鎌倉時代

守護・地頭

守護は国を単位とする軍事・警察権を掌握する役職で、地頭はその土地を領有する「地頭人」を意味する。

守護地頭制が成立した背景

義経を捜索するため

大和国の吉野山・多武峰とうのみねに一時潜伏していたという情報は得られたものの、義経の行方は未だにわからなかった。

だが、頼朝はこの機会を利用して巧みな政治工作に出た。

文治元年(1185)11月12日、義経の逃亡は鎌倉にとって一大事であるため、どうすべきか頼朝が悩んでいると、大江広元が守護・地頭の補任を提案した。

大江広元

世の中はすでに末世です。悪人がもっとも栄える時代です。
天下に反逆する者たちが絶えることは決してありますまい。
東海道の内は(頼朝の)ご居所であるゆえ平穏ですが、他の地方ではきっと悪行が起こるでしょう。
それを鎮圧するために、毎度関東の武士を遣わされるのは人々の迷惑となってしまいます。
守護・地頭を補任されれば、決して恐れることはありません。早く朝廷に申請すべきです。

頼朝は感心して、この提案を受け入れることにした。
頼朝の代官として上洛した北条時政を通して、28日に義経捜索の方策として全国に守護地頭を設置することを朝廷に奏請した。
後白河院はこれを承認したので、藤原経房はその勅命を時政に伝えたという。

勅許の内容についての議論

『玉葉』によれば、この時の勅許の内容は以下である。

文治の勅許
  1. 五畿内・山陰・山陽・南海・西海の諸国を頼朝の御家人に分賜すること
  2. 諸国の庄園・国衙領から段別五升の兵糧米を徴収すること
  3. 諸国の田地を領有すること
  4. 諸国の在庁官人・庄園の下司・惣追捕使を進退すること

①は寿永二年10月に認められていた東海・東山・北陸道に追加したもので、文治の勅許によって頼朝が全国を対象とする諸国の警察権を得たものと考えられるが、②〜④については、大きく見解が分かれている。

諸国の庄園・国衙の兵糧米徴収と田地の領有が認められたのはあくまで行家・義経追討のための軍事体制を展開するためのものであり、臨時の措置にすぎなかった。
だが、後世になって朝廷が幕府の守護・地頭設置を許したと解釈されるようになった。

ともあれ、12月6日に頼朝が兼実に宛てた書状の中では諸国荘園の地頭を平均に尋ね沙汰する方針について述べている。
「平均」は「全国」という意味で、全国の地頭職を進退する権限を頼朝が掌握することを宣言したことになるため、地頭制度が成立したのはこの時期であることは間違いないだろう。
ただ、頼朝はこの権限を握るのに行家・義経が逃亡中で諸国の治安が乱れていることを理由としているから、朝廷は臨時の措置と思っていたようだ。

鎌倉幕府成立のしるし

守護・地頭の設立は鎌倉幕府成立を最も端的に表すものと位置づけらたことによって、現在の日本史の教科書では鎌倉幕府の成立年を文治元年(1185)とするのが一般的になっている。

文治元年以前に成立していた?

一方、文治元年以前の東国での戦乱において敵方から没収した所領が頼朝から家人に分け与えられたが、これは朝廷の委譲とは無関係な頼朝による地頭職補任とも考えられる。
御家人の支配基盤を保障する職権である地頭は、すでに内乱の中で頼朝によって生み出されていた。

だが、文治元年以前の平氏追討の戦いのなかで急速に形成されていった東国御家人の在地支配権限の名称には、地頭職のほかにも沙汰人職・下司職などの多様な職が存在していた。
それらを「地頭職」という名前に統一して全国一律の一般的職務に位置づけ、頼朝の任免権が朝廷から認められたことは、頼朝による家人支配を強固なものとする重要な意味を持ったことは間違いない。

守護

守護とは

守護は管轄する国内の地頭・御家人に幕府の命令を伝えること、国内の犯罪、特に叛逆事件の取締が中心であった。国衙に結集する国内武士の大番役を統率する。

『惣追捕使』から『守護』へ

惣追捕使

国家に対する謀反や国衙の権威を失墜させるほどの大規模な騒乱が起こると任命される臨時職。
国衙を指揮下に置き、管国の在庁・国侍・地方豪族を率いて治安回復を行った。

治承・寿永の乱でも惣追捕使として大内惟義・梶原景時・土肥実平が任命された。
戦が終わると惣追捕使の権限は返上され、廃止されることとなった。

源義経が謀反を起こしたことで戦時体制継続の名目を大義名分を得ると、頼朝は惣追捕使の権限を国地頭と呼ばれる役職に切り替えようとした。
だが、後白河が国地頭の狼藉と越権行為を次々と訴えたので、国地頭は廃止され権限を縮小された守護へ切り替えられた。

自然恩沢の守護と地域の守護

自然恩沢の守護は平安時代から続いていた役職に守護の権限を加えたものであり、地域の守護は滅亡した平氏の持っていた権限に守護の権限を加えたものである。

地頭

源頼朝が御家人制によって武士を取りまとめるにあたり、頼朝側に付いて戦った武士たちの軍功にどうやって報いるかという問題があった。
政治的な地位において武士の立場を上げると同時に、経済的な意味でも富の再配分をするために利用したのが地頭という制度であった。

すでに古代末期には寺社・貴族層などの荘園領主による支配は物理的な強制力の欠如によって難しくなっていた。
『玉葉』では保元・平治の乱から治承・寿永の乱に至るまでの内乱の時期に、地方から京都に送る年貢その他の貢物が届かず困窮する貴族層も出るようになった。
そのため、自ら荘園経営をしようとしていた貴族もいたという。

地頭とは

地頭の仕事
  1. 諸国の荘園・公領での治安・警察任務
  2. 年貢の徴収・管理
  3. 勧農

本補地頭と荘郷地頭

地頭には御家人が挙兵以前から持っていた国衙・荘園の職を幕府が地頭として認定しなおした本補地頭と、平家没官領や義仲のものだった旧領の中から恩賞として御家人に分配した荘郷地頭がある。

荘園・公領での治安・警察任務

朝廷に地頭の設置が承認された後、地頭は各地の荘園・公領に置かれる。
また、頼朝側にいた武士がそれまでの所領を安堵(承認)されて地頭となったり、下司・預所など荘園の下級管理職として現地にいた武士たちが新たに地頭に任命されることもある。
下司が平家方の者であったり、謀反に加担したりすれば、その下司は解任され、替わりに別の武士が地頭として下司の職務を受け継ぐ。
例えば、源義経や源行家に同意する行為はもちろん謀反である。

下司本人に罪がなく、本所(荘園の領主)が平家方あるいは謀反に加担した者であった場合、本所は替えられるが下司が権益を維持するためには源頼朝に忠誠を誓い、頼朝により地頭に補任されなければならない。下司から地頭に替わることになる。

地頭と下司のちがい

下司の任免権は本所が持っているが、地頭の任免権は頼朝(とその権力を継承した者)が握っている。
地頭も下司と同じく荘園を管理し、本所に対する義務を負う。
ただ、下司が本所に従わなかった場合、本所はその下司を解任して別の者を充てればいいのだが、在地領主にとって地頭職に補任されることは、本所から自立して領主支配を拡大する足がかりとなった。

地頭設置の範囲

源頼朝は諸国荘園の地頭職の権限を掌握したものの反発が強く、まず北条時政が自身の七ヵ国の地頭職成敗権を辞退した。
さらに、5月に源行家が討たれ、源義経はいまだ行方知れずとはいえ、戦時体制を無期限に続けるわけにはいかないということで、6月から7月にかけての頼朝と朝廷の交渉により、平家没官領・謀反人所帯跡以外の地頭職を停止することとなった。

こうして地頭は平家没官領・謀反人所帯領にかぎり設置を許可され、鎌倉時代を通してこの体制が敷かれた。
この取り決めは地頭設置の範囲を限定するものではあったが、謀反人が発生すれば地頭を設置する理由となった。

平家没官領と謀反人所帯領

平家没官領とは、寿永二年(1183)7月に都落ちした平氏一門の荘園・所領を朝廷が没収したものである。 翌年の寿永三年(1184)3月に後白河から頼朝に恩賞として給付された。
謀反人所帯領は、「平家没官領注文」に入らなかった平氏所領や、平氏方の武士あるいは木曽義仲方の武士などの財産として、内乱の過程で没収された所領である。

謀反人とされた平家の所領は没収されていたが、平家によって乱れた秩序を回復したことに対する恩賞として頼朝に与えられ、これが頼朝の権力を支える基盤のひとつとなった。

敵方から没収した所領の内容

没収地を与えるのは御家人への恩賞という意義を持つのはもちろんのこと、その地域における占領行為の継続化政策としての軍事的意義を持つものでもあった。

文治勅許以前から地頭は存在した?

地頭制は治承・寿永の乱の内乱状態において必然的に形成されていった制度であり、文治勅許のような法的根拠によって成立するようなものではなかった。

治承四年(1185)10月の論功行賞

治承四年(1185)10月23日、相模国府ではじめて大規模な論功行賞が行われた。

元暦二年(1185)6月、島津忠久を地頭職に補任

元暦二年(1185)6月、頼朝は伊勢国波出御厨の地頭職に島津忠久を補任している。

波出御厨は元々伊勢平氏の有力武士だった出羽守平信兼の家人の所領だったが、信兼が前年に伊勢国・伊賀国の両国で鎌倉に対して反乱を引き起こした疑いで追討されており、その事件に関わった武士の所領が謀反人所帯領として鎌倉に没収されていたものである。
地頭の設置は文治勅許を得る前からすでに行われていたことがわかる。

平氏の地頭制はなかった

地頭制度を展開させる可能性は鎌倉幕府に限らず、敵方所領の没収が行われる規模の戦いがあれば、平氏など他の勢力でも地頭制が成立させられる可能性がある。

しかし、没官領は朝廷に帰属するものであり、たとえ地方での反乱を鎮圧した場合でも、追討使として派遣されていた場合は現地で家人たちに直接没官領を与えることはできず、朝廷に勲功の賞を推挙することで太政官から国衙機構を通じて没官領が与えられる。
没官領はあくまで反乱鎮圧に対する朝廷からの恩賞であり、棟梁である平清盛からの恩賞というわけではなかったのである。

だが、鎌倉幕府の場合は頼朝軍が朝廷に対する反乱軍としてスタートしている。
寿永二年十月宣旨によって朝廷に存在を認められるまでは東国の独立国家に過ぎず、頼朝は謀反人として朝廷と敵対していた。
このことによって頼朝は独自に敵方から没収した所領を御家人に与えることができたのである。

参考資料

  • 上杉 和彦「源平の争乱 (戦争の日本史6) 」吉川弘文館、2007年
  • 山本 幸司「頼朝の天下草創 日本の歴史09」講談社、2009年
  • 川合 康「源平合戦の虚像を剥ぐ 治承・寿永内乱史研究」講談社、2010年
  • 近藤 成一 「鎌倉幕府と朝廷」岩波書店、2016年

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