遊行神
遊行神:諸々の方位を巡り移動する神。
天一神
全宇宙を司る天皇・人皇・地皇の三皇のうちの地皇である。『和漢三才図会』では、天地開闢の後に盤古が生まれ、その次に三皇が生まれたという。
室町時代の賀茂在方による『暦林問答集』では、『春秋命暦』を引用しつつ天一は地皇だとしている。
地皇は十一の頭をもつ。
天一神が天上にいる期間を「天一天上」という。
天一神は癸巳の日に天上の紫微宮に在り、戌申の日まで十六日間留まる。この期間は間日といって、遊行神の影響を受けない。
それ以外の日は、天一神は地上のいずれかの方位に滞在し、艮・巽・坤・乾の方角に六日間、卯・午・酉・子の方角に五日間滞在する。
「日遊」のいる方角は、最も忌むべきところである。「日遊」は天一の火神である。日の精気が下りて宮舎の内外を司り、八方を巡る。日の精を司るので「日遊」と名付けられた。癸巳の日から己酉の日までの十七日間、屋内に在る。また、戌巳の日は屋舎に居る。その他の日は、八方を巡る。今の暦に載っているのは、屋舎の中に在るということだけだ。八方に遊行することについては略している。この日、屋舎の中を掃除してはならない。また、婦人の産期には、母屋を避けて庇の間に移れば問題ない。(『暦林問答集』)
太白神
太白神は東西南北と艮・巽・坤・乾に一日ずつ滞在し、九日目は中央に滞在し、十日目で天に上る。
- 永長元年(1096)1月10日、「明日は行幸にて、御出の方角の沙汰がある。明日は大伯神が東に在る。ならば、西の陣を用いるべきだろうか」とある。(『中右記』)
大将軍
大将軍は太白の精で、天の上客である。(『新撰陰陽書』)
地上に降りて、十二年かけて四方を巡り、それぞれの方角に三年ずつ滞在する。(『新撰陰陽書』)
- 寛仁三年(1019)12月4日、藤原実資は安倍吉平と雑談をした。行願寺にて造られた小塔を翌年念誦堂に安置することについて、吉平は大将軍の方位を忌むべきだと述べている。(『小右記』)
『簾中抄』によると、寅・卯・辰の年は北、巳・午・未の年は東、申・酉・戌の年は南、亥、子、丑の年は西にいる。
さらに、正方(東西南北)の両側も忌むべき方角とされている。
『暦林問答集』によると、大将軍が東に在るときは1~5日目、南に在るときは13~17日目、西に在るときは37~41日目、北に在るときは49~53日目が凶である。
犯土
大将軍と王相のいる方位に対する禁忌。犯土とは土いじり(地を掻き乱すことに通じる)全般のことで、地面を掘り返したり造作をしてはいけない。
金神
五年間で一周する。
金神七殺
『拾芥抄』において、陰陽権助の安倍晴道は「金神のいる方角に向かって禁止行為を行うと、金神は怒って七人の人間を殺める」と述べている。
金神の災いは大きく、永暦元年(1160)8月に清原真人俊安は「保元の乱が起こったのは金神の忌みを軽視したせいである」と述べている。
また、『拾芥抄』曰く「三白九紫の気がある方角に園林を設置し、竹林を植え、楼閣を建て、池や井戸を掘れば、災い転じて慶びとなるだろう」という。
『中右記』永久二年(1114)8月25日条には「今年、金神は南方に在るが、三白九紫の気もあるため、犯土造作を行っても問題ない」とある。
『台記別記』久安四年(1148)10月29日条には「今年と来年の二年間、金神は酉の方角に在る。もし、その方角に三白九紫の気があれば金神の凶を打ち消すため、忌むところはない」とある。
王相
一年かけて一周する。春は東、夏は南、秋は西、冬は北に滞在する。
- 寛弘八年(1011)3月9日壬午、金峯山参詣について、近日触穢があったので延期すべきだという話になった。しかし、当年は南が忌方になっており、王相方で南が忌方の場合は重く忌むべきだということになった。(『御堂関白記』)
- 同年6月8日庚戌、藤原道長は陰陽師を召して内裏参入の吉日を勘申させた。東宮の忌方と大将軍・王相の方角を忌むため、13日に東三条第へ移り、7月10日に朱雀院へ移り、11日に内裏へ参入するのが良いということだった。(『御堂関白記』)