平安時代では、毎年大晦日(旧暦12月30日)に追儺の儀式が行われた。
この儀式は中国から伝わったもので、奈良時代から大晦日の夜に行われている。
室町時代から現在の豆をまく様式になった。
正月から儀式が有る度に悪霊を祓ってきたが、一年の穢れをこの追儺で徹底的に追いやってしまおうということである。
鬼やらい、鬼追い、鬼打ちとも呼ばれる。
平安時代に中国から伝来したもので、儀式の手順も中国とまったく同じ方法で行われた。
大晦日の夜に行う理由
後漢時代の儒学者鄭玄によると、年の変わり目には陰陽の均衡が崩れて癘鬼が現れ、人を傷つけるので儺を行う(『政治要略』巻二十)。
古代の人々は鬼や悪霊などの目に見えない存在を極度に恐れた。
そのため、悪鬼を追い払う追儺の儀式が行われたのである。
追儺の流れ
追儺といっても、いきなり追い出しにかかるのではなく最初に陰陽師が鬼たちを説得する。
疫鬼が所々村々に隠れているのを、千里の外、四方の堺、東方は陸奥、西方は遠方の値嘉、南方は土佐、北方は佐渡から乎知の所を、おまえたち疫鬼の住まいとするからそこに行きなさいと言って、五色の宝物、海山の種々の味物をあげるから速やかに立ち去りなさいと述べる。もし留まり隠れたならば、大儺の公・小儺の公がおまえたち追い回して殺してしまうぞと述べる。(『延喜式』)
事前準備
中務省が親王及び大臣以下次侍従以上の者から儺者を選び、内裏の諸門に配置する。
中務省の丞・録・内舎人・大舎人もまた同様にする。(『延喜式』―太政官)
追儺の流れ
戌の刻、親王ならびに大臣以下は承明門の外の東庭の幄座に着席する。
少納言・弁・外記・史が伺候して通例通り職務を行う。(『延喜式』―太政官)
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1陰陽師が祭文を読み上げる
親王・大臣をはじめとした官人らが紫宸殿の南庭に集まる。
そこに陰陽師がやってきて、追儺のための祭文を読み上げる。
まず道教の神々を召喚して宮中の人々の守護を頼み、続いて鬼祓いの言葉を読み上げる。
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2儺人が鬼を追い払う
儺人は鬼を追い払う役人。桃の弓と葦の矢、桃の杖を持つ。
方相氏が先頭を歩き、その後ろを侲子(紺色の衣と朱色の鉢巻を付けた子供の集団)が続いていく。
方相氏
宮中の下級職員である大舎人が黄金の四つ目の仮面をかぶり、黒い衣と朱色の衣装を着る。
手には巨大な矛と盾を持つ。
奇妙な面と奇抜な衣装が鬼と混同され、平安時代末期になると公卿が方相氏を追い回す形式に変わった。
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3方相氏が儺声を発して鬼を追い払う
北廊の戸に出ると、方相氏は矛で盾を叩きながら「儺やろう、儺やろう」という掛け声を発する。
その声に続いて侲子や官人らも大声で「儺やろう」と叫ぶ。
現代でいうところの「鬼は外」。
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4役人たちが鬼役に矢を射掛ける
鬼役が内裏の門を出ていくと、朝廷の役人たちが鬼に向かって弓矢を射掛ける。
晴明と追儺
長保三年(1001)閏12月22日、藤原道長の姉で一条天皇の母でもある東三条院詮子が亡くなった。
28日、右大臣藤原顕光が天応・延暦の先例に倣って追儺を停止するべきだと提案した。
こうして、29日は大祓だけ行い、追儺は中止になった。(『日本紀略』長保三年十二月条)
ところが、後になって安倍晴明が惟宗允亮に「自分が私宅で追儺の祭文を読み始めると、都の人々も呼応して追儺を行った」と報告したという。(『政事要略』巻二十九)
この時、允亮は晴明を「陰陽道の達者」と評している。
また、大外記中原師光も追儺が中止されるはずだったが行われたことを記している。(『師光年中行事』)
なお、こちらの文献では晴明が追儺を行ったことは触れられていない。
追儺祭の記録
『続日本紀』に、追儺を行った最初の記録がある。
天下諸国は疫病のせいで多くの百姓が死んでいるため、初めて土牛を作り、大儺を行った。(『続日本紀』慶雲三年〈706〉是年条)
- 永観二年(984)12月30日乙巳、花山天皇は紫宸殿にて追儺をご覧になった。(『小右記』)
- 寛弘八年(1011)12月29日戊辰、内裏にて追儺が行われた。(『御堂関白記』)
- 長和元年(1012)12月29日壬辰の子の刻、追儺が行われた。(『御堂関白記』)
追儺から豆まきへ
室町時代になると豆打ちをして鬼を祓うようになったので、追儺の風習は廃れていった。
文学における追儺
- 顓頊氏の三人の息子はみな死後に疫病神となったので、正月には方相氏に追儺の儀を行わせて疫病神を祓うようになった。(『捜神記』巻十六)
参考資料
書籍
- 繁田信一「陰陽師と貴族社会」吉川弘文館、2004年
- 斎藤 英喜「陰陽師たちの日本史」KADOKAWA、2014年
- 池田 亀鑑「【復刻版】池田亀鑑の平安朝の生活と文学」響林社、2015年
- 山中 裕 「平安時代大全」PHP研究所、2016年