鎌倉時代

宇治川の戦い

木曽義仲追討

元暦元年(1184)1月20日、木曽義仲を追罰するため、源頼朝の使者として源範頼源義経が数万騎を率いて入京した。
義仲は源義弘今井兼平をはじめとする武士たちを勢多宇治の両道に派遣して防戦させたが、敗北した。

範頼・義経は、河越重頼河越重房佐々木高綱畠山重忠渋谷重国梶原景季らを率いて六条殿に参上し、後白河の御所を警護した。
義仲は近江国粟津付近で相模国の住人石田次郎に誅殺された。源義弘らは逃亡した。

同月21日、義経は義仲の首を取ったことを奏聞した。
その夜、義経は義仲第一の郎等である樋口兼光を捕らえた。

同月23日、常陸国鹿島社の禰宜たちが使者を鎌倉に遣わした。

鹿島社の禰宜

去る19日、社僧が「ここの神は、木曽義仲と平家を罰するために京に赴かれる。』という夢を見ました。
すると、20日の戌の刻、黒雲が社殿を多い、辺り一面が暗くなり、御殿は大きく震動しました。
鹿や鶏がたくさん集まってきました。
しばらくして、黒雲は西へ向かっていきました。
一羽の鶏がその雲の中にいるのが見えました。これは前代未聞のことです。

これを聞いた頼朝はすぐに湯殿から庭に降りて、遥か向こうの鹿島社の方を拝んだ。
鹿島で不思議なことが起こっていたその時、京と鎌倉ではともに雷鳴と地震があったという。

同月26日朝、七条河原で検非違使が義仲と高梨忠直・今井兼平・根井行親らの首を受け取り、獄門の前の樹に掛けた。
また、樋口兼光の身柄も検非違使に渡された。
担当の上卿は藤原頼実で、職事は藤原光雅が務めた。

同月27日未の刻、安田義定・源範頼・源義経・一条忠頼らの飛脚が鎌倉に到着した。
合戦の結果と義仲らを誅殺したことを報告した。

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やみみん

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