概要
承久三年(1221)6月13日、北条時房らは野路よりそれぞれの道に分かれた。
北条泰時は栗子山(京都府宇治市の東南部の丘陵)に陣を構えた。
足利義氏・三浦泰村は泰時には報告せず、宇治橋の辺りに向かい合戦を始めた。
官軍が矢を放つ様子は雨のようで、東国武士の多くがこれに当たり、退いて平等院に立て籠もった。
夜半になって、義氏は室伏保信を泰時の陣に送り、こう伝えた。
泰時は驚いたものの、激しい雨を凌いで宇治に向かった。
泰時が尾藤景綱を遣わして橋上の戦いを止めるように言ったので、それぞれ退去した。
その後、泰時は平等院で休息した。
承久三年(1221)6月14日、泰時は河を渡って戦わなければ官軍を破ることはできないと考え、芝田兼義に河の浅瀬を調べさせた。
前日の雨で緑水は濁って白浪が溢れて淵の底を見ることはできなかったが、兼義は泳ぎが上手かったので河の浅深を知り、問題なく渡れると報告した。
卯の三刻(午前4時過ぎ)、芝田兼義と春日貞幸らは宇治川を渡るために伏見津の瀬に向かった。
佐々木信綱・中山重継・安東忠家らは兼義の後について行き、河俣に沿って下っていった。
兼義らが河を渡ると、官軍が矢を放ってきた。
兼義・貞幸が乗っていた馬が矢に当たり、水に漂った。
貞幸は危うく溺れ死ぬところだったが、心の中で諏訪明神に祈り、腰刀を取って鎧の上帯と小具足を切って浅瀬に浮かび出たところを泳ぎの上手い郎従らに救われた。
さらに泰時が数ヶ所にお灸を加えたので、貞幸は意識を取り戻した。
貞幸に従っていた息子・郎従以下17人は河に溺れてしまった。
また、水の流れが急だったため、まだ戦っていない10人のうち2〜3人が死んだ。
関政綱・幸島行時・伊佐進太郎・三善康知・長江四郎・安保実光以下の96人である。
この時、従軍は800余騎であった。
信綱は一人で中島の古柳の陰にいたが、後を進んでいた勇士が水に入って渡ろうとしたので、息子の重綱を泰時の陣に遣わして対岸に渡ると言った。
泰時は援軍を出すよう指示し、食事を重綱に与えた。重綱はこれを賜って父のところへ戻った。
泰時は北条時氏を呼んでこう言った。
時氏は佐久間家盛・南条時員ら6騎を率いて進軍した。
泰時が静かに前後を見ていると、三浦泰村ら数人も渡った。
その時、官軍は東国武士が水に入っていくのを見て勝ちに乗じる気配があった。
泰時は河を越えようとしたが、貞幸は泰時の馬の轡を押し止めることができなかった。
貞幸が河に沈まないように鎧を脱ぐよう言ったので、泰時が鎧を脱いでいると、貞幸が泰時の馬を隠してしまった。泰時は仕方なくその場に留まった。
一方、信綱は先陣を切ったものの中島で時を過ごしていたので、岸についたのは時氏と同時であった。
信綱は太刀を取って大綱(騎馬に河を渡らせないために水中に張った太い綱)を切り捨てた。
兼義の乗った馬が矢に当たって倒れたが、なんとか泳いで岸に着いた。
時氏は旗を高く掲げて矢を放った。
東国武士と官軍は挑み合い、東国武士は98人が負傷した。
尾藤景綱が平出弥三郎に命じて民家を取り壊し、いかだを造らせた。
泰時・義氏らはいかだに乗って河を渡った。

泰時が岸に着いた後は武蔵国・相模国の者たちが特に攻めて戦った。
官軍の大将軍源有雅・藤原範茂・安達親長ら防戦できず逃げていった。
八田知尚・佐々木惟綱・小野成時らも命を失った。
その他の官軍も弓矢を落として敗走した。
時氏はその後を追い、官軍を討って宇治川の民家に火を放ったので、家に籠もっていたものは煙に咽びて慌てふためいたという。
泰時は勇士16騎を率いて深草河原(京都市伏見区深草)に陣を構えた。
藤原公経の使者三善長衡が来て、「どこまで来られたのか見てくるよう(公経から)命じられました」と言った。
泰時は明日の朝、京に入ると言った。また、南条時員を長衡に付けて公経の元に遣わし、屋敷を警護させた。
毛利季光・三浦義村は淀・芋洗などの要害を破り、高畠の辺りに泊まった。
参考資料
- 坂井 孝一「承久の乱 真の「武者の世」を告げる大乱」中央公論新社、2018年