犬が神通力によって藤原道長を呪詛から救った説話は、『宇治拾遺物語』『古事談』『十訓抄』などに収録されています。道長が法成寺に入ろうすると連れていた犬に引き止められたので、道長が安倍晴明を呼んで占わせたところ、道の中に呪物が埋まっていました。調査したところ、道満(道摩法師)が藤原顕光に命じられて呪詛を行っていたことが分かり、道満は播磨国へ流されました。
あらすじ
今は昔、御堂関白殿は法成寺を建立した後、毎日御堂に通っていた。
白い犬を可愛がって飼っていたので、犬は常に関白殿のそばを離れず、お供をしていた。
ある日、いつものようにお供していたのだが、関白殿が門に入ろうとすると犬が目の前に立ちはだかるように吠えまわって、中に入れないようにしていた。
「何ともないだろう」と車から降りて門を入ろうとすると、犬は衣の裾をくわえて引き留めようとした。
関白殿は「なにか理由があるのだろう」と思い、踏み台を持ってこさせて腰掛け、使者に命じて晴明を呼んだ。
まもなく、晴明がやってきた。
関白殿が晴明に事情を話して尋ねると、晴明はしばらくの間占って「君を呪うための物を道の下に埋められていたからです。門の中に入ると悪いことが起こってしまうところ、犬には神通力があるので君に知らせていたのです」と申した。
「さて、その呪物はどこに埋まっているのだろう。調べよ」
「容易いことです」
晴明はまたしばらくの間占って、「ここです」と言った場所を掘らせてみると、土を五尺程掘ったところに案の定呪物が埋められていた。
土器を二つ打ち合わせて黄色い紙を十文字に縛ってあった。
開けてみると、中には何も入っていなかった。
土器の底に朱砂で一文字が書かれていた。
「晴明のほかにこの術を知っているものは存じません。もしや道摩法師の仕業ではないでしょうか。問いただしてみましょう」
晴明は懐から紙を取り出し、鳥の姿に引き結んで呪文をかけて空へ投げ上げた。
紙の鳥はたちまち白鷺になって南の方へ飛んでいった。
「この鳥が落ちたところを見て参れ」と従者を向かわせると、六条坊門の万里小路が交わるところの、両開きの戸のある古い民家中に落ちていた。
その家の主は老法師で、生け捕りにした。
呪詛をかけようとした理由を問うと、「堀河左大臣顕光公のご命令です」と言った。
「本来は流罪にすべきだが、道摩の罪ではございませぬ」
「二度とこのようなことをするな」と、故郷の播磨国へ追い下した。
この顕光公という人は、死後に怨霊となって御堂の辺りに祟りをなしたので、悪霊左府と呼ばれた。
関白殿はますます犬を大事にした。
古事談
六二 道長の犬、危難を告ぐる事
入道殿(藤原道長)は法成寺を建てて毎日そこへ通っていたとき、白い犬を可愛がって飼っていた。
御堂へも毎日お供していた。
ある日、入道殿が寺の門に入ろうとすると、一緒にいた犬が前に出てきて走り回りワンワン吠えた。
しばらく立ち止まって見ていたが、特に変わった様子はなかったので、再び歩いて入ろうとした。
すると、犬が入道殿の直衣の裾をくわえて引き止めた。
「何か理由があるのだろう」と思った入道殿は、踏み台を持ってこさせて腰掛け、すぐに晴明を呼んで事情を尋ねた。
晴明はしばらく考えて、「あなた様に呪詛をかけた者が呪物を道に埋めて、その上を歩くのを待ち構えています。
今、あなた様は運に恵まれているので犬が吠えて知らせてくれたのです。元々、犬は少しだけ神通力を供えているのです」と言った。
犬が指し示したところを掘らせると、土器を二つ打ち合わせて黄色の紙捻りを十文字に絡めたものが出てきた。
晴明は「この術は極めて秘された術です。この時代で私のほかに知っている者はいないのではないでしょうか。
ですが、もしや道摩法師の仕業かもしれません。確かめてみましょう」と言った。
晴明は懐紙を取り出して鳥の形を作り、呪文を唱えて空へ飛ばした。
すると、紙の鳥は白鷺となり、南の方へ飛んでいった。
「この鳥が落ちたところが術者の居処です」と言ったので、下僕たちが白鳥を見守りながら走っていくと、六条坊門と万里小路の間で、川原院の古い師織戸の内側に落ちた。
そこへ踏み入って鳥を探して拾ったところに、一人の僧がいた。
すぐに捕まえて事情を問うと、道摩法師は堀川左府の命令で呪物を埋めたと白状した。
けれども罪には問われず、故郷の播磨に流された。
ただし、二度とこのような呪詛を施さないと誓約書を書かされたそうだ。
関連
十訓抄 御堂入道殿(道長)の白犬 道摩法師の厭術
参考十訓抄 現代語訳 巻七 御堂入道殿(道長)の白犬 道摩法師の厭術
基本情報 十訓抄とは 内容 御堂殿(藤原道長)が法成寺を造らせたとき、御堂殿は可愛がって飼っていた白い犬を連れて毎日様子を見に行った。 ある日、御堂殿が門をくぐろうとすると、犬が先に進み出て、走り回っ ...
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解説
法成寺について
実際の法成寺建立は寛仁三年(1019)で、晴明没後のできごとである。
法性寺
法性寺は延長二年(924)に藤原忠平によって建てられ、藤原氏の寺として栄えた。
長保六年(1004)2月19日癸酉、藤原道長は木幡三昧堂を建てる場所を選定した際、安倍晴明と賀茂光栄が占い定めた場所に至った。その帰り道に法性寺に立ち寄り、修築の状況を検分した記録が残されている。(『御堂関白記』)