平安時代

八重姫

曽我物語

蛭ヶ小島の流人源頼朝の悲しみ

そもそも流人兵衛佐ひょうえのすけ殿(頼朝)は永暦元年1月、13歳の時に平家の弥平兵衛宗清に東海道の野上と垂見の間にて生け捕られた。
本来であれば誅殺されるべきところを、池尼公の計らいで同年3月13日、伊豆国で北条氏の領地である蛭ヶ小島に配流され、つらい年月を過ごしていた。
太陽が空に輝いていても心の曇りが晴れることはなく、大庾嶺たいゆれいの梅の香りが風に乗り、後樹園の桜が朝露に映る季節にもなれば人々は山辺で詩歌を吟じたりするのだが、佐殿はただ都を懐かしく思い、藤の花が池の水面に映っていて、岸辺の山吹の花が満開となり柳の枝が風に吹かれて絡まっているようすを見て春も終わりなのだなあと悲しんでも、夏へと移り変わる衣替えも思うままにならない。

大庾嶺は中国にある山で、唐の玄宗皇帝の宰相だった張九齢が梅を植えて”梅嶺”と名付け、梅の名所となった。

水に浮かぶ蓮の葉に乗っている露、まがき(竹や柴などで目を粗く編んだ垣)の内に咲いている撫子の姿にその場を立ち去り難い程の夕暮れに、ヤマホトトギスの鳴き声が不如帰去と聞こえるのも懐かしい。
秋風が身にしみて姥捨山の曙や明石浦の波音、思いを馳せる月影も名残少なくなると、草むらの虫の声、山の峰で妻を恋う鹿の鳴き声も今日で終わりだろう。
名残惜しい9月が終わり、肌寒い冬になれば、夜中の時雨は我が身の程を思い知らせて袖を濡らし、かすかに上る炭釜の煙は自ずと心細くなっても、つらい年も今日で終わりだと三世の仏の名を聞くと、更けていく夜を過ごすのもつらいものであった。

何事を 待つともなきに 明け暮れて 今年も今日に なりにけるかな

(何を待っているわけでもないのに月日ばかりが過ぎ、今年も今日で終わりとなってしまった。)

こうして悲しんでいるばかりで、空しく年月が過ぎていった。

頼朝、伊東の三女と契り、子を儲ける

佐殿が世を治める時は伊東・北条とともに政治を補佐して執り行うことに優劣はなかったはずなのに、北条氏の子孫は栄えていたが、伊東氏の子孫が堪えていたのは悲しいことだ。
なぜこうなったかというと、伊東祐親には四人の娘がいた。長女は、三浦義澄の女房になった。次女は相模国の土肥実平の嫡子・早川遠平の妻である。三女・四女はまだ誰にも嫁いでおらず、親元で暮らしていた。
中でも、三番目の娘(=八重姫)は美女だという噂があったので、兵衛佐殿は密かにこの姫君を愛されているうちに、月日が積り、若君が生まれた。
佐殿は大いに喜び、若君を千鶴御前と名付けた。

「よくよく昔を思うと、先祖に縁のある地だから古くから縁のある国ではあるのだが、勅勘を蒙ったときはとても心細かったところに、このような慰めの種が生まれたのは嬉しい。13歳になったら元服させ、15歳にもなったら、伊東・北条とともに安達盛長佐々木盛綱を使者として関東八ヵ国を回り、秩父・足利・三浦・鎌倉・新田・大胡・江戸・河越・千葉・葛西・小山・宇都宮・相馬・佐貫の人どもに相談し、叶わなければ奥州平泉の藤原秀衡を頼って頼朝に運があるか試そうではないか」と言って、寵愛は限りないものであった。

伊東祐親、千鶴御前を殺害する

伊東祐親は、凡人の身で将来の行く末などわかるはずもないので、京都から帰ってきて庭の草木を見て回っていた。
ちょうどその時、若君は人に抱かれて、下々の子供を召し連れてたくさんの花と戯れていた。
祐親はこれを見て「あれは誰の子だ」と問うと、子守の少女は返事もせずに逃げていった。
すぐに中へ入り、女房に向かって「ここに3歳ぐらいの子供がいて大切に世話されていたのを、誰の子だと聞けば返事もせずに逃げていったが、誰の子だ」。
女房はしばらく黙っていたが、祐親が大いに怒って問い詰めると、仕方なく「あの子は、殿が大切に育てていた姫君が、殿が京都に上った後、私が止めるのも聞かずにご立派な方との間に設けた子供ですよ」と言った。

祐親はますます腹を立て、「何ということだ。親の知らない婿がいてはならぬ。何者だ。けしからん」と怒ったので、もう隠し通せないだろうと思い、女房は泣きながら「兵衛佐殿ですよ」と言ったので、祐親は激怒して「たくさんの娘がいて持て余すほどならば、その辺の乞食や修行者を婿に取るとしても、この時代、落ちぶれた源氏の流人を婿に取って子供を産ませ、平家方からお咎めがあったら何と答えたらいいのだ。しかも、敵を持っている我が身である。『毒蛇は脳を砕いて中身を見よ。敵の子孫は首を切って魂を奪え』と申し伝えている。ろくなことはない」と言った。

翌日、女を娘の方へ行かせて若君を騙して連れ出し、若君二人と雑色二人に「伊東荘松川の奥、岩倉の滝山のくもが淵に石を付けて沈めよ」と命じた。
まだ幼くて可愛らしい子供を武士の手に渡し、松川の上流へ流させるのは悲しい。
はるか前世、どんな罪があって3歳の春を待たずに水底の屑となるのだろう。痛ましいことだ。

武士たちは可愛らしい若君を連れて険しい山奥の峰から流れ落ちる滝の流れを止める堰の渦の下、広々とした浪の底に簀巻きにして沈めたのはかわいそうであった。
最期の時には幼い身でありながらも状況を悟り「父上。母上。乳母はどこに行ってしまったのでしょうか。私をどこへやるのです」と腕にしがみついたが、無情にも武士たちによって容赦なく沈められたのは悲しいことだ。

「たとえ主君が自分勝手で荒々しい者であっても、武士たちはどうして情けをかけないのか。もし情けをかけたならば、御恩を蒙っただろう。たとえ異姓他人の子であっても、恨み深い敵でもない。ただ落ちぶれた源氏というだけだ。まして肉親の娘の子なのだから、孫であろう。あまりに無情なありさまだ。これから先は、どうなってしまうのか」と親しいものもそうでないものも非難した。

参考資料

 

  • 梶原 正昭 (訳)、野中 哲照 (訳)、大津 雄一 (訳)「新編 日本古典文学全集53・曾我物語」小学館、2002年
  • リスト2
  • リスト3
  • この記事を書いた人

やみみん

FGOの考察ブログです。 妄想9割、真面目な考察が1割なので基本当たりません。 Twitter→ @yamimiin

-平安時代

© 2021 源氏画報 Powered by AFFINGER5