八重姫は源頼朝の最初の妻といわれ、『曽我物語』では二人の出逢いから別れまでが語られている。
あらすじ
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伊豆国で流人として暮らしていた源頼朝は、伊東祐親の三女八重姫と恋に落ちた。
やがて八重姫は千鶴という男子を出産するが、二人の関係を知った祐親によって川に捨てられてしまう。
さらに祐親は頼朝と八重姫の仲を裂き、八重姫を他の男へ嫁がせた。
八重姫の新たな婿
千鶴が川に沈められた後、八重姫は父祐親によって頼朝と別れさせられ、ほかの男に嫁ぐことになる。
『延慶本』『源平盛衰記』では「伊豆国住人えまの小次郎」に嫁いでいる。
『曽我物語(真字)』では「江間次郎」、『流布本曽我』では「江間小四郎」となっている。
『源平闘諍録』では「江間小次郎」である。
北条義時は若い時に江間小四郎(江間四郎)と名乗っているが、頼朝と八重姫のことがあった当時、義時は10歳前後だったと思われる。
ただ、『真字本』では江間次郎が討たれた後、その子息を義時が預かったと記されており、頼朝と八重姫、義時との関連性をほのめかしている。
『源平闘諍録』
以下は『源平闘諍録』独自の記述である。
- 安達盛長と佐々木定綱のやり取り
- 頼朝が八重姫にしつこく恋文を送る
- 『百夜の榻の端墻も、千束生ふる錦木』のたとえ
- 千鶴の美男子設定
- 頼朝が二所権現と三島明神に願書を奉納
- 祐親が伊豆へ下向した日付
- 八重姫が江間小次郎のもとから逃げ出す
- 祐親へ復讐しようとする定綱と盛長を頼朝がなだめる
右兵衛佐頼朝、伊東の三女に嫁する事
流人右兵衛佐頼朝は安達盛長・佐々木定綱を呼んで「私は13歳のとき、平治元年12月8日、伊豆国に流されて以来良縁に恵まれずふらふらしていたが、伊東祐親に四人の娘がいると聞いた。長女は三浦義澄の妻で、次女は土肥遠平の妻、三女・四女はまだ嫁いでいないので、大事に育てられているらしい。だが、国中で一番の美女だという。娶りたいと思うのだが、どうだろうか」と相談した。
実際に源頼朝が伊豆国へ配流されたのは永暦元年(1160)3月である。
盛長は「今、伊東は大番役のため上洛しております。ちょうどよい機会ではありますが、あなたは流人の身で、祐親はこの国で権勢を振るっています。よくよくお考えください」と言った。
定綱は「藤九郎(盛長)殿、あなたは三条の関白謙徳公の末裔だと聞いています。私は仮にも宇多天皇の子孫、近江源氏の一族です。たとえ、我らが婿になろうとしても断られるでしょう。君は神武天皇の苗裔、八幡太郎義家殿の四代目の末葉、東国の武士たちにとっては源氏重代の主です。たとえ何の力もなくても、君の仰ることを軽んじてはなりません。もし何かあれば、私が祐親を取り押さえよう」
頼朝はこれを聞いて、
「定綱が今言ったことは、無益なことだ。
今は固唾を呑んで時機を待とう。そうしたら早速、恋文を送って反応を見よう」と言って祐親の娘と親しくしている女に何度か手紙を送らせたが、反応はなかった。
だが、頼朝は諦められずなんとかしようと思い、「かつて、在原業平は二条の后に恋をして何度か文を送った。
しばらくして『百夜の榻の端墻も、千束生ふる錦木』という返歌があった。何もせずにいるわけにはいかない」と思って、何度も恋文を送った。
「百夜の榻の端墻」は深草少将が小野小町のもとに百夜通うため、車の榻に毎回逢瀬を交わした回数を記した話。
「千束生ふる錦木」は男が女の家の門に錦木を立てて、女が男の誘いに応じる気があれば木を門の中に入れるが、木が門の外に残ったままであれば、男は千束になるまで毎日立て続ける。
頼朝は21歳で、左馬頭(源義朝)の三男で、端正な顔立ちの男である。
伊東の三女は16歳で、国中で一番の美女である。
互いに逢瀬を交わして月日が流れ、一人の男子が生まれた。
美しい顔立ちで、まさしく潘岳玉山のようだった。
容姿も整っていて、天界の子供ではないかと思うほどだった。
「潘岳」は美男として知られた晋の詩人の名前で、「玉山」は雪山のことだが、美しい容姿の例えとしても用いられる。『源平闘諍録』独自の、千鶴を美男子と表現した言葉。
そうしている間に、頼朝は「私はこの国に流されて、田舎の庶民と交わったと言っても、この子を設けたのは嬉しいことだ」と思って、千鶴と名付けた。
頼朝は「この子が15歳になったら、伊東・北条を率いて先陣に立たせ、定綱・盛長に命じて東国の武士たちを集めて、私が上洛して父の敵清盛を討とう」と言いながら、二所権現・三嶋明神の御宝殿に参籠し、密かに願書を奉納した。
「二所権現」は相模箱根権現と伊豆走湯権現のこと。
頼朝の子息、千鶴御前失なはるる事
嘉応元年7月11日、伊東祐親は都での大番役を終えて伊豆へ下向した。
家に帰ってきて前庭を見ると、三歳ぐらいの小さな子を童女が抱いて遊んでいた。
祐親が「あの小さい子は誰の子だ」と妻に尋ねると、妻は「あなたが大切に育てていた三の御方が私の静止も気に留めず、流人右兵衛佐殿と契を交わして設けた子で、千鶴御前といいます」と答えた。
祐親は激怒して「親の命に背き、流人の子を生んだと平家に知られたら、きっと私はその罪を被るだろう。平家に見つかる前に早くあの子をどうにかしなければ」と思い、郎従二人と雑色三人に千鶴を預けた。
五人の家来は千鶴を伊豆国松河の白瀧に持って行き、河の縁にたどり着いた。
すると、千鶴が「父上はどこですか、母上はどこですか」と尋ねたので、家来は「あれ、あの滝の下に」と答えた。
「さあ、早く行きましょう」と言って、祐親の家来たちは千鶴を情け容赦なく川に沈めた。
祐親の娘は幼い子を失って悶え悲しんだ。
「ああ、何ということでしょう。我が子を誰がさらって行き、どのような目に合わせて私はあの子を失ったのでしょうか。
母が現世に留まっているというのに、子があの世に赴いてしまったのは悲しいことです。
私の身も心も、今や私のものではありません。
仏神三宝、私の命を召し取ってください。生きていることに堪えられません」と、天を仰ぎ、地に伏して泣き悲しんだが、どうしようもなかった。
そのうえ、祐親は無慈悲にも頼朝夫妻の仲を引き裂き、娘を伊豆国の住人江葉小次郎近末のもとに嫁がせようとした。
娘は夫婦の別れを悲しみ、若君を想ったが故に深く両親を恨んだ。
近末に妻として迎えられるといえども、彼になびくことはなかった。
密かに近末の家を出て、縁者のもとへ忍び籠もった。江葉小次郎はどうすることもできなかった。
右兵衛佐は愛する子を失い、妻には去られ、ひどく思い悩んでいるさまは、まるで生きた屍のようだった。
定綱と盛長が「たとえ君が天下に名を知らしめていなかったとしても、我らは君の味方です。源氏重代の名がこのまま朽ち果てていってしまうのは、本当に悔しい。我らが二人で手を組み、祐親を討ち取って果てようと思います」と言った。
だが、右兵衛佐は「気持ちはありがたいが、重代の勇士であればそんなことを考えてはいけない。けれども私は、この国に流されてからこの方、父の敵清盛を討とうと志してから、心の曇りが晴れたことはない。だから、大きな敵を差し置いて小さな敵のために命を落としてはいけない。お前たちが我も我もと思うなら、このことについて思い悩むのはもうやめよう」と静止した。
定綱と盛長も、仰せに従って仇討ちを思いとどまった。
かの女房の思いを例えるなら、漢の皇帝が王昭君という后を夷の手に渡した際に北路の旅に向かって
「翠黛紅顔、錦繍の粧い、泣く沙塞を尋ねて、家郷を出づ」と嘆いた話のようだ。
王昭君
紀元前33年、前漢の元帝は匈奴の呼韓邪単于に王昭君の身柄を渡した。
ところが、後に王昭君が絶世の美女だと知った元帝は後悔して、胡地で恨みの詩を詠んだという。
この女房も、頼朝の家を出て近末のもとへ渡った。
だが、前の夫には勝らないだろう。
また、頼朝が嘆いているさまは、唐の玄宗皇帝が楊貴妃を失ったときのようだ。
玄宗は楊貴妃の魂を探すために方士を蓬莱宮に行かせ、方士は楊貴妃から鈿合金釵を形見として授かった。
「『天に在っては比翼の鳥のように、地に在っては連理の枝のように仲睦まじく暮らしましょう』という情けの言葉を二人の愛の証にしましょう」と言って方士を玄宗のもとに返した。
方士が帰国して玄宗に報告すると、玄宗の心も慰められた。
『曽我物語』
蛭ヶ小島の流人源頼朝の悲しみ
そもそも流人兵衛佐殿(頼朝)は永暦元年(1160)1月、13歳の時に東海道の野上と垂見の間で平宗清に生け捕られた。
本来であれば死罪になるはずだったが、池禅尼の計らいで同年3月13日、伊豆国北条郡蛭ヶ小島に配流され、つらい年月を過ごしていた。
空が晴れていても心の曇りが晴れることはなく、大庾嶺の梅の香りが風に乗り、後樹園の桜が朝露に美しく映る季節にもなれば人々は山辺で詩歌を吟じたりするのだが、佐殿はただ都を懐かしく思っていた。
藤の花が池の水面に映り、岸辺の山吹の花が満開となって、柳の枝が風に吹かれて絡まっているようすを見て春も終わりなのだなあと悲しんでも、夏への衣替えも思うままにならない。
大庾嶺は中国にある山で、唐の玄宗皇帝の宰相だった張九齢が梅を植えて”梅嶺”と名付け、梅の名所となった。
水に浮かぶ蓮の葉に乗る露、籬(竹や柴などで目を粗く編んだ垣)の内に咲いている撫子の姿にその場を立ち去り難い程の夕暮れに、ヤマホトトギスの鳴き声が不如帰去と聞こえるのも懐かしい。
秋風が身にしみて姥捨山の曙や明石浦の波音に思いを馳せる月影も名残少なくなると、草むらの虫の声、山の峰で妻を恋う鹿の鳴き声も今日で終わりだろう。
名残惜しい9月が終わって肌寒い冬になれば、夜中の時雨は自分の身の程を思い知らせて袖を濡らし、かすかに上る炭釜の煙に自ずと心細くなっても、つらい年も今日で終わりだと三世の仏の名を聞くと、更けていく夜を過ごすのもつらいものであった。
何事を 待つともなきに 明け暮れて 今年も今日に なりにけるかな
(何かを待っているわけでもないのに月日ばかりが過ぎ、気がつくと今年も今日で終わりになってしまった。)
こうして悲しんでいるばかりで、空しく年月が過ぎていった。
頼朝、伊東の三女と契り、子を儲ける
佐殿が世を治める時は伊東・北条がともに政治を補佐して執り行うことに優劣はなかったはずなのに、北条氏の子孫は繁栄したのに対して伊東氏の子孫が絶えてしまったのは悲しいことだ。
こうなったのは理由がある。
伊東祐親には四人の娘がいた。
長女は、三浦義澄の女房になった。
次女は相模国の土肥実平の嫡子・早川遠平の妻である。
三番目と四番目の娘はまだ嫁いでおらず、親元で暮らしていた。
なかでも、三番目の娘である八重姫は美しい娘だと評判だったので、佐殿はひそかにこの姫君のもとに通っていた。
そうして月日が過ぎ、子が生まれた。
佐殿は大いに喜び、若君を千鶴御前と名付けた。
「よくよく昔を思うと、先祖に縁のある地だから古くから縁のある国ではあるのだが、勅勘を蒙ったときはとても心細かったところに、このように自分の慰めとなるものができたのは嬉しい。13歳になったら元服させ、15歳にもなったら、伊東・北条とともに安達盛長・佐々木盛綱を使者として関東八ヵ国を回り、秩父・足利・三浦・鎌倉・新田・大胡・江戸・河越・千葉・葛西・小山・宇都宮・相馬・佐貫の人どもに相談し、叶わなければ奥州平泉の藤原秀衡を頼って頼朝に運があるか試そうではないか」と言って、寵愛は限りないものであった。
伊東祐親、千鶴御前を殺害する
伊東祐親は普通の人間だから自分の身に何が起こるかなどわかるはずもなく、京都から帰ってきて庭の草木を見て回っていた。
ちょうどそのとき、千鶴は人に抱かれて、下々の子供を召し連れてたくさんの花と戯れていた。
祐親はこれを見て「あれは誰の子だ」と問うと、子守の少女は返事もせずに逃げていった。
すぐに中へ入り、女房に向かって「ここに3歳ぐらいの子供がいて大切に世話されていたのを、誰の子だと聞けば返事もせずに逃げていったが、誰の子だ」。
女房はしばらく黙っていたが、祐親が大いに怒って問い詰めると、仕方なく「あの子は、あなたが大切に育てていた姫君が、あなたが都に上った後、私が止めるのも聞かずにご立派な方との間に授かった子供ですよ」と言った。
祐親はますます腹を立て、「何ということだ。親の知らない婿がいてはならぬ。何者だ。けしからん」と怒った。
これ以上はもう隠し通せないだろうと思い、女房は泣きながら「兵衛佐殿です」と言ったので、祐親は激怒して「たくさんの娘がいて持て余すほどならば、その辺の乞食や修行者を婿に取るとしても、この時代、落ちぶれた源氏の流人を婿に取って子供を産ませ、平家方からお咎めがあったら何と答えたらいいのだ。しかも、敵を持っている我が身なのだ。『毒蛇は脳を砕いて中身まで見よ。敵の子孫は首を切って魂を奪え』と申し伝えている。ろくなことはない」と言った。
翌日、女を娘の方へ行かせて千鶴を騙して連れ出し、若い男二人と雑色二人に「伊東荘松川の奥、岩倉の滝山の蜘が淵に石を付けて沈めよ」と命じた。
まだ幼くて可愛らしい子供を武士の手に渡し、松川の上流へ流させるのは悲しいことよ。
遥か遠くの前世の、どのような罪の報いで3歳の春を待たずに水底の屑となるのだろう。痛ましいことだ。
武士たちは可愛らしい千鶴を連れて、険しい山奥の峰から流れ落ちる滝の流れを止める堰の渦の下、広々とした浪の底に簀巻きにして沈めたのはかわいそうであった。
最期の時には幼い身でありながらも状況を悟り「父上。母上。乳母はどこに行ってしまったのでしょうか。私をどこへやるのです」と腕にしがみついたが、無情にも武士たちによって容赦なく沈められたのは悲しいことだ。
「たとえ主君が自分勝手で荒々しい者であっても、武士たちはどうして情けをかけないのか。もし情けをかけたならば、御恩を蒙っただろう。たとえ異姓他人の子であっても、恨み深い敵でもない。ただ落ちぶれた源氏というだけだ。まして肉親の娘の子なのだから、孫であろう。あまりに無情なありさまだ。これから先は、どうなってしまうのか」と親しいものもそうでないものも非難した。
藤原元方の子、山中に捨てられる
昔、醍醐天皇の時代に藤原元方という者がいた。
勇敢な男で、孫の皇子と娘の女御を巡る争いによって悪霊となり恐ろしいことをしたが、元方には後継となる子供がいなかった。
しかし、神仏に祈りを捧げたのが報われたのだろうか、男の子が一人生まれた。
若君が4歳になった秋頃、元方は若君を膝の上に乗せじっと見つめた。
何を思ったのだろうか、「『臣下のことはその主が最もよく知っている。子のことはその親が最もよく知っている』と書物に記されている。この子は家を継ぐべきではない。その心は恐れを知らず、山野で暮らす兆しが見える。お前に家督を譲ろうものならば、かえってよくないことが起きるだろう。育てて家においてもどうしようもない」と言って、荒血山のさらに奥深い谷の底へ捨てた。情けないことだと言われた。
この若君はただ一人山奥に捨てられて、あちらこちらへ這い回った。
育てられる者は誰もいるはずがないのに、神仏のご加護なのだろうか、猛獣も若君を襲わずに月日が過ぎていったのは不思議なことだ。
そうしているうちに、比叡山の麓に狩人がいた。
早朝に山々谷々を歩き回っていると、谷に響く声が峰にこだまして泣き叫ぶ声が聞こえてきた。
しばらく「鳥や獣の鳴き声だろうか」と不思議に思って聞きながら、声のする方へ行ってみると、貧しい人の子とは思えない幼い子が一人でいた。
狩人はこれを見て「化け物か」と驚き、矢をつがえて徐々に近づいて見ると、生張りの二枚重ねの小袖を着ていたが、いばらに引き裂かれて、手足もみな怪我をしていて泣いていたので、かわいそうにおもった。
若君も人気のない深い谷にいたので、とても嬉しそうに狩人を見て這い寄って行った。
狩人もつがえていた矢を差し外しながら「怪しい出来事ではあるが、落葉の君の例もある。たとえどんなことがあっても、このままにしてはおけない」と思って、若君を抱き上げて粗末な小屋に帰り、養い育てていた。
若君が成人した後は、武略においては勇敢な心を持ち、武芸にも優れ、その名を天下に知らしめ帝を守護するようになった丹波守保昌とはこの若君のことだ。
「民部卿(元方)のしたことは愛情のないことである」と申し伝えていたのに、今の伊東入道が千鶴を捨てたことは元方以上のものと思われた。
伊東祐親、頼朝から娘を奪い返す
また、佐殿にとって最愛の女性である北の方も奪い返し、伊豆国の江間次郎に嫁がせた。
北の方も、慣れ親しんだ布団の下を離れて思いを寄せてもいない人のもとに移り住む心の内は悲しいものだった。
昔、王昭君が「胡角一声霜後夢、漢宮万里月前腸(物悲しい胡人の角笛の音で霜夜の夢が醒め、遥か遠くの故郷にある漢の宮殿に思いを馳せて、月の光に腸を断つような思いです)」という詩を作ったことまでも思い出されるほどだ。
佐殿の並々ならぬ想いは、例えようもないものだった。
おいしい果物があれば「まず若君にあげよう」と思い、珍しいものを見つけた時は、それをあげる若君はもういないのだとむなしく過ごすことは悲しいものだ。
普通は経験しないであろう別れにとても心を痛めた。
その上、北の方との別れの悲しみは、唐の玄宗が楊貴妃と別れたのよりもなお悲しいものだった。
花絮
頼朝と祐親の因縁
『吾妻鏡』治承四年(1180)8月23日条では、伊東祐親が三百余騎を率いて背後から頼朝を襲おうとしていたことが記されている。
また、『吾妻鏡』同年10月19日条では、以前伊東祐親が源頼朝を誅殺しようとしたが、祐親の次男祐泰が密告したため未遂に終わったと記されている。
このとき、頼朝は祐泰に褒賞を与えようとしたが、祐泰は父が敵方として捕らわれたことを理由に辞退したという。
『吾妻鏡』養和二年(1182)2月15日条では、頼朝が流人だった頃の安元元年(1175)9月に祐親が頼朝を誅殺しようとしたが、祐泰の密告によって頼朝は走湯山に逃げたことが記されている。
また、祐親が自害したことが知らされたが、頼朝は祐泰に助けてもらった恩から褒賞を与えようとしたが、祐泰は「父が亡くなったいま栄誉を賜っても仕方がない」と言ったので、頼朝は不本意ながらも祐泰を誅殺したという。
参考資料
- 福田 豊彦・服部 幸造「源平闘諍録―坂東で生まれた平家物語〈上〉」講談社、1999年
- 梶原 正昭 (訳)、野中 哲照 (訳)、大津 雄一 (訳)「新編 日本古典文学全集53・曾我物語」小学館、2002年