4月29日、源頼朝は使節として中原親能を上洛させ、土肥実平・梶原景時へは兵船を整えて、6月海上の天候が穏やかな時期に合戦を行うよう命じた。
平氏の拠点となっていた屋島の陥落により、平氏は制海権を失い最後の拠点である長門に追い詰められることとなった。
屋島の戦い
源義経を派遣
京都では源範頼による追討の行き詰まりによって、今後の追討に対する懸念の声が広がりつつあった。
義経は朝廷に「2月から3月にかけて兵糧が尽きてしまいました。もし範頼が引き返したならば、いよいよ大事になるでしょう」と奏上し、屋島への出撃を申し入れた。(『吉記』元暦二年〈1185〉)
京都の治安維持を理由に郎等を派遣すべきとの意見もあったが、参議吉田経房は義経の派遣に賛成した。
安房国を突破
2月16日、義経は後白河の使者高階泰経の制止を振り切り、安房国へ出発した。(『玉葉』)
義経はわずか150騎程の郎等を率いて渡辺を出発し、本来であれば三日かかるところを、暴風を利用して一日で安房国に着いた。
平家は陣を二ヶ所に構え、平宗盛が讃岐国屋島、平知盛が九州の官兵を率いて門司関を守り、彦島で追討使を待ち受けていた。
18日、前日に義経は渡辺から海を渡ろうとしたが、暴風で船の多くが破損してしまい、船を出すことができなかった。
朝敵の追討使がほんの少しの間でも逗留するのはまずいと思った義経は、丑の刻に船を五隻出発させ、卯の刻に安房国椿浦に到着した。普通なら3日はかかる道のりである。
すぐに兵を率いて上陸し、現地の住人近藤親家に道案内をさせ、屋島に向けて出陣した。
逆櫓(さかろ)の論争
渡辺浦での軍議の際に海上での平氏と戦いが容易ではないと考えた梶原景時は、軍船の前後に櫓を立てて迅速に後退の準備を提案した。
これに対し源義経は、合戦に臨む武士が後退を考えてはいけないと反論したので、大論争になってしまった。
結局、義経は景時の制止を振り払うように2月16日の夜中に船五艘と五十騎(百五十騎とも)のわずかな兵を率いて、摂津渡辺浦から安房へ向かった。
屋島の戦い
安房国で強大な勢力を誇っていたの阿波成良は、南都攻め・墨俣合戦・北陸道での合戦に参戦した平氏の有力家人である。
安房国は平氏の重要拠点の一つであった。
ところが、長い海岸線の防衛のため、成良の子・田内教能が伊予の河野通信を攻めに三千騎を率いて出陣したため、屋島に残された兵力はわずか一千余騎となった。
義経は源氏本隊が到着する前に屋島を急襲すべきだと判断し、屋島に向かうことを決意した。
義経は安房国と讃岐国との国境中山を越えて、19日辰の刻に屋島の内裏の向かいの浦に到着し、牟礼と高松の民家を焼き払うことで大軍に見せかける作戦に出た。
平氏軍は突然背後から大軍が現れたと錯覚し、平宗盛ら平氏一族は安徳天皇を連れて慌てて御所を棄て海上に逃れた。
義経は田代信綱・金子家忠・金子近則・伊勢能盛らを引き連れて海岸に向かい、平家もまた船を出して互いに矢を射合った。
佐藤継信・佐藤忠信・後藤実基・後藤基清らが内裏や宗盛の宿所を焼き払った。
扇の的
『平家物語』において、那須与一が平氏方の女房から掲げられた扇の的をみごと一矢で射た逸話。
日が暮れて義経たちが引き上げようとすると、沖の方から立派な船が近づいてきた。
見ると、船の中から年頃の美しい女房が紅の地に金色の日の丸を書いた扇を船棚に挟んで立て、手招きをしてきた。
義経が後藤実基にあれは何かと聞くと、「扇を射よということでございましょうが、大将軍が進み出てあの美女をご覧になれば、向こうは弓の名手に命じて射落とそうとしてくる作戦と思われます」
というので、義経は味方に扇を射ることのできる者はいるか聞いた。
那須与一が適任だということになったので、義経は与一を呼び出した。
「延慶本」「四部合戦状本」などは扇の絵柄を日の丸(太陽)ではなく月としており、これを月から日に変えることによって、海に散る扇から平氏の『落日』を連想させて効果的な表現となる。
那須与一は二十歳ばかりの男で、義経に扇の的を射るように命じられたのを一度は辞退仕掛けたが、義経が命令に逆らうなと怒ったので渋々受け入れた。
2月18日18時のことだったが、激しい北風が吹き付けて打ち寄せる波も高く、船は上下に揺られて扇も止まることなくひらひらと揺れていた。
沖では平家が船を並べて見物しており、陸では源氏が馬の轡を並べてそれを見ていた。
与一は目を閉じて「南無八幡大菩薩、わが国の神々よ、日光権現、宇都宮明神、那須の湯泉大明神よ、どうかあの扇の真ん中を射させてください。もしこれを射損なうことがあれば、弓を折って自害する覚悟です。もう一度本国へ帰らせてやろうとお思いになるのでしたら、この矢を外させないでください」と念じて矢を放った。
矢は扇の要際一寸ばかりのところを射切った。
矢は海に落ち、扇は空に舞い上がり春風にもまれて、海へ落ちていった。
夕日が輝いているなか、紅の地に金色の日の丸を描いた扇が波の上に漂い浮いたり沈んだりしながら揺られていくと、源平の両軍ともに感嘆した。
『延慶本平家物語』によると、与一から平氏の軍船の扇の的までは五〜六段(約55〜65メートル)の距離があった。
当時は50〜60メートルの距離から対象を正確に射ることは技術的に困難だったことがわかる。
また、この一件は、ある種の休戦状態中に行われた「いくさ占い」だったと考えられている。
しかし、その後与一は義経の命によって与一の武芸に感心した平氏方の武士を射倒している。
敵味方関係なく与一の武芸に歓呼の声をあげていたのもつかの間、合戦の現実に引き戻されるのであった。
佐藤継信が討たれる
越中盛継や上総忠光ら平氏の家人が船から降りて宮の門前に陣を張り合戦したところ、佐藤継信が討ち取られた。
義経は大いに嘆き悲しみ、継信の魂を鎮めるために遺骸に衲衣を着せて千株松の根本に葬り、秘蔵の名馬である太夫黒を僧に賜った。
太夫黒は元々院の厩の馬で、行幸に供奉する時に後白河院から賜ったもので、戦場に向かう際には必ず乗っていた。
六日の菖蒲
22日、梶原景時が百四十艘余りの軍船とともに屋島に到着した。
だが、すでに合戦は終わった後で義経から見れば極めて遅れた到着であった。
『平家物語』によると、義経は景時に向かって「六日の菖蒲(五月五日の端午の節句に間に合わなかった菖蒲)と嘲笑ったという。
参考資料
- 元木 泰雄「治承・寿永の内乱と平氏 (敗者の日本史) 」吉川弘文館、2013年
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