建保元年(1213)5月に起こった戦い。
和田氏は相模国最大の豪族三浦氏の分家で、和田義盛は鎌倉幕府草創期からいる古残の御家人で、治承四年(1180)11月7日には初代侍所別当に任命された。
合戦当時は67歳で、幕府では宿老の地位にあった。
源頼家の乳母夫である梶原景時と侍所別当をめぐって対立したので結果として頼家打倒に貢献する形となった。
だからといって北条氏と親しいわけではなく、むしろ距離をおいて独立した勢力として存在していた。
背景
上総介への推挙を断られる
承元三年(1209)、和田義盛が上総国の国司補任を実朝に申請した。
実朝は問題ないとみなしたが、政子は頼朝の先例ではでは侍受領は許可されていなかったとして義盛の申し出を認めなかった。
泉親衡の乱
建暦元年(1213)2月16日、信濃の住人泉親衡が源頼家の遺児を擁して実朝と義時を誅しようと陰謀を企てていることが明らかになった。
首謀者として捕らえられた者の中には和田一族の義直・義重・胤長の三人も含まれていた。
3月8日、上総国にいた義盛は鎌倉に駆けつけ、源実朝に捕らえられた一族の赦免を求めたので義直・義重は赦免されたが、胤長は赦されなかった。
9日、義盛は一族98人を率いて将軍御所に参上し胤長の赦免を求めたが、やはり認められなかった。
それどころか義時は、胤長を縛り上げてその場にいた一門の前を連行した。
こうして、17日和田胤長は陸奥国岩瀬郡に配流された。
25日、胤長が住んでいた鎌倉の屋敷は一旦義盛に与えられたが、4月2日には改めて義時に与えられた。
義時は配下を派遣して屋敷に住んでいた義盛の代官を叩き出した。
義時が和田義盛を挑発した理由
謀反の計画の規模の大きさを知った義時は和田義盛との対決は避けられないと考え、挑発行為を繰り返した。
和田合戦
和田義盛は5月3日に挙兵する準備を進めていた。
ところが挙兵前日の5月2日、共に戦うことを誓ったはずの三浦義村・胤義兄弟が義時に謀反を密告した。
義盛と三浦義村との関係が悪かったことを義時につけこまれたのである。
2日申の刻、義盛は当初予定していた兵力が揃わないまま将軍御所を急襲し、同時に大江広元宅・北条義時宅も襲撃した。
義盛の軍勢は将軍御所を南門・政所・義時亭・西門・北門と東側を除く三方から攻撃した。
だが、義盛軍が御所に突入するも実朝捕縛に失敗したところ、事件の知らせを受けた人々が動きはじめた。
和田一族をはじめ、多くの有力武士団が滅亡あるいは没落した。
北条義時が執権になる
和田合戦に勝利した義時は政所別当に加え、義盛が就いていた侍所別当も兼ねることになった。
この政所別当と侍所別当を兼ねる役職こそが執権である。
参考資料
- 細川 重男「執権 北条氏と鎌倉幕府」講談社、2019年
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