陰陽道 平安時代

【年表】平安時代の陰陽師たちの活動記録―村上天皇時代

村上天皇時代

天慶九年(946)

5月20日 陰陽寮が伊勢斎宮卜定の日を勘申する

天慶九年(946)5月20日己酉、右大臣藤原実頼は外記に命じて陰陽寮を召し、伊勢斎王を卜定する日時を勘申させた。(『北山抄』)

5月27日丙辰、外記千桂が「今日、斎宮を卜定しました。英子内親王に決まりました。少将為善朝臣を以てかの家に告げさせました」と言った。(『貞信公記抄』)

10月28日 陰陽寮が出宮の時間を勘申する

10月28日乙酉、陰陽寮は出宮の時間を午二刻と勘申した。(『九暦』)

天暦元年(947)

8月14日 鬼気祭が修される

天暦元年(947)8月14日乙未、建礼門の前において鬼気祭を修した。(『日本紀略』『貞信公記抄』)

鬼気祭は疫病を鎮めるために行われる陰陽道の祭祀。この時期は疱瘡が流行していた。

8月22日 四角祭・四角四堺祭が修される

天暦元年(947)8月22日癸卯、四角祭、次いで四角四堺祭が修された。(『貞信公記抄』)

四角祭・四角四堺祭は疫病を鎮めるための陰陽道の祭祀。この時期は疱瘡が流行していた。

12月30日 追儺

天暦元年(947)12月30日庚戌、追儺・大祓は恒例のとおりであった。(『日本紀略』)

天暦二年(948)

3月20日 陰陽寮が清涼殿への遷御を行う吉日を勘申する

天暦二年(948)3月20日己巳、中使俊朝臣が来て言ったことには「清涼殿に遷御する日は、陰陽寮が来月九日を定め申しました。しかし大江維時が申して言ったことには『御物忌といえども、なお十一日が吉です』と。また、本宮の御書所預・書手など、頼りに一本御書所に補すのは如何でしょう。また、楽所を旧のように置くのは如何でしょう。五月節を三合の年に行うのは如何でしょう。按察使中納言の息の童が昇殿を申す名簿を給わりました」ということだ。(『貞信公記抄』)

天暦二年(948)4月9日戊子、村上天皇は新造清涼殿にお移りになった。(『日本紀略』)

8月22日 朱雀上皇の二条院移御際して新宅儀礼が用いられる

天暦二年(948)8月22日戊戌、朱雀上皇・藤原穏子は二条院へお移りになった。新宅の礼を用いた。水火黄牛があった。(『日本紀略』)

新宅移徙
新宅移徙(わたまし)と陰陽師

「移徙(わたまし)」とは引っ越しのことであり、「新宅移徙」とは新宅へ引っ越すことを意味する。新宅作法ともいう。平安貴族が新宅移徙を行うときは、陰陽師が反閇を行う。 平安時代中期の貴族が引っ越す際に必ず ...

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9月20日 陰陽寮が降雨の祟りについて吉凶を占う

天暦二年(948)9月20日乙丑、昨日の仰せにより、右大臣藤原師輔は神祇官・陰陽寮の官人を召し、雨脚が頻りに降る祟りのことを占わせた。申して言ったことには「坤・艮の方角にある神社の四至内に不浄の気があることによるものでしょうか。また、憤怒の気を見ました」ということだ。重ねて占い申させて言ったことには「八幡宮の放生会のことを行わなかったことにより、この祟りがありました」と。(『九暦抄』)

天暦二年(948)9月22日丁卯、石清水八幡宮の臨時奉幣使を発遣した。放生会の停止ならびに雷鳴・霖雨を祈り謝した。(『日本紀略』)
天暦二年(948)10月15日庚寅、石清水放生会が行われた。(『日本紀略』)

11月1日 御暦奏

天暦二年(948)11月1日丙午、陰陽寮が新暦を内裏に進上した。(『日本紀略』)

天暦三年(949)

4月10日 陰陽寮が霖雨の吉凶を占う

天暦三年(949)4月10日癸未、神祇官と陰陽寮を召して霖雨について占わせた。坤・艮の方角にある神社に不浄の気があり、祟りを為しているということだ。そこで検非違使を遣わし、その方角にあたる諸社を実検させた。(『日本紀略』)

6月14日 陰陽寮の井戸から死体が発見される

天暦三年(949)6月14日丙戌、陰陽寮の井戸に落下死した者が発見された。蔵人所仕丁ならびに近辺の諸司の人たちはこの由を知らず、井戸の水を汲んで用いた。よって、その穢は宮中に及んだ。(『日本紀略』)
陰陽寮の井戸に女童が落下死した。その穢は宮中に及んだ。(『九条殿記』)

6月21日 陰陽寮が干ばつを占う

天暦三年(949)6月21日癸巳、神祇官・陰陽寮の官人を軒廊に召し、旱魃の御卜を行わせた。占い申したことには「艮・巽・坤・乾の方角にある神社・山陵が祟りをなしています。すぐに深草・柏原などの山陵を実検すべきです」と。検非違使に召仰せた。(『日本紀略』)

7月3日 陰陽寮が怪異を占う

天暦三年(949)7月3日甲辰、申の刻、紫宸殿の巽の方角の角にある桜の木に虹がかかっていたので、御卜を行わせた。「咎はありません」ということだ。また、豊楽院承覲堂の上に鷺が集まったので占わせたところ、失火・兵革のことを申した。(『日本紀略』)

7月17日 神今食、御体御卜の日時を勘申する

天暦三年5月27日、尾張権介是竝の妻の死穢が内裏に参交し、6月10日に予定されていた御体御卜奏・神今食などは停止となった。6月14日、陰陽寮の井戸に女童が落下死し、その穢もまた宮中に及び、7月14日に穢の期間が満了した。15日と16日は内の御物忌であった。17日、右大臣藤原師輔は殿上の仰せにより参内し、陰陽寮を召して神今食の日を勘申させた。また、先例により事の由を奏し、御体御卜奏の日を勘申させた。申して言ったことには「神今食は22日、御体御卜は24日もしくは26日です」と。また、神祇官を召して式日ではない日に御体御卜を奉仕した例を数例勘申させた。申して言ったことには「延喜十五年12月に穢があったとき、穢が過ぎた後四日目に供奉し24日に奏しました。延長二年12月に穢があったときは四日目に供奉し、26日に奏しました。同三年12月に穢があったときは十日目に供奉し、29日にこれを奏しました。天慶元年6月に穢があったときは十日目に供奉し、24日にこれを奏しました。今の勘文では、月内に残っている日が多いときは十日目にこれを奏し、月内に残っている日が少ない日は三日目にこれを奏しました」と。件の勘文ならびに陰陽寮が日を選んだ勘文を奏聞し、仰って言ったことには「神今食は22日に行うように。御体御卜は26日に占い始め、29日に奏聞するように」と。(『九条殿記』)

7月22日癸亥、月次祭・神今食が行われた。村上天皇は雨により神嘉殿にお出ましにならなかった。去る月、頻りに穢があったので今まで延期されていた。(『日本紀略』『西宮記』)
7月29日庚午、御体御卜奏が行われた。(『日本紀略』)

8月4日 陰陽寮が軒廊御卜に参上しない

天暦三年(949)8月4日乙亥、軒廊御卜のとき、陰陽寮は参らなかった。(『九暦抄』)

11月1日 御暦奏

天暦三年(949)11月1日癸未、御暦奏が行われた。(『日本紀略』)

11月26日 朱雀院遷御に際し移徙が行われる

天暦三年(949)11月26日乙丑、太皇太后藤原穏子ならびに朱雀上皇は東二条院から朱雀院へお移りになった。饗宴があった。禄はなかった。(『日本紀略』)
亥の刻、中宮(藤原穏子)が朱雀院の島町にお帰りになった。その故は、去る年の八月、二条院にお出ましになった後、頻りにご病気のことがあった。その祟りを占ったことには「御在所がよろしくないことによります」ということだ。「両帝の御定所で移徙があった。饗宴があったが禄はなかった」ということだ。(『九暦抄』)

12月11日 陰陽寮が村上天皇の月次祭・神今食への出御を停止する

天暦三年(949)12月11日庚辰、月次祭・神今食が行われた。村上天皇は神嘉殿にお出ましにならなかった。陰陽寮の申状によりこれを停止した。(『日本紀略』)

12月29日 追儺

天暦三年(949)12月29日戊戌、追儺ならびに大祓があった。(『日本紀略』)

天暦四年(950)

5月24日 平野茂樹が障りを称して参上しない

天暦四年(950)5月24日寅の刻、憲平親王(後の冷泉天皇)が誕生した。源高明は陰陽助平野茂樹を召して雑事を行う吉日を勘申させようとしたが、茂樹は障りがあると言って参上しなかった。そこで、茂樹宅において勘申させた。

御臍緒ならびに御哺乳の日時:今日辛酉時辰二刻もしくは午時午二刻
御湯殿調度の日時:今日辰二刻
御沐浴の日時:今日戌二刻(沐浴の水は卯方から汲み、御船は甲方を用いる)
初着給御衣の日時:26日癸亥 時巳二刻もしくは午二刻、28日乙丑 時午二刻もしくは酉二刻 黄色の衣を用いる

閏5月2日 秦連茂が禄を賜る

天暦四年(950)閏5月2日戊辰の晩、藤原師輔は七ヶ日の読書博士式部大輔紀在昌・少輔三統宿禰元夏・大学頭橘敏通並びに侍医桜井季当・陰陽権助秦連茂、右近将監三島真祥などを喚び、酒・肴を給い、禄を賜った。明経博士十市良佐は病を称して来なかった。在昌には蝉翼の朽葉色の小褂・袴一具、三人の博士には白張の細長一襲・袴一具。季当には絹・縑を各一疋、連茂には白絹、真祥、縑一疋。季当ら三人は七ヶ日の間伺候していたので、手厚く褒美を与えた。件の人々は禄を賜った後、庭の中において再拝し退出した。(『九暦』『御産部類記』)

6月25日 陰陽師が行幸の吉日を勘申することになる

天暦四年(950)6月25日辛酉、臨時御読経が結願した。終わった後、御前に召して仰って言ったことには「今月の御体御卜に言ったことには『七月上旬の行幸により、もしくは御薬のことがあるか』ということだ。今、事を案じたが、十六日はすでに七月節に入っていた。どうして障りを恐れるところがないだろうか。よって書状を中宮に奉った。報命に言ったことには『このことはしっかり考えた上で行うように。国家の大事であるから、愚心は計り難い』ということだ。ただし、まずは期日を定めた後で上皇の処分を請う。明日陰陽師を召し、吉日を選び申させよ」と。退出の後、藤原伊尹に奏させて言ったことには『誰にこれを選ばせますか。また、どこで勘文を進めさせますか」と。仰って言ったことには「先帝の御日記に言ったことには『延長三年、故太政大臣は左大臣であった。陰陽頭氏江一人を大臣家に召し、勘申させた』と。そこで、すぐに陰陽助平野茂樹を召し(この間、(陰陽?)頭はいなかった)、大臣家において勘申させよ」と。(『九暦』)

6月26日 平野茂樹が行幸の吉日を勘申

天暦四年(950)6月26日、藤原師輔は平野茂樹を召し、勘文を進めさせたことには「来月二十三日戊子がもっとも吉です」と。午の刻、参内した。藤原伊尹にこれを奏させた。仰って言ったことには「件の日に遂げ行うように。先例では皇太子を立てた後、幾日を経ず東宮もしくは職曹司に入った。しかし、東宮の凶事の後すでに数十年に及び、荒涼はすでに甚だしい。職に至ってはまた、憚るところがある(延喜の次の皇太子が東職において夭逝した)。宮中で便のある所を尋ね求めると、修造の間、もしくは数月を経るだろうか。先例に背くのを恐れる」と。奏して言ったことには「このようなことは、便宜に従って行われるべきです。昔にある東宮及び職曹司は破損がありません。よって、早く移り入りましょう。当今、この両所は雑舎が顛倒し、残る所はいくつもありません。また、諸司の間はたちまちその所がありません。そればかりではなく、秋三月は王相が西に在ります。皇子の居処は宮城の東に当たり、便のある所を選んで三ヶ月の間修理を加え、移徙を行うのがもっともよろしいでしょうか」と。仰って言ったことには「申す所、その理がないわけではない。しかし、庶事は先例により行うべきである。もしくは数月、里第にいれば、後代の謗りを遺すのではないだろうか」と。重ねて奏して言ったことには「太上天皇の譲位の後、一日も宮中に留めてはなりませんでした。しかし去る天慶九年四月、禅位の後も上皇はなお弘徽殿にいらっしゃり、七月になって朱雀院へお出ましになりました。これは、夏三月、南方の王相によるものです。また、皇后は数日も人家に住んではなりませんでした。しかし当今の太后は、延長元年四月に立后しました。太政大臣の五条家に住む間、職につき、九月になって主殿寮にお移りになりました。『これもまた、確かな例がないわけではないといっても、新議があって行われた』ということです。これを以て謂うに、当時の定は特に難はなかったのでしょうか。もしくはなおその難が有るならば、まず居処を造り設け、そのことを行われるべきでしょうか」と。(『九暦』)

7月10日 平野茂樹が反閇を奉仕する

天暦四年(950)7月10日、亥の刻に女御及び今宮・女一宮らが遠規宅かた中御門家に移徙を行った。主人の遠規が男・女房の饗宴の場を設けた。内裏の殿上人は四位・五位・六位の人々、合わせて10人が仰せによって往来していた。藤原師輔は座を西又庇に設け酒と食事を薦めた。時が来て、門を出る時に陰陽助平野茂樹が反閇を奉仕した。(『九暦』『御産部類記』)

7月11日 平野茂樹が吉日を勘申する

天暦四年(950)7月11日、御前に召し、仰って言ったことには「まず親王とする宣旨を下した後、このことを行うように。(平野)茂樹を召して吉日を選び申させよ」という。
「また、名字は参議維時朝臣に選ばせた。ところが、未だ勘申していない。それだけではなく『延喜の後の皇太子の名字が、かの時、維時朝臣が侍中となって勘申したものです』という。事は然るべきではないといっても、憚るところがないわけではない。中納言(藤原)在衡卿に命じてその字を選び申させよ」という。すぐに陣頭に向かい、件の卿に伝え命じた。
退出した後、頭弁に語って言ったことには「先日の仰せのようであれば『東宮は皇太子の居所である。どうして一度の凶事によって長らくその場所を棄てることがあろうか。必ず修造を加え、かの宮に住まわせるように』という。仰せの旨は、もっとも道理である。あえて申さなかった。しかしながら、延喜の初めの太子は成人した後、かの宮において突然崩御された。その後、破壊はもっとも盛んであった。ほとんど荒野のようであった。今、ひとえに道理を論じると、幼少の皇子を住まわせることに恐れるところがないわけではない。延長・天慶の例では、凝華舎を皇太子の宿廬とした。この両太子に至っては、すでに后腹の親王である。あえて先例に従うべきではない。先例では、貞観の代、右大臣(藤原)良相は曹司を中重に給わった。臣下はすでに陣中に伺候していた。ならば、すなわちこの度の太子は桂芳房を宿廬としようと思う。必ず便宜を量り、このことを奏上するように」という。仰って言ったことには「事はよろしい。従い行うべき者」という。(『御産部類記』)

7月14日 平野茂樹が皇子の御名を授ける日時を勘申する

天暦四年(950)7月14日、先日の仰せの旨により、(平野)茂樹宿禰を召し、皇子の御名を授け奉る日時を選び申させた。十五・十六日午の刻が吉であった。帯びるところがあったので、封字を加えて蔵人頭(藤原)有相朝臣のもとに送り、奏聞させた。(『九暦』)

同年7月15日庚辰、辰の刻、按察中納言(藤原在衡)が来て、勘文を授けた。召しによって内裏に参った。仰って言ったことには「藤原朝臣が勘申したところ、広業・憲平がよろしい。特に、憲平は称謂に便がある」という。
また、言ったことには「『字書』・『唐韻』を引いて勘申しようと思う。午の刻は、すでに過ぎただろうか」という。
答えて言ったことには「重服の人は、件のことを承り行うべきではありません。大納言藤原(顕忠)朝臣が奉行するのがよろしいでしょうか」という。退出した後、例の念仏に参列するため、法性寺に参った。
亥の刻、(藤原)伊尹が告げ送って言ったことには「憲平の字を選び定めました。則ち件の刻、大納言顕忠卿が宣旨を蒙り、所司を召し伝えました。その後、氏大夫を率いて弓場殿に参り進みました。左近中将良岑義方朝臣に慶賀を奏上させました。この大納言のほかに、藤原氏の公卿は参りませんでした。そこで大納言一人及び殿上の氏の大夫ならびに左少弁雅量が相従いました」という。(『九暦』)

7月26日 陰陽寮が御殿祭・御井祭・鎮祭・御前所神・政始の日時を勘申する

天暦四年(950)7月26日辛卯、雨。大夫が初めて参入し、殿上の侍の座に就いた。
陰陽寮を召し、御殿祭・御井祭ならびに鎮祭・御膳所の神を奉仕する、及び政を始める日時を勘申させた。必ず一官が共に勘文を進上するべきである。ところが、他の官人がそれぞれ障りを申したことにより、(陰陽)助(平野)茂樹宿禰が一人で勘申した。〈この期間、(陰陽)寮頭を欠いていた。〉(『九暦』―『御産部類記』)

7月30日 陰陽寮が儲弐を立てる日を勘申する

天暦四年(950)7月30日、御物忌であった。
「左大臣が内裏に参りました。仰せを承り、諸陵への使者を差し定めました。儲弐を立てることを告げるためです。陰陽寮がその日を勘申しました。来月九日になりました」という。(『九暦』―『御産部類記』より)

10月17日 賀茂保憲と大春日益満が造暦の異論を問われる

天暦四年(950)10月17日辛亥、暦博士賀茂保憲と大春日益満らが左大臣藤原実頼に召されて、造暦の異論について問われた。
算博士泰平宿禰が仰せにより召候させた。明年の五月、保憲は丁酉を以て朔日としたが、益満は戊戌を以て朔日とした。保憲は宣明暦によって作り進め、益満は会昌革によって申した。宣明暦は貞観年間に大春日真野麻呂が用いた。官符を下し、会昌革は申請されなかった。延喜十七年の御記では、葛木宗公が経説によりこのことを申し、弘範は会昌革のことを申した。経説によりこのことを定め終わった。(『西宮記』『北山抄』)

左大臣(藤原実頼)は仰せを奉り、陣頭において両暦博士を召問した。算の誤りのため、算博士宗平を召し、この座に預かった。(『小一条左大臣記』)

算博士

大学寮に設置されている。算博士の定員は二名。

12月8日 陰陽寮が荷前定の吉日を勘申する

12月8日、陰陽寮は荷前定の吉日を勘申した。
→13日となった。(『九暦』同年12月12日条)

12月12日 陰陽寮が荷前の日時を勘申する

天暦四年(950)12月12日、左中弁朝綱が小野之盛に伝えさせて言ったことには「内裏、仰って言ったことには『去る八日、陰陽寮の勘申により十三日に荷前を行うことを定めた。ところが今、疑わしいのは、十三日は致斎の後で散斎の日である。幣物を切ることに恐れるところがないわけではない』という。疑いを決めるため、先帝の御日記を引いて見たところ『延喜十七年、陰陽寮は十三日を定め申した。疑いがあったので、使者を右大臣の家に遣わし、定め申させた』という。申して言ったことには『仰せの旨のようであれば、すでにその疑いはあります。必ず陰陽寮に伝え、かの十三日のほかに重ねて吉日を選び申すように』という」ということだ。すぐに陰陽頭房満を召し、選び申させた。申して言ったことには「十三日のほかに吉日はありません。大変よろしい日は、戌の日にあたります。戌の日は、祀ってはいけません」という。けれども、十三日を改めて戌の日に行われた。二十二年になって、またこれを始めた。「そうであればつまり、明日の予定を改めて十七日の戌の日に行うように」という。(『九条殿記』)

天暦六年(952)

4月27日 賀茂保憲が所帯の栄爵を父忠行に譲ってほしいと頼む

4月27日壬子、暦博士賀茂保憲は所帯の栄爵(従五位下)を父忠行に譲ってほしいと頼んだ。(『本朝文粋』)

6月10日 賀茂忠行が新門の造立について勘申する

天暦六年(952)6月10日、前近江権少掾賀茂忠行が勘申して言ったことには「北方に新門を造立されるのは忌みがあります。『尚書暦』に言ったことには『夏三月、土公・治門を触犯してはならない。凶である』とあります。『暦例』に言ったことには『大歳が在るところに功を興してはならない。動土・挙造の百事は凶である』とあります。『三公地基経』に言ったことには『本命の遊年の地において犯土・起功はみな凶である』とあります。右、件の説を勘じるによって新たに北門を立てることはもっとも忌みがあります。そこで勘申しました」という。(『小右記』治安三年〈1023〉9月2日条)

8月21日 平野茂樹が御舎利を奉る

天暦六年(952)8月21日、朝、御舎利を醍醐寺の東に奉った。左中将藤原朝忠が捧げ持った。律師鎮朝・醍醐寺座主定助法師・陰陽助平野茂樹が相従って奉った。(『吏部王記』)

11月2日 平野茂樹が反閇を奉仕する

天暦六年(952)11月2日甲寅、酉の刻に藤原師輔は主殿寮に参った。亥一刻に参り進み、前庭へ進んだ。陰陽助平野茂樹が反閇を奉仕した。反閇が終わると、御輿は南門を出発して南へ向かった。上東門大路を西に行って、縫殿寮の東南、朔平・玄輝の両門を経て登華・弘徽両殿の西道から南へ進み、弘徽殿の南戸まで来たところで御輿を下ろした。親王・大臣・納言・参議・侍臣・諸衛の陣の列の次第は行幸の時と同様であった。(『九暦』)

12月29日 追儺

天暦六年(952)12月29日辛亥、藤原師尹は東宮に参った。追儺の分配及び元三日の後取を定めた。その後、承明門の東腋に着座した。しばらくして按察中納言が参着した。師尹が中納言に語って言ったことには「方相氏は御前を渡り北門を出る。しかし昨日と今日は御物忌に当たる。前例は如何であったか」という。納言が外記傅説を召して先例を調べさせたところ、すでに所見はなかった。そこで傅説を差し、蔵人に託して案内を取らせた。帰ってきて言ったことには「蔵人清時が仰せを伝えて言ったことには『例によって行うように』ということです」という。亥一刻、諸衛が門を開いた。追儺の儀は通例のとおりであった。(『小一条左大臣記』)

天暦七年(953)

この年、陰陽寮において火災があった。(『百錬抄』)

2月13日 陰陽寮が神祇官後庁の焼亡の祟りを占う

背景

『扶桑略記』:天暦七年(953)2月12日壬戌、丑の刻、京中(藍園町)で火災があり、神祇官後庁に延焼した。勅によって左近少将国紀がその火を防止した。

天暦七年(953)2月13日癸亥、(藤原)有相朝臣に、左大臣に神祇官の火事の祟りを占わせること、大祓を行うこと、失火に遭った百姓の賑給の例を勘申すること、また、昨夜の失火において神祇官の高倉に登り、火を撲滅させた者に禄を下給させることについて仰させた。
左大臣は、有相朝臣に陰陽寮の選び申した大祓の日の勘文を奏上させた。〈十四日、十九日。〉改めて勘申させた。また、陰陽寮に今夜失火があったこと、火が延焼して神祇官に及んだことを占い申させた勘文、これを推すことには「怨を含む霊気が致したものです」という。
同じ件の寮に仰って言ったことには「右、件の失火の穢、同じく宜しくその雑物が穢に触れたかどうか、並びに延引の例等を勘申するように」という。
左大臣が有相朝臣に、少外記御船伝説に失火の百姓の賑給の例の文を勘申させた。〈承和九年七月十九日、寛平三年六月十九日、延喜十年二月十九日、同十四年四月二日、同年五月二日、この例があった。〉
また、式日のある祭が延引するとき、後の日を以て祭る例の文を勘申し、神祇官が園・韓神祭に用いる神宝装束ならびに供奉の官人以下の状の文を勘申した。また、今夜の失火の間に高倉に登り火を消した者の交名〈山城国乙訓者の祝部真茂〉を勘申した。
陰陽寮に、改めて選び申した大祓の日時の勘文〈今月二十日〉を奏上させた。検非違使を遣わし、焼亡の煙を注し申し、前例によって米・塩を以て賑給させ、園・韓神祭は後の丑の日を以て行わせること、火を撲滅させた者真茂に禄を下給させること、また、大祓の日は定めた日に依ることを仰させた。(『中右記』大治二年二月十五日条裏書)

天暦八年(954)

5月1日 陰陽寮が干ばつの祟りを占う

天暦八年(954)5月1日甲戌、右大臣が国光に申させて言ったことには「旱気はすでに盛んになっております。もしくは、祟りがあるのでしょうか。占い申させてはどうでしょう」という。仰ったことには「請いに依れ」という。
右大臣は国光に、神祇官が占い申した雨の降らない祟りの文〈「祟りはない」という〉・陰陽寮が占い申した雨の降らない祟りの勘文〈「特に祟りはない」という〉を奏上させた。大臣が申させたことには「先例により、黒毛馬を丹生・貴船の両社に、また、竜穴において読経し、東大寺大仏殿に同じく読経させ、また、請雨経法を修する、これらの間、仰せに従って行うように」という。仰させて言ったことには「幣・馬を丹生・貴船に奉り、また、竜穴社において読経するのがよろしい。また、官符を諸国に給い、奉幣・読経し、雨を祈らせよ」という。(『祈雨記』)

5月17日 陰陽寮が祈雨読経の日時を勘申する

天暦八年(954)5月17日庚寅、国光に、大納言藤原朝臣に東大寺大仏殿において祈雨の読経を修させることを、陰陽寮に日時を選び申させた勘文を伝えさせた。仰って言ったことには「二十日に始めて修させよ」という。
この日、雷が鳴り雨が降り注いだが、地を湿らせるには及ばず晴れた。(『祈雨日記』)

5月19日 陰陽寮が五龍祭の日時を勘申する

天暦八年(954)5月19日壬辰、俊朝臣をして、大納言源朝臣に、陰陽寮に五龍祭を修させる事を仰させた。
しばらくして、陰陽寮が選び申した日時の勘文を奏上させた。〈二十三日を定めた。〉

8月20日 陰陽頭平野茂樹が桂院別当になる

天暦八年(954)8月20日、陰陽頭平野茂樹が桂院別当となった。(『村上天皇御記』)

天暦九年(955)

11月1日 御暦奏

11月1日、雨儀であったため、御暦奏は内侍所に託された。(『権記』正暦四年〈993〉11月1日条)

天暦十一年/天徳元年(957)

この年、僧日延が呉越国(杭州)から『新修符天暦経』を持ち帰った。

8月17日 賀茂保憲が坊城家を鎮める

同年6月6日、藤原師輔の妻康子内親王が薨じられた。(『九暦抄』)

天徳元年(957)8月17日、(藤原師輔は)陰陽頭(賀茂)保憲に坊城家を鎮めさせた。
この事は数度に及んでいたが、去る六月の凶事によって再度行わせたものである。絹二疋を下給した。(『九暦抄』)

11月1日 御暦奏

天徳元年(957)11月1日癸未、御暦奏が行われた。(『日本紀略』)

12月30日 追儺

天徳元年(957)12月30日壬午、追儺が行われた。(『西宮記』)

天徳三年(959)

2月7日 賀茂忠行が箱の中身を占う

天徳三年(959)2月7日壬午、勅によって賀茂忠行が箱の中身を占った。水精念珠であった。(『朝野群載』)

12月?日 陰陽寮が忌日について回答する

天徳三年(959)12月(日未詳)、十五日・二十一日を勘申した。しかし十五日は、告げ巡らすに程なかった。二十日を御読経の日に勘申した。そこで陰陽寮に問うて言ったことには「二十六・七日は、特に忌みはありません」という。仰って言ったことには「省の解文を返給し、改めて申させるように」という。(『北山抄』)

天徳四年(960)

4月4日 陰陽寮が廣瀬・龍田祭の日時を勘申する

天徳四年(960)4月4日癸酉、触穢により、広瀬・龍田祭が延期された。(『日本紀略』)
陰陽寮の勘文により、5月6日改めて行うことになった。(『西宮記』)

天徳四年(960)5月6日甲辰、広瀬・龍田祭が行われた。去る4月4日に穢で延期されていたものである。(『日本紀略』)

4月20日 天文奏

天徳四年(960)4月20日己丑、主税頭十市以忠が去る18日の寅の刻に月が南斗第二星を犯したことを奏上した。(『日本紀略』『扶桑略記』)

4月22日 賀茂保憲が天文博士になる

4月22日辛卯、陰陽頭賀茂保憲は天文博士になった。(『扶桑略記』)

5月9日 陰陽寮が祈雨御読経の日時を勘申する

天徳四年(960)5月9日丁未、民部卿藤原朝臣が蔵人守仁をして、陰陽寮の選び申した七大寺の祈雨御読経の日時の勘文を奏上させたという。仰らせて言ったことには「前例により、七大寺の僧を大仏殿に集め、読経し祈雨するのがよろしい」という。(『祈雨記』)

5月13日 陰陽寮が干ばつの祟りを占う

天徳四年(960)5月13日辛亥、民部卿藤原朝臣、文範朝臣をして、神祇官の占い申した雨が降らない祟りの文〈申して言ったことには「理運の上、神事の誤りがあって致すところか」という〉・陰陽寮が申した雨が降らない祟りの勘文〈これを推すに、理運の上、もしくは巽・離・乾の方角の神祇が祟りを為して致した所か〉を奏上させた。仰させて言ったことには「必ずしっかりと祟りを為す趣、兼ねてそれに合う神社等を勘申させるように」という。(『祈雨記』)

5月14日 陰陽寮が干ばつの祟りを占う

天徳四年(960)5月14日壬子、民部卿藤原朝臣、蔵人重輔をして奏上させたことには「重ねて御卜がありました。神司が占って言ったことには『理運の上、大神宮ならびに豊受宮です。膳物預の人が穢悪します。ならびに鴨御祖・別雷社、神事に供奉する禰宜等、穢に遭って致したところです』ということです。陰陽寮が言ったことには『理運の上、巽・離の方角の神社に不浄の気があります』ということです」という。命じて言ったことには「神祇官の人をかの宮に遣わし、また、陰陽寮が占い申した諸所に検非違使を遣わし実検させよ」という。今日、甘い雨が降りしきった。(『祈雨記』)

7月25日 陰陽寮が雩祭を行う

天徳四年(960)7月25日癸亥、この日から三日間に渡って、陰陽寮が神泉苑において雩祭(雨乞いの祭祀)を行った。(『日本紀略』)

10月1日 陰陽寮が斎鏡の韓櫃と大刀契を作り始める日時、納める日時を勘申する

天徳四年(960)10月1日丁酉、(源)延光朝臣をして、左大臣、式部少録秦敦光が申した内侍所に坐す大神、縁さし奉ることの文を奏上させた。延光朝臣をして、左大臣に、件の鏡を納める韓櫃を始めて作る日時のこと、また、何に大刀を飾り作る具を定めるかの事を仰させた。左大臣、陰陽寮が選び申した斎鏡の御韓櫃を始めて作る日時の勘文〈始めて作るのは今月の五日午二点。納め奉るのは七日巳二点。〉また、選び申した大刀・契の御韓櫃を始めて作られ、ならびに納め奉る日時の勘文〈始めて作るのは今月五日・二十八日。納め奉るのは十一月七日。〉を奏上させた。命じさせたことには「大刀・契等は必ず行幸に候ずるように。必ず冷泉院に移徙する以前の日を選び申させるように。その他は、選び申した日によって七日に行うように」という。延光朝臣をして、民部卿藤原朝臣に命じさせたことには「内侍所の印はすでに焼けてなくなった。新たに鋳作するように」という。(『諸道勘文』)

10月22日 賀茂保憲らが職曹司から冷泉院への遷御の可否を勘申する

10月22日戊子、天文博士賀茂保憲らが職曹司から冷泉院への遷御の可否について勘申した。(『西宮抄』『陰陽新書』『水左記』)

延光朝臣が申して言ったことには「仰せによって(賀茂)保憲・(秦)具瞻・(文)道光を召しました。職御曹司から冷泉院を指すと大将軍の方角に当たります。四十五日に満たないうちに遷御するのは、忌むべきか否かのことを問いました。保憲が申したことには『忌む必要はありません。大将軍は年の忌みだからです』ということです。具瞻・道光が申したことには『忌むべきです。必ず当日は他所に移り、彼の院を以て吉方とし、遷御するべきです』ということです」という。それぞれ勘文を進上させるように仰す。(『村上天皇御記』)

九月二十三日の夜、内裏が焼亡した。そこで、職曹司に移御することになった。天文博士(賀茂)保憲を召し、冷泉院に遷御するのは内裏から御忌の方角に当たるか否かのことを定め申させた。保憲が申して言ったことには「一方分法によってこれを測ると、件の院は巽の方角に当たります。今年、大将軍は午の方角に在ります。南を領すべきです。巳・丙・午・丁・未の五辰。巽の方に至ると、これは維地になります。これを忌む必要はありません」という。(『村上天皇御記』)

天徳四年(960)は庚申の年。申年の大将軍は巳・午・未の方角にいる。

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11月2日 御暦奏

11月2日戊戌、御暦奏が行われた。(『日本紀略』)

11月1日には、伊勢・石清水・賀茂・松尾・平野・石上の六社へ奉幣が行われた。(『西宮記』)

11月4日 村上天皇の遷御に際し、賀茂保憲が反閇、秦具瞻が院内鎮法を奉仕する

天徳四年(960)11月4日庚子、村上天皇が職曹司から冷泉院へ遷御を行った。天文博士賀茂保憲が反閇、陰陽頭秦具瞻が院内鎮法を奉仕した。(『日本紀略』)

『左経記』長元五年(1032)4月4日条:村上天皇の時代、冷泉院へお渡りになるとき、旧所であったため新宅の儀を用いるべきではないことについて議論があった。しかし賀茂保憲が申して言ったことには『旧い邸宅といっても、犯土・造作があります。どうしてその儀礼を行わないのでしょうか。特に、黄牛を牽くのは土公を厭うことです。もっとも礼儀を備えるべきです。また、反閇が必要です。その他のことにおいては左右、御意に従います。』

11月20日 陰陽寮が怪異を占う

天徳四年(960)11月20日丙辰、辰の刻に御殿が鳴動し、巳の刻に内膳御竈神が鳴動する怪異があったので、陰陽寮が御卜を行った。(『日本紀略』)

12月30日 追儺

天徳四年(960)12月30日乙未、追儺が行われた。方相氏が西中門から入った。陰陽官人が呪を読んだ。(『西宮記』)

応和元年(961)

2月16日 陰陽寮が改元について申し上げる

応和元年(961)2月16日、左大臣に仰ったことには「改元のことを行うように」という。
陰陽寮が申したことには「天徳は火神の名です。その忌みがあるでしょう」という。そこで天徳五年を改め、応和元年とする詔を下した。(『西宮記』)

閏3月22日 陰陽寮(賀茂保憲)が神祇官とともに宇佐使発病の吉凶を占う

背景

『日本紀略』:応和元年(961)閏3月22日乙酉、七日に発遣した宇佐使左少弁(源)伊陟朝臣が備後国において発病した。

応和元年(961)閏3月22日乙酉、神祇官・陰陽寮に伊陟の帰京を占わせたという。また、遣わすべき使者について、五位三人〈時経・清遠・懐忠〉を占わせたと仰った。(平)時経が占いに合った。(『西宮記』)

『北山抄』では、神祇官と天文博士賀茂保憲となっている。

6月15日 陰陽寮が祈雨読経の日時を勘申する

応和元年(961)6月15日丁未、(源)延光朝臣をして、大納言源(高明)朝臣に命じさせて言ったことには「奉幣の後、なお未だに快い雨が降らない。必ず例によって、七大寺の僧を東大寺大仏殿に集めて読経し、祈雨するように」という。源朝臣、延光朝臣をして、陰陽寮が選び申した東大寺の祈雨読経の日時の勘文を奏上させた。(『祈雨記』)

6月21日 陰陽寮が神祇官とともに旱炎について占う

応和元年(961)6月21日癸丑、文範朝臣をして、右大臣に干災の祟りを占わせること、また、祈雨読経もしくは請雨経を定め行うことを命じさせた。未の刻、右大臣が参上して、神祇官の申した旱災の祟りの文〈これを推すに「理運の致すところである」という〉・陰陽寮の占い申した同じ祟りの文〈これを推すに「理運の上、巽・乾の方角の神が違例・不浄のことによって致すところである」という〉を奏上させた。陰陽寮の占いにより、方角に合った社を実検させるように命じさせた。
子の刻、右大臣、御読経の請僧を定める文・陰陽寮の選び申した日時の勘文を奏上させた。二十五日を以て発願とすることを命じた。(『祈雨記』)

6月25日丁巳、大極殿において祈雨読経が始められた。(『日本紀略』)

6月28日 陰陽寮が五龍祭を修する/賀茂保憲が神護寺において五帝祭を行う

応和元年(961)6月28日庚申、陰陽寮は五龍祭を奉仕した。(『日本紀略』)

また、天文博士賀茂保憲は神護寺において三方五帝祭を務めた。これは、霊剣を鋳造するための祈祷である。備前国鍛治白根安生が鋳造して進めた。(天徳四年の内裏焼亡で)焼け失せた代わりに新造したのである。(『塵袋』)

8月17日 陰陽寮が龍穴社に勅使を遣わす日時を勘申する

応和元年(961)8月17日戊申、右大将藤原(師尹)朝臣が蔵人雅材をして、陰陽寮の選び申した勅使を龍穴に遣わす日時の勘文、同社に告げる宣命草、山陵に告げる宣命案等を奏上させた。藤原(師尹)朝臣は、雅材をして室生龍穴神の位記を奏上させた。〈天慶の賊のときの御祈によって、一天下の神に位階を授け奉る日、必ず従四位上を授ける。しかし、漏れがあって授けなかった。そこでこの度、律師祥延の祈る所を相加え、正四位下を授けた。〉見終わって返給し、捺印した。(『祈雨日記』)

9月14日 陰陽寮が諸社奉幣の日時を勘申する

応和元年(961)9月14日、左大臣に命じさせたことには「穢の間、奉幣の勘申させた例を勘申させるように」という。申させて言ったことには「去る天慶七年九月一日、左近府で失火の穢がありました。侍臣がかの府に向かって内裏に還り参りました。そこで六日を以てその日を勘申させ、奉幣のことを改め定めました。これがその例です」という。件の例によって、奉幣の日を勘申させることを命じた。大臣、陰陽寮の選び申した日時の勘文を奏上させた。二十三日を定め命じた。(『北山抄』)

9月23日甲申、諸社使が発遣された。(『日本紀略』)

10月19日 賀茂保憲が勘文を進上する

10月19日、天文博士賀茂保憲は本命日についての勘文を進上した。(『覚禅抄』)

10月26日 陰陽寮が版位造進の日時を勘申する

応和元年(961)10月26日丙辰、大納言藤原在衡、参議好古が左近陣座に著し、陰陽頭秦宿禰具瞻・権允文道を召して版位造進の日時を勘申させた。(『園太暦』)

11月1日 御暦奏

応和元年(961)11月1日辛酉、村上天皇は御物忌により紫宸殿にお出ましにならなかった。陰陽寮は明年の暦を内侍所に託して奏上した。(『西宮記』)

12月14日 陰陽寮が荷前の日時を勘申する

応和元年(961)12月14日、左大臣、蔵人雅材をして荷前使を定める文・中務省の申す荷前の日を選ぶ文〈十九日・二十日〉を奏上させた。命じさせて言ったことには「延喜十七年の例を調べると、復日を避けて定められた。しかし、件の両日はともに復があった。改めて勘申するように」という。
しばらくして大臣、陰陽寮の改めて選び申した荷前の日の勘文を奏上させた。〈十七日。〉命じて言ったことには「この日は、中宮・東宮が内裏に遷る。また、昌子内親王が始笄する。そこで、公卿・侍従が供奉するように。二十一日は忌みがあるため選び申さないか」という。ただし、また問うたところ、申させて言ったことには「先日、戌の日を選び申さなかった。由趣を尋ねたところ、戌の日は祠祀を忌む。宗庿を祭るに擬するか。公卿等、相准うべきことを定め申すように」という。
陰陽頭房満が勘申して言ったことには「十二月十五日は往亡に当たります。往亡は祠祀を忌みます。准えるべきです」という。しかし、なお復日を避け、かの十五日を用いられた。今、その例により、二十一日を用いることに何事があるだろう。ただしこの日はまた、他の忌みがあるか。問わせるようにということだ。申して言ったことには「戌の日は、また、他の忌みはありません。必ずかの日を以て行うように」という。(『村上天皇御記』)

応和二年(962)

4月13日 天文密奏

応和二年(962)4月13日庚子、「12日の戌の刻に月と歳星が同宿していた」との天文密奏があった。(『日本紀略』)

6月24日 天文密奏

応和二年(962)6月24日庚戌、「去る21日に歳星が亢星を犯しました」との天文密奏があった。(『日本紀略』)

7月10日 天文密奏

応和二年(962)7月10日乙丑、天文博士賀茂保憲、助教以忠が「9日に月が心前星を犯しました」と天文密奏を行った。(『日本紀略』)

8月4日 天文密奏

応和二年(962)8月4日己丑、天文博士賀茂保憲は「7月30日に黒雲気一条、広さ三尺程で坤の方角から艮の方角へ渡っておりました。戌の刻に消えていきました。また、戌の刻に鎮星が守星を犯す天変がありました」と天文密奏を行った。(『日本紀略』)

8月18日 賀茂保憲が補多楽堂の地を鎮謝する

応和二年(962)8月18日癸卯、天文博士賀茂保憲が補多楽堂の地を鎮謝した。(『日本紀略』)

9月24日 天文密奏

応和二年(962)9月24日己卯、助教十市以忠は「去る23日の夜明け、月が軒轅夫人を犯しました」と天文密奏を行った。(『日本紀略』)

12月22日 賀茂保憲が革令期事について勘申する

12月22日丙午、天文博士賀茂保憲が再来年は甲子の年であり、革令期にあたると勘申した。(『革暦之事』『応和四年甲子革令勘文)

応和四年は甲子の年にあたるが、甲子の年は変革が起こりやすいと考えられていた。甲子革令ともいう。

12月29日 追儺

応和二年(962)12月29日癸丑、追儺が行われた。(『北山抄』)

応和三年(963)

1月20日 陰陽寮が石清水八幡宮正殿造立の日時を勘申することになる

応和三年(963)1月20日癸酉、造石清水八幡宮別当定杲が申した三ヶ条のことの文の中〈一、処分を蒙り、三所大菩薩の御殿の内、正殿、三宇を造立することを請う状。〉命じたことには「早く陰陽寮に日時を選び申させよ」という。(『石清水文書』)

2月27日 陰陽寮が石清水八幡宮正殿造立の日時を勘申する/正座移動の吉凶を占う

応和三年(963)2月27日、左大臣、文範朝臣をして、陰陽寮の占い申した石清水大菩薩の正座を移動し奉れば後の祟りがある由の勘文、また、同宮の御殿を造立される日時を選びもうした勘文〈今月二十七日・四月十三日〉を奏上させた。命じさせて言ったことには「勘申により、さらに動かし奉ってはならない。ただ、修理するように。四月十三日を以て御殿を造立するように」という。(『石清水文書』)

7月5日 陰陽寮が炎旱を占う

応和三年(963)7月5日乙卯、藤原朝臣、申させて言ったことには「干ばつの祟りを占わせるために陰陽寮を召しましたが、允以上が障りがあって参りません。そこで属をして占い申させます」という。「請いによれ」という。「理運の天災の上、貴霊が祟りを為しております」という。(『西宮記』)

また、陰陽寮の選び申した請雨経法の日の文。命じて九日に定めた。(『西宮記』)

7月9日己未、神泉苑で請雨経法が修された。(『日本紀略』)

7月10日 五龍祭の宣下

応和三年(963)7月10日庚申、炎旱が久しく続いており、人々の愁いも盛んになっている。そこで、五龍祭を行うことになった。(『祈雨記』)

7月13日 賀茂保憲が五龍祭を修する

応和三年(963)7月13日癸亥、天文博士賀茂保憲が五龍祭を修した。(『祈雨日記』)

7月21日 蔵人式部丞藤原雅材が御祓物を供される

応和三年(963)7月21日辛未、蔵人式部丞藤原雅材が御祓物を供された。明日、天文博士賀茂保憲が難波湖及び七瀬に赴き、河臨祓を修することによる。(『河海抄』)

応和四年/康保元年(964)

2月4日 陰陽寮が祈年祭の日時を勘申する

康保元年(964)2月4日辛亥、祈年祭を中止した。穢によるものである。建礼門前において、大祓を行った。左大臣は第に在った。大外記伝説を遣わし、文利に託して、陰陽寮の選び申した祈年祭の日の勘文〈十六日、二十二日〉を奏上させた。命じさせて言ったことには「二十二日を以て行うように」という。(『西宮記』)

『西宮記』:年々の記を調べたところ、祈年祭を延期するときは、上卿が勅を奉って陰陽寮を召し、日時を勘申させた。貞観五年・十七年、三月にこれを行った。

2月22日己巳、祈年祭が行われた。(『日本紀略』)

3月9日 陰陽寮が日本記を講じる日時を勘申する

3月9日乙酉、陰陽寮は日本記を講じる日時を勘申した。4月20日乙丑、4月28日癸酉になった。(『日本紀略』)

4月15日 天文密奏

応和四年(964)4月15日庚申、主税頭十市以忠が「去る14日戌の刻に月が心前星を犯しました」との天文密奏を行った。(『西宮記』)

5月8日 文道光・賀茂保憲が御葬所の場所を定める

応和四年(964)、(前略)右衛門督が申して言ったことには「『応和四年、中宮(藤原安子)が主殿寮において崩御された後、東院に遷し奉った。ところが(文)道光はひとえに東院から吉方を以て御葬所とした。その後、(賀茂)保憲が遷坐の場所及び御葬所について、主殿寮から吉方を取るべきだという勘文を奉った』ということです。すぐにあの年の『村上御記』を開いて見たところ、道光が不覚に行ったという文がありました。そうであれば、陰陽師に問うた後にその場所を定めるように」という。(『左経記』長元九年〈1036〉4月19日条)

6月10日 陰陽寮の御体御卜奏の日時の勘申について

応和四年(964)6月10日、左衛門督藤原(師氏)朝臣、文利をして、神祇官が処分を蒙り、御体御卜に供奉することを申す文を奏上させた。命じさせて言ったことには「先例により、穢の期限が満ちた後に占うように。その斎は、日を縮めて行わせよ」という。藤原朝臣が申させたことには「斎の日数のことは、外記が勘申することはできません。これを如何しよう」という。命じさせて言ったことには「延喜十五年、延長二年の例では、穢の後、四日を斎し、御卜を奏上しました。陰陽寮が日時を選んだ由は見えませんでした」という。また、申させて言ったことには「承平六年の外記日記に、陰陽寮がその日を選び申した由がありました。けれども、勘申させたかどうかは確かではありません。ただし、明日祭を行います。そこでかの官は忌み籠もらないように。十日は御衰日にあたり、十三日は重日です。その後、中宮の法会を修せられる日に及びます。これを如何しましょう」という。命じさせて言ったことには「衰日はどうして忌み籠もり始めの日を避けることがあるだろう。そのため、明後日から始めて斎し、十五日を以て御卜を奏上するように。また、神祇官、遅く事の由を申すことについて勘申するように」という。(『西宮記』)

6月23日 賀茂保憲が属星祭を修する

応和四年(964)6月23日丁卯、八省院において天文博士賀茂保憲が三日三晩に渡り属星祭を修した。(『革暦類』)

6月27日 賀茂保憲が大歳祭を修する

応和四年(964)6月27日辛未、天文博士賀茂保憲は大歳祭を修した。(『革暦類』)

7月7日 陰陽寮が御読経の日時を勘申する

応和四年(964)7月7日庚辰、民部卿藤原在衡朝臣、申させて言ったことには「御読経の日時を勘申しようとして陰陽寮を召したところ、属保遠一人だけが参りました。先々、その道に秀でた官人二人があって勘文を進めました。これを如何しましょう」という。仰って言ったことには「早く、保遠に勘申させよ」という。藤原朝臣は日時の勘文〈今月九日、十日〉を奏上させた。(『西宮記』)

7月10日 甲子革令により改元が行われる

康保元年(964)7月10日癸未、応和四年から康保元年へ改元が行われた。甲子革令によるものである。大祓があった。(『日本紀略』)
応和四年(964)6月4日、左大臣藤原実頼第において改元の議論がなされた。天文博士賀茂保憲が時原長列の勘文を覆勘して曰く、今年は甲子の年に当たるため、災いを鎮め徳を施すために改元が必要だということだった。(『応和四年甲子革令勘文』)
文章博士菅原文時・藤原後生が新元号の字を勘申した。(『改元宸記』)

8月21日 賀茂保憲が海若祭を修する

康保元年(964)8月21日甲子、天文博士賀茂保憲は摂津国難波浦において海若祭を修した。(『革暦類』)

9月9日 賀茂保憲が行幸の日を勘申する

9月9日辛巳、天文博士賀茂保憲は行幸の吉日を勘申した。「絶命鬼吏部、墓方王相の時は行幸を行ってはなりません」ということだった。(『陰陽略記』)

11月1日 御暦奏

康保元年(964)11月1日癸酉、御暦奏が行われた。村上天皇は障りによって紫宸殿にお出ましにならなかったので、内侍所に託された。(『西宮記』)

12月29日 追儺

康保元年(964)12月29日辛未、追儺が行われた。雨が降っていた。(『中右記』)

康保二年(965)

2月27日 陰陽寮が出羽国の天変について吉凶を占う

康保二年(965)2月27日戊辰、出羽国が「1月8日の未時、日の左右に両耀があり、虹がこれを貫いていました。また、白虹が東西に立っていました」と言上した。そこで、陰陽寮が御卜を行うことになった。(『日本紀略』)

12月30日 追儺

康保二年(965)12月30日丙寅、追儺が行われた。参議一人で行った。(『北山抄』)

康保三年(966)

1月9日 賀茂保憲が天文密奏を行う

康保三年(966)1月9日乙亥、天文博士賀茂保憲は「去る8日、月が昴星を犯しました」との天文密奏を行った。(『日本紀略』)

2月10日 天文密奏

康保三年(966)2月10日乙巳、「去る8日、月が五事司空を食した」との天文密奏があった。(『日本紀略』)

2月12日 天文密奏

康保三年(966)2月12日丁未、「去る11日の夜、月が輿鬼大将軍星を犯した」との天文密奏があった。(『日本紀略』)

2月28日 天文密奏

康保三年(966)2月28日癸亥、「今月27日、熒惑星が東井執臣星を犯した」との天文密奏があった。(『日本紀略』)

3月1日 天文密奏

康保三年(966)3月1日丙寅、「2月28日の戌の刻、熒惑星が東井北轅西頭第一星を犯した」との天文密奏があった。(『日本紀略』)

康保四年(967)

この年、陰陽博士賀茂道光・賀茂光宗が蔵人所に召された。(『禁秘抄』)

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村上天皇天慶九年(946)4月20日-康保四年(967)5月25日

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冷泉天皇-一条天皇安和二年(969)-寛弘二年(1005)

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三条天皇寛弘八年(1011)6月13日-長和五年(1016)1月29日

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後一条天皇-後朱雀天皇長和五年(1016)-長暦三年(1039)

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