基本情報
情節
三十あまり 我も狐の穴にすむ 今ばかさるる 人もことわり
時の流れは早く、物は代わり、星は移り、桑田・碧海も様変わりして、どれほどの年月が経ちましたでしょうか、天文暦道に名高い安倍晴明という方は、村上天皇の御代、天暦年間に生まれた阿倍仲麻呂の末葉でございます。
仲麻呂の業は吉備氏の末に受け継がれたのですから、吉備の後胤ともいえるでしょう。
時の天文の司郎にして、位は従四位上にまで昇り、主計頭を兼任して、冷泉・円融・花山の三代の帝に仕え、種々の奇術を顕しました。
その由来はどのようなものであったか、お話ししましょう。
第六十一代朱雀天皇の承平の御代、摂州安倍野に一人の男子がおりました。
彼は聖語を守り、仏乗を誹らず、貧しい暮らしを憂えることなく、涼しげな目で面色は白く、柔和で真面目な性格でありましたので、意にそぐわないことがあってもむやみに人と争わず、わずかな田園に身の程をわきまえて、年すでに二十歳となっておりました。
しかしながら、近隣隣郷の人々は「この方は、昔、安倍野の領主で霊亀年間に唐へ渡った阿倍仲麻呂の息子満月丸の子孫であり、斯様な田舎には稀なお方である」と言って「稀な、稀な」と呼んでおりましたので、いつしか彼自身が自ら安倍希名と名乗るようになりました。
そうして、耕作の暇があるときは、雪明かりの下で書物を読み、古の人々を友とし、熱心に勉学に励んでいると、ある日、孝経の第一章に「身を立てて父母を顕して、名を後の世に揚ぐるは孝の終わりなり」と記されているのを見て、希名は我が身を振り返りました。
私は、幼い頃に父母と別れて反哺の孝を尽くせなかったことを常日頃から悔やんでいたが、「身を立て名を揚ぐること、孝の終わり」とあるからには、どうにかして名を上げて家を興し、孝道の一端を全うしよう。とはいえ、愚鈍の身で力の及ばぬことを企てても仕方がないので、神仏に祈って加護を頼もうと、和泉国にある信田明神に祈誓を掛け、百日間参詣しました。すると、不思議なことに、百日目に参詣した夜明けに、夢が現か「家を興し名を上げたいのなら、山城国賀茂の神主藤原保憲のもとへ至り、陰陽卦卜の道を学べ」と尊い神託がございましたので、希名は急いで安倍野へ立ち帰り、すぐに旅の用意をして、山城国へ赴きました。
ところで、賀茂保憲という方は、吉備大臣から九代目の末孫にて、陰陽の道は言わずもがな、生まれつき温厚な性格で言葉数も少なく、身分の高い人に媚びることもせず、卑しい者を侮ることもせず、まことに徳の高い君子でございます。妻は一人の娘を産んでから早くに身罷ったので、保憲はこの娘を大切に育て、葛子と名付けました。十六歳の春を迎えた葛子は容貌が美しいだけではなく、心ばえも優しかったので、良い人に嫁がせて家を継がせようと思われておりました。
そんな時、不思議なことに「明日、摂州安倍野より陰陽の道を学ぼうと訪ねて来る者がいる。この者こそ、汝の家業を継ぎ、後に葛子の夫となる者である。卑しい姿をしていても侮ってはならない。懇ろに教授せよ」という夢のお告げがありました。
保憲は怪しく思いながらも、胸の内に秘して誰にもこの事を話しませんでした。
すでにその日も昼過ぎになり、日が暮れようとしていたところ、保憲は自分の家を訪ねてきた若者を見かけました。
薄汚れた旅衣と千切れた草鞋、破れた笠を身に着けている姿は秋の案山子かと思う程でしたが、若者は少しも臆することなく礼を尽くしたので、保憲も「さては」と確信して「如何にも、私が賀茂保憲である。足下は何処から来たのだ」と問うと、かの者はまた一段と礼を厚くして「私は摂州安倍野の農夫安倍希名と申す者にて、不智短才の生まれではありますが、陰陽易暦の道を学ぶためにわざわざこうして訪ねて参ったのです。願わくば師弟の約を為してご教授いただけたならば、この喜びに勝るものはありません」と答えました。
その言葉に追従軽薄はなく、思いの丈を演舌したので、卑しい風貌に反してまことに見所のある若者だと保憲は深く喜び、神託は間違っていなかったのだと、ただちに師弟の契りを交わしました。
保憲が夢のお告げのことを話すと希名は大いに驚き、今日自分が来たのも信田明神のお告げによるものだと詳らかに物語りました。保憲はいよいよ奇異なことだと思い、こうしてはっきりと神勅があった上は、教える方も学ぶ方もともに怠慢があってはならないと、夏は炎天の暑さも厭わず、冬は厳霜の寒さを物ともせず切磋琢磨して、希名はわずか一年ばかりでその道の大概を究めてしまいました。
ある日、保憲は奥の部屋に希名を招きました。
「去年から始まったそなたの修行は、世の常の人の十年の苦学にも勝る。私はそなたに大抵のことは教えたが、遠い祖先より代々伝わり秘してきた神秘を伝えていない。よって、今その神霊を拝させて奥義を授けよう。そもそも、我が家は昔元正天皇の命によって養老元年の冬唐土に渡り、異国に美名を輝かせた吉備大臣の末葉である。第四十六代孝謙天皇の御代になって、賀茂の姓を賜ってからは代々賀茂を名乗り、ついに鴨尊神の神官となったのだ。そして、祖先吉備大臣が入唐したのは、前の遣唐使である阿倍仲麻呂が死後に至るまで心を寄せていた簠簋内伝金烏玉兎集という秘書があったからだ。玄宗皇帝が大切になさっていた秘書を、吉備大臣はついに賜って帰朝した。けれども、みだりにこれを家宝とすることはなく、仲麻呂の息子満月丸に渡して安倍家の再興を計ろうと思われた。ところが、満月丸の行方が分からず、遂には家が断絶に極まったゆえ、是非なく我が家に伝わったのだ。とはいえ、この書を容易く開くことを許さず、深く秘して大切に祀り、これを大元尊神と名付け奉り、代々固く封ずるのみであった。それゆえ、吉備氏から私に至るまで九代の間、未だに誰もこの書を目の当たりに拝した者はおらぬ。その理由は、この書には荼枳尼天の法というものが記されていて、その法を習得した者は鬼神を使役して雨風を呼び起こし、雲に上って水に入り、災いを転じて幸いと成すようなことができる。普通は、人でなければこの法を習得することはできない。しかしながら、野狐は畜類といえども通力は人に勝っており、この奇術の存在を知って我々が守護を怠る時節を待ち、虚に乗じてこの書を奪おうとしたことが度々あったので、代々固く封じるのみにして、私の代に至るまで未だこれを開いておらぬ。これはそなたの祖先の遺戒なのだから、ただ朝夕に宮殿を拝してひたすら心を尽くすのみ。謹んで拝礼せよ」
保憲が部屋の襖を押し開くと、七宝荘厳の宮殿が中央にありました。上には「大元尊神荼枳尼天」と記された額が高々と掛けられており、手沢もまだ綺麗なままで、吉備氏の氏神に相対するかのようでした。希名はありがたく肝に銘じ、これはまことに須弥大海の師恩、どうやってご恩に報いるべきかと申しました。
保憲は重ねて言いました。
「私は齢六十に迫り、病気がちで息子もおらず、このままでは家業を伝えられないと日夜案じていた。そこへ、霊夢によって去年から怠りなくそなたに陰陽易暦の道を伝授してきたのだ。そなたもまた、少しも怠ることなく千鍛万錬して修行成就に及んだことは、まことにこよなき生前の喜びとなった。この上はなお神託の重きに任せて、今から父子の契りを交わし、娘の葛子と妹夫の盃を取り交わさせて、秘伝の奥義を残らず授けよう。そなたも精進してこの道を究めよ」
保憲は神前の神酒を土器に移し、葛子を呼び寄せて、夫婦の盃と父子の契りを交わしました。
保憲は自分の「保」の片名を希名に譲り、安倍保名と名乗らせて、易暦の秘術を余すところなく伝授したので、希名の喜びは言うまでもなく、父子の親しみと師弟の礼に力を尽くしました。こうして心願は一時に成就して、陰陽道の極秘を悟り賀茂保憲の聟にまでなったのも、みな信田明神のおかげだと思った保名はひとまず摂州安倍野に立ち帰るとすぐに信田の社に至り、神前に跪いて恭しく礼をしました。
折しも、秋の終わりであったので、真っ暗な夜更けに月が輝き、冷たい風が吹いておりました。
その時、遠くから貝鐘の音と数十人の人の声が聞こえました。
保名は大いに怪しみ、拝殿に立ち出て辺りを見渡すと、ススキを押し分けて現れたのは数百歳と思しき白狐でした。保名はいよいよ怪しく思いました。野狐も数百年を経て白狐となるときは、頭に名玉を捧げ、尾に宝珠を納め、恩を知り仇を報い、常に北極を祀って死するといえども、北を枕として仮にも北極を後ろにせず、ゆえに孔子も首丘すと言っていた。このような霊獣がここに現れたのには何か理由があるのだろうと思い、保名は庭に飛び降りて様子を伺いました。白狐は、久しく慣れ親しんだ仲であるかのように逃げもせず、耳を垂れて尾を伏せて、うちしおれておりました。その時、保名は初めて貝鐘の音が狐狩りの合図だと気づきました。神変不思議の通力でも逃げられないから、助けを乞うているのだと思い、保名は手早く白狐を神殿の下に隠し置きました。
保名が再び拝殿に上がると、程なくして列卒の者が白狐を探しに来ました。しかし、白狐の姿はなく、拝殿の上に佇む保名の影をみた列卒たちは大いに驚き「貴様、夜更けに忍び込んでよくも我々を驚かせたな。不埒至極である」と言いました。保名は笑って「私は神職の家の子にて、この宮殿の当番であったのを見咎めなさるあなた方こそ、こんな夜更けに何故来たのでしょう。もし狐狩りの人々でしたら、今ススキの中より白狐が現れ、向こうの野原へ逃げていきましたよ」と言いました。思慮の浅い列卒の者どもは「よし、後を追うぞ」と急いで去っていきました。夜が明けると、保名は神殿の下から人に見つからないように白狐を出して、後ろの森へ逃しました。白狐は黄色い涙を流し、物を言うことができずとも手を合わせて二度三度振り返り、草むらへ入っていきました。
かの狐を狩ろうとしていたのは、桜本宮の臣下橘元方公の家来でした。
虎の威を借りる狐狩りのために民の田畑を荒らすのも厭わず、終日終夜狩りをしておりました。
吉備大臣が入唐してからすでに二百八十年、天慶九年の春、賀茂保憲の身に思いがけないことが起こりました。
当時、醍醐天皇の第十四皇子の成明親王という人がいて、当今とは正しく同母の弟君であります。
柔和な性格で民を慈しむ心も深いお方でした。
その当時、西台船岡の南方に千本の桜があり、その辺りにおられましたので、人々から桜本宮と呼ばれておりました。臣下の橘元方公は歪んだ性格であったので、親王を邪道に導こうとさまざまな手段を用いましたが、親王は少しも動じませんでした。
そこで、元方は酒色を以て御心をたぶらかそうと智計を巡らせました。そんな時、賀茂保憲の娘葛子は比類なき美人だという評判を聞いて、元方はしつこく迫りましたが、保憲に拒否されて心証を悪くしました。元方は種々の嫌がらせをして、ついに保憲の所領を没収し、評議の結果父子ともに相州藤沢の駅にある車堕というところへ流刑になることが決まりました。
やがて、この旨が保憲のもとへ届くと、保憲は兼ねてより元方に野心があることを察知していたので、こうして突然勅勘の身となったのは元方の邪念から起こったものだと知っても少しも驚きませんでした。ただ、大元尊神の宮殿が取り残されることを深く嘆き、急いで摂州から安倍保名を呼び寄せ、これまでの経緯を詳らかに伝えて、かの宮殿を謹んで守護し奉る旨を託しました。保名は返答の言葉も出ず、涙に咽びうつむいておりました。保憲は声を荒らげ「急を要することであったから遥々遠くから呼び寄せたというのに、斯様な女々しい振る舞いは何事か。身にも家にも代え難き大元尊神の宮殿が他人の手に渡ってもいいと思うのなら、もう私の子ではない」ととても激しい父の叱りを聞いて、保名を涙を拭い大元尊神の守護を承りました。
大元尊神の宮殿は、父子夫婦が再び会えるときまで大切に預かると暇を乞うて、保名はかの宮殿を担いで安倍野の家に帰り、祭祀拝礼を怠りませんでした。
その後、賀茂保憲はすでに父子ともに東国へ流されたという都の便りを聞いて、悲しさの遣る方なく、この宮殿を預かっていなければ自分も共に行きたいと東の空を眺めぬ日はなく、かれこれ二十日ばかりが過ぎました。
ある日の夕暮れ、旅に疲れた様子で田畔を傳っている一人の女がいました。
よく見ると葛子であったので保名は大いに驚き、近づくや否や事の次第を問いました。葛子は言葉少なに、ただ朝夕にあなたを恋しく思うあまりこうして訪ねて来たのだと言いました。保名はいよいよ怪しんで「恋しさに訪ねて上ってきたと言うが、お年を召された父上の面倒を見ずに来るのは親不幸である。私こそ恩のある舅の安否を確かめるために早く下ろうと思っていたが、大元尊神の宮殿を預かっている身ではどうしようもなく、空しく月日を送っていたのだ。ならば、そなたの父上の側には誰かいるのか。日々の介抱をしてくれる人はいるのか」と苦々しく言いました。すると、葛子は涙を流し「私もそう思ってはいたのですが、父上の仰せには『私は神職の身にありながら先祖伝来の神と別れてしまったこと、最大の不孝と思っている。そなたはすでに保名と夫婦の契りを交わしたのだがら、ともに神に仕え奉れ。それは、私に仕えるより百倍である』と仰せられましたので、どうすることもできず上ってきたのです」と言いました。
それを聞いた保名は疑いを解いて夫婦仲睦まじく暮らし、ついに一人の男子を設けました。
この子は人よりも優れた眼をしており、花が咲いているかのように美しい顔をしておりましたので、掌中一顆の珠のように大切に愛されました。
月日が重なり、天暦四年にはすでに四歳となっておりました。その聡明さは近隣の人々に羨まれ、親心においてもその喜びは例えようもありませんでした。
しかし、この子には虫を取って食べる悪い癖がございました。保名はこれを安からぬことと思って、ある日葛子に向かって言いました。
「私は日々田畑へ出ているので制し難いこともあるが、そなたは一日中家に居るのだから、健康に生まれて誰もが羨むほどの聡明な子が世にも稀な悪食であるのは、如何なる前世の悪業であろうか。もしこのままこの悪癖が治らなければ、成長した先が思いやられて恐ろしくなる。必ず叱り戒めて、世間の人々に嘲笑われたり誹りを受けないようにせよ」
保名は涙ながらにそう言い残し、農業に出かけました。妻は我が子を側に引き寄せて、しばらく言葉も出ませんでしたが、ややあって話し出しました。
「我が子や、そなたは何故虫けらを喰らうのじゃ。父上の今の御言葉は母の胸にひしひしと釘を打たれるようでした。そなたは母の血筋を継いでいるのだから、虫けらを喰らうのは無理もないけれども、このことがきっかけで母の素性を知られたならば、愛しいそなたを棄て置いてここを去らねばならぬ。その時の我が悲しさが今からでも思いやられる」
妻は童子の肩を擦り、額を撫で、母の言葉を聞き分けて止めてくれよとばかりにさめざめと泣きました。童子は母の膝にもたれ「母上、どうして泣いているのですか。一日でも離れてしまうのなら、虫を喰らって遊び楽しむのはやめます。蛇や百足も怖がらず、蜘蛛や蝗が口の中でむずむずと動くのを面白く思って喰い潰しておりましたが、母上が悲しむのなら今からきっぱりやめます。どこへもいかないでくだされ」と、母の心を子は知らず、恩愛は哀れなものでした。ああ、親子の情の切なることは人に限ったことではないのでしょう。
さて、今晩はここまで。
明晩は白狐の子別れの条にて、まことに哀れな因縁なれば、また早々と参詣されるのがよろしい。
解説
身を立てて父母を顕して、名を後の世に揚ぐるは孝の終わりなり
「身を立て道を行い、名を後世に揚げ、以て父母を顕すは、孝の終わりなり」。『孝経』の一節。一人前の人間になって正しい道を行い、後世になっても名が残るほど立派になったことで父母が称えられてこそ、親孝行が終わったといえる。