泰山府君祭は陰陽道の祭祀の一つで、中国・山東省にある泰山を司る神・泰山府君を祀る。永祚元年(989)2月11日、安倍晴明が泰山府君祭を奉仕したのが始まりである。
泰山府君とは
泰山府君は、泰山を神格化した東岳大帝と同一視され、同じ神として扱われている。
中国五岳の一つ・東岳(泰山)に降りて神となった精である。
中国の歴代皇帝がこの山に登り、封禅の儀式を行った。
仏教が中国に伝来したことによって閻魔大王や死後の概念と一部類似していた泰山信仰が混ざり合い、泰山府君は仏教の地獄における閻魔大王と同一視されるようになった。また、仏教が中国に持ち込んだ地獄の概念と泰山は重ねて考えられるようになり、泰山府君は生死を司る神としても考えられるようになった。
平安時代末期の僧寛助による『別行』では、泰山府君は焔魔法王の眷属とされている。(『別行』巻第七)
東岳とは
始皇帝による中華統一以降、五行説に基づいた五岳信仰が生まれた。
中国の五岳
- 東岳泰山(山東省)
- 西岳華山(陝西省)
- 南岳衡山(湖南省)
- 北岳恒山(山西省)
- 中岳嵩山(河南省)
五岳の中で泰山の標高は3番目(1545m)の高さだが、東方は太陽の昇る方角とされ、万物の誕生や生命を司るため五岳の中で最も尊ばれた。
山にはそれぞれ山の神がいるという信仰により、五岳にも神がいるとされた。
後漢(25-220)の時代、人間の魂魄は泰山に帰すると信じられていた。
泰山の山頂には人々の寿命を記した帳簿ががあり、泰山に死者の世界が存在するという信仰が存在した。
東岳大帝
泰山は天孫といって、天帝の孫である。人間の魂魄を司る。東方は万物が始まる方角であるため、人間の寿命を知っている。(『博物志』)
現世と来世を管理し、現世で犯した罪は天帝に逐一報告されると人々から恐れられている。
仏教において、泰山府君は死者の生前の行いの善悪を判断し、地獄で罰を受けさせるか転生させるかを決める。
泰山府君(東岳大帝)=太一神(北極星)説
漢の武帝が泰山で封の祭りを行ったが、その礼式が太一神の祭祀と同じであったため、泰山府君は太一神とも同一視された。
陰陽道の主神
泰山府君は安倍晴明によって陰陽道の最高神として位置づけられるようになった。
泰山府君=地蔵菩薩説
地蔵菩薩は毎日早朝に巡行するといわれている。(『往生要集』)
泣不動縁起
泣不動縁起の「泣不動」とは不動明王の涙のことで、重病を患った高僧を自らの命と引き換えに救おうとする弟子を哀れんで流した涙である。
『今昔物語集』『発心集』『宝物集』などに収録されている。
『今昔物語集』の説話
ある高僧が病にかかったので、弟子たちは晴明に平癒の祭祀を依頼した。
すると晴明は、「高僧の病は重く、泰山府君に祈っても難しいだろう。しかし、命を取り替えることのできる人間を差し出せるならば、改めて祈祷してみよう」と言った。
しかし、高僧のために命を捧げる者は誰一人いなかった。
その時、最下僧が自分が身代わりになると申し出た。
泰山府君祭が終わって高僧の病は回復したが、身代わりを申し出た僧は一向に死ぬ気配がない。
弟子が師匠の身代わりになるのを哀れんだ泰山府君によって、共に長寿を全うすることができたのであった。
『御伽草子』における記述
安倍晴明の子孫・安倍泰成が泰山府君祭を行い、玉藻の前の正体が白面金毛九尾の狐であると暴いた。
泰山府君祭
泰山府君祭は朝廷が独占して宮中で執り行っていたので、民間に流伝することはなかった。
『貞信公記』によると、延喜十九年(919)5月28日に泰山府君祭は「七献上章祭」の名で行われたという。
「泰山府君祭」の名で行われたのは、永祚元年(989)2月11日が最初である。(『小右記』同日条)
七献上章祭では、七人の冥府神(泰山府君・天官・地官・水官・司命・司禄・本命)を祀る。
密教の焔魔天供では、焔羅王に頼んで死籍(死者の名簿)から名前を削り、生籍(生者の名簿)に移してもらう。そして病人の家に行き、泰山府君の呪文を唱える。(『焔羅王供行法次第』)
焔羅王供行法次第
この法は疫病や気病などのあらゆる病気に冒されたときに修する。焔羅王に死籍から名前を削って生籍に移してもらうことを乞う。疫病の者の家に至って大山府君の呪を読誦する。
祭文(都状)
「冥道諸神一十二座」は、泰山府君をはじめ天曹地府・水官・北帝大王・五道大王・司命・司禄・六曹判官・南斗好星・北斗好星・家親文人を指す。
後冷泉天皇の場合
後冷泉天皇
謹上 泰山府君都状
南閻浮州大日本国天子親仁 御筆 年二十六
献上 冥道諸神一十二座
銀銭 二百四十貫文
白絹 一百二十疋
鞍馬 一十二疋
勇奴 三十六人
右、親仁(後冷泉天皇)は謹しんで泰山府君・冥道諸神等に申し上げます。
天子の位を受け継いでからまだ幾年を経ておりませんが、この頃天上では異変があり、地上では怪異が起こっており、数々の物の怪や夢想に悩まされております。
陰陽寮の勘奏は軽くなく、そのしるしは深刻です。
冥道の恩助がなければ、人間界の凶厄を祓うことはできないでしょう。
ですから、禍が芽生える前に摘み取り帝位を末永く保つため、神々を敬って供物を捧げるための壇を設け、謹んで諸神に献上いたします。
その昔、崔夷希は東岳に祈りを捧げて九十年も寿命を延ばし、趙頑子(※趙顔子)の中林を奠めて八百の祚を授かりました。
昔と今は違うといえども、真心は同じです。伏して願わくば彼の玄鑒を垂れ、この心からの願いに答え、災厄を祓い除いて帝位を長く保ち、北宮から死籍を削って生名を南簡に記し、寿命を伸ばして長生きさせていただきたいことを謹んで申し上げます。
永承五年十月十八日 天子親仁謹上 御筆
(『朝野群載』)
藤原顕隆の場合
藤原顕隆
謹上 泰山府君都状
日本国従四位上行右中弁兼備中介藤原朝臣 年四十五
本命庚戌
行年庚戌
献上 冥道諸神一十二座
銀銭 二百四十貫文
白絹 一百二十疋
鞍馬 一十二疋
勇奴 三十六人
右、某は謹んで泰山府君・冥道諸神等に申し上げます。
その信心が高きに至れば天の神々はこれを憐れみ、その慎みが深みに至れば地の神々はこれを護ります。
某は右司郎中を帯し、位は大中大夫に上り詰めました。それはまさに、跼天蹐地して神を仰ぎ、敬ったからにほかなりません。
重ねて冥応を祈り、さらに清奠に備え、いささか黍稷の味を薦め、明徳の馨を望みます。
伏して乞います、加級は思いのままに、昇進も意に任せ、蘭台を踏みしめて秋月に登り、棘の路を歩んで青雲に接することを。
かの趙氏が長寿を得たのは、まことに天の恵みがあったからです。愚かにも恩を祈らずして、どうして望みを果たせましょうや。
健康長寿と我が家に幸福があらんことを、謹んで申し上げます。
永久二年十一月二十三日従四位上行右中弁兼備中介藤原朝臣謹状
謹上閻羅天子
銀銭 二十貫
絹 十疋
鞍馬 一疋
奴 三人
右 延年益算送上謹状
永久二年十二月二十三日従四位上行右中弁兼備中介藤原朝臣 謹状
自余五道大神泰山府君天官地官水官司命司禄本命司路将軍土地
(『朝野群載』)
料物
長保四年(1002)11月9日庚子、安倍晴明が藤原行成の命で泰山府君祭を奉仕したときの記録による。
紙は竹田利成のもとから送り、その他は行成の家から送った。晩になって、行成は都状(泰山府君への手紙)十三通に署名を加えて送った。(『権記』)
泰山府君が冥界の死籍や生籍を書き換える際に用いるのか、紙・筆・硯・墨などの筆記用具が供えられている。
料物
- 米 二石五斗
- 紙 五帖
- 鏡 一面
- 硯 一面
- 筆 一管
- 墨 一廷
- 刀 一柄
同年11月28日己未の早朝、藤原行成は安倍晴明から説明を受け、延年益算のため泰山府君に幣一捧・紙・銭を奉った。
延命の祈願
泰山府君に延命を祈願する際は、依代を用いる。
依代には御衣や御鏡、木製の人形などが使用された。
穢れを吸収した依代は宮城の外に埋められたり、川に流された。
神話伝説
『捜神記』より「泰山府君」
ある日、胡母班は泰山の麓まで出かけた。
すると、突然木の間から赤い着物を着た足軽が声をかけてきた。
「泰山府君がお呼びです」
班はびっくりして何も言えずにいると、さらに足軽がやってきて声をかけた。
班が足軽の後をついていくと、数十歩進んだところでしばらくの間目を閉じていてほしいと言われた。
そうして目を開けたときには、荘厳な宮殿が目の前に広がっていた。
班は宮殿の中に入り、泰山府君に挨拶した。
泰山府君はごちそうを振る舞って班をもてなした。
泰山府君が班を呼び出したのは、河伯のもとに嫁いだ娘に手紙を渡しに行ってほしいからだという。
黄河へ向かい舟ばたを叩きながら女中を呼べば手紙を取りに来ると言うので、班は宮殿を出発して川の中で女中を呼んだ。
すると女中が川の中から現れて、班から手紙を受け取って沈んでいった。
しばらくして再び女中が現れ、河伯が班に会いたがっていると言ってきた。
班が河伯に会いに行くと、河伯もまた宴会を開いて班をもてなしてくれた。
班が帰ろうとすると、河伯が近侍に命じて青糸の靴を贈った。
班が河伯のもとを去ってから目を閉じると、舟の上に戻っていた。
班は長安へ行き、数年後故郷へ帰った。
泰山の麓を通りかかったとき、素通りするのも失礼だと思った班は木を叩いて自分の名を名乗り、長安から帰ってきたことを伝えた。
すると、以前会った足軽が現れて班を連れて行った。
泰山府君と話をした後、班は便所へ立った。
そのとき、父親が首枷をはめられて働かされているのを目にした。
同じような人が何百人もいた。
班が涙を流しながら父親に尋ねると、父は運悪く死後三年の間流刑に処せられることになり、今年で二年になるのだという。
父は、泰山府君に自分の流刑を許してもらって土地の神にしてほしいと班に頼んだ。
班は頭を床に打ち付けながら泰山府君に父の願いを申し出た。
泰山府君は「生者と死者は住む世界が異なるのだから、互いに近づいてはならない」と言って一度は断ったが、班がしつこく頼むので聞き入れることにした。
班が家に戻ると、一年余りで班の子どもたちが次々に死んでしまった。
班は恐ろしくなって再び泰山を訪れ、泰山府君に子供の命を救ってほしいと懇願した。
しかし、泰山府君は「『生者と死者は互いに近づいてはならない』とはこういうことなのだ」と言って班の父を呼び出した。
泰山府君は「故郷に帰りたいと願ったならば一門に福を授けるべきところを、子孫たちを絶やすとはどういうことなのだ」と班の父に問いただした。
父は「久しぶりに故郷に帰った嬉しさと、孫たちを可愛く思うあまりにこちらに呼び寄せてしまったのです」と答えた。
そこで土地の神を交代することが決まり、父は泣く泣く故郷を去った。
帰宅した班のもとに生まれた子供はみな無事に育った。
泰山府君と赤山明神
赤山明神=泰山府君。仁和四年(888)創建。延暦寺の住職安慧が、師匠の慈覚大師円仁の遺言によって創建した。
慈覚大師が泰山府君を勧請したものである。
- 正暦四年(993)10月7日辛酉、午後、権大納言藤原伊周卿、中納言藤原公季卿、参議藤原懐忠卿が左仗座に参り着し、内印があった。比叡山西坂本禅院に坐す従五位下赤山明神は従四位下を奉授された。勅使は中務少輔藤原朝臣統理、ただし参議藤原実資卿、平惟仲朝臣は早く参り退出した。(『本朝世紀』)
参考資料
- 繁田信一「陰陽師と貴族社会」吉川弘文館、2004年
- 斎藤 英喜「陰陽師たちの日本史」KADOKAWA、2014年
- 山下 克明「平安時代陰陽道史研究」思文閣出版、2015年