坤の方角を触犯すべきではないというのは、その凶悪を指すのではなく、軽い凶です。絶命・鬼吏・禍害の方角のようです。その凶悪を指すのは、これを重いとします。遊年の方角に到っては、王者ではないことを謂うべきです』ということです。見える文があります。けれども、陰陽寮は八卦の御忌方を献じたので、その疑いはありません。すぐに禅室・関白に申しました。命じて言ったことには『軽い凶だと申した。犯土のことは何事があるだろうか』ということです」という。疑関は開き難い。そこで、重ねて(賀茂)守道朝臣に問い遣わした。忠行・保憲の旧い自筆の勘文案三巻を送った。件の勘文は皆、御遊年の方角は重ねて犯土を忌むべきだと勘申した。あるいは西巽・あるいは北方。したがってまた、犯土を止められるのは明らかである。(『小右記』)
9月19日 安倍吉平が偉鑒門造立の日時を勘申する
治安三年(1023)9月19日庚辰、(前略)暮れ方、左中弁重尹が偉鑒門を造立する日時勘文を持ってきた。相逢わなかった。伝え言わせたことには「北方は御鬼吏の方角です。ところが、(安倍)吉平が申して言ったことには『鎮謝させられて立てられれば、何事があるでしょうか」ということです」という。藤原実資が答えて言ったことには「八卦は犯土を忌む。その程があるか。早く勘文を奏上するように。また、吉平が申した趣旨を同じく奏上するように。立柱は甚だ近い」という。偉鑒門を造立される日時を撰び申した。
作事を始める日時 九月二十一日壬午 時刻は巳・午
立柱・上梁の日時 同二十二日 時は巳・午・酉
立扉の日時 同二十五日丙戌 時刻は卯・午・未・酉
治安三年九月十九日 主計頭安倍吉平(『小右記』)
9月21日 安倍吉平が明年、明後年の方角について述べる
治安三年(1023)9月21日壬午、(前略)弁が言ったことには「(安倍)吉平朝臣が言ったことには『明年は御絶命の方角。また、明後年は御物忌の方角に当たります』ということです」という。今に至っては、早く造立するように伝えた。(『小右記』)
閏9月16日 安倍吉平が藤原実資参内の吉日を勘申する
治安三年(1023)閏9月16日丁未、(安倍)吉平朝臣に、内裏に参る日を勘申させた。「来月四日甲子。その日より前に吉日はありません」という。(『小右記』)
11月16日 安倍吉平が月蝕の奏案を送る
治安三年(1023)11月16日丙午、(前略)(安倍)吉平朝臣が月蝕の奏案を送った。(『小右記』)
11月19日 賀茂守道が御暦を進上する
治安三年(1023)11月19日己酉、(前略)暦博士(賀茂)守道朝臣が暦〈上・下〉を進上した。(『小右記』)
12月2日 惟宗文高が鬼気祭を行う
12月2日辛酉、惟宗文高は北門において鬼気祭を行った。(『小右記』)
12月6日 賀茂守道が泰山府君祭を行う
治安三年(1023)12月6日乙丑、(前略)今夜、(賀茂)守道朝臣に泰山府君祭を行わせた。祭場〈南庭。〉に出居し、共に拝礼した。(『小右記』)
12月19日 賀茂守道が甲子革令について述べる
治安三年(1023)12月19日戊寅、明年が革令に当たるか否かを明経・暦道に命じて勘申すべきことを外記師任に伝えた。宰相・右中弁章信が堂に来た。菓子を勧めた。暦博士(賀茂)守道が来た。塔を迎え奉る日を問うと「二十三日の巳・午の刻が吉です」という。内々に明年が革令に当たるか否かのことを伝えた。申して言ったことには「甲子は必ずしも革令に当たりません。延喜の甲子は、革令に当たりません。そうであっでも、甲子にして改元されるべきです」という。昨日、頼隆が申したことを同じである。ただし「革令に当たるかどうかは非常に判断し難いことです。口伝があるのに似ています。また、その術を知りません」という。「都で甲子の年において、支干、初めて建てた刻です。国家は特に重く慎むべきでしょうか」という。(『小右記』)
12月23日 賀茂守道・安倍吉平が鷺の怪異を占う/惟宗文高が鬼気祭を行う
治安三年(1023)12月23日壬午、(前略)今日、辰の刻、鷺が寝殿に集まった。(賀茂)守道朝臣が占って言ったことには「病事を慎みますように。そうでなければ、近臣の丑・未、病によるかのように避ける所でしょうか。今日から三十日以内、明年五月・六月・十月中の戌・己の日を期日とします」という。
(安倍)吉平が占って言ったことには「丑・未・卯・酉、病事を慎むべきのようです。三十日以内の戊・己の日を期日とします」という。遠期を取らなかった。
夜、惟宗文高は鬼気祭を行った。(『小右記』)
12月27日 惟宗文高が厭物を占う
治安三年(1023)12月27日丙戌、(前略)宰相が来た。日が暮れて、新三品〈惟憲。〉が来た。束帯した。逢って答拝し、座に引いて清談した。言ったことには「先日の暮れ時、男が二人来ました。家の中にある井戸の底に落とし入れた物がありました。雑人が見つけて、驚きながら捜し取り、これを見ました。呪詛に使う物のようでした。陰陽頭(惟宗)文高宿禰が言ったことには『厭物です』という。祓って棄てました」という。(『小右記』)