源頼政の敗北により、諸国に源氏追討令が下された。
頼朝は逆に平氏を追討しようと考え、諸国の源氏たちに手紙を出して呼び寄せることにした。
頼朝のもとに続々と御家人が集まってきた……。
背景
治承四年(1180)、以仁王の令旨を受け取った源頼朝は挙兵を決意する。
頼朝は手始めに伊豆国で権力を振りかざしている山木兼隆(平兼隆)を討つことにした。
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山木兼隆(平兼隆)
山木兼隆(平兼隆)は元検非違使尉で、平氏重代の家人平信兼の子である。
治承三年(1179)父との関係が悪化したことによって検非違使を剥奪され、伊豆国・山木郷に配流された。
しかし治承四年(1180)6月、源頼政の死後、平時忠が頼政の知行国だった伊豆国の新たな知行国主となり、6月29日、伊豆守に平時兼が補任された。
平清盛の権威を借りて周囲の群郷に威光を振りかざすようになっていた。
経過
山木館の地形を調べる
藤原邦通を山木館に派遣
山木兼隆の本拠地は険しい場所にあったので、山木館の地形を絵に描かせて実情を探るために兼ねてから藤原邦通を派遣していた。
邦通は酒の席で流行りの歌を歌い、兼隆に気に入られたので数日間滞在することになった。
こうして、邦通は山木館の隅々まで詳細に地形を描き、進軍する上で注意する点を事細かに記載した。
その絵図は、まるでその場にいるかのように描かれていたという。
治承四年(1180)8月4日、邦通が帰ってきた。
頼朝は北条時政を人気のない場所へ招き、その絵図を置いて、軍勢が攻めてくる道や進軍上の注意点を指示した。(『吾妻鏡』同日条)
兼隆襲撃の日程を決める
8月6日、頼朝は合戦の日取りを決めるために、藤原邦通と佐伯昌長を召して卜筮を行わせた。
占いの結果、8月17日の寅卯の刻を兼隆攻めの日時に決めた。(『吾妻鏡』同日条)
頼朝の激励
合戦の日時を決めた後、頼朝は自分に命を捧げる覚悟のある者を一人ずつ順番に部屋に呼び、「今まで口に出して言わなかったが、お前だけが頼りなのだ」と激励の言葉をかけた。
声をかけられた者たちはみな自分だけが頼朝に期待されていると喜び、士気が上がった。(『吾妻鏡』同日条)
激励の理由
家門の草創という大事な時期に、武士たちの心をひとつにするために考えてのことであった。
しかし、重要なことは時政にしか知らせていなかった。(『吾妻鏡』同年8月6日条)
武士たちを召集
土肥実平を召集
8月12日、来たるべき兼隆追討に向けて、頼朝は岡崎義実へ合戦の前に土肥実平と共に参上するよう命じた。(『吾妻鏡』同日条)
佐々木定綱・渋谷重国の遅延
8月13日、佐々木定綱が一旦帰国することになった。
頼朝は引き止めたが、定綱が甲冑を付けて参上するというので帰国を認め、合戦の前日までには必ず戻ってくるよう命じた。(『吾妻鏡』同日条)
しかし、前日の16日になっても定綱は参上しなかった。
人数が少ないので、頼朝は兼隆追討を延期しようかためらった。
18日は幼い頃から正観音を安置して殺生をやめているので、これに反することはできない。
19日まで延期すると、合戦の準備を進めていることが周囲にばれてしまう。
頼朝は重国と定綱に合戦の秘密を打ち明けたことを後悔した。
17日未の刻になって、佐々木定綱・経高・盛綱・高綱の四兄弟が参上した。
定綱と経高は馬で、盛綱と高綱は徒歩で来た。
定綱は洪水で遅参したと頼朝に謝罪した。
頼朝は「お前たちが遅刻したせいで合戦を始められなかった」と涙を浮かべていたという。(『吾妻鏡』同日条)
三島社で神事を行う
8月17日、安達盛長が奉幣の使者として三島社に参詣し、神事が行われた。(『吾妻鏡』同日条)
合戦を開始する
17日戌の刻、安達盛長に仕えている童が兼隆の雑色を生け捕りにした。(『吾妻鏡』同日条)
兼隆の雑色は嫁が北条館の下女であったため夜な夜な通ってきたが、勇士たちが集まっているのを見て不審に思ってしまうと考えたため。
時政は「三島社の神事のために多くの人々が来ているので、人通りの多い牛鍬大路ではなく蛭嶋通りを経由してはどうか」と提案した。
しかし、頼朝は「その通りだが、大事を始めるのに裏道を使うことはできない。それに、蛭嶋通りでは騎馬で行くことができない。だから、大道を使いなさい」と言った。
『源平盛衰記』によると、挙兵当時の頼朝の兵力は本隊85騎と援軍五騎の計90騎である。頼朝はさらにこれを山木邸襲撃隊と山木の後見人堤信遠襲撃隊に分けているため、その兵力は貧弱なものだった。
堤信遠を討伐
頼朝の軍勢は肥田原に到着した。
時政は馬を止めて定綱に「山木の北の方にいる堤信遠は兼隆の後見で優れた勇士である。兼隆と同時に誅しておかなければ、後々の煩いとなるだろう。佐々木兄弟は信遠を襲撃するように」と命じた。
佐々木兄弟は信遠の邸宅の後ろに回り込み、経高が前庭に出て矢を放った。
これが、平氏を討伐する源家の最初の一矢だったという。
定綱と経高は信遠を討ち取った後、時政の軍勢に加わった。
山木兼隆を討伐
その頃、頼朝は館の縁側に出て合戦の行く末を案じていた。
火を放った煙を確認させるために御廐の舎人・江太新平太を木の上に登らせたが、煙が見えなかったので、加藤景廉・佐々木盛綱・堀親家らを呼んで合戦に加わるよう命じた。
頼朝は自ら薙刀を景廉に与え、兼隆の首を討ち取って帰るよう命じた。
三人は蛭嶋通りの堤を走って山木館に討ち入り、ついに兼隆を討ち取った。
館に火を放ち、全て燃えてしまった頃には朝になっていた。
帰ってきた武士たちは館の庭に集まり、頼朝は縁側で兼隆とその郎従の首をご覧になった。
参考資料
- 上杉 和彦「源頼朝と鎌倉幕府」新日本出版社、2003年
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